緋山酔恭「B級哲学仙境録」 自由とは?



B級哲学仙境論


自由とは?


 




自由とは?




大学入試 現代文キーワード 読解と小論文 500 改訂版

伊原勇一編著 (桐原書店)に


≪自由=思うどおりにすること≫と定義し


≪ 自由と「わがまま」とは混同されやすい

自由は、本性との関係において生じる問題である

(中略) 

見方を変えれば、他者を支配し拘束する行為は自由の敵であり

自由を実現するためには

他者が自分の思いどおりにならなければならないということである


つまり、自由は、自己と他者とのバランス・関係そのものだといえる


そのバランスが失われ、一方的な自分の自由を押し通そうとしたとき

「わがまま」となる


自由が絶対的なものだと考えるなら

自己と他者はめざすものも拘束されないところも

同じように保障されなければならない ≫ とありました





「他者を支配し拘束する行為は自由の敵」( ̄▽ ̄;)?



「自由を実現するためには

他者が自分の思いどおりにならなければならない」

可笑しいですよね



この話の根本的な誤りは

≪わがまま≫とは

ある個人の≪自由≫に対する別の個人の「評価」(価値判断)

だということを理解していないことです



つまり、≪わがまま≫とは

ある個人の≪自由≫という権利=価値 について


別の個人の中に≪反価値≫(反感・反発)が

生じたときにおきる感情であり、概念であるということです



まぁ、自分でも自分の勝手(=自由)すぎるふるまいを

≪わがまま≫と感じるときもありますけど・・・・


また、女の子の≪わがまま≫なんかは「可愛いな」と思ったりもします

そんな≪わがまま≫は「価値」になることもありますが・・・・




この本の話の誤りは

自分の評価(価値判断)としての≪自由≫と

他人の評価(価値判断)としての≪わがまま≫を

ごっちゃにしちゃって論じているところにあります


つまり別次元のモノをごちゃまぜにしちゃっているわけです





では「自由」とはなんでしょう?


結論をいうと

≪自分の意志や欲求が尊重され、実行できること≫です




≪自由≫と≪わがまま=放縦・放漫≫との違いは

責任や管理という裏付けがあるかないかの違いですね


≪自由≫というのは、責任や管理という

裏付けのもとにつくられた「概念」です



例えば、経営者は、雇用契約に違反しない限りにおいては

従業員を束縛する「自由」をもちますが


約束した期日に賃金を支払う「責任」を負います



夫婦は子供をつくるのは「自由」として認められていますが

ちゃんと育てる「責任」を負います



つまり、人間は、社会(国家・会社・家庭など)の中に存在します


自由は、その中で発動されるものであり

社会の秩序をみださないという≪責任≫のもとに許されている

「権利」であると言えます



人は、権利や自由を手にするために≪主張≫をします


そして、それにより権利や自由を得るということは

何らかの義務や責任から逃れられる代わりに

別の何らかの義務や責任を負う必要が出てくるということです



「あの山は登山禁止になっているから登っちゃダメだよ」 →

「いえ僕は登ります」 →

「それならあなたの自由だけど、自己責任で行ってくれ」

というのがそうですね





また、自由になるには

経済力、生活力、仕事に関する能力、体力

思考力、精神力などの「力」が必要ですが

力を暴走させてしまうと「わがまま」と判断されてしまいます


だから、自由とは

≪管理≫という裏づけのもとに成り立つ概念であるとも言えます







また、種間競争を勝ち抜き

他の種に対して、好き勝手してきた人間


他の動物を食用に改良したり

檻に閉じ込め見世物にしたり、絶滅に追いやったりしてきた人間



これほど自由な存在はないです




ただこういう見方もできるんじゃないですか


カブトムシは力にまかせて

自由に樹液のある場所を取り合うことが許されている


彼らは自然の秩序に縛られてはいるけど、それ以外は全て自由といえる



これに対し、人間は、1つの力を用いるにも

たくさんの決め事、ルールに従わなければならない


そうしなければその力は≪暴力≫と判断されてしまう


そういう意味では、高度な社会生活を営む我々は

そもそもが不自由な存在ともいえる





また、私たち人間は、科学の力によって

寒さを避けたり、暑さをしのいだりと

自然環境による束縛にすら対抗できます


その分、他の動物たちより、自由だといえます



そうなると≪自由≫という概念は、絶対性ではなく

相対性(他との関係・比較)のもとに成り立っているといえますよね







それから、≪自由≫の反対は、≪束縛≫だと思われていますが

これも一概には、言えません



自由であることに、人は幸福感をおぼえます

当然ですね


自分の意志が、尊重され、実行されているからです




ある女性が、友人の女性から

「あなたの彼って、束縛が激しくて大変ね あなた自由がなくて辛くない?」

と言われたとします



しかし、束縛や、依存というのは

男女間の「愛」の要素であることが多く

その人にとって、楽しい場合もあります



なせ楽しいか?

もちろん

束縛されたいとか、依存していたいとかいう

自分の意志、欲求が

尊重され、実行されるからです



つまり、束縛されていても自由というか

束縛されているからこそ自由というのもあるわけです







価値論でこのように↓書きました



【 創価学会の新聞を毎日新聞が印刷している世の中

言論の自由なんて「嘘」の世の中…



肉を食べれば、家畜の飼料として穀物が多く必要となり

飢餓が増えることを知りつつも毎日、肉を食べ

多くの人を殺している私たち…


これは、家畜を食べているというのではなく

我々先進諸国の人間が肉食獣として

草食獣の発展途上国の人間を食べているのと同じです



それにコンビニのお弁当を食べるたびに

分解しにくいプラスチックを廃棄し

地球すら破壊しようとしている私たち・・・

全てのことが「お金」の世の中…



そんな上に私たちは

「人権」だとか「尊厳」だとか「正義」だとかいった

バーチャルな世界、言葉の世界をつくり上げ

その上にのっかって生活しているのです


つまりゲームの世界だけでなく

現実と信じている私たちの世界そのものがバーチャル

仮想現実の上にのっかった現実なのです 】





i人間の世界は言葉の世界ゆえに

あらゆる存在が、言葉の世界にひきずりこんで

≪思考の自由≫を束縛しようとしてしてきます





そこで、≪自分でちゃんとものを考えて生きていく≫

ことこそが、人として、≪真の尊厳≫であり、≪真の自由≫である

と定義してみましょう



すると、その≪真の尊厳≫なり、 ≪真の自由≫なりは

言葉によって容易に束縛され、剥奪されてしまう

ということなのです



そのような人間の世界において

≪思考の自由≫を確保して生きていくには

どうすればいいのでしょうか?




それには

言葉1つ1つを吟味しつつ

生きていくしかないのです




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