緋山「B級哲学仙境録」 仏教編 日蓮系各派と三大秘法について



B級哲学仙境論


仏 教 編


 




日蓮系各派と

三大秘法




日蓮系各派



江戸時代、日蓮系は、幕府の宗教政策により

法華経の本門と迹門に勝劣ないとする一致派と

勝劣があるとする勝劣派に

大別総括されることになった



但し一致派といっても、あくまで

“本門に立脚すれば本門と迹門に差がない”という立場である



諸派のほとんどが一致派で

一致派は明治から大正期になると日蓮宗を公称し

身延山を総本山とあおぐようになった



一致派各寺院は、ときに日蓮宗(身延山)より離脱したり

再び身延派に加わったりしていたが


戦時中、政府の宗教政策で完全に統合

戦後は、離脱も多かったが


昭和47年に、戦後に離脱した

中山妙宗(法華経寺)など各派が、身延派(日蓮宗)復帰している




一方、勝劣派は、

浜門流と富士門流が勝劣派だったが

のちに浜門流は身延派に転じている



勝劣派はのちに分かれて


現在、日蓮正宗の他


本門法華宗(日像の流れの日隆が祖。法華宗本門流)


法華宗真門流(日像の流れの日真が祖)


法華宗陣門流(日朗の弟子日印の孫弟子の日陣が祖)


本門仏立宗


顕本法華宗などがある



このうち、本門法華宗、法華宗真門流、法華宗陣門流は

大戦中に合同させられたが、戦後に再び分かれている


本門法華宗の日隆、法華宗真門流の日真

法華宗陣門流の日陣は室町期の人




本門法華宗は、明治になって日隆の流れを汲む諸寺が合同し

日蓮宗八品派(はっぽんは)として勝劣派より独立し

のちに改称して本門法華宗となったという


八品派とは、日蓮の観心本尊抄に

“是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る”

とあることから


法華経の第15品より23品に至る8品に

日蓮の正意があると主張する

ところからきている




法華宗真門流、法華宗陣門流は、如来寿量品を日蓮の正意とする点で

日蓮正宗と同じだが、釈迦を本仏、日蓮を上行菩薩の再誕とする点で

一致派や本門法華宗と同じである


なお「本能寺の変」で有名な本能寺は、本門法華宗の大本山の1つ




本門仏立宗は、江戸時代末に八品派から分かれて仏立講を開き

明治初期に至るまで活躍した日扇(長松清風・ながまつせいふう)を祖とする


当時、八品派に、地獄・餓鬼・畜生は成仏できるかできないか

というきわめて低劣な論争がおこり


清風は仏立講という在家者の講を開いて独立


地獄、餓鬼、畜生の衆生(三途・さんず)は

成仏できないという三途不成仏論を立たが、破折されたという



本門仏立宗の信徒は、日蓮の十界曼荼羅ではなく

日扇があらわしたという

金丸曼荼羅(金丸の中に南無妙法蓮華経と書かれている)と

日蓮の坐像を仏壇に祀り

拍子木をたたきながら唱題(南無妙法蓮華経を唱える)する


在家運動が盛んなことから、むしろ新興宗教に分類されることが多い




顕本法華宗は、一品二半宗(いっぽんにはんしゅう)ともいい


如来寿量品(第16品)の一品と

従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん・第15品)の後半部と

分別功徳品(第17品・寿量品を聞いた菩薩たちが得る功徳を説いた章)

の前半部を

日蓮の正意だと主張する



これは観心本尊抄に


“一品二半よりの外は小乗教・邪教・

未得道教(みとくどうきょう・成仏の道を得られない教え)・

覆相教(ふぞうきょう・真理を覆い隠す低い教え)と名づく”


“一品二半此れは但(ただ)題目の五字なり”とあることからである




顕本法華宗は、比叡山で学んだ天台僧で

晩年に日蓮の御書を読んで中山門流に改宗


のち中山門流から独立した日什(にちじゅう・室町初期)を祖とする



明治期には、本田日生(にっしょう)が出て

本尊雑乱撤廃、本尊統一を主張したが


日生のそれは、日蓮の曼荼羅本尊への一本化ではなく

極端な釈迦本尊論であったという


なお顕本法華宗は、戦時中は、身延派と合同している




ちなみに、総本山の妙満寺

〔京都市左京区。日什が京都布教の拠点として開創〕

27世の日経(にちきょう)は

「慶長の宗論」で耳と鼻をそがれている



【 慶長の宗論・・・・ 

1608年、日経が尾張で浄土宗を批判したことから幕府に訴えられ

江戸城で法論対決を命じられた

しかし日経は前夜に暴徒に襲撃され、十分に応答できずに敗北


翌年、京都で弟子とともに耳と鼻をそぐ刑に処され

家康は、日蓮宗諸本寺に、念仏無間地獄の文証なし

という確認書を提出させた 】




勝劣派の代表である日蓮正宗は

明治以後、六老僧の1人 日興(にっこう)流れを汲む

大石寺〔静岡県富士宮市。地頭の南条時光の外護により

日興が創建。日蓮正宗の総本山〕や


京都の要法寺(ようぼうじ)など

富士、京都、安房、伊豆の8つの本山が

合同して日蓮宗興門派となったことにはじまる



【 要法寺… 日蓮、日興に続く日蓮正宗3祖の日目(にちもく)が

京都へ諫暁〔かんぎょう・諫(いさ)め、暁(さと)すこと〕に向かう途中

美濃で没し、弟子の日尊が遺志をついで上京、後醍醐天皇に天奏

上行院を建立したのに始まる 】



これが本門宗と改称


翌年の明治33年、大石寺が離脱して日蓮宗富士派を名乗り

のちに日蓮正宗を公称している



なお、大石寺のぬけた本門宗は

戦時中に、政府の宗教政策により日蓮宗に合同している


このうち、要法寺は戦後、日蓮宗より独立して日蓮本宗を名のっている



大石寺(日蓮正宗)は、身延派など比べると弱小派だったが

講(信徒団体)の1つであった創価学会が巨大化するに従って
日蓮系の代表の1つとなっていった




大石寺や創価学会が、他の勝劣派と違うのは

他の勝劣派が一致派と同様に、釈迦本仏の立場をとるのに対して

日蓮本仏を主張するところにある








三大秘法



以上とは別に

新興宗教の仏教系は、ほとんどが日蓮系です


〔 念仏、禅については知りません

あったとしても小さな小さな団体でしょう


密教系も、真如苑、阿含宗くらいしか知りません 〕




日蓮系は、創価学会の他に


霊友会系(霊友会とその分派

日蓮仏法と先祖供養を結びつける)がそうです


立正佼成会は、霊友会系最大の教団です




日蓮系では「日蓮は、釈尊の真意は1つのはずなのに

どうして様々な教えが存在するのか」と疑問を抱き


「法華経こそが釈尊の真意である」と知ったという話がよくなされます


すると日蓮の真意も1つということになるはずです


ところが、日蓮を信奉する集団こそ複雑に分裂し

迷走、怪奇の状態とあるのです







創価学会では


第三代会長 池田大作氏 を破門にした

67世 日顕(にっけん・1979~2005)を「極悪」


日蓮正宗を「日顕宗」

(日蓮正宗でなく日顕宗である)とし


法主の日顕をはじめとする

日蓮正宗の僧侶の堕落を攻撃することで

信徒を統率してきたわけです



それまでは

「日蓮正宗だけが日蓮の正しい法を伝える

唯一の血脈で、身延が一番悪い」

という信徒に教えていました


池田氏が破門されると

今度は、一番悪い存在が、日蓮正宗にすり替わったわけです(笑)






創価学会が巨大化したのは

第二代会長 戸田氏、三大会長 池田氏に

それだけ宗教家としての能力があったからです


そして大石寺は、学会のおかげで興隆したのです



もっと言えば、池田氏の言葉に心酔する

創価学会員が布教のおかげで

大石寺はいい思いができるようになったのです




池田氏にしてみたら

その恩を忘れて、自分を臣下のように扱う大石寺がおもしろくないし


大石寺も、いい思いできているのは誰のおかげかを悟らないので

従来のようにコントロールが効かなくなってきた池田氏がおもしろくない



こういったことが、分裂のきっかけであったと言えるでしょう





その象徴が「正本堂」です



正本堂は、建設資金(355億3600万4309円)は

主に創価学会員からの寄附金でまかなわれ、創建されましたが


創価学会を破門した日顕は

これを50億円かけて解体しています(笑)





ウィキペディアよると

【 池田大作が正本堂を

「宗祖日蓮大聖人の御遺命の戒壇(三大秘宝抄)」だと見なし

宗門側にその定義の受け入れを求めたが


宗門トップの法主66世細井日達(大石寺内の堂宇の管理責任者)は訓諭で

「三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇

(=正本堂は広布途上における殿堂=事の戒壇常在義と

未来広布の義が円融一体となって本門戒壇に備わる)」と意義づけた


正本堂の正当な管理者たる日蓮正宗のトップによるこの裁定を

創価学会側が渋々受け入れるしかなかったことが

後の創価学会破門処分の一因となった 】

とあります




要するに、池田氏は、正本堂こそ

日蓮が言っている「本門の戒壇」であることを認めて欲しかった


しかし、当時の法主 日達は

広宣流布(日蓮仏法を広める運動)途上における殿堂(戒壇)とした

ということです



 正本堂   ウィキペディアより




また、創価学会・公明党の

「政教分離」に関わる問題から


有識者のあいだに


「日本の広宣流布を達成した暁の『本門寺の戒壇』とは

国家が直接関わる、憲法の政教分離原則に違反した

国立戒壇となるのでは」という批判が起こったといいます




これに対し日達法主は

「国立戒壇とは明治時代に出来た概念で

国威発揚を国是とする世相の中で便宜的に仮に使用したが


日蓮正宗の教義とは本来関係が無いことなので

誤解を招いて布教の妨げとならぬよう、今後は使用しない」


との見解を表明し、事態の収束を図った

そうです





これに対して当時、大石寺の一信徒団体だった妙信講は


「広宣流布の暁に建立される本門事の戒壇は

あくまで国家が建てる国立の戒壇でなければならず


その建立の場所は

天母山(あんもやま・富士宮市北部の標高491メートル)である」

と独自の主張を展開して、学会(創価学会)と宗門(大石寺)を批判


正本堂が完成した1972年秋には

落慶法要阻止を画策し、学会と抗争


74年(昭和49)に解散処分という形で破門されています



この妙信講が

顕正会〔冨士大石寺顕正会・設立者は浅井昭衛(しょうえい)〕

の前身です






なお、ウィキペディアによると

国立戒壇についての創価学会の立場は


【 第2代会長戸田城聖が就任した直後の1950年代前半には

「王仏冥合」「国立戒壇」を目指し、その実現を主張していた


戸田は自ら筆を揮っていた機関誌『大白蓮華』の巻頭言で

「化儀(衆生を教化すること)の広宣流布とは国立戒壇の建立である」

と述べていた


ただし同時に、「未来の日蓮門下に対して

国立戒壇(本門の戒壇)の建立を命ぜられたものであろう」とも述べ


戒壇を建立する主体はあくまで日蓮門下であって

権力たる日本国政府ではないと明言している 】



とあります





そもそも三大秘法とは


日蓮の御書の三大秘法抄にある


本門の本尊(日蓮の顕した曼荼羅)

本門の題目(南無妙法蓮華経)

本門の戒壇(曼荼羅本尊を安置する場所)

ですが


本門の戒壇の場所を日蓮は定めていません





本門の本尊については


日蓮正宗・創価学会では「熱原の法難」をきっかけに

1279年(弘安2年)10月12日に

日蓮が「出世の本懐」(生まれてきた本当の目的)として作成した

「弘安2年の大御本尊」を指すとしてきました






●  熱原の法難



駿河国の熱原(静岡県富士市厚原)で日蓮門下が受けた法難


日蓮は身延にいて

駿河方面は、弟子の日興が中心となって弘教を進めていた



熱原・滝泉寺(天台宗あるいは真言宗)の

院主代 行智は


同寺に在住している僧で、日蓮に帰依した日秀・日弁らと

同地域の信徒を迫害した



弘安2年には、代官に働きかけ

4月の浅間神社の祭礼の時に

滝泉寺信徒の四郎男(しろうなん・四郎の息子)を傷害し


8月には弥四郎男(やしろうなん・弥四郎の息子)を斬首し

その罪を日蓮に着せようとした




さらに9月21日には、熱原の農民信徒20人が

刈田狼藉(かりたろうぜき・他人の田の稲を不当に刈り取る行為)

をしたとの無実の罪を着せられ、逮捕、鎌倉に護送される



行智は「日秀らが人数を集めて弓矢をもって

院主分の坊内に乱入し、農作物を刈り取って日秀の住房に取り入れた」

などという訴状をつくった



取り調べは

平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのしょうよりつな・

鎌倉幕府8代執権北条時宗・9代執権北条貞時の執事で

日蓮を迫害した)が行い


信仰を捨てて念仏をとなえるよう強要した



また、平左衛門尉頼綱は十三歳の子息に命じ

蟇目(ひきめ)の矢によって、神四郎等を責め立てた


射ると、笛のように音を鳴らして飛ぶ蟇目は

天魔退散に効果があると信じられていたので

魔を調伏(ちょうぶく)しようとしたという


しかし、みな、題目を唱えてやめることがなかった

退転する者はいなかった


やむなく中心者の神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟を斬首し

残りの17人は追放処分にした





日蓮は、権力の迫害に屈しない熱原の信徒の姿を知り

「聖人御難事」を著し「出世の本懐」を遂げたとしています



これまでの法難は

日蓮自身の身におきた法難(伊豆や佐渡への流罪など)

でしたが


熱原の法難とは、弟子に対する法難というところに違いがあります




そして、この熱原の法難を期に


日蓮が「出世の本懐」として顕した

大石寺所蔵の「弘安2年の大御本尊」(縦約143センチ

横約65センチの楠木製とされる板曼荼羅)こそが


「一閻浮提総与(全世界の人々に与える)・三大秘法の大御本尊」

であるというわけです



なお、それ以前にも、日蓮は、曼荼羅本尊を書いて

弟子や信者に与えていたとされますが


それらは、たとえ日蓮の直筆であっても

一機一縁の曼荼羅(各個人に与えた本尊)にすぎないとし


これに対し、一閻浮提総与の大曼荼羅は

全世界の衆生を成仏させる功力をもつ曼荼羅本尊である

と定義をしています




但し、日蓮宗などの他の宗派ではこの解釈を認めておらず

板本尊自体も後世の作としています


(同本尊は日蓮が孫弟子・日禅に授与した本尊を模刻して

後世に作成されたものとの説が出されている)





創価学会でもつい最近まで

「弘安2年の大御本尊」を「本門の本尊」としていました




創価学会の会則の改正について

2014年11月8日付け 聖教新聞より抜粋


【 当時、宗門との僧俗和合時代に信仰実戦に励んできた

会員の皆さまの感情や歴史的な経緯を踏まえ、

この「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」については

「弘安2年(1279年)の大御本尊」を指すとの説明を行っていました

それを今回、次の通りにいたします




【 末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が

御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は

全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現したものであり

等しく「本門の本尊」であります

そして、「本門の本尊」に唱える南無妙法蓮華経が

「本門の題目」であり、その唱える場がそのまま「本門の戒壇」となります 】




本門の戒壇については、早くから

御本尊(創価学会より授かる)を安置した場所のすべてがこれにあたり

各自の家の仏壇も、本門の戒壇であると言っていましたが


本門の本尊もそうなったということです




要するに


【 腐敗した宗門には、すでに日蓮の血脈はない


日蓮の教えに従い

化他行(けたぎょう・他者を教化すること)

=利他行=折伏(しゃくぶく)を実践している

創価学会員の皆様にこそ血脈があるのである


なので、大石寺なんかには

「本門の戒壇」も「本門の本尊」も存在せず

学会員一人一人の家にこそあるのです 】


という話なのです




なお、創価学会が入信した者に授ける御本尊というのは

大石寺の歴代の法主が、日蓮の一閻浮提総与の曼荼羅を

書写した曼荼羅のコピーでしたが



日顕より破門されたとき、会員に授けた日顕の曼荼羅を

「不幸になる」と言って全て回収し

焼き捨てています (日達のものは回収していません)



その後は、26世日寛(1665~1726)の板曼荼羅のコピーに替えています



コピーでも功力があるのか?


これについては

お札がコピーでも使えるのと同じ原理らしいです






だいたい「三大秘法」ってなんなのですか?

秘法というと密教みたいですが(・_・?)


答えを言いましょう


「事の一念三千」の内容が

三大秘法ということなのです





日蓮を考察する ①




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