酔恭・竜太の「B級哲学仙境録」 『感情論』

 
十枚山より見た富士と霧氷




感情論




竜太  感情を辞書で引くと

≪「快い」「美しい」「感じが悪い」などというような

主体が状況や対象に対する態度あるいは価値づけをする心的過程≫

(広辞苑)


≪ある状態や対象に対する主観的な価値づけ

「美しい」「感じが悪い」など対象に関するものと

「快い」「不満だ」など、主体自身に関するものがある≫

(三省堂 大辞林) とあるよ




酔恭  感情って喜怒哀楽ばかりでなく、苛立ち、狼狽、困惑、動揺、驚き

苦悶、苦悩、不安、心配、落胆、不幸、絶望、失望、嫌悪、憎悪、敗北感

屈辱感、敵意、悪意 、拒絶 、反感、驕慢、憤慨、葛藤、


孤独感、疎外感、寂しさ、罪悪感、羞恥、優越、劣等、軽蔑、侮蔑、恐怖

不機嫌、可哀想、感傷、嫉妬、不愉快、辛い、ホームシック、衝撃、悲痛、悲哀


面白い、つまらない、気が休まる、気が滅入る、癒される、安心、幸福、優しさ

思いやり、満足、希望、好き、憧れ、 愛、同情、共感、哀れみ… たくさんあるよね


≪嬉しい≫と≪楽しい≫では

似ているような心の状態を表すけど、少し違いがある



竜太  そのように心の状態にちょっとずつでも違いがあるからこそ

色々な言葉があるのだろうど、でも基本的には3つしかないと思うよ



酔恭  3つ?



竜太  感情とは、1種の防衛手段で

自分にとって「是」か、「非」か

「どっちでもない」か の3つしかないってことだよ


つまり、刺激に対して、自分が「是」のとき、安心なときに

楽しいとか、嬉しいとか、おもしろいなどといった感情が起こる


「非」のとき、危険があるときに、苦しい、怖い

ムカつくなどといった感情が生まれる



また、どっちでもないとき・なにもないときには

無感情であったり、平常心であったりするのではないかと思う


無感情は、どちらかといえば「是」の感情に入る


だから、さらに言うと

"感情とは、刺激(情報)に対する「是」か「非」の反応でしかない"

ということになる




酔恭  なるほど・・・・


脳が、自分の生命に危険があると感じると

ムカつくなどの感情を発動させたりしているわけだね



竜太  感情が"基本的には3つしかない"

"刺激(情報)に対する「是」と「非」の反応でしかない"

となると

我々が思っているような感情とは全く違うよね


我々が思っているような感情は

感覚(知覚)を前提として考えているものだと思うよ



酔恭  どういうこと?

熱いとか、冷たいとか、美しいとか、硬いとか

うるさいとか そういったものが「知覚」だな



竜太  そういった「知覚」と

「感情」とをごちゃまぜに考えているから

誰1人その誤りに気づかない


心理学という分野ができても

結局、感情について解き切れないでいる と思う



「寒い」(知覚)と、「やだなぁ」(感情)

「うるさい」(知覚)と、「頭くる」(感情)

が同時に起きていることから

ごちゃまぜに考えてしまうのかもしれない




酔恭  なるほど・・・・

「寒い」とか「暑い」なんかは

はっきり知覚だと分るからまだいいけど

可愛いとか、美しいとか、美味しいとかなんて

知覚か感情かよく分らない



竜太 「可愛い」「美しい」「美味しい」は

基本的には、知覚なんだけど

これを感情だと勘違いしてしまうわけだよ



「知覚」とは、五感を通じて得た情報をもとに脳が行う

「このものは何であるか」「これはどのようなものであるか」

という真理の判断


(但し、知覚されたものは

あくまで個人の事実であって、真理とは限らない)



これに対して感情は「可愛い」「美しい」「美味しい」

という知覚に対する「是」「非」という価値判断ということになるよ




酔恭  知覚が「認識」の手段なのに対し

感情は「価値判断」の結果ってことだな



竜太  そうだね 「可愛い」「美味しい」が

いつも「是」となるとは限らないよね


「あの子、私よりも可愛いなぁ くやしい」とか

「このラーメン、うちの店よりうまい やばい」とか

「非」の場合もある



酔恭  広辞苑と大辞林は「美しい」や「感じが悪い」を

感情の例としてあげてるけど「感じが悪い」も知覚と言えるね


「感じが悪い」がいつも「非」であるわけではない


「あの人感じ悪いわ 

(よしよし) この面接、私の方がだんぜん有利 (やった!!)」

となることもある




竜太  人はなにごとにも反応を起こすよね

影で悪口を言われたら不安になったりと

この「反応」こそがネックで、この「反応」こそが「感情」だと思うよ


しかも人間には「知能」がある

だから、たくさんの反応(感情)が起きるんじゃないかな



それから、子供のときからの経験や遺伝的な要素によって

その人個人の刺激から反応(感情)へと移る過程ができているんだと思うよ




弱者(刺激)→ 哀れむ(反応)を

「愛」という言葉で表現している場合、その「愛」は、感情としての「愛」だね



ただ「愛する」とか「信じる」は、じつは感情ではなく「意志」だと思う

意志とは、欲求に近いものだよ


なぜなら、相手を愛するのも

こっちを好きになってほしいという欲求があったり

信じるって「そうであってほしい」とか

「そうなってほしい」とかいうものだからだよ


なので、≪相手の未来を信じる≫という「愛」は

意志的な愛と言えるよね



それから単に人が「愛」と言った場合

「愛」という抽象的なもの(空間に位置を持たないもの)を

イメージすることによって「是」の感情が生じているときで


その「愛」自体は、感情ではなく「想像」(刺激の1種)だと思うね





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