緋山「B級哲学仙境録」 日蓮宗の釈迦本仏論ⅤS創価学会の日蓮本仏論について



B級哲学仙境論


仏 教 編


 




釈迦本仏VS日蓮本仏




身延山久遠寺をはじめとする

日蓮宗においては

釈迦を本仏とし


日蓮は、法華経において、

釈迦から、釈迦の滅後の法華経弘通(ぐつう・教えを弘めること)

を託された


地涌の菩薩の上首(リーダー)である

上行菩薩の再誕であるとしています



この≪釈迦本仏論≫に対して

日蓮正宗(総本山は静岡県富士宮市の大石寺)や

その講から出発した創価学会は

「身延派は、日蓮を菩薩におとしめた」と批判し



日蓮は、末法における「御本仏」(ごほんぶつ)であって

釈迦も、南無妙法蓮華経によって成仏したという

≪日蓮本仏論≫を主張します






創価学会の折伏経典

〔かつては日蓮の御書に次ぐ聖典として扱われていた

会員の間では「内容は正しいが、表現が過激で今の時代に合わない

だから封印した」と言われている

昭和26年初版発行。以下の文は、昭和40年発行の改訂版によるもの〕に



"いま、身延山には七面山、石割り稲荷、日朝堂

願満稲荷、摩利支天堂、帝釈堂

瘡守(そうしゅ)稲荷、鬼子母神堂等々があり


その前にさいせん箱をおいて金もうけに必死で

ニセ本尊を店頭で売り出しているありさまである


こんなものを拝み歩いてなんの利益があるのか

ますます不幸のドン底へおちいることはとうぜんである


本尊の雑乱は日蓮正宗以外の各宗派に共通であるが

とくに身延山を本山とする日蓮宗ははなはだしくて

末寺の小寺では、まったくとんでもないものを祭って拝ませている


これらは、すべて無知の大衆を迷わせて

坊主が生活のかてにしているものである


とくに身延や中山の行者の狂乱ぶりは

まったく身の毛がよだつ思いであり

これらの邪教にたぶらかされて

苦悩のドン底にあえぐ大衆こそ哀れである"


とあります





この文から、日蓮正宗・創価学会が、本尊(拝む対象)として

日蓮の曼荼羅を唯一絶対としているのに対し


釈迦本仏の各派は、釈迦を本仏に立ててはいるが

本尊がはっきりしていないことが分かります




世間ではお寺の方がちゃんとしていて

創価学会なんていいかげんなんだろう

と考えていると思いますが


宗教界からの創価学会への批判というのは

むしろ「日蓮の言うとおりにやりすぎる」という

原理主義的立場です


もっと原理主義的なのが、顕正会なんかだと思います





唯一絶対の法を主張する日蓮の教えが

一番、複雑に枝分かれしてゆき

「自派にこそ日蓮の血脈(けつみゃく)がある」

とか主張し争っているというのも


人間の世界のおもしろいところではあるのですが(笑)




釈迦本仏論と日蓮本仏論とではどちらが正しいの?


日蓮の御書には

日蓮が「自分が本仏である」と明確に宣言した文はありません


これに対し「自分は上行菩薩の再誕である」

と述べた文はたくさんあります


なので「日蓮本仏論」おいては

外用(げゆう・外への働き)としては上行菩薩であるが

内証(内なる境涯)は末法の御本仏であるとするのです






日蓮は、観心本尊抄で

"釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す

我等この五字を受持すれば

自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲り与えたもう"


〔 釈迦の修行した功徳と、悟りを得た仏としての功徳の二法は

全て妙法蓮華経の五字に収められている

私たちがこの五字を受け持てば

おのずから釈迦の修行と悟りの功徳を譲り与えられるのである 〕

と述べています




開目抄には

(観心本尊抄とともに日蓮の御書の中で最重要とされる部)


"日蓮は日本国の諸人のしうし(主師)父母なり"


〔 主とは主人の徳で衆生を守る働き。師とは師匠の徳で衆生を指導する働き

親とは親の徳で衆生を慈愛する働き。この主師親の三徳を具えるのが仏とされる 〕



さらに"我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ

我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず"


〔柱とならむは主の徳、眼目とならむは師の徳、大船とならむは親の徳〕

とあります




さらに、産湯相承事(うぶゆそうじょうのこと)には

"日蓮は天上・天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり"






それから、顕仏未来記(けんぶつみらいき)では

釈迦の仏法を月に、日蓮自身の仏法を日にたとえています


"月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し

正像(正法時代・像法時代)には西より東に向い末法には東より西に往く"


"既に後五百歳(ごこひゃくさい・末法のはじめの五百年)の始に相当れり

仏法必ず東土の日本より出づべきなり"




諫行八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)にも


"月は西より東に向へり月氏(がっし・インド)の仏法の東へ流るべき相(そう)なり

日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり

月は光あきらかならず在世は但(ただ)八年なり

日は光明・月に勝れり五五百歳(末法時代)の長き闇を照らすべき瑞相なり"


(天台の教相判釈において、釈迦は最後の8年間、法華経を説いたとされることから)



もちろん、東より出づる仏法とは、日蓮の仏法に他なりません


「日(日蓮の仏法)は、月(釈迦の仏法)より優れている」

「この末法の世においては、自分こそが本仏だ」

と日蓮が主張しているのはあきらかです





本尊問答抄には

"法華経の教主(釈迦のこと)を本尊とす法華経の正意にあらず"とあり



観心本尊抄には

"此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す

一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可(べ)し

月氏(がっし・インド)震旦(しんたん・中国)に未だ此の本尊有(ましま)さず"


〔 此の時とは末法時代の始めの意

地涌千界とは、法華経で釈迦より滅後の弘教を託された地涌の菩薩のことで

この場合、地涌の菩薩の上首である上行菩薩の再誕とされる日蓮をさす


釈迦を本仏とするのではなく、釈迦を南無妙法蓮華経の脇士とする

全世界で最も勝れた本尊を日本で自分があらわした

インド・中国にも未だこの本尊は存在しない 〕

とあります




そして、諸法実相抄には

"釈迦・多宝の二仏と云うも用〔ゆう・体(たい)に具する働き、作用〕の仏なり

妙法蓮華経こそ本仏にては御座候(おわしそうろう)へ"とあり


南無妙法蓮華経こそ体で、釈迦は用とまで言っているのです





以上のことから客観的に評価したら

どうしたって「日蓮本仏論」に「分」があると言わざるを得ません







久遠元初



日蓮本仏論においては

久遠実成よりもはるか昔の「久遠元初」(くおんがんしょ)

という概念を打ち出しています


久遠元初とは、宇宙の始まりで

宇宙の始まりから

南無妙法蓮華経という法


南無妙法蓮華経という宇宙の根本原理があり


「南無妙法蓮華経によって釈迦も仏になれたのである」

ということです




そして「久遠実成の釈尊」に対して

「久遠元初の自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)の日蓮」

を立てます




自受用報身如来とは


法身〔ほっしん・真理の仏身〕


報身〔智慧の仏身。修行の結果(報い)として得た仏身〕


応身〔慈悲の仏身。衆生を救済する為に

衆生に応じて様々な姿で現れる仏身〕


の「三身説」のうち


報身を、自受用身と他受用身に分けたうちの自受用身のことです


悟りの境地の楽しみ(法楽)を人々に分け与える

利他の面を他受用身というのに対して


法楽を自ら享受する自利の面を自受用身と言います

自由自在の境涯とされています





釈迦は、衆生の機根(仏法を受け入れる能力)にしたがって

応現(衆生に応じて様々な姿で現れること)し

法華経本門の寿量品において久遠実成という真実の姿を明かした



すなわち≪久遠実成の釈尊≫といっても

それまでの応身如来から、寿量品において自受用身に昇進した

「応仏昇進の自受用身」に過ぎず

久遠元初からの自受用身である日蓮とは、天地の差がある

というのです







仏身説



真言宗では

法身(ほっしん)の大日如来が説いた教えを密教


応身(おうじん)や他受用身(たじゅゆうしん)の釈迦が

衆生の性質や能力に応じて説いた仮の教えを顕教

(密教以外の全ての経典)とし


密教の優位を主張しています


大日経第一、華厳経第一

法華経第三という空海の教判もあります






釈迦が滅すると、釈迦は無に帰したのではなく

宇宙の真理=法(ダルマ)と一体化したのだという考えが生じます


そこで、釈迦の説いた法を「法身」

釈迦の肉身を「生身」(色身)とする「二身説」が登場しました



中期大乗仏教(4世紀)には、法身と色身(応身)に

報身が加わり、法身・報身・応身の「三身説」が誕生し

これが最も一般的な説として定着しました


その後、四身、五身、六身、十身など様々な仏身説も生じています




法身・報身・応身の「三身説」は


真理である法そのものを

「法身」(永遠性を持つが人格性を持たない)



この法より応現した(衆生救済のために様々な姿で現れた)

肉身の釈迦を「応身」(人格性を持つが永遠性を持たない)



釈迦が仏になるために修行を積み

その結果(報い)として得た

特別な身体的特徴〔三十二相や八十種好〕

を具えた釈迦を「報身」


とするものです



また、報身を

自受用身(じじゅゆうしん)と他受用身に分け


悟りの境地の楽しみ(法楽)を

人々に分け与える利他の面を他受用身


法楽の自由自在の境涯を享受する自利の面を自受用身

とする考えも広いです




のちに、毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ・華厳経の教主)や

大日如来を「法身」(真理の仏)


阿弥陀如来・薬師如来などを「報身」


三十二相や八十種好を具なえた

歴史的人物である釈迦を「応身」とするようにもなっています




無量寿経には、阿弥陀仏は、法蔵比丘

〔阿弥陀が菩薩修行をしていたときの名。法蔵菩薩〕が

修行して得た仏身であることが説かれていることから

阿弥陀仏は、報身の仏とされたのです




なお、浄土真宗では

信徒が受ける「本尊」(拝む対象・阿弥陀仏)の裏には

「方便法身尊形(ほうべんほっしんのそんぎょう)」とか

「方便法身尊像」とか書かれています


これは、惟一絶対で

姿形をこえた究極の真理=法性法身 が


衆生を救済する方便として

阿弥陀如来という姿をとって、信徒の前に現れている

という意味らしいです








血脈抄と御義口伝



日蓮本仏論は、直接的には何を根拠にしているの?


日蓮が弟子の 日興(にっこう・日蓮正宗の祖)だけに

特別に授けたとされる御書の


「身延相承書(そうじょうしょ)」

〔 日蓮が没する一ヶ月前に身延で著し、日興に与えたという

日興を本門弘通の大導師と定め、本門の戒壇建立を命じたもの 〕



「池上相承書」

〔 日蓮が入滅の日に、池上邸でしたため日興に授けた

日興に釈迦50年の説法を相承すること

日興が身延山久遠寺の別当であること

これに背く在家出家は

謗法(ほうぼう・正法をそしること)の者であることを述べている 〕



「百六箇抄」

〔 一閻浮提総与(全世界の全ての人々に与える)の曼荼羅をあらわした

翌年に日興に授けたもの

種脱相対を明かし、日蓮の文底下種を勝

釈迦・天台大師の文上脱益(だっちゃく)を劣としている 〕



「本因妙抄」

〔 日蓮が池上で没する2日前に日興に授けた

天台大師の理の一念三千は、日蓮の事の一念三千に劣ることを明かす

また、天台が教判で勝とした法華経は、文上の範囲のことで

日蓮の文底下種に比べれば劣であること

文底下種の秘法とは、事の一念三千の南無妙法蓮華経であることを明かす 〕



「御義口伝」

〔 おんぎくでん・日蓮の講義を日興が筆録したとされる

文底下種の法門を明かす 〕




このうち「百六箇抄」と「本因妙抄」を、≪血脈抄≫と呼び

2つの血脈抄は

日蓮の最要深秘の【種脱相対】を明かす奥義書と位置づけられています


御義口伝も2つの血脈抄と並ぶ奥義書とされています





そしてこれらを

大石寺(日蓮正宗)26世の日寛をはじめとする大石寺の学僧が

解釈、体系化、理論化して完成していったのが

≪日蓮本仏論≫のようです



しかし、この身延相承書、池上相承書

百六箇抄、本因妙抄、御義口伝は


録内(ろくない)御書にも

録外(ろくげ)御書にも含まれていないばかりか

真筆も残ってもいません






そもそも「御書」とは、日蓮遺文(いぶん)とも呼ばれ

日蓮が書き残した論文や信徒への手紙の総称です


日蓮の一周忌法要にあたり日興を含めた六老僧が相談し

日蓮から手紙をもらった諸国の信徒を池上邸に呼び集め


信徒が持参した御書を六老僧が一つ一つ点検し

148通を真書と認めたのがはじまりとされます


この40巻148通が「録内御書」です



これに対して三回忌に

録内御書にもれていたものを集めた25巻259通が「録外御書」です



録内御書の最初の刊行は1622年の本国寺版です


録外は1662年の京の書肆(しょし・本屋)山屋冶右衛門によるとされています



つまり御書が、刊行されたのは江戸時代初期ということになります



なお、録内、録外の誕生の由来については

創価学会は「事実ではない」として認めていません






師が没したら、なるべく早くその教えを結集しようにするのは

弟子としてあたりまえのことですよ


第一回の仏典結集が

釈迦の入滅の年に行われていることからも明らかです



高弟たちにすれば、諸国の信徒が没するなどして

日蓮の手紙が失われてしまうことが最も心配であったはずです


当然、日蓮が没してまもなく

遺文の結集がなされたと考えるのが普通です




日蓮が没したのが1282年

日興が身延を離れたのが1289年であるから


身延相承書、池上相承書、百六箇抄、本因妙抄は

録内御書に入っていなければおかしいのです




それ以前に、他宗を厳しく批判し

真実の教えを過激に訴えた 日蓮が

ただ一人の弟子に、特別な教えを秘密裏に授ける

などということ自体おかしいでしょ(笑)



正しい教えなら、広く弟子たちに伝え

世間へも訴えていくものだし

かつ間違えがないよう繰り返し、弟子たちに説いていくものです(笑)




それから日蓮は、入滅(1282年10/13日)に先立つ10/8日に

池上邸で本弟子6名を定めています


これが六老僧ですが、これは、日蓮正宗も認めています



ところが日蓮はさらに、入滅の日に

「日興を後継者に定めた」とする文章を

こっそり日興だけに手渡したというのだから

誰が考えてもおかしいのです




御書を読むと、日蓮本仏の方に「分」があるのは確かです


しかし、そこから二箇相承や血脈抄を根拠として

「釈迦の仏法に意味がない」としたり(種脱相対)


「釈迦も日蓮の南無妙法蓮華経によって成仏した」

などという教義を創造した


これが日蓮本仏論と言えるでしょう







種脱相対



なお日蓮の「奥義」の≪種脱相対≫(しゅだつそうたい)とは


釈迦の法華経は

五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)というはるかの昔に

「下種」〔げしゅ・仏法に結縁させ、仏に成るための種子を植えること〕され


「調熟」〔仏の教化により衆生の命が次第に成熟してゆくこと〕

されてきた衆生


すでに成仏のための善根を積んでいる

「本已有善」(ほんいうぜん)の衆生を

成仏させるのには利益(りやく)がある



なお、調熟による利益を「熟益」(じゅくやく)

最終的に成仏することを「得脱」(とくだつ)といい

その利益を「脱益」(だっちゃく)といいいます



釈迦は、衆生を

爾前経〔にぜんきょう・法華経以前に説かれた全ての経典〕


さらには法華経の迹門〔しゃくもん・法華経28品のうちの前半14品〕

によって調熟し


法華経本門(後半14品)で

初めて真実の姿である久遠実成(くおんじつじょう)を明かし

衆生を仏の悟りに至らせた



正法時代(釈迦滅後千年まで)

像法時代(正法以後千年・釈迦の教えが形骸化してしまった時代)に

仏道修行した者たちは

過去世に釈迦の教化(下種)を受けている人たちである


だから釈迦の脱益(だっちゃく)の法華経で成仏できた



これに対して

末法時代(釈迦の教えが無力となった時代)の衆生は

過去に釈迦の仏法に結縁していないし

成仏のための善根を積んでいない

「本未有善」(ほんみうぜん)の衆生である


ゆえに釈迦の法華経、脱益仏法では成仏できない



末法の衆生は

下種益(げしゅやく・仏に成るための種子を与えられること)の

日蓮の七文字の法華経(南無妙法蓮華経)により初めて成仏できる


ゆえに釈迦の法華経より日蓮の南無妙法蓮華経の方が勝れている


というのが「種脱相対」です





ちなみに、身延派など日蓮宗は

「教観相対」を説きます


釈迦の説いた法華経の本門(後半14品)と

日蓮の観心(かんじん)である≪事の一念三千≫を比べて


日蓮の事の一念三千の方が勝れるというのが「教観相対」です




●  観心

本来、釈迦の説いた法華経の奥底に秘されている

一念三千を心に観じる天台宗における実践修行である


日蓮は、曼荼羅本尊を受持し、題目を唱えることがそのまま観心で

これにより一念三千という難解な真理を自然に悟ることができると主張

これを「受持即観心」(じゅじそくかんじん)という








文底秘沈



さらに、日蓮本仏論では

≪文底秘沈≫(もんていひちん)

というのを主張しています


【 法華経の如来寿量品 (にょらいじゅりょうぼん・第16品)で

釈迦は「私が成仏して以来、じつに長遠な時間が経っている」と

「久遠実成」を明かし


さらに「以前に菩薩道を行じて

(我本行菩薩道・がほんぎょうぼさつどう)

成就したところの寿命は今もなお尽きていない」と述べている

つまり成仏の因として"以前に菩薩道を行じた"と明かしている



しかし、どのような法にもとづいて

菩薩道を行じたのかが述べられていない


菩薩道が存在する以上、当然「法」が存在する

その法が明かされていない


釈迦の"我本行菩薩道"という文上の法華経の言葉の文底に

釈迦が、南無妙法蓮華経という法を修行して

成仏したことが秘沈されている 】


というわけなのです





つまり釈迦も南無妙法蓮華経によって

成仏したということなのですが

ムリにこじつけたへんてこりんな話ですよね



日蓮本仏が正しいのどうの以前に

密教にしても日蓮にしても

本来の釈迦の教えからは

ものすごく離れてしまっているのがよく判るというものです








曼荼羅絶対主義



創価学会では、釈迦本仏の日蓮系を「本尊雑乱である」とか

「本尊が定まっていない」と批判していますが

日蓮自身は、曼荼羅だけを本尊にしなさいと言っているの?



日蓮の御書にはそのような記述はないです



そもそも本尊とは

根本的に尊敬するものの意味で、拝んだり祈ったりする対象です



創価学会では

「日蓮の曼荼羅以外を拝んだら不幸になる」

「日蓮の曼荼羅以外は不幸の元凶」

「釈迦を本仏とし、釈迦如来像などに祈るのは間違え」

「日蓮の像を造って本尊とするのも間違え」

などと信徒に教えています





時代とともに、創価学会が

表面的には、寛容を装う宗教となっていっても

この教えだけは、崩せないのです


なぜなら、これを崩したら

彼らの日蓮仏法そのもののが、意味を失っててしまうからです





はっきり明記しておくと

≪ 今の不幸は、過去世に間違った宗教を信仰していたからである ≫

というのが、創価学会や

日蓮正宗およびその講である顕正会なんかの根本なのです




創価学会では、かつては

入信するにあたっては、他宗の「仏壇」はもちろん

「御守り」に至るまで破棄ざる≪謗法(はうぼう)払い≫

が徹底されていましたし


神社の鳥居をくぐることも「不幸になる」

と言われていたのです






話を戻します


こうした曼荼羅絶対主義に対して

当の日蓮はどうかといえと


終生、釈迦像を随身仏として持っていました



この釈迦像には

≪日蓮が伊豆に流罪されてきたとき

地頭の伊藤祐光に病気平癒の祈祷をし回復させた

祐光は海上から拾い上げた釈迦像を日蓮に奉った≫

という由来があります



また、日蓮の臨終にあたって

六老僧の日昭は、注法華経(日蓮が法華経に注釈を入れたもの)を


日朗は、立正安国論と佐渡流罪の赦免状と

この釈迦像を授けられています



ちなみに日興は「彼らが勝手に持ち去った」と言っています


釈迦像は、日蓮の墓所にあったのを

日朗に持ち去られたと言うのです




形見分けとしてもらい受けたんじゃない?


その事実はともかく

日蓮が釈迦像を肌身離さず所持していたことから

六老僧のうち日興を除く五人は、釈迦像を造立したといいます



それから日蓮が

一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ・全世界の衆生全てに与える意)

の曼荼羅を図顕し


これを弟子の日法(にっぽう)に彫刻させたとき

日法は日蓮の姿を後の世に残したいと思いたち


曼荼羅本尊と同じ楠で

造初の御影

〔つくりぞめのみえい・三寸(約9㎝)の日蓮の像。大石寺に現存〕

を造り、日蓮に見せたといいます



すると日蓮は「よく我が姿に似たり」と微笑んだそうです


そこで日法は

生御影〔しょうみえい・日蓮等身大の坐像・北山本門寺に現存〕

を造って、日蓮に奉ったとされます



北山本門寺(富士宮市・現 日蓮宗)とは

大石寺とともに日興の拠点であった寺です





創価学会によると、この2つの御影は

あくまで日蓮を慕う後代の人々の為に

造っただけのものであるいいます



しかし、祖師や高僧の木像や画像は奈良時代より造られているのです


平安時代には、真言宗では空海(弘法大師)

天台宗では最澄(伝教大師)や

良源〔りょうげん・天台宗中興の祖。元三(がんざん)大師〕

などの御影が盛んに造られています


いわゆる大師信仰です



鎌倉仏教においても宗祖の御影(みえい)は盛んに造られていきます


とくに浄土真宗寺院では中世以降

親鸞の画像を祀った御影堂が重視されていきました




こういった状況において、御影を造らせたのだから

日蓮という人は極端な曼荼羅主義者でなかったことは

確かではないでしょうか


もし、極端な曼荼羅主義者であったなら

自分の御影なんか造らせるはずがないですよね







天文法華の乱



創価学会では

「日興以外の五老僧は

日蓮の教えが厳しいために、みんな堕落していった」

などと教えていますが



五老僧の一人 日持なんかは

日蓮13回忌後に

「一天四海広宣流布]「一天四海皆帰妙法」


〔 一天とは、古代インドの世界観で

世界の中心とされる須弥山(しゅみせん)・

四海は須弥山をとりまく四方の海で、一天四海は全世界の意〕

という日蓮の教えを実践すべく


北海道から中国に渡り(46歳のときという)

外モンゴルまで弘教したとされます



日持のものと伝える遺品が

中国北京西北の宣化で発見され

東大、東北大の研究者によって科学的測定がなされ

年代が明らかになり


その結果、日持の海外布教がほぼ間違いないと判り

これが我が国初の海外伝道とされているのです




また、後世には、日蓮にならい立正治国論を著して

室町6代将軍 足利義教に諫暁(かんぎょう・いさめさとすこと)するも

投獄され、火あぶりなど様々な拷問をうけて

ついには熱した鍋を頭にかぶらされたが

題目を唱え続け“鍋冠(なべかむ)り日親”と称された人も出ています



日親(1407~88)は、中山門流の人で

他宗の信者から布施を受けている当時の日蓮宗各派を批判して

不受不施(ふじゅふせ)を高唱しています







日蓮没後、六老僧のうちの日昭から浜門流

日朗から比企谷門流(ひきがやつもんりゅう・池上門流ともいう)

日興(にっこう)から富士門流

日向(にこう)から身延門流 といった各門流が生じています


また、富木常忍(ときじょうにん・千葉氏に仕えた武士で

日蓮の有力信徒)を祖とする中山(なかやま)門流も生じています


さらには、日昭の弟子の日像による四条門流

日静(日朗の弟子である日印の弟子)による六条門流 が生じていjます


(六条門流は、四条門流とともに京都の日蓮宗主流派となった)


このうち最も栄えたのが、日像(1269~1342)の四条門流です



日像は、日蓮に将来を期待され

日蓮臨終のとき(このとき日像は14歳)に

帝都弘通(ぐつう)を託されたといいます


(創価学会は14歳という若さでそんことあるわけない

デタラメだと言っています)


比叡山のいやがらせで3度京都を追放されたそうですが

ついに、妙顕寺(日蓮宗大本山・

日蓮宗の京都における最初の寺院)の建立を許されています





室町後期には、京都の日蓮宗は、毎月2、3ヶ寺が建立され

市中は題目(南無妙法蓮華経)のちまた

と言われるまでに隆盛したといいます


信徒の多くは町衆と呼ばれる商業、手工業の者だったそうです



一方、山科本願寺(浄土真宗)は、畿内門徒に一向一揆をおこさせ

堺に三好元長を倒し、さらに京都市中に侵入する勢いにありました



これに対して町衆も武装化し出陣して一向一揆を撃破

細川氏・六角氏とともに山科本願寺を焼き討ちしたそうです


さらに畿内各地にしばしば出撃し、一向一揆と戦っています



これにより日蓮宗は自治権を拡大、年貢や地代が免除また軽減され

一種の警察権や裁判権を獲得したのです





これに対して王城鎮護を名のる比叡山(天台宗)は

1536年、園城寺、東大寺、興福寺、根来寺

東寺、本願寺などから援兵をうけ

さらに戦国大名の力を借りて連合軍を結成します



連合軍は洛中の日蓮宗の本山21ヵ寺の全てを炎上させました


このとき連合軍の兵力は18万とも15万とも8万とも6万ともいい

日蓮宗の兵力は2~3万だったといいます



これにより、日蓮宗僧侶は全員洛外へ追放

洛中での布教も禁止となったそうです


この21ヶ寺が焼き討ちされ

洛中のほとんどが焦土化した襲撃事件を

「天文(てんぶん・てんもん)法華の乱」といいます



なお、延暦寺は、日蓮宗が、天台法華宗の宗号を盗んで

法華宗を名のったことなどを罪状としてあげています







不受不施派



江戸時代の宗教統制政策の中心は

キリシタンと

日蓮宗不受不施派(ふじゅふせは)の撲滅にありました



徳川家が浄土宗徒であることからも

幕府は、日蓮宗は「自讃毀他」(じさんきた・自分をほめて他をけなす)

であると断じ


社会の秩序を乱すとして禁令を出したりもしたようですが

とりわけ不受不施派を弾圧したのです




この派は、他宗の信者から布施、供養を受けてはいけない

信徒は他宗の僧を供養してはならない

という日蓮の教えをかたくなに守ります



秀吉が、京都東山に造営した

方広寺(天台宗)大仏殿の落慶法要(らっけいほうよう)に

千僧供養をもよおし各宗の僧侶をまねいたとき


後に不受不施派の祖とされた

日奥(にちおう・1565~1630)は、出仕を拒んでいます


日奥は、家康のもよおした供養にも応じずに対馬に流されています



その後、許されて公許状を得て

さかんに不受不施の教えを宣揚し


受布施〔信徒は他宗の僧を供養してはならないが

僧は他宗の信者からの布施、供養を受けてもよい〕の身延派を非難


不受不施論は圧倒的な勢力を持つに至ったといいます




1630年には、劣勢を挽回しようとした身延派の訴えにより

江戸城で身池(しんち)対論という法論対決がなされています



幕府は教義には立ち入らず、不受不施派の負けとし

池上本門寺(東京都大田区池上・日蓮宗四大本山の1つ)の

日樹をはじめとする不受不施派の対論出席者6名を流罪にしています




さらに幕府は1665年に

「今までの寺領を改めて供養として下す

寺領はもちろん井戸も道路も

全て国主の供養であるから受領書を提出せよ」

として不受不施派の撲滅をはかりました



これに対し「供養は国主の慈悲である」

として幕府に従った悲田派と


「寺領は国主政道からの恩分としてなら受けるが

供養としては受けられない」

として提出を拒否した恩田派に分かれたといいます



このときも恩田派の幾人かの指導者が流罪になり

この事件の弾圧は全国に及んで

恩田派の中には自殺する者や餓死する者も出たといいます



また一時難を逃れた悲田派ものちに停止命令が出されています




その後も流罪者を出し

不受不施派の僧侶たちは寺院を離れ、地下組織を結成

地下に潜伏しつつ信徒を指導したとされます


宗教史上稀な非合法の教団組織として度重なる弾圧をのがれ

幕末まで命脈を保ち

明治になって、日蓮宗の一派として許されています




不受不施派は、1682年頃より

尭了派〔ぎょうりょうは・

恩田派として讃岐に流された日尭と日了にはじまる〕と


津寺派〔つでらは・講門派。恩田派として日向に流され

領主の島津氏の帰依を受け一派を形成した日講が祖〕

に分かれていましたが


尭了派の日正(にっしょう)が

幕府・朝廷に懇願すること80余回

明治9年にようやく日蓮宗不受不施派として再興を許されています



日講を祖とする講門派も、明治15年に再興が認められ

日蓮宗不受不施講門派として再興されています





このように、日興の系統だけが厳しい戒めを守って

他の宗派は堕落して今日に至ったという

創価学会の話は、全くデタラメなのです





日蓮系各派と三大秘法




Top page


久遠実成





 自己紹介
運営者情報




 時間論




 幸福論




 価値論




 心と
存在




言葉と
世界




食べて
食べられ
ガラガラ
ポン





Suiseki
山水石美術館