酔恭・竜太の「B級哲学仙境録」 『完全』とは?


日本200名山 中ノ岳(越後三山最高峰)から見た 200名山 荒沢岳




「完全」とは?




酔恭 「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)

という有名な言葉を残した フランスの哲学者 デカルト

〔1596~1650・近代哲学の父と呼ばれる。数学者でもある〕は

こんなことも言っている



「私が疑うということは、私が不完全な存在であるからである

不完全という観念は、完全という観念を前提とするが

不完全な私が、完全という観念を創造できるはずがない

これは完全なる神が、私に植え付けたものである

このため神は存在する」とね

(観念とは、あるモノやコトについていだく意識内容)



竜太  デカルトは明らかに間違えだと思うな。。。


「完全」という観念は、神なんかと全く関係ないだろう


完全とは、10個あれば満足する

完成する という定義があって

10個そろえることだと思うけど・・・



だから、数字と「完成」という概念から成り立つもので

人類が「1」という数字を発明したときに

「完全」という概念というか観念が誕生したんだと思うよ



酔恭  なるほど… これ(1)と、これ(2)と

これ(3)を攻略すれば、あいつに勝てるという状況で

全てクリアーできたら「完全」というのも同じだな


〔 (1) (2) (3) は

我々が、数字の概念をもつことを意味する 〕




竜太 「よく完全な人間なんていない」と言うのは

やさしさとか、思いやりとか、つつましさとか

勇気とかいったものは数字化できないからだと思うよ


もし、数字化できたら、やさしさ=3、思いやり=3

つつましさ=2、勇気=2、合計して10になるから

あの人は完全な人間だなんてなるだろうけど・・・




竜太 それから、人は、全部手に入れて「完全」を達成すると

同時に、失う怖さをいだくから

「完全」にはなれないなんて考え方もできるよ




酔恭 人を傷つけることは誰にでもあるから

それで完璧になれないというのもある


それに、なにかに依存することが

楽しみの1つであるからも

完璧になれないというのもあるだろう


厳しさも、融通の良さも

いっぺんに持つことができないというのもそうかもしれない


とはいえ、責任さえとれていれば

ある意味、完全と言えるのしれない



人間やろうとおもえばやり直せるので

0になることはないと言えるね






ちなみに

デカルトの立場は

考える私(精神)と、肉体を含めた外界の物体は

それぞれ独立するという「物心二元論」です


また、人間の心は「タブラ・ラサ(白紙)」で

人間の認識は全部経験に由来する感覚的なものである

という経験論に対し

デカルトは「生得観念」〔しょうとくかんねん・

先天的に持っている観念。神や自我についての観念など〕

の存在を認め (自我とは他者や外界から区別して意識される自分)


真の認識は経験に基づかない先験的な「理性」の働きによる

感覚や感性による認識は低い認識であると主張しています





釈迦当時のバラモン教では

自己の本質であるアートマン(我・霊魂)が

宇宙の最高原理であるブラフマン(梵)と、本来 同一であると悟り


これにより梵と我が合一 (梵我一如)すれば、輪廻転生を超越できる

解脱できるという考えが、主流となっていたようですが


ブラフマンであると悟るを、デカルト的にいうと

「理性」で把握するということです


デカルトのいう「理性」とは

宗教でいうところの「魂」とか「霊魂」に近いのです




それから、実体に、物理的実体と、心的実体の2つを置き

動物には理性が人間より少ないばかりでなく、理性がまったくない


ゆえに精神(心)は人間だけに存在し

動物、植物は機械的運動をしているにすぎない

動物はゼンマイをまいた自動機械である

と述べています





感情論




Top page





 自己紹介
運営者情報




 時間論




 幸福論




 価値論




 心と
存在




言葉と
世界




食べて
食べられ
ガラガラ
ポン





Suiseki
山水石美術館