一念三千 天台の教判 日蓮仏法の根幹は「南無妙法蓮華経」を 宇宙の根本原理、宇宙の究極の法則、宇宙の仏界の生命 宇宙の慈悲の生命などとし 日蓮の書いた曼荼羅を拝み 題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば 自己に内在する仏界の生命(仏性)である 南無妙法蓮華経が 曼荼羅を仲立ちとして 宇宙の仏界である南無妙法蓮華経と合致し 自己の仏界が顕現される 即身成仏される あるいは 宇宙根源のリズムである南無妙法蓮華経に 自己の生命がのっかって 幸福の方向へ向かうなどというものです ちなみに「即身成仏」とは 本来 何度も生まれ変わり修行して悟れるはずの 究極の真理を 日蓮の書いた曼荼羅を拝み 題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば、現世で悟ることができ 仏(覚者)になれるということです ● 即身成仏 衆生が凡夫の身のまま仏になること 大乗仏教は、利他を行じて仏になることを目指すものですが 当初、歴劫修行〔りゃっこうしゅぎょう・ 何度も生まれ変わって長大な期間修行すること〕をして 仏の相(三十二相や八十種好)をそなえて仏なるとされていました その後、そんなに長い期間をかけなくても現世で成仏できるはずだ という考えが求められ それが密教で「即身成仏」という形で成立したとされます 日蓮仏法でいう究極の真理とは 中国天台宗の祖 天台大師 智顗〔ちぎ・538~598〕が明らかにした 「一念三千」という教えです ところが日蓮は これの天台の教えを≪理の一念三千≫にすぎない主張します つまり、天台大師は ≪一念三千≫という全ての衆生の成仏を可能とする理論 を明かしたが 凡夫がどのようにしてこの法理を会得し 成仏するかという方法(事)を説かなかったと!! そして、私(日蓮)が書いた曼荼羅を拝み 題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば 凡夫でも容易に一念三千の理論を会得し 現世で仏(覚者)になれると教えたたわけです これが≪事の一念三千≫です では、そもそも一念三千とはなんなんだ ということになりますよね くだけて言うと ≪自己の一念(一瞬の心)を変えれば 世界の全て(三千)が変わる≫ なので ≪一念を変えれば、全てが変わる≫ という自己変革と環境変革の宗教的な真理 です 天台大師 智顗(ちぎ・538~598。中国天台宗の祖)は 仏教史上最高の天才と称され ≪一念三千≫は仏教哲学の最高峰とされています 彼は、まず「法華経」を「教相判釈」(きょうそうはんじゃく・教判と略す) によって最高の経典として位置付けます 「教相判釈」は、経典の勝劣を述べて自宗の優位を主張することです 仏教の経典は、時代や地域によりそれぞれの内容に 多くの相違や矛盾があるのですが これらを全て釈迦の対機説法(衆生の機根に応じた説法)ととらえ 釈迦の教説として認めた上で、勝劣を論じるのが、教判です 天台の教相判釈では (作り話なのでまともに考えなくていいです) 釈迦ははじめに、法華経に次いでレベルの高い教えである 一乗教の華厳経を説いて 衆生の機根(仏教を受け入れる能力)をさぐります そこで、まだとても法華経を受け入れる能力でないことを知ります この華厳を説いた21日間を「華厳時」といいます 次に、最も初歩的な教えである阿含(あごん)経を12年間説きます 阿含経とはパーリ語経典(原始仏典)の漢訳にあたります これが「阿含時」です 釈迦の真の教説が 小学校の道徳レベルに位置付けられています(笑) 次ぎに、念仏宗が依りどころとする 浄土三部経〔観無量寿経・無量寿経・阿弥陀経〕 禅宗が依りどころとする楞伽(りょうが)経 法相宗が依りどころとする解深密(げじんみっ)経 密教である大日経や金剛頂経 この他、薬師経、維摩(ゆいま)経、金光明(こんこうみょう)経 など種々雑多な教えを説きます これが「方等(ほうとう)時」で16年間(一説に8年間) さらに、法華経を説く前段階として 大乗の空観が示されている般若系経典を説きます この「般若時」が14年間(一説に22年間)です そして最後の8年間、法華経を説き 入滅する日の1日1夜 法華経の流通(るつう・すでに説かれた教えの中心を 将来、世に広めていく意図をもって再び説くこと) として涅槃経を説く 涅槃経では「一切衆生悉有仏性」 〔いっさいしゅじょうしつうぶっしょう・ 全ての衆生はことごとく仏性を有し、仏縁によって成仏できる〕 が説かれています これが、天台の教相判釈です もちろんこんなのは歴史的事実ではありません インド仏教は、釈迦の入滅後約100年ないし200年 〔前3世紀後半のアショーカ王の時代〕に原始教団が分裂 のちに民衆に布教する大乗仏教が成立するも しだいにヒンズー教の圧迫をうけ、さらにイスラム教の侵入 (8世紀頃より始まり多くの寺院や仏像が破壊された) により衰退します これらの要因から バラモ教やヒンズー教の呪術的要素を 取り込み大きく変貌したのが「密教」(後期仏教)です 密教の代表的経典である大日経や金剛頂経が成立するのは 7世紀半ばから末とされています 釈迦はキリストより約500年も前の人ですから 釈迦が没してから1300年も経ってからです これに対して、法華経という経典は 釈迦が没してから500年ほど後に誕生した 初期大乗経とされています つまり「最後に法華経を説いた」というのは 仏教学ではなく あくまでも天台教学として 天台大師がそう決めたということです 天台が、≪釈迦が「法華経」を最後に説いた≫ と主張するにあたって根拠としたのが 古来、法華経の開経とされる 無量義経(中国で著された偽経の説もある)にある 「四十余年・未顕真実」〔よんじゅうよねんみけんしんじつ・ 40余年間教えを説いてきたが未だ真実をあかしていない〕 という釈迦の言葉と 法華経の方便品(第2品)にある 「正直捨方便。但説無上道」 〔しょうじきしゃほうべん。たんせつむじょうどう・ 正直に方便を捨てよ ただ無上の法を説く〕という釈迦の言葉です 創価学会の信徒は この無量義経と方便品の言葉と、天台の判釈を 歴史の事実として頭にたたき込まされます するとどうなりますか? 「なんだ日蓮以外の教祖は 釈迦が捨てなさいと言った経典を用いてきたのか!! ウソやってきたのか!!」 という盲目からくる 正義感が涌きあがってくるわけです 日蓮仏法をここまで支え、拡大させてきたモノは この盲目ともいうべき正義感、善悪二元論と 徹底したご利益主義、功徳主義なのです 「仏教学」と「教学」 の違いすらわからない人が操られているということです だいたい、その教学も 天台のアイデアを日蓮は借用しているだけなのです 話を戻します では、仏教史上最高の天才の天台が 法華経を最高の仏典に位置付けたのだから 法華経にはそれだけのものがあるのか? という話になりますよね むしろ、逆に、天台の理論によって 法華経が最高の経典として 認識されるようになったというほうが正しいでしょう 天台は、どのよう法華経を理論化したのですか? 一言でいうと ≪全ての衆生が成仏できる根拠が、法華経には書かれている≫ というのを理論化したのです 十界論 仏教は、大きく「大乗仏教」と「小乗仏教」に分かれます 小乗仏教は、世俗から離れた場所で 厳しい戒律のもとに修行に励み 自分だけの悟りを目指す教えです 大乗仏教は小乗仏教への批判から生まれたもので 利他行(菩薩行)によって 他者を教化し、悟り(仏道)へと導きつつ 自らも悟りを目指す教えです 世俗の中に身を置き一切衆生とともに悟りを目指す教えです 「大乗」「小乗」は 悟りへと向かう船(乗り物)に譬えられていて 小乗は、自分だけしか乗ることのできない船 大乗は、多くの衆生を乗せ、ともに悟りへと向かう船 という大乗の立場からの言葉です 東南アジア諸国には主として小乗(南伝仏教)が伝わり 中国や日本には大乗(北伝仏教)が伝わました 日本の既成仏教は全て大乗教です 声聞(仏弟子)の最高位 「阿羅漢」(あらかん)は 本来、仏(ブッダ)の異名でした ところが小乗教において 仏は釈迦1人とされてしまい 仏弟子は阿羅漢までしかなれないとなったとされます これに対して大乗教では 大乗教を行ずる者を全て「菩薩」とし 声聞や縁覚の上において、仏を目指すことになったのです つまり菩薩とは大乗仏教(利他)を行じて 仏を目指している全ての人をいいます だから創価学会のおばちゃんなんかも 「菩薩」になるわけです 「大乗仏教」では「十界論」(じっかいろん)が誕生しています 「十界論」とは、自己のなかに10種の命があるというものです 低い方から6つは 地獄(苦しみ、怒りの最低な命) 餓鬼(むさぼり) 畜生(おろか) 修羅(嫉妬・傲慢) 人(平らかな気持ちを持てる命) 天(喜びの命) です 一般の衆生(人間)はふだんは この6つの命が 環境にふれて(縁にふれて)現れ消え、現れ消えしているといいます これが≪六道輪廻≫です このように、縁にふれて色々な命が現れ消えしていますが もどる場所に違いがあります ふだんあるところの命が、その人の「境涯」ということです そして仏教とはつまるところ 六道輪廻、つまり「縁(環境)にふりまわされている自己」から 「主体的な自己」を目指す教えと言えるでしょう 主体的な自己とは 声聞(しょうもん・仏教を学び無常すなわち空を悟った境涯) 縁覚(えんがく・仏教以外、たとえば自然界などから空を悟った境涯) 菩薩(利他の境涯) 仏(智慧と慈悲の最高の境涯) です 「空」(くう)とは、全てが一瞬変化している 変化してやまない 全ては、無常であるということですね ここで面白いのは 小乗教の聖者である「声聞」と 声聞と同列の仏教以外の聖者の「縁覚」とが 「菩薩」の下に置かれたということです そしてこの小乗教の聖者である「声聞」と 声聞と同列の仏教以外の聖者の「縁覚」をあわせて 「二乗」と呼びます 二乗の不成仏 小乗教は、比丘の250戒、比丘尼の350戒などという 厳しい戒律を守り 自己の完成を目指す仏教です 「涅槃」(ニルバーナ)は 釈迦が修行の完成とした、安らぎの境地 悟りの境地のことですが 後に小乗教では 「生きていた釈迦は、煩悩を完全に断滅し 精神的には苦より解放されていたが 老病死という肉体的な苦や 肉体的な穢れ(けがれ)がまだ存在した 真の涅槃は死によって肉体がなくなることで完成された」 という考えが生じます これにより、それまで理想とされてきた 煩悩を断滅した安らぎの境地を 「有余(うよ)涅槃」とし 死によって完成される 「涅槃を無余(むよ)涅槃」と区別するようになります 〔有余涅槃は、煩悩を断じることによって 輪廻転生より解脱しているので 未来の生死の因を消滅させた状態であるという〕 紀元前後に大乗仏教の運動が起こると 無余涅槃を目指す小乗教の立場が 「灰身滅智」(けしんめっち・身を焼いて灰とし、智慧を断滅するもの) であると攻撃されるようになります そんなことから 大乗仏典においては、二乗の不成仏が説かれます 地獄や餓鬼や畜生の境涯の者 五逆罪〔母を殺す・父を殺す・聖者を殺す・ 仏身を傷つける・教団を破壊する〕 を犯した者でも成仏できるが、二乗は成仏できないとか・・・ 十界互具 これに対し、法華経では、二乗の成仏が可能になり 全ての衆生の成仏できるようになったのです 正確には 法華経の「諸法実相」(しょほうじっそう)の文から 天台が「十界互具」(じっかいご・ 十界それぞれにまた十界が具していること) という理論を打ち立てたことにより 明確にそうなったわけです 十界互具においては 二乗にも仏性はあるし 仏にも二乗の生命は存在します もし、声聞・縁覚という二乗が永遠に成仏できないとしたら その生命を具する仏だって成仏できてないはずでしょ という理屈になるのです 法華経の「諸法実相」の文とは 【 諸法実相 如是相(にょぜそう) 如是性(にょぜしょう) 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう) 】 という経文で これを「十如是」(如是とはこのようにの意)といいます つまり、宇宙の全ての事物・現象の 「真理」(実相・実なる姿)は、十如是である と述べたのが諸法実相の文です だから「十如是」とは、真理の内容ということになります 「相」とは外に現れた姿や形 「性」とは内なる性質や可能性 「体」とは相と性を合わせた全体 「力」とは潜在的な力 「作」とは力が外に向かって働く作用、動作 「因」とはものごとが起こる直接的な因、原因 「縁」とは因を助ける間接的な因や条件 「果」は因と縁によって生じた結果 「報」は結果が事実となって外へ現れていること 諸法すなわち宇宙の全ての事物・事象には 以上の相から報までの9つがそなわっているということです 「自分には相がない」とか 「あの人には力がない」ということはありえません 因や縁や果がそなわっているとは? 釈迦の縁起説からは 個と個は相互依存の関係にあり 互いに因となり縁となりまた果となって 関係し合っているということですし 因果応報説からは 自己の現在の一瞬は、過去の因(原因)による果(結果)であり 未来の果への因でもある 今の一瞬一瞬は、過去の因と未来の果をはらんでいる ということになります 以上のように、森羅万象には 相から報までの9つがそなわっている そして、相から報まで 本末究竟等している、つまり一貫している というのが 森羅万象(諸法)にそなわっている真理(実相)である というのが諸法実相=十如是の法門です 具体的には、パン屋ならパン屋、ドロボウならドロボウ 犬なら犬、山なら山 として、相から報まで一貫しているということです 諸法つまり全ての事物・事象が 真理を如実(ありのまま)に示している というのが諸法実相です ドアのあけしめ1つに、その人の生命の状態があらわれる 社会現象1つにその国の本質が潜んでいるということになります これは禅のような一元論(真理は1つという考え)とは違います さらに諸法実相という法門は 仏の悟りからすると 地獄界から菩薩界の衆生、九界の衆生も 仏性を内在していて 仏の当体(そのもの)として 相から報まで一貫しているという意味もある とされているのです 天台は、以上の法華経の諸法実相(しょほうじっそう)の文から 「十界互具」(じっかいごぐ・十界それぞれにまた十界が具していること) という理論を展開したわけです この意味するところは これによって、二乗の成仏の理論を確立させた ということなのです 客塵煩悩 華厳宗や禅宗では「仏性」を全く清浄なものとし 煩悩は一時的に付着した塵(ちり)のようなもの 「客塵煩悩」(きゃくじんぼんのう)であると説きます なので、煩悩を完全に滅して はじめて仏になるという立場をとるのです しかしこれでは人間は永遠に仏などなれないですよね(笑) 煩悩を完全に消滅させることなど不可能です 煩悩を完全に滅却した仏というのでは 神のような存在、おとぎ話の世界の仏となってします 禅宗では、「平常心是道」〔びょう(へい)じょうしんぜどう〕 【 あたりまえの心がそのまま仏の道 という意味 心そのものが仏であり、小さな心の動き、指や目の動き 日常の全てがみな仏性のあらわれに他ならない すなわち悟りは人を超越したものでなく、人間性に由来するものである 】 なんて言いますが 「人間の本性」そのものに、超越性をもたせているのです 煩悩を完全に滅却した心 なんてそもそもありえませから 坐禅による「見性成仏」 〔顕性成仏。見性得達。自分の心が本来 仏性そのものであることを見極め悟りに至ること〕 といっても、有名無実でしかないことになるのです これに対して、天台は 地獄界(怒りや苦しみ)や餓鬼界(むさぼり)や 修羅(慢や嫉)の境涯の者にも 仏界の生命(仏性)が具している(内在している) というのと同様に 仏界の境涯の者にも 他の九界(煩悩)の生命が具(そな)わっている と考えたのです つまり、天台のいう「仏」とは 自己に内在する「煩悩」や「悪の心」と常に闘争している人 ということになります なお、天台の「十界互具」を 「性具説」(しょうぐせつ)といいますが 華厳や禅の立場からは「性悪説」(しょうあくせつ)と呼ばれます 大乗教の基本理念を表わす言葉に 「生死即涅槃」(しようじそくねはん)と 「煩悩即菩提」(ぼんのうそくぼだい)があります 「涅槃」も「菩提」も、≪悟り≫の境涯を意味し 「即」は、≪そのまま≫の意味で 「生死即涅槃」「煩悩即菩提」ともに、世俗を離れるのではなく 生死の苦しみの世俗の中にとどまって 人々を救済しつつ悟りの境涯を開くこと をいいます さらには、悟りの境涯は、生死の苦しみの世界 欲望(煩悩)の世界を離れては存在しないことを 意味します 「生死即涅槃」と「煩悩即菩提」は 天台教学的な立場では 生死の苦しみの境涯(九界)を断じて仏になる という小乗、華厳や禅に対し 九界(煩悩)を断ずるのではなく 九界の身のまま(九界を開いて)仏界を顕現すること つまり、煩悩を消滅させた人ではなく 煩悩を支配、制御している人が仏であるということ をも意味する言葉になります 同時に、煩悩即菩提は 地獄(怒り・苦しみ)、餓鬼(むさぼり)・修羅(慢・嫉) といったエネルギーを 活動力、創造力、向上や発展のエネルギー さらには利他のエネルギーに転換させる といった意味にも解釈されたりします 釈迦は、原始仏典において "九つの孔 (あな)からは、つねに不浄物が流れ出る 眼からは目やに、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁 口からはあるときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く 全身からは汗と垢とを排泄する またその頭 (頭蓋骨)は空洞であり、脳髄に充ちている しかるに愚か者は無明 (むみょう)に誘われて 身体を清らかなものだと思いなす また身体が死んで臥 (ふ)すときには 膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族も顧みない" "人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち 花や香を以 (もっ)てまもられている 種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い また他人を軽蔑するならば かれは見る視力が無いという以外の何だろう" (NHKブックス中村元・田辺祥二著「ブッダの人と思想」より) と述べていますが、十界互具は 釈迦(仏)のあり方を理論化したものとしても 矛盾がないと言えます また、十界互具が説かれたことにより 正義のための怒りは 仏界や菩薩界に具するところの地獄界の生命 あくなき真理の追究は 声聞界や縁覚界に具するところの餓鬼界の生命 人を自分の手段とすることに喜びを感じている生命状態は 畜生界や修羅界に具するところ天界の生命 というように、縁にふれて 一瞬一瞬、あらわれてくる生命に対しても より明確に説明できるようになったと言えます 一念三千 さらにここから 天台の思考は、仏教哲学最高峰と呼ばれる ≪一念三千≫へと展開していくのです 一念三千とは、自己の一念(一瞬の心)に 宇宙の全て(三千)が含まれている だから、自己の一念を変えれば 宇宙の全てを変えていける という自己変革ばかりでなく、環境変革の理論です 三千を細かく説明していきます 十界に十界が具している 十界互具であるから「百界」 さらに、百界それぞれが 十如是という10種の働きをもつので「百界千如」(千如是) これに、国土世間・五陰世間(ごおんせけん)・ 衆生世間の三世間が加わって「三千世間」です 百や千や三千という数字については 数合わせで "たくさん" ということ以外に意味はないと考えていいです 国土世間とは 生命(衆生)がよりどころとしている環境に それぞれ違いがあるということ 五陰世間とは その国土から情報をうけとって生きている 生命のしくみ(生命の物質的側面と4つの精神作用) に、それぞれ違いがあるということ 衆生世間とは 五陰によって成る生命(存在)そのものに それぞれ違いがあること を示しています ● 五陰 (ごおん) 五蘊(ごうん)ともいう 生命を構成する五つの要素で 色は生命の物質的側面 他は精神作用で 受〔眼、耳、鼻、舌、身、意(心のこと)の六根を 通し外界を受け入れる作用〕 想〔受で受け入れたものを知覚し、想いうかべる作用〕 行〔想にもとづき何かを行おうとする衝動的欲求〕 識〔受から行までを統括する精神の根本〕 仏教では、衆生=生命 とは 五陰が仮に和合したもの(五陰仮和合)と定義される 仮というのは、全てが「空」(一瞬一瞬変化している)ゆえ 一瞬一瞬、仮に和合しているということ 国土世間とは 生命の1つの側面である「依正不二」 〔えしょうふに・自己(正報)と、自己がよりどころとする環境(依報)は 一体で切り離せない〕 五陰世間とは 生命のもう1つの側面である「色心不二」 〔しきしんふに・生命の物質的側面である色と、精神的側面である心は 一体で切り離せない〕 という観点から、各生命にそれぞれに違いがある ことをあきらかにしたものと言えます それから 国土世間は、非情 〔喜怒哀楽の感情や意志がないもの。草木、石、山河、国土など〕 衆生世間は、有情 〔うじょう・感情や意志をもち、それを表現できるもの〕 に配せます そして、一念三千とは このように自己に有情・非情の原理が含まれている それゆえ自己の一念を変えることで 依正不二の法則 また、森羅万象が関係し合っているという縁起の法則から 宇宙の全てが変えられるということです 面白いのは 天台が一念の中に「国土世間」を含めたことです 一念に、国土世間が含まれていなかったら 一念を変えても、環境変革は別の問題ということになlります すると、一念三千は「自己変革」だけの論理で終わってしまいます ところが、天台の思想だと 自分の一念を変えれば 自己がよりどころにしている 「非情」(感情のない国土、草木、石など)までもを 変えることができるということなのです そしてこの「一念三千」の思想を 一番強く受け継いでいだのが日蓮です 日蓮は 「この娑婆世界の変革をほうっておいて 死後の極楽往生を願うばかりの念仏宗を信仰すると地獄に落ちるぞ! 念仏無間地獄!!」と、浄土宗を批判しました それゆえ創価学会をはじめとする日蓮系は、布教に熱心であり 社会改革(政治)に積極的なわけです 諸法実相 「神」は、一神教においては 言うまでもなく唯一絶対にして全知全能です これに対し、宇宙の全てを成り立たせている存在について バラモン教はブラフマン(梵)、密教は大日如来 日蓮は南無妙法蓮華経 を立てています 一神教の唯一絶対神が、人格神的要素が強いのに対し これらは、真理や法則といった意味合いが強いので 宇宙の根本原理とか宇宙根源の法則などと呼ばれています 密教の大日如来は、宇宙の根本仏であり 法身仏〔ほっしんぶつ・真理そのものの仏〕とされています 禅では、この宇宙の根本原理を 法身如来〔ほっしんにょらい・如来とは仏の別称〕や 真如法性〔しんにょほっしょう・真如も法性も真理の意〕 などと呼びます そして、全ての存在が、宇宙の根本原理である法身如来 また真如法性の現れであるとするのが禅宗の立場なのです つまり、完全な一元論なのです 禅では「万法帰一」(ばんぽうきいつ)といって 大宇宙のすべてのものは一から生じ、一に帰するとされています つまり、机だの、椅子だの、ペンだの 消しゴムだの、ノートだのというのは 人間の分別によって作り出された差別(区別)世界で 本来、真理は1つであるということです なので、自と他の差別も、仏と衆生の差別もない 生死(しょうじ)も存在しない ということになりなります 生死がない(不生不滅)ってどういうこと? 波がしらであるときが生、海にもどるときが死 波がしらも本来、海として1つということです これに対して、法華経を拠りどころとする 天台宗や日蓮系では 「諸法実相」(しょほうじっそう)なのです 諸法(全ての事物・事象。森羅万象)に真理が具わっている 諸法が、実相(真理)を如実(にょじつ・ありのままの意)に示している と見ます 例えば、ドアのあけしめ1つに その人の生命の状態があらわれる 社会現象1つにその国の本質が潜んでいる と見ます なので、法華経においては、世界を多元論的に説明できます すなわち、個々の1つ1つに真理は具わっていて オーケストラの一員のようにメロディを奏で 宇宙という大きな真理を形成しているという考え方が可能です 細胞、身体、個人、社会、国家、世界、地球、銀河系… これら1つ1つが、仮の存在ではなく 真実・実在のものであり 相互依存の関係を築きつつ より大きな実在の一部として存在していると見る ということです 華厳教学 また、日蓮は、一念三千の理は法華経のみにあるもので 大日経や金剛頂経には一念三千の理が説かれていない だから密教の修法は呪術にすぎず祈ってもかなうことがないと 主張しているのです "焼野の雉子(きぎす)夜の鶴" 〔野原を焼かれたきじは自分が焼け死んでも子を守り 鶴は夜に子をつばさで覆って寒さをふせぐ〕 ということわざがあります ひな鳥が敵に襲われそうになると親鳥は わざと自分が傷ついているふりをして敵をひきつける このような日常の姿にすでに祈りというものはあるわけで 自分の説く祈りだけ正しいなんて話は独善ですよ(笑) 日蓮は 「澄観〔ちょうかん 738~839・ 中国華厳宗4祖・華厳教学の改革者〕が 天台大師の一念三千を盗み、華厳教学の神(たましい)とした」 と批判しています 〔 華厳経・乃(ないし)諸大乗経、大日経などの諸尊の種子 (しゅじ・諸尊を象徴する梵字。諸尊の真言を表すとされる一文字)・ 皆一念三千なり天台智者大師・一人此の法門を得給えり 華厳宗の澄観・此の義を盗んで 華厳経の心如工画師(しんにょくえし)の文の神(たましい)とす 〕 (心如工画師とは、心は工なる画師が如しと読む・ 衆生が輪廻する迷いの世界の現象全ては ただ一心のあらわれであるという華厳を象徴する言葉) 澄観は、一切一物全てが宇宙の一部である と同時に全体であり 一事は一切事を無礙 (むげ・自由自在でさしさわりがないこと)に含み 一切事は一事を無礙に含み 一事一事は少しも反発したり、矛盾したりしない という 「事事無礙法界」(じじむげほっかい)を説いています 澄観は法界(全宇宙・全世界の事物、事象のあり方)を 4つの側面でとらえています ① 事物、事象が千差万別である差別の世界の事法界 ② 一切が平等であるという真理の世界の理法界 ③ 事と理の法界が互いにとどこおりなく 交流している世界である理事無礙法界 ④ 事事無礙法界 華厳教学の根本は 「法界無尽縁起」(ほっかいむじんえんぎ・ あらゆる事物が互いに縁となり 自在に限りなく交流、融合しあって生起している) 「相即相入」(そうそくそうにゅう・対立するように見えるが 両者の間に本来 差はなく、とけあい影響し合う) 「主伴無尽」(しゅばんむじん・一切が無限に主体となり 伴(客体・従属)となり、しかも互いに矛盾なく関係し合いさしさわりがない) 「重重無尽」(じゅうじゅうむじん・ 全ての存在が互いに関係し合って尽きることがない 中央に火を置き、周囲を鏡で囲むと鏡に火が映り それがさらに他の鏡に映り幾重にもなるなどと譬える) 「一即一切・一切即一」(1個と全体とは本来全く同じ存在である) といったところです それから華厳経の教えは 「因陀羅網」(いんだらもう)に譬えられます 因陀羅(インドラ)とは、帝釈天のことで 因陀羅網とは、帝釈天の宮殿を荘厳するために 幾重にも重なり合うように張りめぐらされた宝網です 1つ1つの結び目に宝珠があり、光り輝き、互いに映し合い さらに映し合って限りがない これを「重重無尽」や「法界無尽縁起」に譬えるわけです 【 なお、梵網経(ぼんもうきょう)という経典がありますが 梵網経の「梵網」とは、仏が衆生を1人もらさず救済するのを 梵天の因陀羅網に譬えたとされます つまり、因陀羅網とは、帝釈天でなく 梵天の網という意味で用いられる場合もあるようです 】 なお、華厳宗の祖は、杜 順(とじゅん・557~640)で 天台大師 智顗(538~597)と比べると20歳ほどの開きがあります 日本の華厳宗は、東大寺開山・東大寺初代別当の 良弁(ろうべん・689~773)の請いで、東大寺で華厳経を講じた 新羅の僧 審祥(しんしょう・中国華厳宗3祖の法蔵より学ぶ)を初祖 良弁を第2祖としています 良弁の出生地については 相模国の鎌倉、近江国、福井県小浜市の説があるようですが こんな↓逸話があります 母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれ 奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを 義淵〔ぎえん・643~728。奈良時代の法相宗の僧〕に助けられ 僧として育てられた 東大寺の前身に当たる金鐘寺に住み 後に全国を探し歩いて、30年後に母と再会した 幼少より義淵に師事して、法相唯識を学んだのは事実といいます なお、華厳経の教主は、釈迦ではなく 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)で 「華厳経」には60巻本の旧訳と 80巻本の新訳とありますが ともに最終の会(え)は入法界品であり この最終の会以外はすべて 毘盧遮那仏による華厳教理の説法です 入法界品(にゅうほっかいぼん)は 善財童子(ぜんざいどうじ)の求道が説かれています 文学性の高い内容から、絵巻や、文学の素材となり 広く親しまれてきました ● 善財童子 「華厳経」入法界品にみられる童子の姿をした菩薩の名 福城長者の子であったが、発心(ほっしん)して 文殊菩薩の教えに従い、仏教の真理を求め 55ヵ所・53人の「善知識」(賢者・各自の道を究めた人) を尋ね教えをもとめた 神や菩薩、僧侶のみならず、長者、医師、舟こぎ、遊女 また、外道であるバラモンや仙人 童子、童女からも教えを請い 最後に、弥勒、文殊、普賢の三菩薩のところへ行き ついに普賢菩薩のところで十大願を聞き 真実の智慧を体得し、法界(悟り)に入ることができ 阿弥陀の西方極楽浄土への往生を願うに至ったという なお、観音菩薩の浄土である 「補陀落山」(ふだらくせん・ポータラカ)へも訪れているが 補陀落山の場所がインドの南端であることが示されている 1.文殊師利菩薩 2.功徳雲比丘 3.海雲比丘 4.善住比丘 5.良医弥伽 6.解脱長者 7.海幢比丘 8.体捨優婆夷 9.毘目多羅仙人 10.方便命婆羅門 11.弥多羅尼童女 12.善現比丘 13.釈天主童子 14.自在優婆夷 15.甘露頂長者 16.法宝周羅長者 17.普眼妙香長者 18.満足王 19.大光王 20.不動優婆夷 21.随順一切衆生出家外道 22.青蓮華香長者 23.自在海師 24.無上勝長者 25.獅子奮迅比丘尼 26.婆須密多女 27.安住長者 28.観世音菩薩 29.正趣菩薩 30.大王天 31.安住道場地神 32.婆娑婆陀夜天 33.甚深妙徳離垢光明夜天 34.喜目観察衆生夜天 35.妙徳救衆生護夜天 36.寂静音夜天 37.妙徳守護諸城夜天 38.開敷樹華夜天 39.願勇光明守護衆生夜天 40.妙徳円満林天 41.瞿夷夫人 42.摩耶夫人 43.天主光童女 44.遍友童子師 45.善知衆芸童子 46.賢勝優婆夷 47.堅固解脱長者 48.妙月長者 49.無勝軍長者 50.尸毘最勝婆羅門 51.徳生童子 52.有徳童女 53.弥勒菩薩 54.文殊師利菩薩 55.普賢菩薩 【 普賢菩薩の「十大願」 1,自他共に尊敬する 2,他人の得意や成功を祝福する 3,苦悩する人びとを救う 4,自分の過失に気づいたら恥を隠さず詫びる 5,善行をする人を敬い協力する 6,高徳博学の師を招いて 自分だけでなく広く多数の人に利益を与える 7,自分よりすぐれた人を尊び できるだけ長時間、自分の傍らに居てもらう 8,精神を高め、人格を養う 9,常に多くの人々と生活を楽しむ 10、自分の所有物でも自由勝手に使うことなく できるだけ共益をはかる 】 四明知礼 妙楽大師 湛然(たんねん・711~784。中国天台宗中興の祖) 以後、中国の天台宗は 華厳教学に影響されて華厳化の道をたどっていったそうですが 四明知礼(しめいれいち・960~1028・法智大師)が登場し 本来の天台に帰ることを唱え 華厳化した宗派を山外(さんがい)派と呼び 自派を山家(さんげ)派と称して正統を主張したといいます その後、両派の間に長期にわたる論争がありましたが やがて山外派は消滅し、山家派のみ栄えたといいます 山外派が、一念三千の一念を「真心」 〔しんじん・霊知の真念。霊知とは認識や智(真理を観ずる智慧) を超えた霊妙なる知だという〕とし これを観察(かんざつ)すべきであるという真心観を唱えたのに対し 知礼は、一念とは日常に起こる一瞬一瞬の迷いの心であり この「妄心」〔もうじん・陰妄(おんもう)の一念〕を 観察する対象とすべきであるという妄心観を唱えています 三千については 知礼は、凡夫の一念に具する三千は、理具の三千で 縁によって具体的な思いとなるのが、事造の三千であるという 「事理両重(じりりょうじゅう)の三千」を唱えています さらに山外派が、心のみに三千が具わると説いたのに対して 知礼は、心法に三千を具えるとともに 色法〔色とは、物質的・肉体的側面面〕も三千を具えるという 「色具三千」を唱えています 日本の天台宗はどうなの? 多くの教派が、真心説をとっているといいます それから、妙楽大師 湛然 (たんねん・中国天台宗中興の祖)は 【 真如法性という一元的な原理が 衆生の無明(むみょう)の縁に触発されて生起したのが 万法(諸法・全てのモノやコト)である 】という 華厳宗の「真如随縁説」(性起説)を取り入れ 華厳より優位にたとうとしたといいます ちなみに、華厳と禅は、思想的な近く 華厳宗や禅宗というのは 万法、すべてのモノやコトは 真如法性という原理の現れと考えます だから、机だの、椅子だの、ペンだの 消しゴムだの、ノートだのというのは 人間の分別によって作り出された差別世界で 本来は、真如法性1つということです これにより妙楽以後 中国天台宗は性起説に影響されて 華厳化の道をたどっていったそうです これに対して、四明知礼は 「華厳宗では真如法性が 衆生の無明の縁に触発され生起して万法となるが 生起した後の有為の万法と 無為の真如法性との相即(そうそく・一体不離。不二)を認めないが 妙楽は万法と真如の相即を説いている」と主張します 四明知礼は 華厳の真如随縁説を「一理随縁」(いちりずいえん)また「別理随縁」 天台の真如随縁説を「円理随縁」と立て分けています 知礼は性具説(十界互具)の立場から 真如(仏界)は万法(九界)を具し 「真如即万法」「万法即真如」であると主張したとわけです なお、知礼は「即」(そのままの意)を 以下の3つに区別しています ① 二物相合(にもつそうごう)の即 本体が別の2つのものが、互いに合して離れないという即 「如蓮華在水」〔にょれんげざすい・法華経において 末法の濁世にあっても、悪に染まらず 民衆を救済する地涌(じゆ)の菩薩のさまを 蓮華(ハス)が泥土の中で生育し 花茎を泥水の上にまっすぐに伸ばして 美しい花を咲かせることに譬えた言葉〕 の清浄な蓮華と泥土の関係などがこれに当たる ② 背面相翻(はいめんそうほん)の即 本体は同一であるが、現れた姿が別であるという即 例えば、コインの裏と表は別の姿であるが、本体は1つである ③ 当体全是(とうたいぜんぜ)の即 対立・矛盾する性質が、1つの本体に全て具わっているという即 煩悩即菩提、生死即涅槃、善悪不二、九界即仏界 十界互具(じっかいごぐ・十界のそれぞれに、また十界が具していること) などがこれにあたる 【 善悪不二・・・ 善悪一如ともいう 善と悪は本来、表裏一体というのではなく 善も悪も衆生の生命(本体)に 具わっている働き(用・ゆう)であるということ その生命が外界との関係性、縁にふれて 善をしたり、悪をなしたりするのであって もともとの生命は善とか悪とか限定できないという意味 善悪無記(むき)ともいう 善悪不二の同じ生命が 他者の生活を脅かしたり、生命を奪ったりすると地獄界の衆生となり 逆に利他をなせば菩薩界の衆生となるということ 】 なお、宋代(960~1279)には 中国天台宗の中心は、天台山(浙江省天台県の北方)から その北方に存在し 古来より、霊山として 道士(道教を修める人)や、僧侶の住した 四明山〔山麓一帯も四明山と称するようである〕などに移ったといいます 日本の比叡山の高峰 四明ヶ岳(839m)の名はこれにちなみます 比叡山は東の高峰を大比叡(大岳848m) 西の高峰を四明ヶ岳といい 大比叡の中腹に延暦寺があります 久遠実成 |
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