緋山酔恭の「B級哲学仙境録」 エラスムスの自由意志論とルターの奴隷意志論



B級哲学仙境論


自由意志について

エラスムスの自由意志論と
ルターの奴隷意志論





自由意志について

エラスムスの自由意志論と

ルターの奴隷意志論




アウグスティヌスの予定説



アウグスティヌス(354~430)は

初期キリスト教会最大の思想家にして

教父(カトリックの称号の1つ。2~8世紀の神学者のうち

正統教義を唱えた精神的指導者)です



彼は、神の恩寵を重視し

人間は神の絶対的恩恵のみによって救われる


救いへの願いがおきて、それが維持、完成されるのは

全て神の恩寵であり


予定(神によりあらかじめ定められていること)である


という「予定論」を唱えています



人間の救いを求める意志によって、祈りがおこり

救われるのではない


キリストの恩寵によって祈りがおき、それによって救われる

(ここは、親鸞の思想にそっくり)


この原理がキリストを信じる者にあらかじめ定められている

というのがアウグスティヌスの予定論です





アウグスティヌスによると

人間は神の絶対的恩恵のみによって救われるといいます


彼は、人間の意志より神の恩寵を重視し

教会が神の恩寵(救い)を届ける唯一の伝達機関である

としています



この他、歴史は神の国と他の国の戦いであることや

悪は善の欠如にすぎず実在性がないことなどを唱えたといいます







1549年、イエズス会士の

フランシスコ・ザビエル(スペインのナバラ王国の貴族)により

日本に始めてキリスト教が伝道されます


このイエズス会は男子修道会で

宗教改革によって失墜したカトリックの権威回復と

失った信徒を再び入信させる目的でパリに設立されています


布教者の育成は軍隊式で知られ

世界の果てまで布教しぬく精神を育てたというものであった

といいます



イエズス会は、カトリック復興運動の先頭で活躍し

多くの信徒をカトリックにとどめたが


内部の腐敗に対する非難が

再三にわたって各地から寄せられ


またブルボン王家の絶対王政主義との対立もあり

18世紀後半にはローマ法王により解散させられ

会士は追放処分を受けています (40年後に復興を許された)





イエズス会の恩寵論を「モリナ主義」といいます


モリナ主義(モリニスム・モリニズム)は

スペインのイエズス会士

ルイス・デ・モリナ(1535~1600年・神学者)が唱えた

人間の自由意志による救いを、強調する立場です



アウグスチヌスの「予定説」を

自由意志との相互関係で説明したもので


神の恩寵(救済)は

人間の自由意志による自発的な協力を通じて

効果的に働くとする説です


意志はあくまで、自主性、独立性を保持するわけです




イエズス会のモリナ主義は

ドミニコ会(カトリック修道会の一つ)との間に

論争をまき起こしています



ドミニコ会は、神の恩寵は、人間の意志の内面に働きかけ

意志を先定するというものです



ローマ教皇により、互いに妥協することが命じられ

論争することは禁じられています






アウグスティヌスとドミニコ会の恩寵論は

日本の仏教でいうと

浄土真宗の開祖である 親鸞(しんらん・1173~1263)

の考えに近いです





親鸞の根本は

1つには、自力の念仏(自分の力でする念仏)によって

極楽に往生しようとする従来の念仏では

凡夫は真実の浄土に至れない


絶対他力の念仏(阿弥陀の恩寵が、人にさせる念仏)によって

真実の浄土に至れるというものです



もう1つが、有名な「悪人正機」(あくにんしょうき)です


≪ 末法〔人間の心が邪悪となり、釈迦の教えに功力がなくなった時代

日本では平安時代中期より末法に入るとされた〕に生まれた者は

本質において皆、悪人である


ゆえに、なまじっか自分を善人だと思い込み

自力信仰に励む者より、自己の本性が悪であると自覚して

阿弥陀の本願に身をゆだねる者の方が、極楽に近い存在である ≫


≪末法においては、念仏のみが唯一救済の道で

戒律に執着する伝統仏教者は偽善者であって

罪悪に苦しむ凡夫こそが、阿弥陀の救いを受ける

正機(教法を正しく受け入れられる機根・能力)をもつ者である≫

というのが、悪人正機です




さらにもう1つ加えると「報恩感謝の念仏」です


≪ 阿弥陀の本願を信じた瞬間に

極楽行きが決定(けつじょう)する


ゆえに、念仏は救いを求めて行ずるものではなく

救済の決定に対し、阿弥陀への報恩感謝として行うものである ≫

という考えです






自力の禅宗(臨済宗・曹洞宗)に対して

他力の念仏宗(浄土宗・浄土真宗)と言われますよね


座禅という自力で、現世で悟りを得ようとする禅

阿弥陀の恩寵という他力に、死後の救済をゆだねる念仏


さらに、親鸞は、念仏にも、自力と他力があるとしたのです








ルターの信仰義認



キリスト教では

ルターやカルヴァンのように

全く人間の自由意志を否定する立場と


一部、自由意志をみとめて

あとは、神の恩寵であるとする立場(カトリック)が

ずっと論争してきました




キリスト教では、仏教でいうところの「善行」を

≪功績≫といいます


カトリックにおいては、功績は、神の救いを受ける助けになる

助因になるとされています


宗教改革当時は、免罪符を買うことも、功績とされていました



これ対して、ルターは、人間の努力(功績)によって

神に義される(正しい人間と認められ救済される)ことはない

信仰によってのみ義されるとし

人間の自由意思を否定したのです



これが、プロテスタント3原則の1つ「信仰義認」です




●   ルター (1483~1546)

ドイツの宗教改革者。プロテスタンティズムの確立者

ルターを祖とするルター(ルーテル)派教会は

スイスのジュネーブに本部を置く

「ルーテル世界連盟」は79カ国にある145の加盟教会を有し

全世界には7500万人の信徒を抱えているとされ

単独教派としては世界最大という

ドイツ、北欧諸国が ルター主義の国







カルヴァンの二重予定説



カルヴァンは、ルターの考えをさらに進めて

有名な「カルヴァンの二重予定論」を唱えています


人間は努力(善行)によって救われることはない


いくら善行を重ねても救われることとは関係ない

人間の救いは神の無差別の選択によって決まっている


神の意志によって救われる者と救われない者とが

あらかじめ定められる

というものです




●   カルヴァン (1509~64)

ルターと並ぶ宗教改革者で、スイス南西部のジュネーブで活躍した

改革派教会は、カルヴァンや

同じくスイスの宗教改革者の ツヴィングリの流れを汲む

(とくにカルヴァンの流れを汲む)プロテスタント諸教会の総称

改革派の一つ長老派教会はカルヴァン主義に基づく

フランス、スイス、オランダ、スコットランド

アメリカなどがカルヴァン主義の国







エラスムスの自由意志論と
ルターの奴隷意志論




オランダ最大の人文主義者

エラスムス(1466頃~1536)は


カトリックで古代から議論されてきた

人間の自由意志に対して

「自由意志論」(1524)を著し


人間の自由意志は

アダムとイブが天上の楽園 エデンで

神の言葉に従わず、知恵の実を食べて原罪を与えられ


エデンを追放されたのちも

残されていると主張したといいます




すると、ルターは「奴隷意志論」(1525)を著して

人間の自由意志は罪を犯すだけのもので


自由意志にもとづく努力(善行)によって

神に救済されることはない


人は信仰によってのみ救済される

神の恩寵と憐れみによってのみ救済される

と反論したといいます






なお、人文主義とは

「人間に関する学問をする人」という意味で

英語では、ヒューマニストといいます



ギリシャ・ローマの古典の研究によって

普遍的教養を身につけるとともに


教会の権威や神中心の世界観から人間を解放し

人間性の再興をめざした精神運動であるとされます


要するに人間的な文化を建設しなさい

と主張したところに特徴があるようです



ルネサンスは

人文主義にはじまるとされます



【 ルネサンス・・・・

再生の意味。13世紀末にイタリアで起こり

全ヨーロッパに展開し

16世紀まで続いた学問、芸術、思想の革新運動


現世の肯定、個人の重視、感性の解放が主張され

神中心の中世の文化から

人間中心の近代文化への転換の端緒をなした 】





エラスムスは、カトリックの修道院司祭となり

のちに神学博士号取得のためにパリ大学の神学部で学んでいます


その後も教会には戻らずに、トリノ大学で学び神学博士号を取得したり

ケンブリッジ大学で教鞭をとるなどするとともに


聖書や、教父文学

〔教父は、カトリックの称号の1つ

2~8世紀の神学者のうち、正統教義を唱えた精神的指導者〕

などの研究を行い


多くの古代文献を翻訳し、活字化したとされます



彼のギリシア語原典に即した

新約聖書のラテン語訳

(ラテン語訳付の校訂ギリシア語新約聖書)は


これまで教会で絶対権威とされてきた

ウガルタ版聖書に誤りがあることを明らかにし

神学者たちに衝撃を与えたそうです




また、彼の著書「愚癡神礼讃」(ぐちしんらいさん)は

爆発的に読まれたとされます


この本は、宗教改革前後に刊行され

異端思想とされてしばしば禁書処分となるも

版をかさねて現在でも広く読まれているそうです



内容は、愚癡(おろか)の女神モリアが

世界にどれだけ多くの愚かがあるのかを数え上げ

「人の行動の根底には愚痴の力が働いている」

「人は愚かであるからこそ幸せである」

と自分の力を自慢する形式で


教皇や聖職者たちの堕落と偽善

神学者や哲学者たちのむなしい議論

最大の愚行である戦争などを批判し


王侯貴族、聖職者、神学者、文法学者

哲学者らを徹底的にこきろしているといいます




「愚癡神礼讃」は、エラスムスが

イタリアからイギリスへの旅行中に着想し

ロンドンに住む友人の トマス・モアのところに立ち寄ったとき

一気に書き上げたとされます



女神のモリアという名は

モアのラテン語名 モルスからつけたとされ


モリアは、ギリシア語の「愚か」や「狂気」を意味する語

でもあるといいます





エラスムスは、、教会の堕落をあきらかにし

聖書の精神に帰ることを主張したので

弟子たちに多くの宗教改革者が出たそうです


一方、カトリック教会にも多くの友人がいて

結局、彼はプロテスタントにもカトリックにも組しなかったので

双方から厳しい批判を受けたとされます



しかし、彼の立場は、キリスト者の一致と

平和を重んじる態度で一貫していて

キリスト教同士が対立する愚かさを訴えつづけていたそうです



ルターは当初、エラスムスを尊敬していて

エラスムスの著作に影響を受けたといいます


これに対して、エラスムスもルターを支持し

ルターが断罪されないように手を尽くしてたといいます


このようなことから

宗教改革は「エラスムスが生んだ卵をルターがかえした」

と言われています



一方、ルターに党派をつくったり

教会の分裂を引き起こすことのないよう注意を与えていたそうです


ところが、ルターは教会の分裂に活発に動き

そこに政治が関わってくる

となると互いの立場の違いが明確となる

そこで対立に至ったとされます






●   トマス・モア (1478~1535)


イギリスの法律家で人文学者

政治家としてヘンリー8世の大法官(立法権と司法権の頂点)

まで登りつめたが


ヘンリー8世がローマ教皇と対立し

イギリス国教会をつくったとき

これに反対し、反逆罪で斬首された


カトリックとイギリス国教会では聖人とされている



ユートピアという語は、トマス・モアが

ギリシア語のどこにもない場所と

良い場所の意味の言葉からつくった造語で

彼の著書の名でもある



著書 ユートピア(2巻)は

新世界の独立国を訪ねるということにかこつけて

当時の絶対王政のあり方をするどく風刺した内容であるという


また、イギリスでは当時、海外市場の拡大にともない

毛織物業が盛んとなり


領主および富農層が、農民(小作人)から畑を取り上げ

羊を飼うための牧場に転換していったという


この状況を「羊が人間を食べている」と表現し批判している


〔但し、最近の研究では

実際に耕地が牧場化されたのは、全耕地面積の2%程度であり

また全国的な状況ではなかったとされているらしい〕



第1巻では、領土拡大にはげむ君主のもと

民衆が牛馬よりひどい労働をしいられていること

国も法律も金持ちが私物化していることが描かれ

悪の根源は、貨幣経済と私有財産制によるとしている



第2巻がユートピアを描いたもので

住民はみな白い清潔な衣装を着て、貨幣は存在せず

共有財産制で、全ての人が労働するので、少ない労働時間ですむ

住民は余った時間を科学や芸術の研究に使っているとある


つまり

トマス・モアのユートピア=理想社会とは

数世紀後に登場する「共産主義」そのものであったわけです



住民はみな白い清潔な衣装を着て

なんていうのは、中国や北朝鮮の人民服を連想させます



さらに、身に着ける衣装ばかりでなく

食事や就寝の時間割まで規定されていて


市民は安全を守るために互に監視しあい

反社会的な者は奴隷にされるなどとあり

現代からすると反ユートピアといえるような内容もみられるそうです








ホッブスの両立主義



さて、もし人間に自由意志がないということになると

行為に対する道徳的責任を問うことができない

ということになります



「神が世界の運命を決定していて

人間に自由意志はない」という決定論と

「人間に自由意志はある」という対立に関して


近代的な社会契約論を最初に唱えた

イギリスの哲学者 ホッブス(1588~1679)は


必然と自由に置き換え、両立主義の立場をとっています



人間の行動には、自分の意志ではなく


置かれた環境

(崖の上に立っていたら風で飛ばされたなど)や

他人の意志によって決まる場合=「必然」と


自らの意志にもとづく場合=「自由」がある

というのがホッブスの両立主義です



ホッブスのような両立主義者は


「自由意志がないとは

自由意志が存在しないのではない


加害者が被害者を強制し

被害者の欲求=被害者の行為に関する選好=被害者の自由意志

を覆い隠しているのだ」


と考えたといいます



但し、両立主義者の答えは

「戦争の時代に生まれたら戦争に行かなければならない

=自由意志なんてない」

という程度の話で


古代から論争されてきた

自由意志についての答えにはなっていません







心理学の見解




じつは、人間の行為や行動が

意志だけで決定されるとしたならこれほど楽なことはないのです


そうはいかないのです


不安や心配ごとがあると

「寝よう寝よう」と意識してもなかなか眠れない


好きな女の子の前では

その子を意識してうまくしゃべれない


人前で話をしようとすると緊張してしまう


タバコやギャンブルをやめたいと思っていてもやめられない


痩せようと思っていても本気でダイエットに取り組めない



このように人の行動は、無意識(潜在意識)によって

大きく左右されているといいます



人の意識は、一般に意識と呼ばれている顕在意識は1割で

9割が潜在意識(無意識)だという話もあります


潜在意識の方がはるかに大きな力をもちます



なので、心理学からすると


人の意志が働くのはほんの表層的部分にすぎず

その下には深海のような無意識層が存在している


いわば意識も意志もその海に浮かぶ氷山にすぎない


なんて話になります







人の心はお金で買えるのか?



では、「人の心はお金では買えない」という人と

「人の心もお金で買える」という人がいますがどうでしょう?



お金で人の心を動かすことはできる

だから、人の心もお金で買える


いやいや、心を動かすことはできても

心酔させることは簡単ではないはずだ


だから、人の心はお金では買えない


そんなレベルの話ではありません(笑)




仮に、Aさんの心がお金で手に入るとしたら

Aさんはあらゆる意志に関して

私の考えどおりになるということです



例えば

チュコモナカのアイスが食べたい

というAさんの意志を

抹茶のアイスが食べたい

という意志に変えることも可能ということです



ウーロン茶が飲みたい

というAさんの意志を

珈琲が飲みたい

という意志に変えることも可能ということです



また、生きていたいという意志を

死にたいという意志に変えることも可能ということになります



そんなこと不可能ですよね


つまり

人の心はお金では、買えません




でも、たくさんお金を払えば

相手もまごころで応えてくれる

というのはあるでしょ という話にもなりますよね



たくさんお金を払えば

まごころで応えてくれる


結論をいうと

人の心そのものは、お金で買えなくても

人の行為は、お金で買えるのです



人の行為は、お金で買えるから

風邪ひいて熱があって

本心は、会社休みたくても

「居場所がなくなる」とか

「クビになっちゃう」とか思って会社いくのです





人の心は、お金では買えない→人間は自由意志をもつ

あたりまえのような話ですが


じつは、こんなあたりまえの話を理解していない人たちが

世界の大半を占めているのです



では、なぜ、キリスト教徒は

「人間は自由な意志を持たない」と信じられるのでしょうか?



答えは、神によって人間の運命や意志が支配されている

と考えるからです



これは

そのように救済原理〔自己を成り立たせている根源的な論理〕

として信じているということです



砕いていうと「そうあってほしい」という心理が

働いているということです 〔これも自由意志ですが(笑)〕







本性に、善も悪もない



人間は基本は、欲に従って生きていていますが

それだけでは個人も社会も結構、辛い状況に陥ります


そこで、人は自分の欲以外のこともちゃんとやるのでしょう



そんなことからおまけで

こんな↓ 「両立論」というか「中立論」を考えてみました



人間の本性は、善だとか、悪だとか

言いますが



本性は

自己保存=欲 に従って生きている =自由な意志がない


という考えもできます



そうなると

自由な意志がないのだから

本性に、善も悪もないと言えます



しかし、それを土台に思考があり

思考を土台に善悪判断(自由意志)が発動されています



つまり、自由意志のないところに

自由意志が発動されているということです




美人とブスの子が喧嘩していたら

美人の子の味方をしたくなる

そこに自由な意志はありませんが


容姿とかを抜きにして

どちらの言い分が正しいか

知性で判断して決めていく


あるいは

そのまま感情で判断し

美人の子の味方をする


そういったことにへの自由意志が、我々にはあるということです





なんやかんや人間って

「欲に振り回されてるみたいな感じか」

ということで


「欲がなくてもいいものなら、楽だろうけど」

とは思いますが


「でも欲がないとやっぱ生ている意味がわかんなくなりそう」

ですよね



欲に振り回されて生きている感じがあるからこそ

生きている意味が感じられる



結局

我々は、自由意志のないところに

自由意志を発動させ


生を実感しつつ

存在しているということです





自由意志について

リベット実験の勘違い

なぜ「自由意志は存在しない」と

科学者は主張するのか?





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