緋山酔恭「B級哲学仙境録」 邪馬台国 ② 畿内説と九州説・三角縁神獣鏡



B級哲学仙境論


邪馬台国


 




邪馬台国 ②




畿内説と九州説



邪馬台国には畿内説と九州説があります


古くは卑弥呼は神功皇后であると考えられていたことから

邪馬台国は大和(奈良県)であるとされていたといいます


現在では九州説が有力になっています




九州説で最も知られる

「筑後国山門(やまと)説」(福岡県山門郡瀬高町)

を最初に唱えたのは


江戸中期の儒学者・政治家の 新井白石(1657~1725)で

彼は、対馬や一支(いき)など倭の小国の名が

全て九州の地名に比定できるのに

邪馬台国だけが九州にないという矛盾を指摘したそうです




江戸中期の国学者・神道学者の 本居宣長

〔もとおりのりなが・1730~1801

30余年を費やし古事記の注釈書「古事記伝」(44巻)を完成〕は

卑弥呼が神功皇后であるなら、屈辱的な貢物など絶対にしないとし


邪馬台国は大和国ではなく、熊襲(くまそ)の類の国であると主張しました



さらに幕末・明治初期の国学者・歌人の 近藤芳樹

〔よしき・1801~80。本居大平(おおひら・宣長の養子)の門人〕は

熊襲の類の国を、肥後国(熊本県)菊池郡山門郷であると主張しています




また、九州説では邪馬台国ではないかと

言われる遺跡がいくつも発見されています


とくに「吉野ヶ里遺跡」(よしまがりいせき)では

弥生時代の大規模な環壕集落跡や

宮殿跡や楼閣跡  (これらは柱の穴の大きさや深さから推定)

墳丘墓(盛土をした墓)が発見され


これらが「魏志倭人伝」の記述と一致することから

当初は邪馬台国ではないかと騒がれました


現在は、九州北部にあった

複数の「クニ」の1つに過ぎないという見方も出ています




●  吉野ヶ里遺跡…


佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる

吉野ヶ里丘陵の50ヘクタールにある

1986年から発掘

弥生時代前期には

吉野ヶ里丘陵のところどころに分散してムラができ始めたとされる





それから魏志倭人伝には

帯方(たいほう)郡〔古代朝鮮に置かれた中国の郡名〕

から邪馬台国への行程が記されています


しかしこれをそのまま解釈すると

邪馬台国は九州のはるか南方の海上に

存在することになってしまいます



なので九州説では行程を

畿内説では行程と方向を変更して解釈しているそうです





なお、畿内説には、邪馬台国が大和王権へと

そのまま移行・発展したという説と

大和王権によって邪馬台国が滅んだという説があります



九州説には、記紀神話の「神武東征」を史実の反映と考え

邪馬台国が東へ遷都して大和王権になったなどの説があります







漢委奴國王



それから、江戸時代の1784年に

農民が、博多湾の志賀島(しかのしま)から

「漢委奴國王」〔委は倭を省略したもの〕と刻まれた

金印(昭和6年に国宝)を発見したことで


3世紀末に編纂された「魏志倭人伝」や

「後漢書」〔後漢朝について書かれた歴史書〕

の東夷伝に見られる「奴国」(なこく、なのくに)

が実際に北九州に存在したことが明らかになっています



     
 転 写    転 写 



「後漢書」の東夷伝には

西暦57年に倭の奴の国王が後漢に貢物を贈り

その返礼として後漢の光武帝より金印を賜ったことが記されています



金印は、一辺2.3cm

鈕(ちゅう・つまみの部分)を除くと高さ0.8cmで


百姓の甚兵衛が田を耕作しているときに

大きな石の下から発見したといいます



〔発見者は秀治・喜平という百姓で

甚兵衛はそのことを奉行に提出した人物という説も有力〕



福岡藩の藩校 甘棠(かんとう)館の総裁 亀井南冥(なんめい)が

これを「後漢書」に記された金印であると鑑定し

藩主 黒田家の所蔵となったそうです



維新後、黒田家から東京国立博物館に寄託されましたが

昭和53年に福岡市に寄贈され


翌年から福岡市美術館、平成2年からは

福岡市博物館で保管・展示されているそうです




それから「三国志魏書・東夷伝」の

倭の条に

邪馬台国支配下の一国として奴国がみられます


転 写



「魏志倭人伝」には

朝鮮から邪馬台国への行程が示されていて


対馬,壱岐の島を経て北九州へ上陸したところが

「末盧国」(まつらこく・まつろこく のちの筑前国=福岡県の松浦郡)

次が「伊都国」 (筑前国の怡土郡)

次が「奴国」で、現在の福岡県博多地方と推定されているようです



但し、金印の 委奴を「いと」と読んで奴国ではなく

伊都国であるとする説もあるそうです




また、「後漢書」の東夷伝には

西暦107年には、倭国王帥升(すいしょう)らが

奴隷百六十人を献上し、朝見を請い願ったとあります


〔但し、この倭国が、委(倭)奴国なのかは不明

それに帥升が名前なのか職名なのかもはっきりしない〕



倭国=委奴国=奴国とする説 (亀井南冥) の他

倭国=委奴国=伊都国とする説 があるようです







三角縁神獣鏡



畿内説の有力な根拠としてあげられるのが

「三角縁神獣鏡」

〔さんかくぶちしんじゅうきょう・鏡の縁を厚く作ったため

切断面が三角になること

また背面の模様に神仙と獣が刻まれていることからの名

直径23cm前後のものが多い〕です



三角縁神獣鏡は

初期の古墳から500面以上出土しているそうです

西日本を中心に出土しているといいます



三角縁神獣鏡のなかには「景初3年」(239)や

「正初元年」(240)など

「魏」の年号が刻まれているものがあることから



これらを魏志倭人伝に記されている魏帝が

卑弥呼に下賜した「銅鏡100枚」にあたるとし


その後、これを大和朝廷が、政治的関係を結ぶため

各地の豪族に与えたというのが

畿内説のなかでは有力な説となっています



 転 写

三角縁神獣鏡の謎

http://inoues.net/mystery/3kakubuchi.html より




但し、この種の鏡が中国にも朝鮮半島にも出土していないため

三角縁神獣鏡は、日本人が

中国の神獣鏡をまねて、日本人好みに作ったものであるとか


中国の工人が日本に来て、日本人好みに製作したものである

という九州説からの主張もあります




これに対しては

この種の鏡が中国で出土していない→

邪馬台国向けに「特別に作られた」(特鋳説) = 畿内説


→ 魏の皇帝が倭人のために

「特鋳する」などとは考えにくい = 九州説




また、とても「上手な製品」と

明らかに「へたくそな製品」があるそうで


上手な製品は、中国人の工人が作り

へたくそな製品は、中国人の工人が

帰国してしまった後に、倭の工人がまねて制作した = 九州説


上手な製品は、魏から送られたもので

へたくそな製品は、倭(日本)でまねて制作されたもの= 畿内説



また同時代の倭の銅鏡(三角縁神獣鏡でない鏡)が

銅質も上等で、よくできていることから

すべて魏でつくられて送られたものであるという主張もあります= 畿内説




2004年のX線放射による分析

〔放射を受けた物質が放出する蛍光X線を分析〕で

検査した8枚のうち6枚から


中国の三国時代、西晋時代の神獣鏡と

よく似た数値が得られたことから


中国で作られ日本に運ばれたとする

畿内説が補強されたそうです



これについて九州説の立場からは

中国の工人が材料を日本に持ち込んで製作した

という反論があるようです





なかには「景初4年」と刻まれたものもあり

〔京都府福知山市の広峯古墳群の

広峯15号墳(4世紀末~5世紀初頭ころの前方後円墳)から出土〕


景初は3年までしかないことから


これは中国から渡来してきた工人が、改元されたことを知らずに

製作した証拠であると主張されます = 九州説


さらにこの鏡の同氾鏡〔どうはんきょう・同じ鋳型から作った鏡

三角縁神獣鏡は同氾鏡が多いのも特徴〕が

兵庫県西宮市の辰馬考古資料館でも見つかっているそうです

(出土地不詳)






転 写



 ウィキペディアより



 ウィキペディアより



 ウィキペディアより



縁の断面形が三角になっていて

ほかの銅鏡からは明確に区別されるそうです

また、神像と獣像が交互に配置されているそうです




三角縁神獣鏡の謎

http://inoues.net/mystery/3kakubuchi.html より


転 写



 転 写




邪馬台国 ① 卑弥呼の正体・三種の神器


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