「B級哲学仙境録」 緋山酔恭の『芸術論』 カントとガダマーの芸術論を論破する



B級哲学仙境論


芸 術 論


 




芸術論




合目的性とは?



カント(1724~1804)は、「美しい」という判断は

【 善のような概念を持たない 】

とか、アホみたいなコトを言っています



もちろん、文字だけあって意味や概念のない言葉などありませんよ

「美」という言葉は、ちゃんと概念を持ちます




善という言葉の原型の概念は、およそ

≪自分可愛さの欲を捨て集団あるいは誰かのためにする行為≫


あるいは

≪そうした正しい行為によって秩序性が保たれているコト≫

といったものでしょう




では、原型の美は何か?


我々の祖先が

≪そうした正しい行為≫

あるいは、≪そうした行為によって秩序性が保たれている状態≫を


「美しい」という言葉で、他のコトとは立て分けた

ことが容易に想像できます


つまり、ある「概念」を「美」という概念で立ち分けたということです





カントの言う【 美には善のような概念を持たない 】


これは、美には「概念」がないというのではなく

美には、善のような「目的性」がないという意味なのかも知れません



しかし、そうとらえたとしてもデタラメです



≪正しい行為によって秩序性が保たれているコト≫

こうした「善」や「美」は

社会においての≪必要性≫(=価値)です




また、キリスト教信者のAさんなら

神に敬虔な行為は「善」であり「美」であると感じているでしょう



こうした「善」や「美」は

Aさんにおいての≪必要性≫(=価値)です



必要性とは、目的性、また合目的性そのものです






一般に【価値】という言葉は

大きく二つの概念を意味する言葉として

使われています



1つは、主体(自分や社会)にとっての

必要なモノやコトです


「善」というのもこのうちの一つです


この価値は、≪幸福の対象≫としての価値です




もう1つは、五感を通して得る心の満足です


美味しい、楽しい、美しい、心地よい・・・・

といったものです




必要性の価値の基準が

必要か必要でないかにあるのに対して


好きか嫌いか、快か不快かのレベルにおいての価値判断です


この価値は、≪幸福の内容≫としての価値です





カントのいう「美」がデタラメ極まりないのは


「美」は≪一切の関心(欲望や理由)から自由≫と語り


つまり一方で、知覚判断(事実判断)としての「美」を定義しておき



一方では、快か不快かの価値判断=感情判断による

≪五感を通して得る心の満足≫という価値としての「美」なのです



両者をイコールにして

都合で語っているのです





≪美とは目的なき合目的性である≫

というカントの言葉のトリックを明かしておきます


≪美とは目的なき≫の「美」とは、知覚判断による「美」

≪美とは合目的性である≫の「美」とは、価値(感情)判断による「美」

ということです


別々の「美しい」をごっちゃに語ることで

あたかも真理のごとく装っているということです






コップとか、スプーンとかいった人間の創造物は

人間という主観にとっての必要性によってつくられたものであるので

目的にかなった形=合目的性 をもつのは当然です




一方、≪五感を通して得る心の満足≫という価値の

合目的性の正体は、【心の満足】なのです




合目的性とは

主観(人類、民族、集団、個人)に与えられるものです


例えば、満天の星空とか、小鳥のさえずり

澄み切った青空などというのは

全人類的に、合目的性を感じさせるものと言えます




これに対して、「侘び寂」という

簡素のものに、趣きを感じる日本人固有の美意識があります


日本人だけに≪普遍性≫をもつ「美」です



「趣き」を感じるとは

≪心の目的にかなっている≫と感じるということであり

≪合目的性≫を感じるということです



つまり、別の言い方をすれば

日本人という主観だけが「侘び寂」という美に

≪普遍性≫と≪合目的性≫とを創造し得るということです




価値とは、そもそも主観によって与えられるものです



コップのもつ「液体をためて、口に運ぶことができる」

という目的性は、人間という主観が、コップに与えた価値です



これをもうちょっと細かくいうと


コップのもつ「液体をためて、口に運ぶことができる」

という目的性から


人間という主観が、液体を口に運ぶという状況においての

必要性を、コップに感じているということです



すなわち、コップの目的性とは

主観が、コップに与えた必要性=価値 であるということです





同様に、日本人が、侘び寂を「美」と捉えるという意味は

「心の目的にかなっている」という目的性から


日本人という主観が

侘び寂に、「快」という価値として与えている

ということなのです







ガダマーの芸術論



ドイツの哲学者で

解釈学(人の解釈を研究する学問)の権威でもある

ガダマー(1900~ 2002)は


「カントは、美という現象が

経験によっておきているのではないことと

美の持つ普遍性を正当化した」と評価する一方


「それと引き換えに、美の判断が認識の上で

なんの意味も持たないことを示している」

と批判したといいます




ガダマーの主張は


≪ 芸術は、主観的な趣味

一時的な遊び、現実逃避などではない


人間世界の「真理」の結実である

またその「認識」の場である


芸術の主役は

芸術を経験する人(主観)にあるのではなく

芸術作品そのもの(客観)にある


芸術の本質は「自己呈示」にある


芸術とは、たとえ、見たり聴いたりする人が誰もいなくても

誰かに対して呈示されたものである



壁に掛かる一枚の絵、部屋の隅に置かれた彫刻

レコードから流れてくる音楽

すべての芸術作品は、見る人がいようがいまいが


聴く人がいようがいまいが、観客・聴衆に向けての

あるメッセージの「呈示」である


何かをそこで訴え、理解を求めている (「真理要求」)



観客は、その場に居合わせて芸術に関与する


このとき「我を忘れて没入する」ことは、観客の本質であり


このような「自己忘却」「恍惚感」は

「狂気」や「欠如の状態」ではなく、対象への専心である




芸術作品に対し


しばしばそれ(芸術作品)が

(実在の時間とは別の)「至福の無時間的な中にある」

と語られるが、そうではない


好奇心の対象は、観客にとって

一瞬間の魅惑にすぎず根本的には何の意味も持たない



芸術作品はこれと違い

観客を光景に引き込み虜にする (恍惚・忘我・奪魂)


ゆえに、歴史的実在的な時間と別の世界にあるものではなく

その呈示において「全き現在」を獲得し


つまり、実在的時間、移ろいゆく時間の中に入り込み

見る者に「課題」となって迫ってくるものである ≫


といったところです





まず、ガダマーの主張に対して言わせてもらうと

≪人間世界の「真理」の結実≫ってなんなの? ということです




「真理」とは「虚偽」と対義語で

≪正解≫ということですよ



1+1の正解が2 というように

「正解」には、何に対して「正解」というがあるわけですが

≪人間世界の正解≫ってなんなの? ということです




宗教でもあるまいし、定義もせずに

≪真理≫なんて言葉を不用意に使うべきではないのです





もとオウム真理教の大幹部で

現在はオウムの後継団体の1つ「ひかりの輪」の代表

上祐史浩(じょうゆうふみひろ)さんが

オウムに出家する際、母親にこう語ったそうです


「第三次世界大戦で核戦争がおきて、人々が焼かれるのを防ぐためにも


母さんのためにも 出家しなければいけない

僕たちが一生懸命修行したら、特別な変化がおこって

世の中が真理にもとづく平和になるんだ」



≪第三次世界大戦≫  ≪特別な変化≫

≪真理≫  ≪真理にもとづく平和≫  ≪救済≫  ≪使命≫

≪人類愛≫  ≪世界の終末≫  ≪解脱≫

≪宇宙の根本原理≫  ≪宇宙根源の法則≫



宗教とは、こうのような

言葉のバーチャルな世界に人間をひきずり込み


言葉で組み立てられた思考でしか

ものごとを考えられない人間をつくるわけです




1、言葉というものは、それだけ怖いモノであるということ



2、また、そもそも流行歌手のコンサートがそうであるように

人を熱狂させたり、陶酔させる文化は、多分に

人間をバーチャルな世界にひきずり込む

という要素を含むということ



3、さらに、芸術のなかには

時代や世相を反映してつくられるものや

政治や宗教なんかの思想をバックとして

つくられるものもあるということ





「芸術」についての哲学を語るなら

前提として、まずは、こういうことを認識すべきです


そうしないと俗流の観念論

(頭の中でつくりあげただけの話) になってしまうということです



≪芸術は、人間世界の「真理」の結実≫ と言われたって

わけが判らないので、理解のしようがありませんよ(笑)






≪ 芸術の主役は、芸術を経験する人(主観)にあるのではなく

芸術作品そのもの(客観)にある ≫


≪ 芸術の本質は「自己呈示」にある ≫


という視点だけは、面白いのですが



≪ 芸術作品に対し

しばしばそれが「至福の無時間的な中にある」

と語られるが、そうではない

好奇心の対象は、観客にとって

一瞬間の魅惑にすぎず根本的には何の意味も持たない



芸術作品はこれと違い

観客を光景に引き込み虜にする (恍惚・忘我・奪魂)


ゆえに、歴史的実在的な時間と別の世界にあるものではなく

その呈示において「全き現在」を獲得し


つまり、実在的時間、移ろいゆく時間の中に入り込み

見る者に「課題」となって迫ってくるものである ≫


とは、どういうことですか? という話になります





我々は、山で荘厳な景色などに接したとき

≪時間が止まったかと思ったよ≫なんて表現したりします


また、女性が高山植物をみて「わぁ美しい」と言うのを

≪女性は対象と同化しやすい≫なんて表現したりもします


ただこういうのは、単なる感情の比喩的表現です


比喩とは、物事の説明や描写に

共通点をもつ別の物事を借りてきて、表現したりすることです




ところが、ガダマーに言わせると、これは間違えである

というのです



なぜなら「絶景のほうが

我々の現実的な時間のほうに入ってきて

その姿を提示し、見る者に課題をなげかけるから」というのです



おいおいそれも単なる比喩だろ(笑)

って話になりますよね



まして、ガダマーはこの程度の話を

まるで崇高な「時間論」でも語るがごとく


言葉の世界に引きずり込むような表現で

語っているのです



まさに、それこそが「芸術」でしょ(笑) ということなのです








ついでに、音楽の本質を書いておきます


それは、よく言われている

≪善性を引き出す≫とかいうものではないですよ



音楽によっては、善性を引き出すものもあれば

軍歌のように、全体主義に向かわせるものもあります



音楽の本質を明かすと

いいとか 悪いとか 言うのではなく


欲求や感情をゆさぶって

謳わていれる世界観に、ひきずり込むということです



なので、怖い側面をもつということを

理解しておかなければなりません







【 西洋においては「詩は絵のように」と

詩と絵画を姉妹としてみてきたといいます


これに対し、ドイツの詩人・思想家の

ゴットホールト・エフライム・レッシング(1729~1781)は


視覚芸術(視覚によって認識される芸術)を

次の2つに立て分けています


① 唯一の瞬間を、空間に構成する「空間芸術」

絵具やノミで表現する絵画や彫刻、建築など


② 時間の推移の中で表現する「時間芸術」(言語芸術)

文学、舞台、音楽など 】








芸術とはなにか?



「人間」あるいは「天」(神? 自然?)

によって創造された

我々の魂の欲求にこたえうるものですね


魂の欲求にこたえうるとは

精神の深い部分に感動を与えたり

精神を高みに押し上げたりするという意味です



そのため芸術家は

自然のエネルギー、あるいは情景

あるいは人間の「愛」などといった感情を

作品に吹き込もうと、心を傾けます


そのためその作品に命が吹き込まれます



人が、天より与えられた材

すなわち資源に関わり、これを活かす


価値を創造して、共感を得る

これが芸術活動の基本であるとすると


経済活動(アイデアを創出してお金を稼ぐこと)

も広い意味では

芸術活動なのかもしれません





「天」(神? 自然?)によって創造された

「芸術」とはなんですか?


ものすごい美人に対して

私たちは「彼女はこの世の者とは思えない。まさに天使だ」とか

「彼女は神に選ばれて創造された、まさに神による芸術だ」

なんて表現します




また

深田久弥は、著書「日本百名山」において


【 富士山ほど一国を代表し

国民の精神的資産となった山はほかにないだろう


(中略)



万葉の昔から、われわれ日本人はどれほど豊かな情操を

富士によって養われてきたことであろう

もしこの山がなかったら

日本の歴史はもっと別の道を辿(たど)っていたかもしれない

全くこの小さな島国におどろくべきものが噴出したものである 】



と述べていますが



これは、我々が富士になんらかの

≪神々しさ≫ ≪神秘性≫を感じている

ことに他なりませんよね






人間の創造による

「芸術」というもの簡潔に述べると


自然のエネルギーや荘厳さ、また神秘性


人間の好ましい精神や

ヒューマニティ(人間らしさ)


また、神仏の救済や、永遠性といった


多くの人が美しいとか尊いと感じている

「普遍的価値」を


個性的に作品に表現したもの と言えます







「個性」と「創造性」を

同じ次元に考えた場合どうですか?



≪創造≫とは

私と、なんらかの資源との関わりにおいて

私が、なにかの新しいモノやコトを創作することですが


新しいモノやコトを創造するばかりでなく

そこに自己を表現していく=個性を具現化していく


それによって自己を実現していく ということです



いわば、≪自分≫の創作です



≪芸術≫の本質の1つは


≪自分≫を創造していくことにあるのではないでしょうか?






そして、こうした芸術とは


ガダマーがいうような

≪作品の我々に対する「真理の要求」≫ではなく


≪他者と価値観を共有するためのもの≫であると思います




これならどんな芸術作品にも通じるし

芸術を創造した人の側からも、受けとる人の側からも成り立ちます





自分はこんなに高価なもの

稀少なものをもっていますという人に対して

うらやましいなと感じるなんてことも、価値観の共有です




私が趣味とする「水石」という世界は

「天工の妙」を鑑賞する世界ですが


それが文化=形式 として存在している

というのは


≪価値観を共有する≫ために存在している

ことに他なりません






歌手のコンサートに行く人は

どのような価値を見い出しているのでしょう?


歌い手の声(音)だったり、曲の言葉(詩)だったり

またビジュアルだったり、センスやカッコよさだったりに

カリスマ性を感じるのではないでしょうか?



こうしたものに

その人の哲学性や倫理性を感じているのかもしれません



また、そういった認識に対する観客の心理が「崇拝」です





コンサートでのミュージシャンへの

「崇拝」というのは


・ 歌手に対するあこがれ

・ みんなとの共感

・ 「私はあなたと同じ考えですよ」という自己主張

・ 会場のムードに対する感情移入や陶酔


なんかで成り立っていると思います




みんなとの共感は

そのミュージシャンに対して

観客のみなが

≪同じ価値観を共有≫しているからこそ成り立つと言えます



≪価値観の共有≫によって

会場に、共感や陶酔感が生まれくると言えるのです








芸術の正体




我々が、荘厳な山岳風景や

女神のように美しい女性に対し

「神性」や「真理性」を観じるという意味は


【理性】(事実認識能力)によって

内在する「神」や「真理」を把握している


ということではなく


「感受性」や「感情」といった

≪価値判断能力≫が、芸術的対象を前にして

バーチャルな「神」や「真理」を価値として創造している

ということです





いやいや、対象に「神」や「真理」を感じるということは

対象が「神」や「真理」を内在しているということだろ?

という反論もあるでしょう



答えをいいます

対象が内在しているのは、芸術的要素です



芸術的要素にあるのは、真(真理)か偽(虚偽)かではなく

特殊か普遍かなのです



例えば、侘び寂という精神文化が

日本人固有の美意識によるものであるならば


侘び寂は、日本人のみに普遍的であるが

世界的には特殊であり、普遍ではないということです



すなわち、これは

対象のもつ侘び寂という芸術的要素から

(価値としての)「神」や「真理」を創造しうるのは

日本人だけであるということです





心をつき動かされるままに

論理的な判断もせず行動してしまうさまを

衝動的といいますが


芸術的要素の本質は

合理性(論理)でなく、非合理性(衝動性)です



その本質(衝動性)を、言葉(論理)によって

合理的に説明したものが「芸術論」という「論」です




芸術というのは、「論」のように

本質を、論理(合理性)によって、説明するものではありません




芸術とは、言語や論理を用いて

なにか(情景なり、概念なり)を表現することで

衝動性(芸術的要素)を生み出すものと言えます



芸術の言語や論理が

絵画、音楽、物語、詩、書、俳句 といったものや

「道」(茶道や華道)という形式だったりするのです




例えば、≪閑さや岩にしみ入る蝉の声≫は


俳句という言語・論理で、情景を表現することで

衝動性や精神性を生み出しています




つまり、芸術とは

合理性によって、非合理性を生み出し

合理性の中に非合理性を内包させることによって

人間の欲求に応えたものと言えるのではないでしょうか・・・・



≪閑さや岩にしみ入る蝉の声≫という句は

心に「快」をもたらす=心の目的にかなっている のだから

本質は「合理性」ではないのか?


それは、合理性でなく、合目的性(心の目的にかなった性質)です








バタイユの美とエロチシズム



エロティシズムを論じたことで知られる

フランスの哲学者であり作家ある

ジョルジュ・バタイユ(1897~1962)は


およそこんな↓ことを言っています



【 人間が、他の動物と異なるようになったのは

「労働」によってである


「労働」では、欲望を禁止しなければ

生産力が落ちるため「禁止」が重視される


人間の社会とは「労働」=「禁止」の世界である



ところが人間は禁止されていることに一種の魅力を感じる

禁止されているからタブーを犯したいという欲求が生まれる


その最たるものが「性」の禁止である



男は女の美を自分のものにしたいという攻撃的な欲望をもつ

この美を汚すということがエロティシズムの本質である


一方、女はその男の欲望の対象になるということに欲望を抱く



男は、美それ自体を求めているのではなく

美を汚すということを求めている


女性の陰部を開示し、そこに男性器を挿入することで汚す

ここにエロスがある



人間は、美を汚しているという確信のなかで

味わえる喜びのために、美を望んでいるのである




キリスト教では、エロティシズムを断罪したが

かえって、エロティシズムは燃焼することになった


エロティシズムの断罪によってこそ

キリスト教は価値として存在してきたのだが


じつは、キリスト教の中に

エロティシズムへの欲望が充満していたのである




人間にはエロティックな享楽が必要で

享楽によるエネルギーの消費がないと

鬱憤したエネルギーが悲劇的な形で爆発してしまう


そのことを、我々は、理性によって、よくよく自覚しなければならない



2つの世界大戦も、その結果おこった悲劇である



有用性や効率性だけを重視すると

人間のより本質部分が行き場を失って

第3次世界大戦がおきる可能性もあやぶまれる




我々は≪必要≫によって生を営んでいると思っているが

人間の根本は≪必要≫では説明できない


人間は、溜め込んだエネルギー・欲求を

「奢侈」(しゃし・贅沢に消費すること)することにより

バランスをとっている



例えば、アステカの「生贄」

(生贄は富のなかから取り除かれる過剰)や


アメリカ・インディアンの「ポトラッチ」や

チベット仏教の「宗教的奢侈」(僧院への布施)がそれである



人間とは「奢侈」存在であり

「蕩尽」(とうじん・財を使い果たすこと)存在なのであり


悲劇を繰り返したくなかったら

この≪呪われた部分≫を自覚しなければならない



そして、従来の経済学(生産・蓄積・消費)から

富の獲得と奢侈を包含する「普遍経済学」を 構築すべきである 】





●  ポトラッチ・・・・


チヌーク族の言葉で「与える」という意味


アメリカ北西部の先住民(諸部族)にみられる贈答の儀式



地位や財力を誇示するために

気前よく高価な贈り物をする慣習であり


贈られた者はそれを上回る贈り物で返礼し

互いに繰り返す習慣である




招待客は、招待や贈答物の受け取りを拒否することは許されず

階級が上位の者ほど、高価な物品を、たくさんもらう


後日、招待客はそれ以上の規模の祭宴を催さねばならず

失敗すると名誉を剥奪され、奴隷身分に落されることもあったという




誕生、婚姻、葬礼、成年式、家屋やトーテムポールの新築など

さまざまな機会を利用して行われるという


赤ん坊の発毛といった些細なことでもなされるようである




また、主催者が、富を誇示するために

大量の毛布やカヌーを積み上げて、惜しみなく焼いたり

所有する奴隷を、棒なぐり殺すこともなされたという


最大の贅沢は、彫刻のほどこされた銅板

(女性が1枚織りあげるのに何ヶ月もかかる

毛布4000枚以上の価値をもつ)

を破壊したり、海に投げ捨てる行為だったという




贈り物は、白人との交易以前は

魚の干物や油、カヌー、毛皮、毛布、衣類、カゴなどで

特に裕福な者のポトラッチでは、奴隷が贈り物とされることもあった


白人との交易後は、砂糖、穀粉、ミシン、モーターボートなども加わり

現金までもが贈り物とされた



競争があまりにも過激になったので

カナダ 政府は1884~1951年まで禁止していた


アメリカ政府も19世紀末に禁止したが

先住民族の人口があまりに多かったため現実的でなく

しだいに有名無実化していったという



富の蓄積を「善し」とする私権時代に

過剰ともいえる贈与を繰り返すというポトラッチは

多くの人類学者の研究対象となってきた







まず、バタイユは

人間は、溜め込んだエネルギー・欲求を

「奢侈」(贅沢に消費すること)することにより


バランスをとっている

といいますが


人間が、奢侈や蕩尽に喜びを感じるのは

奢侈そのものではなく


自分の根拠を求め、優越を求めるからだと言えます




バタイユの思想の根幹は

「人が美を求めるのは

美そのものを求めているのではなく

美を汚すことを求めているのである」

ということですが


これはおかしいです



なぜなら、人にとって

「美しい」は、それ自体が、快楽と言えるからです



美しい石を手に入れたいという欲求と

美しい女性を手に入れたいという欲求は


どちらも、美に対する

征服欲、支配欲、所有欲という意味において

違いなんてないはずです





バタイユの思想は、美への欲求と

性的な欲求(エロチシズム)とが一体になっているのです






聖書においては

人間が神の似姿(にすがた)として創造され

神に最も近い存在であり、他の生き物や自然を支配し

奉仕させる権利を持ちます



そこから、キリスト教社会では

野蛮な自然は、文明へと移行すべきである

という世界観を生み


さらには、内なる野蛮、内なる自然である

食欲、性欲、物質欲などの欲望も


理性によって屈服させるべきだという道徳観を生んだ

とされています




キリスト教が、理性で

野性や非理性を抑圧するものであるとするなら


バタイユのいうように

キリスト教は、エロチシズムと対立するものではなく

エロチシズムそのものであったのではないでしょうか?




未開の地域の女性は

胸をあらわにしていますが

文明社会においては、ブラジャーで覆い隠します


こうした野性を「知性」で隠すことこそが

「文化」や「美」の本質の1つです



そして、野性を隠す知性の中に、垣間見える野性にこそが

「エロチシズム」の本質と言えるからです



別の言い方をすれば

理性の中に、垣間見える非理性にこそが

「エロチシズム」の本質と言えるからです




また、この知性や理性を犯して、あるいは汚して

野性や非理性を見てみたいという欲求が

エロチシズムであって



女性の陰部を開示し、男性器を挿入したいという欲求は

エロチシズムではなく、単なる欲情ではないでしょうか・・・・





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