緋山酔恭「B級哲学仙境録」 ゲルマン民族大移動



B級哲学仙境論


ゲルマン民族大移動


 




ゲルマン民族大移動




古代ゲルマン人は

現在の デンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人

アイスランド人、オランダ人

アングロ・サクソン人(イングランド人)

ドイツ人などの祖先です




前6世紀頃までに

ケルト人〔現在ではフランスのブルターニュ地方

アイルランド、スコットランド、ウェールズに残る〕が

全ヨーロッパに定着しました



イタリアで力を蓄えたローマ人が

前2世紀末頃からケルトの土地に侵入を始ます


また、紀元前後から

北方のバルト海沿岸にいたゲルマン人が南下してきます


先住のケルト人は、ローマ人、ゲルマン人に

吸収されるか大陸の西端へと追いやられていきます




4世紀末、中央アジアの遊牧民のフン族がヨーロッパに侵入します


これに押し出されるように

ヨーロッパ東部にいた東ゲルマン人が

ローマ帝国領内であるイタリア、スペイン

北アフリカに移住し、部族王国を建国しました



西ローマ帝国は、ゲルマン人により467年に滅亡します


一方、ゲルマン人は、ローマ帝国の影響を受けて、キリスト教化します




東ゲルマン人により建国された王国は


イベリア半島に

西ゴート王国(415~711・イスラム教徒により滅亡)


イタリアに

東ゴート王国(493~553・東ローマ帝国により滅亡)



北イタリアに

ランゴバルト王国(568~774・フランク王国に併合)


北アフリカ地中海沿岸に

バンダル王国(429~534・東ローマ帝国により滅亡)



フランスのローヌ川流域を中心に

グルグンド王国(443~534・フランク王国に併合)などです




また、これとは別に

ヨーロッパ中北部にいた

西ゲルマン人も移動、ローマ帝国領内に侵入


但し、西ゲルマン人は、原住地より遠くはなれず


フランス北部とベルギーに

フランク王国などを成立させました




フランク王国(486~843)は

ゲルマン民族の一派のフランク人が建国


8世紀中頃にはほぼ現在の西ヨーロッパを統合

800年には、カール大帝が、ローマ教皇レオ3世より

西ローマ帝国皇帝の称号を与えられています



カール大帝の子 ルートヴィヒが死去(840)した後

ヴェルダン条約(843)により

3人の息子によって3分割され

西フランク王国、東フランク王国、中フランク王国となります



これらがそれぞれ

現在のフランス、ドイツ、イタリアの基礎となっています





アングロ・サクソンは、ゲルマン民族の一部で


アングル人、ジュート人、サクソン人の

ゲルマン系の3つの部族の総称だそうです


今日のイギリス国民の根幹をなします


イングランドとはアングル人の土地の意です


但し、サクソン人が、イングランド人として

イングランドの基礎を築いたといいます



グレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソンは

同島南部から中部にかけて

7つの王国(アングロ・サクソン七王国)を建国


西暦500年から800年くらいまでこれらが覇を競ったといいます


なお7つの大国以外にも小国が多数存在したそうです




以上、4世紀末から6世紀末までの

200年余の出来事を「ゲルマン民族の大移動」といい

これによって、ヨーロッパの民族地図が書き改められ


西洋史は、ゲルマン民族の大移動より中世に入ります





【 古代、中世、近世、近代、現代は

相対的な時代区分で明確な定義はない


西洋史における区分は


ゲルマン民族の大移動、ローマ帝国分裂の4世紀末から

15世紀の東ローマ帝国の滅亡あたりまでが中世


ルネサンス、大航海時代、宗教改革あたりから近世


市民革命(フランスならフランス革命)

産業革命あたりから近代


第一次世界大戦終結後から現代



日本史では、鎌倉時代から中世

安土桃山と江戸時代が近世

明治時代から近代

第二次世界大戦終結後から現代 】






ついでに、北ゲルマン人にもふれておくと


北ゲルマン人であるノルマン諸部族(バイキング)は

最も遅れて勢力を広げたゲルマン人で

8世紀末から10世紀にかけて活躍しました



デンマークに居住していたノルマン人をデーン人

ノルウェーに居住していたノルマン人をノース人といいます


彼らは、グレートブリテン島、アイルランド島などをたびたび侵略しました




長年、バイキングの侵入に悩まされてきた

西フランク王国のシャルル3世は


911年、ノルマン人に土地を与えて侵入を防がせることに決め

フランス北西部のノルマンディーにノルマンディー公国が成立します


1066年には、ノルマンディー家7代目 ウィリアムが

イングランド王国へ侵入し

ノルマン朝(1066~1154)を成立させています



さらに、11世紀半ば以降

オートヴィル家〔ノルマンディー公国の騎士の家系〕が

イタリアへ侵攻し、南イタリアとシチリアの諸都市を征服していき


1130年には教皇から王号を得

シチリア王国(1130~49・神聖ローマ帝国により滅亡)を建国しています






原野をロシアへと向かった一派は

スウェーデン・ヴァリャーグ

(ヴァリャーグはバイキングの意・スウェーデン人のこと)です



ロシア最古の年代記によると


現在のロシア人である東スラブの諸部族は

長きにわたり互いに争っていて

正義と秩序による支配がなかった


そのため、ノルマン人に支配者になってもらうことを求めた


これに応じて、862年にノルマン人の3兄弟が

全部族を率いてやってきて

長兄のリューリクがノブゴロド(ロシア北西部)に国を建てた


とあります



リューリクの死後、その子 イーゴリが幼かったので

一族のオレーグが882年、イーゴリを擁して

ノブゴロドからキエフ(ウクライナの首都)に移り

キエフ公国〔9~13世紀に存在

1240年にモンゴル族のキプチャク・ハン国により滅亡〕

を建国しています



これにより北のノブゴロドと南のキエフが

リューリク朝君主の支配下となり、全ロシア的な

「キエフ・ロシア」〔ロシアの政治、経済の中心が

キエフにあった時代の9世紀から13世紀半ばまでのロシア〕

が誕生します



キエフ・ロシアは

封建諸公国の連合体としての最初のロシア国家です


これはロシアで最初の国家を建設したのは

ノルマン人(スウェーデン人)であることを意味しますが


ロシアの学者は、キエフ・ロシアは

ノルマン人が来るはるか以前に

東スラブ諸部族による建国がなされていたと主張しています





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