「B級哲学仙境録」 緋山酔恭の『美とはなにか?』



B級哲学仙境論


美とはなにか?


 




美とはなにか?




分析心理学の祖の ユング(1875~1961)は

「元型」という概念を提唱しました


ユングは、分裂病者の幻覚や妄想が

正常者の夢や空想、神話、伝説、昔話などと


きわめて類似性の高いイメージや

主題を持つことに気づいたといいます



そこからユングは

時代や文化の差を超えて

人類共通の普遍的無意識が存在する

と考えました



そしてそのようなイメージを

「原始心像」「元型」と呼んだのです



いくつかユングが提唱した元型のなかでも

一番有名なものが、アニムスとアニマです



理想的な男性像や女性像ですね


神や仏菩薩のイメージも

その元型によってつくられたとユングは主張します



フロイトとユングと潜在意識 ②






しかし、本当にそうでしょうか?


「美」の元型をあなたは見いだせますか?


モナリザ、江戸時代のうりざね顔・切れ長の目の美人と

AKB48の少女たちの間に

「原始心像」「元型」が見い出せますか?



またアフリカ北西部に位置するモーリタリアをはじめ

太った女性のほうが「美しい」とみる国もあります




 
薬師寺所蔵 吉祥天女像 (奈良時代・国宝)



 
浄瑠璃寺(奈良県)の秘仏

吉祥天 (鎌倉時代・重文)


現代ならただの肥えたおばさんでしょ




ルネサンス期の芸術家

ダヴィンチ(1452~1519)の

モナ・リザ





江戸時代中期の浮世絵師で

美人画で人気を博した

鈴木春信(1725~70)による小野小町




江戸時代の浮世絵師で

喜多川歌麿(1753~1806)の

「五人美人愛敬競 松葉屋喜瀬川」



一説によると

食糧事情が悪い時代は

目デカは 飢餓を印象づけるので

好まれなかったらしいです (=^・^=)





古代ギリシアの哲学者 プラトンは

価値が相対的なものでなく

絶対的なものであると主張しました



彼は、【 時代や国が変われば

「善」とされるものも変わっていく


しかし、どんなに時代や社会が変わっても

「善」の本質は変わらない


「善」という言葉に対して、イメージする内容

つまり「善」の概念は

相対なんかじゃなく絶対不変のものである 】


と、考えたといいます



例えば、 同じ行為が

イスラム教徒に「聖戦」(善)と呼ばれ

キリスト教社会において「テロ」(悪)

と呼ばれていていますが


このような相対的な「善悪」という価値の奥に

絶対不変的な「善」のイメージを人間は持っている

ということです



そこでプラトンは

「なぜかみんなが共通に理解している何か」を

「イデア」と名付けたそうです




そして個々の事物は

超自然的なイデア界にあるイデアによって作られるとしました


これがプラトン哲学の根本である「イデア論」です



つまり、彼に言わせると、りんごというイデアがあって

それによってりんごがつくられている


また、りんごが赤いのは、赤いというイデアがあって

それによってりんごが赤いのである  ということです





また、ある行為は、ある視点からみて美しかったり

正しかったりしますが

別の視点からみれば逆のことも多いですよね



これに対して、美のイデアは

つねに美しく、正のイデアはつねに正しい


個物は、美のイデアにあずかることで美しかったり(分有説)


美のイデアを模範とし

これに似せることで美の性格を得ることができる(模型説)と

いうのが、イデア論です



さらにイデアにも上位から下位のものまであって

最高が「善」のイデアであり

下位のイデアは善にむかって統一される とされています





人はモノやコトを言葉で区別します


そうしないと全部が一緒ってことになり

わけがわかりません



その意味で言葉とは

モノやコトを区別するために生まれた

と言えるのです



時代や社会が変わっても

本質が変わらない「善」とは


我々の祖先が、ある行為を

「善」として、他のコトと区別とした「善」と言えます




なぜ、この「善」は

いつの時代もそんなに違いのない

(=ほぼ絶対性をもつ)

のでしょうか?



それは人間の認識能力によって

ある行為を「善」という言葉で区別したわけで


人間の認識能力はいつの時代もそんなに違わないからです




「善」として区別されたある行為とは、おそらく

「自分可愛さの欲を捨て、他者や集団のために行動する」

なんてことだったと思われます




但し、この「善」の概念が

プラトンが言うように絶対的な価値をもつかどうかはまた別です



人は≪自分可愛さの欲を捨てて、集団のために行動すること≫

に対し、必ずしも「価値的だ」「素晴らしい」とは感じませんよね




例えば、全国の警察組織の裏金が発覚し

大きな社会問題となったことがありました



裏金づくりの実態を

内部告発した人たちは

そもそも裏金は犯罪であり

「社会正義に反する」として行動したのです



彼らは

≪自分可愛さの欲を捨てて、集団(国民)のために行動した≫

わけですが


逆に、いじめられ、実質、解雇のような状態でやめざる

を得なかったのです



つまり、当事者(警察職員)のほとんど全員が

彼らとともに行動するどころが

上の命令に従って、彼らを迫害し、追い出したのです



これは、警察職員のほとんど全員が

≪自分可愛さの欲を捨てて、集団のために行動すること≫

に対して、価値を感じていなかったということです





話を戻しましょう



言葉として区別された原型の「善」に対し

時代や社会が変われば

変わっていく「善」とは


「善」そのもの概念の上に

積み上げられたバーチャル的な「善」の世界です


この「善」は、特定の社会にとって必要なコトという

「価値」以外のなにものでもないのです






さて、ここからが本題です


言葉として生まれた「善」、原型の「善」は、およそ

≪自分可愛さの欲を捨て集団あるいは誰かのためにする行為≫


あるいは

≪そうした正しい行為によって秩序性が保たれているコト≫

といったものではないかと想像できます



また原型の「愛」なら

他者に対する哀れみや慈しみからくる


「なにかしてあげたい」と思う感情ではないのか と想像がつきます




ところが「美」の場合、我々の先祖が


そもそもどのような状態

どのような対象を「美しい」と感じ

「美」という言葉で区別したのか全く想像がつきません



つまり原型の「美」が読めません

ここに「美」のおもしろさがあるのです




≪正しい行為によって

秩序性が保たれている(=善)の状態を

「美」という言葉で区別した

→ なるほど解決!!≫


で終わりにしていい話なのかもしれませんが


「善」が、理性的な判断であるのに対して

「美」は、感情的な判断であることを考えると


「美」という言葉の起源は、もっと古いのではないかと思われます





では、モナリザ、江戸時代のうりざね顔・切れ長の目の美人と

AKB48の少女たちの間に存在する


時代や社会が変わっても、本質が変わらない「美」

我々の祖先が、言葉として区別とした「美」

とはなんなのでしょうか?




人間には、秩序性をもつモノやコトに対して

「美」を感じるというのは確かでしょう



人間の思考は

合理的にものごとを考えるようにできている

という人もいます


合理的とは、道理や論理にかなっているさまをいい

秩序性そのものです



つまり、世界を

思考の「合理性」「秩序性」の枠組みのなかで

とらえようとするのは人間の本能であって

それによって、我々の精神は保たれているということです



そうなると、我々は、合理的なもの、秩序的なものを

本能的に「好む」ということになります





ただ、「美」の本質を

≪秩序性≫や≪合理性≫だけに求めるのには疑問が残ります



なぜなら

江戸時代には

うりざね顔の女性に対して

≪秩序性≫や≪合理性≫を見出していたのに対し



現代では

AKB48の少女に

≪秩序性≫や≪合理性≫を感じているということになり



容姿に関する≪秩序性≫や≪合理性≫というのは

地域や時代によって変化するもの

バーチャル的な「美」ということになるからです



そこで、より本源的な「美の本質」があるのではないのか?

と思わざるを得ないのです



そこで、微妙に本道から外して

≪美の本源≫に迫ってみました





よく、「植物には心がない」

という人がいますがとんでもありません


植物に心がなければ

赤くて美味しそうな実をつけて


動物に食べさせて

種を運ばせて、生息域を広げたりするってありえませんよ



心がないにしては「頭よすぎ」です(笑)



裸子植物の時代

敵であった昆虫や我々の先祖の小動物を

繁殖のパートナーに仕立あげることで、被子植物は反映しました




≪美味しい≫と≪美味しそう≫では違います


≪美味しい≫というのが

味覚と嗅覚による知覚判断に対し

≪美味しそう≫は、味覚の判断ではありません


視覚と嗅覚による知覚判断です



そしてこの判断が

味覚を刺激して「食べたい」という

価値判断(=感情)が起こるのです



ちなみに、とくに人間の場合

他人の料理の話を聞いて(聴覚)


≪美味しそう≫→ 「食べたい」の判断がおきることも

多いですよね





さて、ここで気づいてほしいのは

植物が、私たちの先祖に「美味しそう」と認識させるために


赤くていい匂いのする実をつけたとすれば

あきらかに私たちの祖先の美意識を悟っていた

ということになります



私たちが、いまだ私たち自身の「原型の美」を知らないのに

植物は、ずっと過去に、すでにそれを悟っていたのです!!



その植物の悟っていた

我々の祖先の「美意識」をつきとめれば


イデア的の「美」、すなわち言葉として最初に区別された

根源的な「美」がおのずと現れてきます






その正体は、私の考えでは

「熟れごろのサイン」「食べごろのサイン」です



つまり根源的な「美」とは

「熟れごろのサイン」

「食べごろのサイン」

若さの象徴だったわけです



若さを好み、老いを嫌うというのは

秩序性に通じています






なぜ、女性の髪に、男性は欲情するのでしょうか?


そもそも動物のように

「はさみ」で髪を切る文化を持つことがなければ

男性も髪は長いはずです



つまり、髪を切る 切らないは、文化的な要素と言えます



男性が、髪を短髪にするのは

我々の先祖が狩りするのに邪魔だったからであり

そのなごりである


という説があります



しかし、女性の労働だって

現代のようなディスクワークなどではなく

髪が邪魔だったろうし、それゆえ髪を束ねて

労働に励んでいたと言えます




そうなるとなぜ、男性だけが髪を切り

女性だけが長く伸ばすのでしょうか?



それは男性を誘惑するためですね



女性が美しくなろうと

美にあくなき投資をするのは


男性の性欲が誘導型であり

女性の美に誘導されて


性欲が発動するしくみになっているからです



男性は、女性の「艶とのあるしなやな髪」を

「美しい髪」と認識し、欲情します



では なぜ、女性の美しい髪に

男性は欲情するのでしょうか?



それは「美」というものが

そもそも「熟れごろ」「食べごろ」のサインであり


艶とはりのあるしなやなな髪が

それを象徴するからに他ならないと言えるでしょう





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