個性とは? ゆとり教育の代名詞となったのが「個性」ですね ゆとり教育=個性を伸ばす教育 みたいに・・・ しかし、これが失敗に終わり、個性を伸ばす教育なんて 間違いだったとされました すなわち≪学校というのは、学力をつけるための機関であり 個性や創造性なんていうのは 成長し、色んなことを経験して、はじめて育まれるものである≫ などとされるに至ったわけです それはともかく そもそも「個性」ってなんぞや? ということになると これが大学教授なんかの知識レベルでも 様々なことが語られていてよく判りません 養老孟司は東京大学名誉教は およそこのように↓言っておられます 【 日本人は個性は身体ではなく心だという独特の日本思想をもつ しかし個性とは心の問題ではないと結論する 日本の古典芸能(芸事)は、師匠のまねをするという 身体性への感覚評価が如実に示されている まね自体が不可能な点の先が個性である 修練された芸は「身に付く」、身体に付属するのである その意味で、教育とは「体育」である 遺伝子の組み合わせで言えば どの個人も宇宙で全く一人しかいない 個性とはそれで十分である 】 要するに、他の識者たちが論ずるところの 「個性なんていうのは、学力をつけてからだ!!」 「個性や創造性を育むなどといった教育なんてムダだ!!」 という話を ≪教育とは「体育」である≫という 言葉を用いることで、印象的に語っているのです フランスの現象学の哲学者 モーリス・メルロポンティ(1908~61)は ≪身体の感覚的経験は知に回収しきれない原初的なものである ≫ ≪習慣の獲得は身体の図式の組み替えであり 知性に関係しない意味の把握であり、身体が新しい意味と同化したとき 習慣が獲得される≫ と述べていますが 養老教授の≪教育とは「体育」である≫という話は 学問する習慣を身体に覚えこませる 考える習慣を身につけさせる ということなわけです ウィキペディアに「個性」とは ≪他の人とちがったその人特有の性質≫ とあるように 一般的な考えでは 性格とか、身体的な特徴や能力 と理解されています ここからすると養老教授の話に対しては 「性格やものの考え方って個性じゃないの?」 との疑問が浮かびます 個性心理学という分野では 「個性」とは、後天的な習慣や環境によって形成されるものでなく その人もって生まれた一生変わらない本質 と考えるようです この考えに対しては、人と接していく中で培われた 人格やコミュニケーション力なんかは、個性ではないのか? 後天的な個性もあるのではないか? という話にもなりますが あくまで個性心理学という分野では 個性とは、固定的、不変的な自己の本質 くだけていうと ≪もって生まれた命の傾向性≫ということになります 「資質」という言葉に似ていますね 「資質」を辞書で引くと、生まれながらに具えた性質とあります 「資質を高める」といいますが 同様に、個性の場合は「個性を伸ばす」とか 「個性を磨く」とか「個性を鍛える」とかいいます つまり、個性も資質や人格と同様に 絶対的なものではなく高めてゆくことができるということです すると、固定的、不変的な個性が、変化するっておかしくない? という話になります それはおそらくこのような↓ことだと思います 【 もともとよく人と親しむ「命の傾向性」を持つ人がいて 色んなことを勉強したり経験したりしたことで その傾向性が、より他者との関係において円滑に発揮されるようになった それにより人脈を広げ、社会的に成功を収めることができた 】 命の傾向性自体は、固定的、不変的であり これが個性心理学でいうところの個性ということなのでしょう 一方、養老教授のいう 『まね自体が不可能な点の先が個性である』とは こうした「鍛錬の上に獲得した特異性」 「鍛錬の上に成就した差別性」 くだけていうと「磨かれた個性」をいうのでしょう しかし、まね自体が不可能な点の先が個性である というのを教育論として語るとどうですか? 例えば、その学年に必要な学力を10としましょう このとき15とか、20レベルに達している人には個性があるが 7や8にとどまっている人には個性はないという話にもなります すると、できるのが個性なら できないのもまたその人の個性じゃないのですか? 「得手」(特技)が個性なら、「不得手」も個性ではないのですか? 『まね自体が不可能な点の先が個性である』という個性とは 「自ら称賛できる」とか「他者から称賛される」 といった条件つきの つまり限定された個性じゃないんですか? という反論もできます これを補うためなのでしょうか? 養老教授は、≪遺伝子の組み合わせで言えば どの個人も宇宙で全く一人しかいない 個性とはそれで十分≫と 全ての人間に個性はあるような話をつけ加えています この「宇宙で全く一人しかもたない個性」とは 性格とか身体的な特徴や能力とかいった 一般的な理解の「個性」です これをつけ加えたということは 自ら主張した個性についての「定義」をあいまいにした ということです また性格とか身体的な特徴とかいった 一般的な理解の「個性」をいうなら 養老教授のような精神と身体を立て分ける理論より 仏教の「色心不二」のほうがストンと落ちます 【 色心不二・・・・ 生命の物質的側面と精神的側面は、2つにして2つにない 切り離せない 一体であるということ 例えば、病気で熱があれば、心も不安となり 心に不安があれば、表情も暗くなるなど 気が張っていると、免疫機能が活発となり 身体が疲労していても、風邪をひかない というのも 色心不二をよく示している 】 「生命」とは 心と身体の一体不離的な全てをいうのであり 「個性」とは、心だけとか、身体だけとかいうのでなく 生命全体に対しての概念であることは明らかです 養老教授の他には およそこのような↓「個性」に対する理解が語られています 独自性=他者とは異なること ではなく 自分らしさ(オンリーワン)こそが「個性」 であるとか 人間性や人格こそが「個性」 であるとか また、個性とは志であり生き方 であるとか なかでも、とりわけ多い話が 「優しさ」や「誠実さ」も個性である というものです 独自性=他者とは異なること ではなく 自分らしさ(オンリーワン)こそが「個性」については ≪他者とは異なることではない≫というけれど 他者と比べないと「自分らしさ」なんか認識できないですよね(笑) つまり 独自性=他者とは異なること と 自分らしさ とは一緒でしょ ということです 「個性の強い作品」とか 「仕事に個性を生かす」と表現されたときの 「個性」とはあきらかに独自性=自分らしさ です 一方「個性の尊重」という個性は 「人格」や「人間性」という言葉に近いのかもしれません 個性を「その人のもって生まれた一生変わらない本質」 と定義した場合 不変性、絶対性をもつわけですから 「その人の『真理』である」と表現してもよいでしょう これに対し、「個性とは志であり生き方」となると 「人生観」とか「倫理観」といったものと同質になります つまりこれは『価値』(個人にとって必要なコト)です 1+1の答えが永遠に2であるように 真理は永遠性と絶対性を持ちますが、価値にはそれがありません 価値というものは、ある絵を観て「美しいなぁ」と感じても もっと美しい絵を観たら、前の絵はそうでもなくなる といった本質をもちます また、価値は創造できますが、真理は創造できません また、必ず人にはいいところ=長所がある 個性は、原則として、長所だけである 個性を伸ばす生き方こそが、人間らしい生き方である という考えも広いです この考えからすると「個性」とは 他者との違い というのではなく 優越・劣等のうちの 優越性 だけとなります この話もなにかストンと落ちてきません 逆に、武田邦彦中部大学総合工学研究所特任教授は 優越性は、個性にも入らない 個性というなら、他者とのちょっとした違いである 生きるということに、個性(優越性)などいらない 生きること自体が生物の価値である と言っています https://www.youtube.com/watch?v=vmi6jwy187U&t=248s しかし、人間にとってホントに「優越性」っていらないの? という疑問が湧きます 人間の世界は、優越・劣等の世界です 例えば、女性は 常に、オンナとしての価値を評価されています 「あいつはブスだ」とか 「まぁまぁじゃねぇ」とか「あいつとやりたい」とか・・・・ そんな優越・劣等の世界だからこそ 優越って必要ではないですか? ということです 1つ前の話に戻ると 個性(=長所=優越性)を伸ばす生き方こそが 人間らしい生き方である 人間はそのように生きるべきである という話にストンとこないと言ったのは 個性=長所=優越性 という定義が 正しいとか間違えとかいうのではなく また、武田教授のように 個性(優越性)などいらない 生きること自体が生物の価値である といったことでもなく 「そのように生きるべき」などと教育しなくても 人間は、本然的に(もともと・生まれながらに)、優越性を求め そのように生きているているからです また、日本人は 個性的な人が少ない と言われます みんなと同じでないと不安になってしまうとか・・・ そこで学校では「個性を大切にしろ!」 みたいな事を教てきたのではないでしょうか? このときの「個性」とは「長所」でなく「主体性」です 私は、教育論なんてものには興味がないので あてずっぽうではありますが ゆとり教育、すなわち 「個性を重視し、自ら学び自ら考える教育」の 「個性」とは、そもそも「長所」というより 「主体性」という意味合いが強かったのではないでしょうか? ゆとり世代の子供が 社会人となって自分がやりたいことが制限されると つまり主体性が否定されると ストレスでへんなことになっちゃう なんて話も聞くので 主体性を伸ばす教育が 正しいかどうかは私には判りません また「あの人は自我が強い」と嫌われる「自我」とは およそ「自己愛」とか「強欲」であり ふつうはそういうものを含めて 「あの人は個性が強い」と言うので その意味では、個性は、長所に限定されてはいません これは自分の評価においても同じです 「自分は運動神経が悪い」とか 「自分は口べた」とかいったコンプレックスも 自己の個性の一面ととらえているのがふつうです つまり、個性=「人格」や「人間性」ととらえて コンプレックスもその一部と考えるわけです 一方、個性を「長所」のみ あるいは養老教授のように 「鍛錬の上に成就された特異性」という立場では 「口べた」は個性でない ということになります たとえ口べたであっても 他者とのコミュニケーションの中で、磨かれて 味わいのある話や、重みのある話ができるようなって 初めて、個性となる おしゃべりの人より信用され、尊重されるようになって 初めて、個性と言える ということになります それから、自分で宣言して「個性」となる「個性」もあります 例えば「自分は運動神経が悪い」とか「自分は口べたである」 とかいった程度のコンプレックス、マイナス面であれば 他人は「それもあの子の個性だよ」と認識するでしょうし 自分でも「自己の個性の一面」ととらえることができます しかし、足がなくて生まれてきたとか 目が見えずに生まれてきたとか 女の子ならよほど醜く生まれたとかいったことは 本人にしてみれば「欠陥」や「不幸」であって とても「個性」として受け入れられることではありません また、他人にとってもそれは「欠陥」や「不幸」です 「それもあの子の個性だよ」なんて 軽々しく口にすることは、はばかられます ところが1歳9ヶ月のときに原因不明の熱病かかり 目も見えず、耳も聞こえず 言葉も話せない「三重苦」となったヘレン・ケラーは 「心の仙境(ワンダーランド)においては 私は他の人と同じ自由をもつであろう」と語りました 〔「わたしの生涯」岩瀬武夫訳、角川文庫 〕 これは「三重苦、それは、私の個性です」 と語ったことに等しく、いわば彼女の人権に対する宣言です すると他人にとっても、彼女の三重苦は 欠陥や不幸でなく、彼女の「個性」であると認識されるのです 【 ヘレン・ケラー(1880~1968)・・・・ アメリカの社会福祉教育家、著述家 ハーバード大学附属のラッドクリフ女子大学に入学、優秀な成績で卒業 40数年間、アメリカ国内をはじめ世界各国で講演(数千回) とくに視聴覚障害者の福祉を訴えた 日本にも3度来ている 彼女が訪れたことをきっかけとして その国に視聴覚障害者のための多くの社会福祉事業が生れている 著書も障害者はもとより一般の多くの人たちにも読まれた 】 さらに、美人や可愛い女性の ちょっとした我儘や高飛車な感じは 男性の狩猟本能をかきたてる対象となるから 彼女の「個性」とみなされ ブスのそれは「ブスのうえに性格も悪い」とされたりします これは、個性が男性の狩猟本能によっても決定されているという事実です ゆとり教育の失敗から 「個性や創造性を養う教育なんて間違っていた!」 と言われてます ホントにそうでしょうか? ≪創造≫とは、主体が なんらかの資源との関わりにおいて 新しいモノやコトを創作することですよね では「創造性」と「個性」とを 同じ次元に考えた場合どうでしょう? すると創造性とは 新しいモノやコトを創造するばかりでなく そこに自己を表現していく=個性を体現していく それによって自己を実現させていく ということなります よく「奇抜性は個性とは違う」 「髪を金髪に染めたり奇抜なファッションをしたりするのは 個性の表現でない。目立ちたいだけ」とか言われます しかし絵画の世界においては 「奇抜」で「不快」すら感じさせるピカソや岡本太郎の作品が 個性的な芸術として認識されています そこで、養老教授にお聞きましょう 先生は、まね自体が不可能な点の先が個性である と言っておられますが 他人の奇抜な自己表現に対して いったい誰が、「まねのできない磨かれた個性」と決めたり 「目立ちたいだけの幼稚性」と決めたりできるのですか?(笑) 武田邦彦教授は 個性と大衆についてYouTubeで、語っています https://www.youtube.com/watch?v=UYvv_CHIbPU しかし、個性が貴族だけにあって、農民にない なんて論理は、おかしくないですか? ということになります 確かに「自分」の世界とは ≪自分の知識や経験で ものごとをみてしまううパラダイム≫と ≪常識や人気・しきたり・しがらみなどで ものごとをみてしまう世間のパラダイム≫とが 投影されたバーチャル的な世界であり 【個性】などと言っても、 その世界のおいてのことでしかありません しかし、それは貴族でも同じですよ(笑) 創価学会員を例としてあげましょう 創価学会員というのは みんながみんな仏教をちゃんと理解しているわけではありません 日蓮の教えすら 深く勉強している人は、せいぜい10人に1人 釈迦の仏教にいたっては皆無に等しいです これは私が学会で数年学びましたので、よく解っています つまり、ほとんどが 池袋大作さんにぶらさがっているだけのちょうちんです 【ちょうちん】 つまり一般の人からすれば 宗教の信徒は洗脳されていて 「個性」を持たない ということになります ところが、信徒の意識からすると 自分は使命に燃えていて 本来的な自分=真の個性 を顕現し 個性的に生きている と思っているのです このように「個性」といっても 他人が自分に対して評価する「個性」と 自分が信じる「個性」とは違うのです 信者からすれば 主にマスメディアなんかが作り出し、垂れ流している パラダイム〔ある時代の支配的な考え方やものの見方・ しきたりやしがらみ、常識や人気などといったもの〕 に依存し、洗脳させられて生きている 一般人のほうが「個性がない」と思っています 世間の人は、オウム信者なんか 「盲信」「頑迷」で、「個性がない」と信じていますが じつは、オウム信者のほうも 世間の人を「盲信」「頑迷」で、「個性がない」と見ていたのです 確かに、創価学会の信徒がいくら多いといっても 日本の人口の10%に満たないのですから パラダイムの上にのっかってしか ものごとをみれない大多数の世間一般人のほうが 「個性がない」と言われても、間違えとは言えないですよ(笑) ちなみに日本の仏教の場合 全ての人間には「仏性」(仏になる性質)が具わっている ということになっています なので究極的な個性とは、仏性を顕現し 本来的な自己を実現させたときに完成される ということになります そしてそれは、利他(他者の救済)をしていく 「使命」において実現される ということになるのです また、本来的な自己(究極的な個性=仏性)を顕現することで 成仏(仏の境涯に至ること)したり 解脱(輪廻転生から脱すること)したりすることが 人生の目的=使命 ということになるのです 原始仏典=パーリ語経典に 悪魔が釈迦に 「子ある者は子について喜び また牛(財産)のある者は牛について喜ぶ 人間の喜びは、執著するよりどころによって起こる 執著するよりどころのない人は、実に、喜ぶことがない」 と言ったのに対して 釈迦が 「子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う 人間の憂いは執著するよりどころによって起こる 実に、執著するよりどころのない人は、憂うることがない」 と答えていることが書かれています それから “[これはわがものである」また 「これは他人のものである」というような思いがなにも存在しない人 ― かれは〈わがものという観念〉が存しないから 「われになし」といってかなしむことがない” “人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ 自己の所有しているものは常住ではないからである この世のものはただ変滅すべきものである” “人が「これはわがものである」と考える物 ― それはその人の死によって失われる われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って わがものという観念に屈してはならない” “欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が もしも欲望をはたすことができなくなるならば かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ それゆえに、人はつねによく気をつけていて もろもろの欲望を回避せよ。舟のたまり水を汲み出すように それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り 彼岸(悟りの境地)に到達せよ” “なにものかをわがものであると執着して、動揺している人々を見よ ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである” “「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む 。しかしすでに自己が自分のものではない ましてどうして子が自分のものであろうか どうして財が自分のものであろうか」” “いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、 これが洲(す・インドでは雨期に河が氾濫すると 人々は中洲に避難することから仏典では心のよりどころに譬える) に他ならない それをニルヴァーナ(涅槃。安らぎの悟りの境地)と呼ぶ それは老衰と死との消滅である” とあります 〔以上は、NHKブックス中村元・田辺祥二著「ブッダの人と思想」〕 人間というのは、存在の根拠を求めています なぜなら、存在の根拠こそ、幸福の根源になるからです 釈迦という人は 自分では「仏教」なんていう教えや「教団」なんかつくって それを、自分の根拠にしています 自分の根拠とは 救済原理〔自分を成り立たせている根源的な論理〕であって 執着そのものです なのに他人には「執着はダメである」とか あるいは「私(釈迦)の教説を あなたの根拠、救済原理にしていきなさい」 などと教えていったのです その意味ではめちゃくちゃな人間です(笑) 「私は仏教徒です」 「私はお釈迦さまを尊敬しています」などと語り 宗教に対して、いかにも理解が深いよう 世間に印象づけている有識者もいますが ホントの意味での 「釈迦の弟子」なんてそうやすやすとなれませんよ(笑) カトリック修道院では 農耕や酪農による自給自足を行ったのとは対照的に 仏教では、自分の生命を維持する手段としての労働 こうした労働による自活を「邪命」(じゃみょう)として否定します なので、初期の仏教徒は、乞食(こつじき)つまり托鉢 によって食を得ていたわけです アージーヴィカ教は アショーカ王(在位 前268~前232)の時代には 仏教・ジャイナ教と比肩するほど栄えていたとされますが アージーヴィカ教の信徒は 仏教からは「生活のために修行する者」という意味で ≪邪命外道≫と批判されています そもそも、釈迦の教えの根本は 執着をなくす → 苦が消滅する → 涅槃(悟りの境地) → 輪廻からの解脱 と信じ込まされていますが 本当は、輪廻転生からの解脱 という死後の根拠が 前提としてあって、成り立つのです(笑) つまり「死後の自分」の執着が前提として成り立っているのです もとオウム真理教の大幹部で 現在はオウムの後継団体の1つ「ひかりの輪」の代表 上祐史浩(じょうゆうふみひろ)氏が オウムに出家する際、母親にこう語ったそうです 「第三次世界大戦で核戦争がおきて、人々が焼かれるのを防ぐためにも 母さんのためにも 出家しなければいけない 僕たちが一生懸命修行したら、特別な変化がおこって 世の中が真理にもとづく平和になるんだ」 ≪第三次世界大戦≫ ≪特別な変化≫ ≪真理≫ ≪真理にもとづく平和≫ ≪救済≫ ≪使命≫ ≪人類愛≫ ≪世界の終末≫ ≪解脱≫ ≪宇宙の根本原理≫ ≪宇宙根源の法則≫ 宗教とは、こうのような 言葉のバーチャルな世界において 組み立てられた思考でしか ものごとを考えられない人間をつくるのです 宗教というのは 自分で、自分の根拠=個性 を創造できない人に 根拠を与えてあげる=幸福にする という側面があります 一方、その「幸福」の実態は 言葉で組み立てられたバーチャルな世界にひきずりこむ ということであり それによって ≪思考の冒険ができないようにする≫ = 個性をもてないようにする ことであるのです ここに、個性という言葉の矛盾や二面性が生じているのです 尊厳論で、このように↓書きました 酔恭 人間に尊厳があるなら サルにだって猿権(えんけん)という尊厳があるだろうし 犬にだって犬権(けんけん)という尊厳があるだろう という話になる(笑) だって、猿にだって、犬にだって、すずめにだって 地球を分割する権利はあるはずだからね 竜太 なるほど(笑) でも、サルには尊厳はないと思うよ 生命として生まれてきた以上 動物にだってこの世界で快楽や平穏を得る権利はあるとは思う だけど動物が生命維持や子孫を残すことだけのために 毎日の時間を費やしているのに対して 人間はそれだけではなく、自分の生き方を持っているでしょ たとえそれが他者からの洗脳による無知に根ざしたものだったとしても 「信念」を持って生きることができる 誇りを持って生きることができる (中略) 尊厳という概念が生み出された根源に “人間は生き方を持っている 信念を持って生きることができる 誇りを持って生きることができる” ということがあるはずだよ 「個性」を≪その人の生き方≫という意味に限定すれば 「個性」とは「信念」や「尊厳」という言葉と ほぼ同義ではないかと思います ≪自己実現している≫という意識は どのようなときにあるのでしょうか? それは、≪中心人物は、わたしである≫ という認識があるときですよね これが「主体性」「自主性」などと表現されているのです ≪自己の実現≫というのは 宗教に洗脳され 他者からみたら「思い込み」としか言いようがなくても 本人が、≪中心人物は、わたしである≫ 自分は、≪個性的に生きている≫と思えば それで実現されるのです 「主体性」や「自主性」の基盤には 抑圧された≪自己顕示欲≫の解放というのがあります これが解放されると、人は 「自分は、人間らしく生きている」 「個性的に生きている」と感じることができるのです 宗教は「他者依存」であって 「主体性」や「自主性」とは違うという意見も出ると思いますが 我々だって五十歩百歩です 価値論では、このように↓結論しました 創価学会の新聞を毎日新聞が印刷している世の中 言論の自由なんて「嘘」の世の中… 肉を食べれば、家畜の飼料として穀物が多く必要となり 飢餓が増えることを知りつつも毎日、肉を食べ 多くの人を殺している私たち… これは、家畜を食べているというのではなく 我々先進諸国の人間が肉食獣として 草食獣の発展途上国の人間を食べているのと同じです それにコンビニのお弁当を食べるたびに 分解しにくいプラスチックを廃棄し 地球すら破壊しようとしている私たち・・・ 全てのことが「お金」の世の中… そんな上に私たちは 「人権」だとか「尊厳」だとか「正義」だとかいった バーチャルな世界、言葉の世界をつくり上げ その上にのっかって生活しているのです つまりゲームの世界だけでなく 現実と信じている私たちの世界そのものがバーチャル 仮想現実の上にのっかった現実なのです 「主体」とは何かというと ≪自己の救済原理と一体の主体≫ ≪自己の存在の根拠と一体の主体≫に他なりません 人間は、この【主体】のもとに 価値を判断し、行動しているのです そして、この【主体】が 言葉で組み立てられたバーチャルな世界において 世界を認識し、価値判断し、行動している これが人間の世界です 武田邦彦中部大学総合工学研究所特任教授の 「生きるということに、個性などいらない」 という話をもうちょっと掘り下げましょう 日本の教育では 「個性が育たない」 と言われていますが 社会という観点からすると 主体性や自我が強い、つまり個性の強い人ばかりで 好き勝手なことを言っていたら 成り立たない面もありますよね 共産主義や宗教というのは 粛清や洗脳により徹底して「個性」を排除するのです そうしないと「独裁」なんて成り立ちませんから(笑) つまり、社会という観点からすると 「生きるということに、個性などいらない」 というのは間違えでもないのです 個性というのは 生き方においては「信念」として現れます それを前提に 武田教授がいう「生きていくのに、個性などいらない」という主張が 正しいのか? 誤りなのか? を、考えていきましょう 好きか嫌いかの価値判断の根底には何がありますか? 好き嫌いは、相手が自分にとって都合か不都合かとか 相手に対して自分が共感できるかできないかでおこりますよね とくに会社という組織では 相手が自分とって都合か不都合か また相手にとって自分が都合か不都合かが 人間関係の根幹をなしています 相手にとって自分が不都合なら いくら正しいことを言っても間違えとされてしまいます そこで生きていくため あるいは優位な立場を築くためには 正しいか正しくないかなど問題ではありません 相手に対して自分が都合か不都合かを 基準にしていくしかないのです 相手の考えに従うということは 自分の考えを押し殺すか 相手の考えに染まるかしかないということです ただ、相手の考えに染まることができるのは もともとたいした信念などない人 いわば個性のない人です こういう人は相手の言うことをそのまま信じればいい つまり自分を押し殺す必要はありません こうした信念をもたない人=個性がない人 が、上司になると なぜ自分の上司がそうしてきたのかとか そのルールにどのような意味があるのかとかを何も考えません ただマニュアルどおりにルールを守ること、守らせること それが、この人の正義となり、哲学となり、プライドとなり 尊厳となり、信念となり、いわば個性となるのです これに対してもともと信念がある人 いわばしっかりとした個性をもっている人は 相手の考えに染まることはできません そこで自分を押し殺す必要が出てきます そこに、前者(個性のない人)と、後者(個性のある人)では 生きていくことの≪辛さ≫に大きな差が生じるのです もともとたいした信念なんかない人と ものごとの本質が見えている人では 同じように相手に従うにしても、≪生きていく辛さ≫が違うのです 自分の考えを押し殺すとは 意志や信念を捨てるのではないにしても それを他人にゆだねるのです ただ意志を捨てたわけではないので 自分に害が及んだときには意志を示せばよいのです 害がない限りは、むしろなめさせておけばいいのです 人は自分よりも頭のいい人間を警戒しますから 警戒させないためにもなめさせておけばよいのです そして社会で、自分が優位な立場に立ったとき 相手を都合不都合の好き嫌いで判断せず 相手の考えが、正しいか正しくないかを 基準に行動していけるかどうなのか? ということになります もし、人間に、質の高い人間と 質の低い人間というのがあるとするのならば また、個性に、質の高い個性と 質の低い個性というのがあるとするのならば そんなところにあるのではないでしょうか? 言葉は、世界をもっています 「人間性」や「ヒューマニズム」を 言葉どうりに解釈すれば 汚職したり、他人を自分の手段として奴隷化する などといった悪いというか汚い部分も含むはずです しかし、≪人間性≫や≪ヒューマニズム≫という言葉からは 「優しさ」や「思いやり」や「愛」あるいは「思考」などといった 人間のもつ優れた部分ばかりが、イメージされてきます 「個性」というのも、こうしたたぐいの言葉であり 優しいとか、誠実とかいったものがイメージされるのは 個性という言葉に美しい匂いがあるからなのです いうならば、みんなこの匂いに誘われて 「個性」という言葉の定義を、あれこれと語っているわけです つまり言葉の世界で、言葉遊びをしているのです(笑) 人間というのは、存在の根拠を求めています なぜなら、存在の根拠こそ、幸福の根源になるからです 存在の根拠は、人によってそれぞれです 仕事、家庭、趣味、宗教、思想、容姿・・・ 「私は〇〇ラーメン店で麺打ちが一番早くできるAである」 「私は〇〇家の父である」 「私はこんな珍しいモノを持っているAである」 「私たちは神に選ばれた選民である」 「日本は神国」である・・・・ 人によって「救済原理」〔自己を成り立たせている根源的な論理〕 「存在の根拠」はさまざまですが それによって自分という存在を成り立たせ 人生に生きる意味を与え 生きがいとアイデンティティーを得て 人はここにこうして存在しているのです 自己の救済原理、存在の根拠とは 他者との差別性であり、さらに言えば優越性です 仮に「個性」というものが存在する という前提のもとに 個性についての概念を定義すると 私ならば 『存在の根拠・救済原理の上に成り立つ差別性』と定義します 『自分は自分であるとする根拠あるいは論理 その上に成り立つ差別性』と定義します そしてこの個性を前提に 「個性を伸ばす教育」をいうなら 子供が、自分の存在の根拠を創造したい と願い行動することを助けること以外にはないと思います これはむしろ学校より親の役目であるのではないでしょうか? また、視点を変えて言えば 「勉強もできない」「スポーツもできない」「なにもできない」 「容姿もダメ」「自分はなにももたない」 というのも≪差異≫であり そこから でも「自分にはこれがある」 でも「自分にはこれができる」 というものを創造できたら その創造された≪差異≫は 一般の人たち、普通の人たちよりも 大きな独自性=個性 となりうる可能性を秘めている ということも言えるはずです 人生を楽しむコツは こんなところにあるのかもしれません 勉強ができるとか スポーツができるとか あるいは笑いセンスがあるとか 容姿がいいなどいった 優秀な人間の概念、人気者の概念 こういった一般に価値とされる世界において 戦えなかった人、自分の居場所ができなかった人 友達もできず孤独だった人 そうした人が 自分の根拠となる世界を創造するのは大変です なぜなら一般に価値とされる概念の上にのっかって 世界を創造するのでなく 基盤から、世界を構築する必要があるからです しかし、そこをすることこそ 人生を深く生きていくということであり そこで世界を完成させたなら、その個性は 常人がめったやたらと到達できないものとなるはずです 自己像と「夢」 自由とは? 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