酔恭・竜太の「B級哲学仙境録」 『ビッグバン運命論』



B級哲学仙境論


ビッグバン運命論


 




ビッグバン運命論




竜太  ≪現在の物質の運動と位置から

次の物質の運動と位置が決定するので未来は決定している≫

という科学の立場、決定論的世界観からいうと

我々の運命は決定されていることになるよね




酔恭  それをこんなふうに表現する人がいるよ

「行動」は「それまでの出来事」によってとらされた行動である


次の瞬間の未来が

現在の出来事により決定されているとしたら


その連続が全体としての未来だから

全体としての未来も決定されているということだね




竜太  もし「未来が決定されていない」としたら

「未来を知ろうとする努力」(予言や占いなど)なんて

全部無駄ということになるし


逆に「未来が決定されている」としたら

努力するとか、がんばるとかとかいったことに意味がなくなってしまうよね



さらに「未来は決まっていない」と信じようとすること自体が

すでに決まっていたということになるし


そして人間が、運命を変えられないとしたら

犯罪に対する罪も問えない

ということになりかねない




酔恭  ただ「未来が決定されている」としても

その未来は、永遠に人間には知ることができない

と考えられているよ




フランスの数学者・物理学者の

ピエール・シモン・ラプラス(1749~1827)は


≪ある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ

かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が

存在するとすれば

この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり

その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう≫

と語った


有名な「ラプラスの悪魔」だ



現代的に言うと

≪仮に、この宇宙に存在する全ての原子の運動と位置を

知ることができるような悪魔が存在し

それを現代の物理学の理論と超越計算をもってすれば

原子の時間的変化を全て計算できることになる

つまりはこの悪魔は未来の起こりうる全ての現象を

知っていることになる≫ということになる




ところが、ドイツの理論物理学者

ハイゼンベルク(1901~76)が提唱した

「不確定性原理」により

原子の運動量と位置を同時に知ることができないことが判り


たとえそのような悪魔が存在したとしても

悪魔には未来は予測できないということがあきらかになった



但し、悪魔が原子の運動量と位置が

同時にわかる方法を知っていたなら

未来は予測できるということになる(笑)





●  ヴェルナー・ハイゼンベルク


不確定性原理により31歳の若さで、ノーベル物理学賞を受賞

大戦中は、ナチの党員ではなかったが、原爆開発チームの一員だった

戦後は晩年までマックス・プランク研究所

(ドイツを代表する学術研究機関)の所長を務めた






酔恭  「ラプラスの悪魔」は

よく、ビリヤードの球に譬えて説明される


ビリヤードの球を

どのくらい強さで突いたら、どの球とぶつかり

どのようにして穴に落ちるかを

予測することができる理論であるとか



また、サイコロを、どのような高さ

角度、強さ、速度で振り出すか


さらに空気の流れなど

全ての条件を把握することができていれば

サイコロの目を予測できる理論であるとか・・・・




これに対して

ハイゼンベルクの「不確定性原理」は


譬えるなら

「液体の温度を測るとき、温度計を突っ込むでしょ

温度計を突っ込むことで、液体の温度が変化するので

液体の温度を正確に測ることなんて永遠に不可能だよね!」

といった話だ




存在を認識するとは

太陽や蛍光灯などの光が、物体(存在)にぶつかり

その反射を目でとらえているということになる



物体の位置を測定するというのは

光などを飛ばして、その反射を観測することであり


これは人間だけなく

どのような測定器でも原理は同じなんだそうだよ




そこで、原子核の周りを回っている電子のような

とてつもなく小さいものを測定するとしよう


光には波長というものがあって

赤外線のように波長の長い光を電子にあてて

その反射を測定しようとしても

ちゃんとぶつからないので位置を正確に測定できない



例えば、携帯の電波を考えてみると分るよ


遠くまで届くのは、波長が長いからだ

波長が長いと、物体(障害物)にぶつからず、伝播していく


また、波長が長くても、それより大きな障害物があったら

それにぶつかって伝わらない


これと同じだ




一方、紫外線のように波長の短い光を電子にぶつけると

波長が短くなるほどエネルギーは高くなるため

電子がはじき飛ばされてしまう


この場合は、電子がそこにあった

という位置についてはわかるけど


運動量が測定によって変化してしまうので

運動量を正確に測定できない


これが不確定原理だというよ



これは、どんなに科学や技術が進んでも克服できない

原理的な問題だから、“原理”と呼ばれるそうだ







竜太  「カオス理論」の初期値敏感性というのもあるよね




酔恭  カオスモデルは、1961年に

エドワード・ローレンツ(1917~2008)

というアメリカの気象学者によって発表された理論だね



ローレンツは、天気予報を正確に予測しようと

コンピューターで3回予測したところ、3回とも全く異なる答えがでた


そして、初期値が少数点以下が6桁であったときと

3桁であったときとでは、全く答えが違ってくることを発見したらしい



従来の数学では

「小数点の違いは、予測の精度に違いが出るくらいの影響だ」

くらいにしか考えていなかったそうだけど


最初に入力するデータ=初期値 のわずかな違いが

全く異なる結果を生じさせることを発見したわけだ


これが「初期値敏感性」だね




この発見は当時の科学者に大きな衝撃を与えたそうだ


それまで、未来の予測が不可能な世界は

量子力学の世界だけだと思っていたのが


我々の日常世界もどんなに科学が進歩しようと

未来は誰にも予測できないことになっちゃったからだ



たとえ100%あたる天気予報のシステムを開発したとしても

計算するためには必ず最初に初期値を入れる必要がある


その初期値を人間には正確に測ることができない

ということだからね




竜太  人間の測定には必ず誤差が生じる

モノの長さを測るにしても、小数点以下が無限に続くので

完璧に測り終わることなどありえない



そんな小さな誤差が

一週間後の天気を「晴れ」と予測させたり

「雨」と予測させたりしちゃうってことかな?




酔恭  初期値敏感性の譬えとして

「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」とか

「アマゾンを舞う1匹の蝶の羽ばたきが

遠く離れたシカゴに大雨を降らせる」とか言うね


蝶のはばたきぐらいのほんの少しの違いが

全く違った結果をもたらすということで・・・・




竜太  「完全に未来はこうなります」

と予測できる人工知能が

理論上でも作られる可能性が0になったわけだ


「可能性が0」と言っていること自体

「完全に未来はこうなります」

というパラドックスに陥っているけどね(笑)




酔恭  但し、カオス理論というのは

未来は、ランダム(なんら法則性、規則性がない)

なので予測できないというのではなく


「複雑すぎて未来は予測できない」


「科学で最終的な勝利を得ようとするのは

永遠に果たされることのない妄想である」


ということを示したもので


カオス理論自体は

決定論的世界観に立ったものだというよ







竜太  自分も18歳のとき

“もし運命があるとしたら”

というのを考えたことがあったよ


宇宙レベルからも、粒子レベルからも

この世界の全ての現象は

物質と物質の反応によって起こっているでしょ


分子レベルで語ると

分子と分子の衝突が起き

あらゆる現象が起きている


心(精神作用)も分子と分子の衝突による

反応の結果と言える



そこで、我々の全ての行為(心の作用も含め)は

本当は意志によるものではなく

原子と原子、分子と分子、物質と物質の衝突による現象にすぎない

と考えみたんだよ



すると、≪神が宇宙を創造したとき、1つの行為を与えた

その神の最初の行為、最初の原因に

物質の衝突がおこり、反応として結果が生じた


その結果に、また物質の衝突による化学反応がおき

次の結果を生じる


その結果に・・・


我々の全ての行為は、この連続性のなかの結果に他ならない

あるいは原因に他ならない


また、我々の存在自体も

この連続性のなかの反応の結果である  とね・・・




酔恭  なるほど・・・

宇宙の全てのことは

物質と物質の衝突による反応によって起こっている


人間の全ての行為(心の作用も含め)も

物質と物質の 物理的・化学的・電気的な反応の

連続性として起きている



その最初を突き詰めていくと

神の最初になした行為にいきつく



つまり、全ての行為は、神の最初になした行為によって

必然の連鎖として起こった反応であり

運命的また必然的に決められていて、人間に自由意志はない

ということだね



ただ、神の最初の行為が「神の意志」

によってなされたものであるなら

“全てが神の意志”によるということになる


でも、神の最初の行為が

「意志によらず偶然なした行為」であるなら


宇宙の全ての現象は

神の最初の行為によって

運命づけられた必然であるとしても

“神の意志ではない”ということにならないかな(笑)






竜太  じつはこの理論は

「神」の存在を考えなくても科学としてちゃんと成立するんだよ


現在の科学では、宇宙は138億年前に

原子よりも小さい点から、ビッグバンによって誕生した

というのが「定説」になっている



すると、この世界は

最初にビッグバンという化学反応が起きて


宇宙の全ては

そこからの原子と原子、また分子と分子の

物理的、化学的あるいは電気的な反応の連鎖によって

起きていることになる



つまり、昨日、マックに行ったのも

今、ここでこうして話をしているのも


最初に起きたビッグバンによって

運命づけられていることになるよね




酔恭  よく「生まれたときから、出会う人がすでに決まっている」

なんて言うけど、生まれたときじゃなくて

宇宙が誕生したときにすでに決められているわけだ



すると「こんなとこにモノ置くなよ

けつまづいちゃったじゃない」→


「俺のせいじゃないよ

宇宙が誕生したときから決まっていたんだから」

という話になるな(笑)



それに、神様のスタートがビッグバンじゃなかったら

人間の運命は別の運命をたどっていたかもしれない

ってことも言えるけど(笑)




酔恭  「ラプラスの悪魔」からだと

各個人の原因による

未来・運命しか導き出せないのに対し


竜太のこの説はそれを超えて

一つ(神やビッグバン)の原因よる

未来・運命が示されているところに

おもしろさがあるね




竜太  近代哲学の父と呼ばれる デカルトの有名な

「我思う、ゆえに我あり」とは


考える自己がいるのだから、自分は存在している

という話だけど


我々に運命をプロデュースしていく心や意志というものが

実在していないということになると


自分は物質として存在はしているものの

果たして自己として存在しているのかって話になる(笑)







酔恭  いずれにせよ

人の運命が神の意志により決定されていようがいまいが

我々は「自分の人生に意味を持ちたい」と願っている


そこにつけこみ「絶対に儲かります」とか

「あなたに霊が憑いています」なんて

詐欺まがいの話でメシを食べていこうとする人も現れる


これも人間の社会と言える




竜太  これまでの「存在論」というのは

存在を、認識の概念としてとらえて論じられてきたけど


価値の概念でとらえなおしてみるのもおもしろいね


≪主体≫(=存在)が

救済原理〔自分を成り立たせている根源的な論理〕や

存在根拠と一体でしか実感できない

という事実は


主体(存在)が、客体(自分にとって必要なモノやコト)

によってはじめて現れてくることになる


もっと言えば

≪欲望≫によって、≪存在は存在としてある≫ことになるね






竜太   ビッグバンによって決定づけられた運命の直線を

横から曲げている存在があるとしたらなんだろう?



今の科学では説明できない

≪意志とか心≫が、我々を含めた物体にあるとしたら


それが、運命の直線を曲げているという可能性もあるよね



酔恭さんは、日本200名山のうち150は登っているし

名山に入らない山や何度も登った山も入れると

400も500も登ってきたと言っていたけど

登山の経験を通して、なにか実感したことはある?




酔恭  登山を通じて実感しているのは

一度失敗して思い入れの強い山

とても苦しんで登った山、二度と来ることのできないないような山

このような山は、たいてい展望を得ることができるということだ


それは単なる偶然ではないくらいに確率が高い



こういったことを考えると

我々の意志また潜在意識は

我々の思っているよりずっと広く、深く

我々の世界に及んでいるし


さらには、モノ(例えば山)にもなんらかの

「心」「精神」があることさえ想像できるよ




よく、趣味でなにかをコレクションしている人は

「モノには心があって、モノが自分を選んで、自分のもとへくる」

「モノは大事にしてくれる人のもとにくる」という話をする


その根拠として

「確率的に絶対に入手できないモノを手にできた」

といった経験をあげるけど


こういった話は、特殊な例などではなく

枚挙にいとまがないほどある話だよ


つまり、一笑に伏せるものでなく

普遍的な事実であるということだ




竜太  これに関しては

酔恭さん自身、水石・美石に関しては

日本で有数のコレクターだし


とくに、美石に関してのコレクションは

他の追従を許さないことは

みなが認めているよね





酔恭  ただ、誰しも「なにかをなし遂げて死ぬ」という

使命みたいなものがあると仮定してみたらどうだろうか?


すると、ビッグバンのとき、すでに

使命と

その使命をなすために必要な条件が決定されている

用意されている という考えもできる



使命をなすために必要な条件とは

容姿、能力、欲求の傾向性(どういった対象に執着するのか?)


生まれる環境、育つ環境、寿命

などといったことだよ



そこで、ある哲学を書くことが

Aさんの使命だとしよう


すると、Aさん、あるいは

そのために必要な対象から発動される

≪なにかしらの意志や心≫も


結局は、宇宙的な運命の直線が進んでいくなかにおいて


Aさんが、Aさんのなすべき使命を完結しゆく過程で

発動されている ある種の現象

にすぎないと言えるよ




竜太  つまり、今の科学では証明できない

≪なにかしらの意志や心≫が

この世界にあったとしても


そういった精神も、ビッグバンによって

敷かれた直線上で、運命的に発動されているにすぎず


直線を横からまげる力にはなりえない

という見方もできるということだね







宇宙論的証明



神の存在を証明する方法の1つに

「宇宙論的証明」があります



原因となった出来事を考えると

この出来事にもまた原因がなければならない

原因の原因の原因の・・・とさかのぼっていくと

根本的な原因があり、この根因こそが神であるとするものです




「宇宙論的証明」は

スコラ哲学において最大の哲学者とされる

トマス・アクィナス(1225頃~1274)によって語られましたが

そのヒントは、アリストテレス(前384~前322)にあるといいます


〔 スコラ哲学とは、中世に、ヨーロッパの教会・修道院に付嘱する

学校、大学の神学部で、行われた神学的な哲学 〕




アリストテレスの地球中心説では

宇宙は、地球を中心に円運動によって、規則正しく動いています


そして、その運動の根本的原因は

不動の動者(何者にも動かされず、他のものを動かす)=神 

であるとしています



世界の様々な出来事の原因を

原因の原因、またさらにその原因・・・とさかのぼってゆくと

最終的に第一原因=原因者=不動の動者=神

にたどりつくとしたといいます






この「宇宙論的証明」というのは


現在の宇宙の原因に、ビッグバンがあり

ビッグバンの原因に、インフレーションがあり

インフレーションの原因に、〇〇があり

〇〇の原因には、過去の宇宙のビッグクランチがあり・・・


といった無限遡及(そきゅう)をどこかでストップさせ

「神」が、根本的原因であるとする論理です



結局、因果の系列を無視する

非科学的な話でしかないのです




【 インフレーション・・・ ビッグバンが起こる前に

原子より小さい点が「インフレーション」という

火の玉のようになる現象があったという


宇宙の始まりから同じペースで膨張していたとすれば

宇宙はもっと場所による違いが大きいはずだとか


ビッグバン理論だけでは、恒星や銀河が生成され

しかも膨張をつづけていくための質量の値が得られない

とかいった問題点を解決するために語られるようになった

いわばご都合主義の産物 】



【 ビッグクランチ・・・ 宇宙の終わりの説の1つで

ビッグバンとは逆で、膨張している宇宙が収縮に転じ

物質が圧縮されてゆき、温度もどんどん上昇し

最後には高密度・高温の原子よりも小さい点に戻るというもの


このあと再び新たなピックバンがおきて次の宇宙が生成される

宇宙は、膨張と収縮を繰り返すという説もあり

現在の宇宙も最初の宇宙ではないとかいう話もある 】





また「神が世界を創造した」(聖書)と

「神=世界の根本因」では、違います


前者は、世界が創造される以前から

神が存在していたことになり

後者は、神は、世界の原初とともにある

ということになります




一神教の「神」というのは、世界なり宇宙なりの創造神です

ということは、世界よりも前に存在していなくてはなりません


つまり、宇宙論的存在証明は、神の存在を証明できていない

ということです




あと、原因の原因を遡ると「無」にいたる


「無」とは、なにも変化することがないことなので

「無」のままでは世界は存在しえない


世界がこうしてあるということは

無に原因を与える神がいなければならない


だから、世界を創造した神が、世界よりも前に存在する


ということで、一神教の「神」を証明する考えもありますが

これは詭弁です


なぜなら、この考えは、世界の原初に神はすでに存在する

ということであり、その時点で、世界は「無」でなく、「有」だからです



結局、神=世界の根本因 という話でしかないということです





神に質問してみましょう


私「神様、あなたは、無限ではなく有限ですよね

だって初めがあるのだから」


神「いやいや、私は、未来永劫、存在する」


私「でも、何百億年後の現在においても、何千億年後の現在においても

誰かが、私と同じ質問ができますよ」


つまり、宇宙論的証明の神は

いつの≪現在≫においても【無限】ではないのです





これに対し、≪現在の物質の運動と位置から

次の物質の運動と位置が決定するので未来は決定している≫

という科学の立場、決定論的世界観からいうと

我々の運命は決定されていることになります




竜太の運命論というのは

最初の原因がなにか?を、問題にしたものではなく


原因がなんであれ

「存在」「運動」「心の状態」さらに「世界」といった

全てが、決定論的に運命づけられている

という話であり、現在の科学論に反していないのです


そこに、おもしろさがあるのです




竜太のビッグバンを起点とする運命論というのは

世界(過去の宇宙も含めて)の原因を、無限に遡及できるとしても

つまりビッグバンが、世界の根本因ではなく

過程の因、途中の因であったとしても 成り立つのです








なお、西洋哲学における

「神の存在証明」には



1、神が目的をもって世界を創造したとしか思えないほど

世界が規則的かつ精巧である

といったように

世界が、合目的性(目的にかなっているさま)をもつという視点から

神の存在を証明しようとする「目的論的証明」





2、≪神は完全である≫と語られるとき

神は「存在」しなければならない

なぜなら存在したほうが、より完全だからである

というように、神という言葉の概念から

神の存在を証明しようとする「存在論的証明」(本体論的証明)



こじつけでしかないのですが

中世哲学においては一般的な論理として扱われていたようです


“スコラ哲学の父”と呼ばれる アンセルムス(1033~1109)や

デカルト(1596~1650)の神の証明はこれです





3、「道徳に従うと幸福になる」と考えるには

神の存在が、不可欠であるという考えから

神の存在を証明しようとする「道徳論的証明」


カント(1724~1804・

ドイツの認識論と道徳論の哲学者)の神の証明はこれです





4、原因となった出来事を考えると

この出来事にもまた原因がなければならない

原因の原因の原因の・・・とさかのぼっていくと

根本的な原因があり

この根因こそが神であるとする「宇宙論的証明」



以上の4つがあるとされます




自由意志について

エラスムスの自由意志論とルターの奴隷意志論





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