釈迦の「縁起説」VS 禅の「真如隨縁説」 ② お金があり、地位も名誉もある 豪邸に住み、健康で毎日おいしい物を食べて 家族仲良く円満である このような人は、物心両面の長者といえます ですが、このような人たちでも生まれながらにそなえていて 逃れることができない「根源的な苦」があると釈迦は気づきます それが≪生老病死≫です 釈迦はこの「苦」の原因をつきつめ、長い修行の末 その答えとして"執着"(執著)に行き着きます モノやコトに人は執着する結果、苦を生む ゆえに執着を離れれば苦は消滅すると悟ったわけです さらに、全てが「空」 (一瞬一瞬変化している 変化してやまない) であることを悟り、執着を離れて苦を克服する道を見い出します 空を悟ると、なぜ執着から離れられるのか? 釈迦に言わせると 苦は、執着することによって生じるが 自分を含めたあらゆるモノやコトが「空」である事実は あらゆるモノやコトは一瞬一瞬変化をしていて 「実体」をもたないということである 財産も地位もさらには自分自身も 変化してやまないモノやコトであり 実体がない存在と知れば それらに執着することは無意味である 実体がないのだから、欲求するに値しないのである 生死(しょうじ)さえ同様である という話です これが釈迦の「悟り」で この「空」を悟って 釈迦は「仏」(ブッダ・覚者)になれたのです 釈迦の「悟り」とは「空」に帰結します 果(結果)に、また新たな因(直接的な因)と 縁(因を助けて果を生じさせる間接的な因)が加われば たちまち変化する(空) というように 「空」と「縁起」は表裏一体です しかし人は、空であり縁起であって実体のないものを 固定的に見ては執着したり嫌悪したりする なので、空を知り、このような執着や偏見を離れて ものごとを明らかに見て行動してゆきなさい というのが「中道」です つまり、空=縁起=中道 ということです 禅は、机だの、椅子だの、ペンだの 消しゴムだの、ノートだのというのは 人間の分別によって作り出された差別(区別)世界で 本来は1つという一元論です なので、自と他の差別も、仏と衆生の差別もない 生死(しょうじ)も存在しない ということになりなります 生死がない(不生不滅)とは? 譬えるなら 波がしらであるときが生、海にもどるときが死 波がしらも本来、海として1つということです 禅の教えというのは 分別(ふんべつ・主体と客体を区別する認識作用)を超えた いのちを見なさい というところに特徴があります 例えば、ここに大きな石があったとします 私たちは、これを大きな石と呼びます ですが、禅の悟りの立場からいうと 大きなとか、石とかいう言葉は 人間が分別によりあとから創造したものであって 大きなとか、石とかいう以前に 世界に2つとないいのちそのものとして ここにあるということです 大きな石と小さな石、男と女、自分と他人、是と非 善と悪、正と邪、苦と楽、深い教えと浅い教え・・・ このような見方は、相対的な価値判断であり 人間が勝手に分別を起こして対象を見ているのであり 人間の創出したはからいであり いのちの本質を見ていない「迷い」であるということです そこで、禅では「分別するな ありのままの実在を観よ」 というわけなのですが 分別(区別)というのは、いいとか、悪いとかいうものでなく 人間に機能として、もともと備わっています 例えば、男性なら女性をみれば 「あの子、可愛いな」とか、「あいつはブスだ」とか 「まぁまぁじゃねぇ」とか、「あいつとやりたい」とか つねに価値判断してしまうのです 分別することこそ「ありのまま」ですよ(笑) 禅においては、自と他の差別も、仏と衆生の差別もない 生死(しょうじ)も存在しない ということですが 究極的には、因果(原因と結果)さえもない ということです 本来の釈迦の考えとは、大きく違ってきてしまっているのです なお、隋縁真如とは 真理が縁に従って様々な相(姿)に変化して顕れることをいいます 日蓮の仏法では 真如=自己に内在する仏界の生命(仏性) ととらえて 仏性という自己の不変的な真理を 他者を救済していく上の智慧として さまざまな形で顕していくことを 「不変真如の理」と「隨縁真如の智」と表現します 「境智冥合」〔きょうちみょうごう・なすべき道である境と 境をなしてゆく智慧が、奥深くで合一してとどこおりないこと〕 なんていう言葉と似ているかもしれません 例えば、八百屋が八百屋らしく商売に励むにも 八百屋としての智慧が必要ですよね 初期の仏教徒は 釈迦の伝記についての関心がほとんどなかったようです だから、仏伝のほとんどが想像による創作で 釈迦の超人化にともない様々要素が加わり 種類も多くなっていったといいます 唯一、パーリ語の経典(原始仏典)の「長部経典」に 釈迦がラージギルから クシカナガラで入滅するまでの最後の旅を記した 「大パリニルバーナ経」(遊行経・小乗涅槃経)がみられます 釈迦の遺言として有名な 「法灯明(ほうとうみょう)・自灯明(じとうみょう)」は 縁にふりまわされている自己から主体的な自己を築きなさい 法すなわち真理をよりどころにしなさいという話です もちろん、法=「空」や「縁起」のことであって 一元的な真理ではありません そして、≪他者をたよりにするな≫と言っているのです 【 法灯明・自灯明とは “自らを洲として (しま・インドでは雨期に河が氾濫し、人々が中洲に避難することから 人間の心のよりどころの譬えによく用いられる) 自らをたよりとし、他のものをたよりとせず 法を洲とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころにしてはいけない” という教え 漢訳者により洲が灯明と訳された 】 ここが判らないと 釈迦は「個」を超越し、≪自他不二≫に生きた これにより涅槃(ねはん・穏やかな悟り)の生き方ができた などというデタラメで低次元な話になってしまいます 釈迦の考えが 因中無果説のような 「結果はいくつかの原因が集まって生じている」という立場なら 「個」(根本的な因)は存在しないということも言えるかもしれませんが そうではないですよね ある現象に対し どれが、根本的な因(原因)で どれが、間接的な因(縁・助因)ですか? ということになると どう考えたって 「自分」とか「そのモノ自体」を根拠とする因を 「因」(原因)と呼ぶしかないのです そうなると「自分」とか「そのモノ自体」が存在しないと 「縁起」という主張は成り立たないのです つまり、釈迦の立場とは ≪今この瞬間「私」という自我が存在しているのは 様々な縁によって、仮(かり)にあるだけで 今この瞬間も「私」(自我)なんてない≫ ≪それを、欲など煩悩を起こして「自我が有る」と 勘違いするから輪廻転生するんだよ≫ ではなく ≪今この瞬間「私」という固定的な自我が存在しているのは 様々な縁によって、仮にあるだけで 今この瞬間も「固定的な私」(固定的な自我)なんてない≫ ≪それを、欲など煩悩を起こして 「固定的な自我が有る」と勘違いするから輪廻転生するんだよ≫ なわけです これが判らないと デカルトは「我思う、ゆえに我あり」 〔考える自分がいるのだから、自分は存在している〕と言ったが 釈迦はとっくの昔に「自分」なんてないと言っている 「自分」とか「自我」なんてとっくに超越した思想を説いでいる なんてくだらない話になってしまいます 禅の「分別するな」は間違え 釈迦の「縁起説」 VS 禅の「真如隨縁」 ① |
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