緋山「B級哲学仙境録」 天台宗・日蓮宗の法華経教学の根本 久遠実成について



B級哲学仙境論


仏 教 編


 





久遠実成



法華経28品のうち

前半14品が迹門(しゃくもん・迹とは影の意味で、仮の門のこと)

後半14品が本門と呼ばびます


天台宗の法華経教学の根本は

迹門が≪二乗作仏≫(にじょうさぶつ)です


これについては

天台は「十界互具」から「一念三千」まで展開しました



一方、本門の根本が≪久遠実成≫(くおんじつじょう)です



久遠実成とは


「爾前経」〔にぜんきょう・法華経以前に説かれた全ての経典

天台の教学では、釈迦は最後に法華経を説いたとする〕

および「法華経迹門」は


釈迦が

【 自分(釈迦)は、過去何度も生まれかわり、長大な期間を修行し

今世においては王子として生まれ、19歳で出家し

30歳のとき菩提樹の下で悟りを開いて仏になった 】

という立場で説法しています


この今世で始めて仏になった

という立場の釈迦を「始成正覚」(しじょうしょうかく)といいます




これに対して法華経本門で

はじめて釈迦は

実は久遠の昔から仏であったと明かします


これが「久遠実成」で

天台の法華経解釈の根幹なのです



「法華経迹門」では「諸法実相」により

全て衆生が成仏できる理論が明かされます


だけど、それはまだ理論の上のことにすぎません


それを釈迦が自分のこととして明かし

裏付けたのが「久遠実成」です


本門の如来寿量品で釈迦は

自らの事実を例にあげ、理論を証明したのです





久遠実成をあらわす文が

「私(釈迦)は、久遠の昔に成仏して以来

つねにこの娑婆世界にとどまって人々を教化してきた

つづいて他の百千万億那由佗(なゆた)阿僧祇(あそうぎ)という

無数の国においても衆生をみちびき利益(りやく)してきた」です



この文は、久遠実成のみならず、この娑婆世界が

本来、仏が常住する仏国土、浄土である

ということをも意味しています



法華経以外の経典では

阿弥陀の西方極楽浄土や

薬師如来の東方浄瑠璃浄土などが説かれていますが

法華経においてこの考え方が打ち破られ


この娑婆世界こそが

久遠実成の釈迦が常住する寂光土である

という真実(法華経においての真実)が打ち出されるのです


これが「娑婆即寂光」です




しかも、久遠実成の釈迦は

無数の国で教化してきたのだから


法華経以前に説かれた

阿弥陀仏や薬師如来や大日如来などの仏は

全て久遠実成の釈迦の分身〔垂迹(すいじゃく・仮の姿)〕

として位置づけられたことになります



大乗仏教では菩薩がたくさん存在する以上

過去に仏になった者も多いはずだ

という「多仏思想」が起こり


阿弥陀如来(如来は仏の異名)、薬師如来

毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)、大日如来など

多くの仏が誕生しましたがこれらが統一されたのです




さらに、法華経には「久遠の昔に仏となっても

菩薩道を実践してきたところの寿命はまだ尽きていない」

とありますが

これは仏の境涯を得ても

菩薩道を離れることはないという意味です




さらに、原始仏典のジャータカなどには

釈迦が盗賊や畜生として修行していたことも記されていますが


久遠実成が明かされたことで、これら九界

〔地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚<・菩薩〕

の姿で修行していた時も


実はすでに仏であり

仏が衆生救済の方便として自在に

九界の姿を示すことが、明かされたとまで

天台は理論づけたのです






●  ジャータカ 〔本生譚(ほんじょうたん)〕



原始仏典(パーリ語経典)の一つ


釈迦が過去世に菩薩であった時の

利他や求道の修行物語547話を集めたもの


忍耐や自己犠牲の話が多い



釈迦の過去世を、仙人、鬼人、天人、国王

大臣、長者、庶民、盗賊、象、猿、孔雀、兎、魚など

様々に設定し、菩薩修行を積んだとするもので



「捨身飼虎」〔しゃしんしこ・餓死しそうな母虎と七匹の子虎を救う為

薩埵王子(さったおうじ・釈迦の過去世の姿)が自分の身をささげた話

金光明(こんこうみょう)経などにもみられる〕はとくに有名





この他、尸毘王(しびおう)と

雪山童子(せっせんどうじ)もよく知られる



尸毘王は、北方所伝と南方所伝の2つの話がある


北伝の話は

鷹(たか)に追われた鳩(はと)を救うため

王(釈迦の過去世の姿)が飢えた鷹に

鳩と同量の自分の股(もも)の肉を裂いて与えた


鷹は帝釈天で、鳩は帝釈天の侍臣の

毘首羯磨天(びしゅかつまてん)で

釈迦の菩薩(利他)行を試した話



北伝の話は

眼の見えない老バラモンに両眼(帝釈天の仮の姿)を求められ

王(釈迦の過去世の姿)が、医師に自分の両眼をえぐらせ

老バラモンに布施として与えた


そのあと王は

「王国を大臣たちにまかせて出家しよう」と考え

蓮池のほとりで瞑想していると、帝釈天がやってきて

王の見事な布施の果報として、彼の両眼を生じさせた

しかもその眼は「悟りの眼」であったという話






雪山童子は、大乗の涅槃経にもみられる

雪山童子の雪山はヒマラヤのこと


雪山童子(釈迦の過去世の姿)は

雪山でバラモンの姿をして木の実を食べ瞑想していた


無量歳がすぎたある時、帝釈天が羅刹(らせつ・食人鬼)に化けて

童子の前に現れ


過去の仏が説いた教えをまとめた詩句の

前半「諸行無常・是生滅法(ぜしょうめっぽう)」

〔 世の中のものごとはすべて無常である

生じては滅していくことを本性としている〕だけを聞かせた


残りの半分を聞きたいと願った童子は

身を羅刹に食べさせることを約束し


後半の句

「生滅滅已(しょうめつめつい・已はやむ、やめるの意)

寂滅為楽(じゃくめついらく)」

〔 生滅するものがなくなり、静かなことが安らぎである〕

を聞くと


所々に詩句を書き付けてから

約束どおり高い木に登って身を投げる



もとの姿にもどった帝釈天が空中で童子を受け止めて救い

童子の求道(ぐどう)をたたえ、未来に成仏することを説いて姿を消した






なお「久遠実成」という言葉自体は

妙楽大師 湛然(たんねん・711~784。中国天台宗中興の祖)

によるようです




また、天台以前に、法雲が、寿量品から

「開近顕遠」〔かいごんけんのん・近成(ごんじょう・

今世で釈迦がはじめて成道したこと)は方便であると打ち明け

遠成(おんじょう・久遠の昔に成道していたこと)を顕す〕

という考えを打ち出しています



【 法雲(467~529)・・・・ 法華経の注釈書である法華義記を著

天台や吉蔵(549~623・三論宗の教学の大成者)

に大きな影響を与えた


但し、法華経に最大の評価を与えつつも

久遠の釈迦については、涅槃経に劣るとし

涅槃経第一の立場をとり

天台や吉蔵の法華経注釈書の中で批判を受けている 】




天台はこの法雲のアイデアをうけ

“「開迹顕本」(かいしゃくけんぽん)の釈迦”

を唱えたされています


つまり、仏教史上最大の天才と称される

天台にも元ネタ があったわけです(笑)





それから、日本天台宗においては

久遠実成の釈迦を応用し

「久遠実成の弥陀」が主張されるに至ったそうです



阿弥陀三部経の1つ無量寿経によると


阿弥陀如来は、遠い昔、インドの王子であったが

世自在王仏の教化によって出家し、法蔵比丘(法蔵菩薩)となった


法蔵は5劫という長大な期間思索(五劫思惟・ごこうしゆい)した後

48の大願を立てて仏になることを誓い


修行し、今からおよそ10劫(宇宙的な長大な)過去に

阿弥陀という仏となり


今もこの世界から10万億の仏国土をすぎた西方極楽浄土で

説法しているとあります



阿弥陀経にも「成仏して以来、今は10劫」とあります


この十劫正覚(じっこうしょうかく)の弥陀に対して

久遠実成の弥陀が主張されたわけです





浄土真宗の祖 親鸞(しんらん・1173~1262)も

久遠実成の弥陀を唱え


浄土真宗においては

十劫の弥陀と久遠実成の弥陀との関係について

論議が起きたといいます





なお、日蓮の御書のうち

開目抄とともに最も重要とされる

観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)に


“今本時(いま、ほんじ)の娑婆世界は

三災を離れ四劫(しこう)を出(いで)たる常住の浄土なり

仏既(すで)に過去にも滅せず未来にも生ぜず

所化以(しょけもっ)て同体なり

此(こ)れ即(すなわ)ち己心の三千具足三種の世間なり”


〔 今、本門の如来寿量品(第16品)で、久遠実成の釈尊があかされた

法華経の行者が、日蓮の曼荼羅に祈って、仏に感応したとき

この娑婆世界はあらゆる災害をはなれて

宇宙の流転をも超越した永遠の浄土となる


久遠の仏は宇宙とともに無始無終であり、過去世に入滅したことがなく

未来にも生じることがない


教化される衆生も永遠不滅の仏と同体である

これがすなわち自己の一念に現象世界全てを具足し

衆生世間、五陰世間、国土世間の三世間を具えていることである 〕

とあります







常楽我浄と地湧の菩薩



我(アートマン・霊魂)が

常住(不変・永遠)であり、楽であり、浄であるという

「常楽我浄」(じょうらくがじょう)

のバラモン教の思想を


釈迦は、四顛倒(してんどう)と批判し


無我(霊魂のような固定的不変的な自己の本質は存在しない)

無常(全ては空であり、一瞬一瞬変化していて常なるものはない)

苦(欲望を満たしてもさらなる執着を生み苦を生む)

不浄(欲望にとらわれた自己は不浄である)

としました



なお、のちに釈迦の無我説が

≪我は存在しない≫と曲解されますが

「変わらない我はない=我に実体が無い」ということです




後世、大乗涅槃経において、釈迦の説をふまえた

仏の涅槃(ねはん・悟り)の境地としての

「常楽我浄」が説かれています


バラモン教の「常楽我浄」

を四顛倒というのに対して「四徳」と呼ばれます



小乗教の小我に執着する態度に対し

大衆を我がこととする「大我」を確立せよという立場から


「我」を、縁にふりまわされることのない

主体的な自己、自由な境涯



「常」を、自己が永遠で行き詰まることがないこと


また断見(死ねば無という考え)

常見(霊魂のような不変的実体が永遠であるという考え)

の固定的な見方を超越した生死観



「浄」を、欲望、煩悩に汚されないこと



「楽」を、徳を具えて皆を安心させる境涯  です





日蓮は、この常楽我浄の四徳を

法華経の地涌(じゆ)の菩薩

〔上行(じょうぎょう)菩薩を上首とする四人の菩薩〕

にあてています


上行菩薩を「我」、無辺行菩薩を「常」

浄行菩薩を「浄」、安立行(あんりゅうぎょう)菩薩を「楽」






法華経において四菩薩は

釈迦滅後に、法華経の弘通(ぐつう)を託されていて


日蓮は、自分を上行菩薩の再誕と位置づけ

創価学会では、会員みなが四菩薩の再誕としています




四菩薩は、地湧の菩薩というように

天から降臨したのではなく

地から湧いて

釈迦の説法の法華経の場に突如として現れています



さらに、大地より量り知れないほどの数の

地湧の菩薩が出現するのです


このあたりが民衆的性格を感じさせるわけです




しかも金色に輝いていて

三十二相(仏が具える32の身体的特徴)

をそなえています


皆、驚愕します



そこで代表して弥勒菩薩が、釈迦に問いかけます


「世尊は、王宮を出て出家し、悟りを開いてから40余年です

このように多くの大菩薩を教化したとはとても信じ難いことです


しかも地涌の菩薩たちは立派な姿をしていて

これらの菩薩を、世尊がわが弟子であるというのは

25歳の青年が100歳の老人をさして我が子である

というのと同じようなものです」


「願わくは、事情を詳しく説明し、私たちの疑念を除いてください」



これに対して

釈迦が「久遠実成」「娑婆即寂光」をあかすのです



このように、執着している心を揺り動かし

疑問を生じさせることを

「動執生疑」(どうしゅうしょうぎ)といい


宗教における布教活動というのは「動執生疑」に尽きます



世間の価値に執着している心を揺り動かし

疑問を生じさせ入信させていくのです





なお、法華経においては

久遠実成の釈迦から

教化を受けた 地涌の菩薩に対して


弥勒・観音・普賢(ふげん)・文殊・薬王などといった菩薩は

迹化(しゃっけ)の菩薩いいます


迹仏(しゃくぶつ・仮の仏)

すなわち釈迦の分身である阿弥陀や薬師あるいは

久遠実成をあかしていない釈迦から教化をうけた

菩薩たちということです





釈迦本仏VS日蓮本仏




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