緋山酔恭「B級哲学仙境録」 邪馬台国 ① 卑弥呼の正体・三種の神器



B級哲学仙境論


邪馬台国


 




邪馬台国 ①




卑弥呼の正体



大和朝廷の建設が日本国の建国って言うけど

大和朝廷よりも以前に邪馬台国というのが存在したのでは?


神武天皇の即位が前660年ということは

イエスが生まれる600年以上前に

天皇が統治する国家体制が成立していたことになりますが


この主張は大和朝廷以前に存在したと考えられている

邪馬台国が3世紀頃の国であるということからも根拠がないわけです



昭和の敗戦までは

邪馬台国の存在自体、国民には隠されていたといいます





魏〔ぎ・中国の三国時代の一国〕の

「魏志倭人伝」〔魏志の東夷(とうい)の条に

収められている日本古代史最古の史料〕

などに

邪(耶)馬台国と卑弥呼の記述があります




それによると

邪馬台国は3世紀頃の国で

女王 卑弥呼(175頃?~248頃)が統治していたこと


2世紀後半に「倭」に大乱があり

諸国は卑弥呼を倭王として立てることでまとまったこと


かつては男王が治めていたが

神に仕える卑弥呼が王になったこと


邪馬台国が、30余国

〔対馬、一支(いき)、末盧(まつろ)、伊都(いと)、奴(な)など〕を

統治していたこと


人民は顔と身体にイレズミをしていること


卑弥呼は生涯独身で

神の妻として「鬼道」(シャーマニズム)に通じていたこと


男弟が卑弥呼による神託に従って政治や軍事を担当していたこと



魏の明帝(めいてい)に、使者を送り

斑布〔はんふ・斑(まだら)模様の布〕2匹2丈と

男女の生口(せいこう・奴隷)10人(男4人・女6人)を献上したこと


これに対し親魏倭王の称号と金印

多くの絹織物や毛織物、金8両、五尺の刀2ふり

銅鏡100枚、真珠と鉛丹(えんたん・赤色の顔料)各50斤が

魏の使者によってもたらされたこと




その後も、卑弥呼は使者を派遣し貢物を贈っていること


さらに、南の男王 卑弥弓呼(ひみきゅうこ)の

狗奴(くぬ・くな)国と対立、戦争となり

この戦乱の状況を魏に伝え、援軍を要請していること



この直後、戦乱のさなかに卑弥呼は死んだらしく大墳墓がつくられ

奴婢(ぬひ・男と女の奴隷)100余人が殉葬されたこと


卑弥呼の死後、男王が即位するも国中が従わず

結局、卑弥呼の一族でシャーマン的性格の強い

13歳の壱与〔いよ・台与(とよ)ともいう〕が倭王となり内乱が治まったこと


などがみられるといいます







卑弥呼を大和朝廷につらなる人物であると主張する立場からは

卑弥呼は、神功(じんぐう)皇后であるとか


7代 孝霊天皇の皇女

倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)であるとか


天照大神であるとか


11代 垂仁天皇の皇女 倭姫命(やまとひめのみこと)であるとか

考える説があります







 神功皇后とする立場は、神功皇后摂政66年に

倭の女王が西晋(中国)に使者を送っていることから立てられたもので

江戸時代までは、卑弥呼は神功皇后だと信じられていたそうです


しかしこの年は西暦266年にあたり

卑弥呼はすでに死んでいて

倭の女王は壱与となっていた可能性が高いとされます





神功皇后ってどんな女性だったの?


日本史上最大の女傑です


息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)といい

14代 仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、15代応神天皇の母です




夫の仲哀天皇が、熊襲(くまそ)を討つため

筑紫(福岡県)の橿日宮〔かしいのみや・伝承地の宮跡には

仲哀、神功、応神、住吉大神(すみよしのおおかみ)を祀る

香椎宮(かしいぐう・福岡市)がある〕に来たとき


天照大神と住吉大神が、神功皇后にのりうつって

熊襲よりも新羅(朝鮮半島南東部)を先に討つべきである

という神託を降します




ところが天皇はこの神託を信じなかったため

神の怒りにふれて急死(古事記)


また熊襲に敗れその上病気となり死にます(日本書紀)






●  熊襲


九州南部に本拠地を構え、風俗習慣を異にし

しばしば大和王権に抵抗した部族


肥後国球磨(くま)郡〔現 熊本県人吉(ひとよし)市周辺〕から

大隅国贈於(そお)郡〔現 鹿児島県霧島市周辺〕に居住したとされ

5世紀ごろまでには大和朝廷へ臣従し「隼人」(はやと)として仕えたという







●  住吉大神〔すみよし(すみのえ)のおおかみ〕


住吉大社(大阪市)の祭神

底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)

表筒男命(うわつつのおのみこと)の三神の総称

軍神、海上・航路の神とされる



記紀神話によると

黄泉(よみ・よもつ)の国(死者の国)から帰った

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は

死者の穢(けが)れを落とすために

日向(宮崎県)の橘(たちばな)の小戸(おど)の

阿波岐原(あわぎはら)という河が海へと注ぐ入江で禊(みそぎ)をする


身につけたものを脱ぎ捨てると

そこから疫病神やたたりの神、穢れの神などが生まれた


海に入ると身体の垢から

二柱(ふたはしら・神は一柱二柱と数える)の災いの神が生まれ


その災いを直すために

神直毘神(かむなおびのかみ)と大直毘神が生まれて

災いの神を追いかける



深みで体を注ぐと水の底と中と上で

底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命

の住吉の三神が生まれるなどし



最後に顔を洗ったときに

最も高貴な三神(三貴子)が誕生する


左目を洗うと太陽の女神で皇祖神の

天照大神(あまてらすああみかみ)が


右目を洗うと月の神である月読(つくよみ)命が


鼻を洗うと嵐の神などと考えられている

素戔嗚尊(すさのおのみこと)が生まれる







仲哀天皇の死後、神功皇后は

妊娠したまま朝鮮半島に出兵して

新羅(しらぎ)を攻めました


これに対し、新羅は戦わずして降服し

高句麗(こうくり)・百済(くだら)にも

朝貢を約束させています(三韓征伐)



渡海の際は、お腹に月延石(鎮懐石)と呼ばれる石を

3つ当ててさらしを巻き

冷やすことによって出産を遅らせたといいます


帰国後、筑紫(福岡県)で

誉田別尊(ほむたわけのみこと・応神天皇)を産んでいます





畿内に帰る途中

応神天皇の異母兄にあたる香坂(かごさか)皇子

忍熊皇子が戦いを挑んできたので


神功皇后軍は、これを破り大和を平定


長きにわたり政務を執り行ったため (この間、天皇は不在)

明治時代以前は、神功皇后を天皇とみなし15代天皇としていたそうです


またこのため、応神天皇が即位したのは71歳だされます


なお、応神は111歳(日本書紀・古事記では130歳)まで生きています






② 倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)

を卑弥呼と考える説は?


この女性は、日本書紀に登場する巫女(みこ)的な人物で

古事記には、夜麻登登母母曾比売命という名だけが見られるそうです


神託や謀反の予見をして10代 崇神(すじん)天皇を助けています


崇神天皇10年のとき

武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと・8代 孝元天皇の皇子)と

その妻 吾田媛(あたひめ)が謀反を企て


武埴安彦命は山背(京都)から

吾田媛は大坂から大和を挟撃しようとしました


しかし倭迹迹日百襲媛命がこれを予見したことで


大坂へは四道将軍の 吉備津彦命

〔きびつひこのみこと・7代 孝霊天皇の第3皇子

吉備津神社(岡山市・吉備津彦信仰の総本社。備中国一宮)

吉備津彦神社(岡山市・備前国一宮)、吉備津神社(広島県福山市・備後国一宮)

田村神社(香川県高松市・讃岐国一宮)の祭神〕

が派遣され、吾田媛を迎え撃ちこれを討ちとり


山背へは同じく四道将軍の 大彦命

〔おおびこのみこと・8代 孝元天皇の第1皇子

娘は崇神の皇后で11代 垂仁の母〕が向かい武埴安彦命を討っています





また

大物主神〔おおものぬしのかみ・

大国主命が国造りを成功させるために三輪山に祀った神〕が


倭迹迹日百襲媛命に神がかって、自分(大物主神)を祀れば

天下は太平となるという神託を、崇神天皇に降しています



その後、倭迹迹日百襲媛命は、大物主神の妻となりますが

夜だけ現れて昼間姿を見せない夫に

「お顔をはっきり見たい」と言いいます


すると夫(大物主)は

「明日、あなたの櫛の箱に参りましょう

私の姿を見ても驚かないように」と答えます



翌日、媛が櫛の箱を開けると

衣服の紐ほどの小さくうるわしい蛇がいたので

驚いて叫び声をあげました


これに恥じて夫が立ち去ってしまい



後悔した媛は尻餅をつき

このとき女陰を箸(はし)でさしてしまい死んだとあります



その倭迹迹日百襲媛命の陵墓が

全長約280mの前方後円墳


箸墓(はしはか)古墳

〔奈良県桜井市・築造年代は

卑弥呼の没年に近い3世紀の中頃から後半であるとされる〕

と伝えられていて


この巫女的女性が

強大な権力を有していたことが伺えます


このことから、倭迹迹日百襲媛命を

卑弥呼とする説が立てられているわけです







③ 天照大神を卑弥呼とするのは?


天照の別名は

「大日孁貴」〔おおひるめのむち

・ヒルメは日の女神、ムチは高貴な者〕といいます


古事記では、天照大神という名で統一されていますが

日本書紀では、大日孁貴の名も見られます


この説は「孁」を神の妻、巫女と解釈し

卑弥呼=日巫女=大日孁貴=天照大神と考える立場ですが


「孁」は女性を意味し

神の妻、巫女とするのは誤りだという指摘もあります



この説では

天文学上の計算から

卑弥呼の没した時期に、皆既日食が起きた可能性が高いとし

これを記紀神話の「天の岩戸隠れ」に結びつけたり


男弟が卑弥呼による神託に従って政治や軍事を担当していたことから

この男弟に須佐之男命(すさのおのみこと)をあてたり


また邪馬台国と敵対した

狗奴(くぬ・くな)国の王に須佐之男命を考えたりするようです







 11代 垂仁天皇の皇女

倭姫命(やまとひめのみこと)が卑弥呼というのは?


天照大神の御神体である「八咫鏡」

〔やたのかがみ・「天の岩戸開き」の神話に由来する鏡〕は

天皇のもとにありましたが


10代 崇神天皇のとき、恐れ多いとして

大和の笠縫邑(かさぬいむら)に移して

皇女 豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が仕えました



しかし、その後も天照の霊魂(みたま)が荒ぶったことから

姫が「御杖代」(みつえしろ・自らが天照の霊魂が宿る者)となり

丹波(京都中部)、大和(奈良)

木乃国(和歌山)、吉備国(岡山)を21年間巡ります




さらに11代垂仁天皇のとき、年老いた豊鍬入姫命に代わり

垂仁の皇女 倭姫命(やまとひめのみこと)が、御杖代となり


新たな鎮座の地を求め、伊賀、淡海(おうみ)、美濃、尾張を巡り

伊勢の五十鈴(いすず)川のほとりに来たとき


天照が「常世(とこよ)の浪(なみ)が重浪(しきなみ)帰(き)する国なり」と

いたく気に入ったとして神殿が建てられました


これが伊勢神宮です


ちなみに皇居の賢所(かしこどころ)に祀られている

八咫鏡は、形代(かたしろ)です


「形代」とは、「御神体」の鏡や剣に対していう言葉で

模造品のことですが、神霊が依り憑いているらしいです



このような巫女的性格が、倭姫命を卑弥呼とする根拠です


ちなみに、天照の霊魂が皇居を出て

最終的に伊勢神宮に鎮座するまでに

25ヶ所もの社(宮)に祀られたとされ

これらの場所は「元伊勢」と呼ばれています


但し、1つの元伊勢に

現在あるいくつかの神社が「うちが元伊勢の場所だ」と

主張しているところもあります





なお、日本武尊

〔やまとたけるのみこと・12代景行天皇の第3皇子

14代仲哀天皇の父。小碓命(おうすのみこと)〕は

東北征討の途中、伊勢神宮に立ち寄り

叔母で斎宮の倭姫命より、草薙剣(くさなぎのつるきぎ)を授かっています








三種の神器



神器は、ジンギと呼ぶのが一般的のようです



●  八咫鏡 (やたのかがみ)


最重要の神器で

天照大神の岩戸隠れの際に

伊斯許理度売命〔いしこりどめのみこと

・鏡造部(かがみつくりべ)の祖神〕が作ったものです


天照大神が岩戸を細めに開けた時

榊(さかき)に掲げられたこの鏡に、自身が映って興味を示していたところを

天手力男神(あめのたぢからおうのかみ)が天照の手をとって外に引き出した

とされます



「岩戸隠れ」とは

天照が、弟の須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴を恐れ

天岩戸にこもってしまう


世界が闇となり困った神々は

天照に天岩戸から出てもらうために神事を行い


また天鈿女命(あめのうずめのみこと)に

卑猥(ひわい)な踊りをさせる


神々が爆笑する


天照大神が不思議に思い、天岩戸を細めに開いたとき

天手力男神が手をとって引き出したという神話です







●  草薙剣 (くさなぎのつるぎ)


天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)ともいう


天岩戸開きの神話に由来する 八咫鏡(やたのかがみ)

八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)

とともに、歴代天皇の三種の神器、皇位継承の証とされる


天照の弟の須佐之男命(すさのおのみこと)が出雲で

八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに

大蛇のしっぽから出てきた剣



須佐之男は、この剣を

高天原(たかまがはら・天上界)にいる姉の天照に献上している


邇邇芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨の際、再び地上に戻る


10代 崇神天皇の時代に

草薙剣の形代(かたしろ・模造品。神霊がやどる)が造られ

もともとの剣は、伊勢神宮に移された




日本武尊は、この剣で、敵が放火した草を

なぎ払って難を免れたため、この名(草薙剣)に改められた


東国を平定した日本武尊は

この剣を妻 美夜受比売(みやずひめ)に預けたまま


伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうと戦うが

神の降らす氷雨に失神し、敗れて山を下りる


しかしすでに病にかかっていて

伊勢国能褒野(のぼの・三重県亀山市)で死去した




ちなみに「三重」という地名は

古事記によると


ミコトが、尾津前(桑名市・日本書紀では尾津浜)から

能褒野へ向かう途中、三重郡(四日市市)で


≪『吾が足は三重の勾がりの如くして甚だ疲れたり』

(私の足は、三重に曲がってしまったと思えるほど、非常に疲れた)


とのりたまいき (言ったので)

故、其地を號(ごう)けて (この土地を称して) 三重と謂ふ≫


とあります




草薙剣(天叢雲剣)は、伊勢神宮に戻ることなく

美夜受比売と尾張氏が尾張国で祀り続けました


これが熱田神宮の起源であり


熱田神宮は、熱田大神(あつたのおおかみ)を主祭神に祀りますが


熱田大神とは、草薙剣を御神体とする天照大神を指すとしています



なお、形代の草薙剣は、壇ノ浦合戦で

平時子(清盛の正室・二位の尼)が

8歳の安徳天皇を抱いて入水したときに失われ

その後、伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」としているといいます




ちなみに、このとき他の神器も海に沈みますが

八坂瓊勾玉は箱に入っていたため

箱ごと浮かび上がり源氏に回収されたといいます


八咫鏡(形代)は、源頼朝の命を受けた漁師の岩松与三が

網で引き揚げたされます (八坂瓊勾玉もこのとき回収されたという話もある)






●  八坂瓊勾玉 (やさかにのまがたま)


かなり大きな勾玉らしいですが、箱に入っていて不明とされます


八坂(八尺)は大きいこと 「瓊」とは赤色の玉を意味するそうです


八坂は「弥栄」(いやさか・神道用語でますます繁栄あれ)である

という説もあります


天照大神の岩戸隠れの際に

玉祖命〔たまのおやのみこと・玉造部(たまつくりべ)の祖神〕

によって作られ


八咫鏡とともに榊につるされています


この神器に関しては、形代は作られておらず

形代の草薙剣とともに、皇居の剣璽の間に置かれているそうです






邪馬台国 ② 畿内説と九州説・三角縁神獣鏡


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