緋山酔恭「B級哲学仙境録」 自己像と「夢」



B級哲学仙境論


自己像と「夢」


 




自己像と「夢」




学校の意味について

ほぼ定説になっていることがあります


それは、およそこんな↓話です


【 小学校のテストは、低学年までは

誰もが満点をとれるようにしてある

これによって自信をつけさせる


学年があがるにつれ、テストを難しくしていって

頭の良い子と悪い子の振り分けをしていく


これによって、頭の悪い子に

自分が頭が良くないことを自覚させる 】




この意味は


【 子供のうち、つまり学校に行っているうちは親に守られている

しかし、社会に出ると

競争原理、弱肉強食の原理の中に身をさらせれることになる



競争原理の社会においては、頭が良い子

つまり勉強ができる子は

いい会社に入り、よい給料を得て、裕福に暮らせる



これに対し、頭の悪い子は安月給で

必要なものさえも買い惜しむような生活をしいられることになる



頭の良くない子が

≪自分は頭が悪い≫という

自分の場所というかポジションというのを知らないと


社会に出て冷遇されたとき

そのショックでポシャってしまい、社会生活が出来なくなってしまう



このために早い段階で、自分が社会的に劣っていることを自覚させ

それに耐えていく力をつけさせる


それに、学校が学校として存在する1つ意義がある 】


ということです





もろちん、資本主義ですから

頭の悪い子だって

勝ち組となる道は残されてはいますが


学校ということろは、以上のような考えのもとに

子供を教育する機関である

という考えが定説化している ということです



それに、努力さえすれば自分もいい思いができる

社会に貢献することでいい思いができる

ということを認識させるという意味もあるでしょう





また、高校や大学があるのも

本来、子供を振り分けていくためのシステムだといいます


中学までは義務教育ですが

頭の良い子は、その上の高校に行く

これによって振り分けができます



ただ、みんなが高校へ行くようになると、振り分けができなくなる

そこで大学という機関が生まれたといいます



日本の大学は、入るまでは大変ですが

入ってしまったら楽なので、今の大学生は遊んでばかりいます


つまり大学は、振り分けの意味しか持たないということになります


そんなことから大学の存在意味を疑う識者も少なくないようです




企業が社員を採用するとき、学歴によって決定するのは

大学までちゃんと勉強をして卒業した者の方が

中卒、あるいは高校中退とか高卒の者よりも


言われた仕事をきちんとできたり、上司に指示に従順だったり

仲間とやっていくのが上手だったり、遅刻なんかも少なかったり

ということが、統計的に出ているからだといいます


つまり振り分けとしての大学は、ちゃんと機能しているわけです




また、日本のように

全ての子供に学問の場が与えられているということは

お金持ちの家の子にも貧乏な家の子にも

社会で成功できる共通の場が開かれているということであり


これが競争社会を成り立たせ

経済発展をもたらす大きな要因の1つになった

と言われています






さてそこで、自己像について考えてみます


A君という小学生がいました


彼は、勉強もスポーツもまるでダメです

授業で野球をしても出番はなし、いつも補欠です


たまに出してもらえることがあってもエラーをして

仲間の男子の非難をあびるし

クラスの女子にまで陰口をたたかれてしまいます



これは野球だけでありません

A君はなにをしてもダメで、自分の居場所ができません




心理学によるとこうです


≪人間は、自分に対する他人の評価を知ることで

自分の中に、自負、自信、誇り、優越、劣等

反省、恥辱などといった感情が生まれ

こうした感情をもとに自己像を作りあげる≫


≪いうなれば、自己像は、他人の目を通して与えられるものである≫


≪人は、自分で自分をみつめるだけでは

正しく自己を把握できないし、自己像を構築することもできない≫



≪与えられた自己像が低いと、人はその集団を去る

転職が多いなど、たくさんの集団への帰属の履歴は

その人が、あきっぽいというよりも

満足できる自己像を求め続けた過程を示す≫




つまり、A君の自己は

学校というシステムや

社会(クラスメート)によってつくられた自己像に

ぎゅうぎゅうと押し込まれるわけです



さらに、クラスという社会を

1つのパズルに譬えると


A君の自己像=個性は

パズルのどうでもいいような端っこに置くピースとして

固定化されるわけです



こうした構図は

会社というパズルにおいても全く同じです




さらに女性なら容姿でも差別されます


≪あんな容姿では、どうせたいした未来なんてないはずだ≫


なんて自己像を

自他ともに固定化してしまうのです





それでは、パズルの中心で生きている人たちの

幸福に対する想像力ってどんなものでしょうか?



女性なら

男性にちやほやされて

高給取りの男性と結婚して


男性なら

美人で従順な女性と結婚して


庭付きのマイホームに住み

マイカーは外車を所有し

ときどき家族で海外旅行に行って

子供には幼稚園から受験させて・・・



パズルの中心で生きている人たちの

幸福観というのはたいがい同じなんですよ(笑)


個性なんてあるようでないのです




これは、頭のよい子供のみんながみんな

大人になっても

おなじ景色をずっと見続けているということです



景色とは、自分の根拠であり

救済原理〔自分を成り立たせている根源的な論理〕です





パズルの中心で生きている人たちの

幸福に対する想像力が

なぜそうなのるのか?



これを自己像という視点から考えると


学校というシステムや

社会(クラスメート)によってつくられた

エリートという自己像のままの視線で

ずっと世界を見続けているからです




これに対し

パズルのどうでもいいような端っこに置かれていた子は

他者によってつくられた自己像を

破壊していく楽しみがあるのです



新たな自己像、新たな個性をつくっていく

楽しみがあるのです







会社で、自分のポジションを築くことは

自己像を構築することでもあるし



また、職人であるなら

新たな技術を習得していくことも

新たな自画像をつくっていく作業と言えます



また、独立して、地域の人に喜ばれる店をつくること

さらに、多くの人に知られる人間になっていくこと


人は、こうした「夢」を見て努力します




その意味で「夢」とは

新たな自画像への憧れと

それを目標として、がんばるための「理由づけ」と言えます




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