緋山酔恭「B級哲学仙境録」 国家神道、神道国教化の失敗、神道は国家の祭祀



B級哲学仙境論


国家神道


 




国家神道




国家神道とは



国家神道って?


神道というのは、お祓いしたり鎮魂したりと

儀礼的側面ばかりの宗教で、ろくに哲学がありません



そこで仏教が伝わると仏教と結びつき 〔両部神道や山王神道〕

江戸時代に儒教が思想の中心になると儒教と融合し 〔儒家(じゅか)神道〕

江戸後期に国学がはやると国学とくっついてきました 〔復古(ふっこ)神道〕



復古神道というのは

簡単にいうと

これまでの外来の思想(仏教や儒教)と結びついてきた神道を批判して

「天照の時代に帰れ!!」という神道です



そして明治になって、国家主義・民族主義と結ばれます

これが「国家神道」です




それって神道が寛容な宗教ということ?


寛容というかいいかげんってことでしょううけど

一神教のような強烈な哲学を持たないゆえに

結果的に寛容であるとは言えますよね




国家主義、帝国主義と結びついた

神道というのは具体的にどんなものだったの?


宗教と祭祀を分離し、神道は国家の祭祀であり非宗教

超宗教である としたところに特徴があります



そして全神社を政府が保護、監督し

天皇崇拝と神社信仰を国民に義務づけました


国家、天皇に忠実な人間をつくるための神道だったわけです


戦争遂行のための精神的支柱となった神道だったのです



具体的には、天皇を現人神(あらひとがみ)とし

天照大神を祀る伊勢神宮を全神社の本宗(ほんそう)と定め


一村一氏神を決めて地域の信仰の中心にすえ

国民全てを地元の神社の氏子として組織しました



各学校には、天皇、皇后の御真影(ごしんえい・写真)を配布

聖像として礼拝することを義務化しました


それとともに先祖崇拝をも強調したのです





また、植民地や占領地にも神社を創建しています


朝鮮には

朝鮮全土の総鎮守 朝鮮神宮〔 創建は1925年(大正14)

境内は、ソウル市街を見下ろす南山公園に存在した

祭神は、天照大神、明治天皇 〕

をはじめとして60余社が建てられています



この他、台湾神宮〔 創建は1901年(明34)

祭神は、台湾征討に近衛師団長として出征し、台湾全土平定の直前

マラリアで死去した北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさ)

大国魂神(おおくにたまのかみ・日本の国土の霊魂)

大己貴神(おおなむちのかみ・大国主命のこと。国造りの神)

少彦名神(すくなびこなのかみ・大国主の国造りを助けた小人の神)

1944年(昭19)に天照大神が合祀 〕



樺太神社〔 1911年(明治44)に創建

祭神は、大国魂神、大己貴神、少彦名神 〕



関東神宮〔 中国の大連市旅順。1938年(昭13)に創建

祭神は、天照大神、明治天皇 〕



南洋神社〔 パラオ共和国コロール島。1940年(昭15)に創建

祭神は天照大神。壮大な社であったらしい 〕


などが代表的なものです






太平洋戦争においては

日本は「大東亜共栄圏」を構想し


「八紘一宇」(はっこういちう)


「五族協和・王道楽土」

〔五族(日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人)が協力し

王道に基づいて治められる楽園を建設する〕


「聖戦」


「悠久の大義に生きる」

〔戦死すれば、悠久の大義に殉じた「英霊」として靖国に祀られるとされた〕


などといったスローガンが掲げられ


国民に対しては

「欲しがりません勝つまでは」の戦時標語のもと

「滅私奉公」(めっしぼうこう)が求められたそうです




【 八紘一宇・・・・

八紘は、本来、天地を結ぶ8本の綱を意味し

転じて世界のすみずみ、全世界の意

一宇は一軒の家(屋根)の意で、全世界を一つの家として仲良くの意


日本書紀にある神武天皇の言葉

「兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」

(くにのうちを かねて もってみやこをひらき

あめのしたをおほひて いへに せむこと、またよからずや)に由来 】




【 戦前・戦中には、小・中学校の修身(道徳)教育において

「忠君愛国」「滅私奉公」「七生報国」が教えられました


「七生報国」とは「何度も生まれ変わって

(あるいは、何度、生まれ変わったとしても)

皇国から受けた恩に報いる」という意味


楠木正成が足利尊氏の軍に敗れて自刃する時に

言い残したことに由来すると伝えられています 】






諸寺院はもちろんキリスト教の学校などでも

伊勢神宮の大麻

〔たいま・天照大神の神札(かみふだ)〕を祀ることが義務とされます



それから、真言宗各派が大真言宗に統合

天台宗の山門派、寺門派、真盛(しんぜい)派も一つにされ


日蓮各派は日蓮宗、本門法華宗、日蓮正宗のいずれかに

統合されるなど仏教各派の統合もすすめていきます



また、創価学会(当時、創価教育学会)

PL教団(当時、ひとのみち教団)、大本教(おおもときょう)など

いわゆる新興宗教の教祖や幹部が


治安維持法や

不敬罪〔皇室、皇陵、神宮に対する不敬行為に対する罪〕

で逮捕、投獄され

事実上解体に追い込まれた教団もあります








廃仏毀釈



国家神道が成立した頃の日本の宗教ってどんな感じだったの?


明治以前は、仏教と神道がごっちゃになっていたのです

お寺と神社が一体になってたってことです


そこで明治政府は、1868年(明治元年)に

「神仏分離令」(神仏判然令)を発布し

寺院と神社を明確に分離します



これにより、神に菩薩号をつけること(八幡大菩薩など)


権現号〔権現とは、権り(か)にあらわれた神の意

仏が衆生を救済するために

権りに神の姿をとってこの世にあらわれた尊格

東照大権現など〕を用いること


日本の神に仏教の仏菩薩を本地(本当の姿)としてあてること

〔熊野三山の祭神の本地を

それぞれ阿弥陀如来、薬師如来、千手観音菩薩とするなど〕


御神体に仏像を用いること などが禁止されます







廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)というのを聞くけど?


江戸時代の仏教寺院は、檀家制度によってまもられ

まさに国家仏教といえる地位にあったのです


国民は必ずどこかの寺院の檀家とならなければならず

宗旨人別帳が戸籍の役割を果たしました


その家の宗教が半強制的に決定されるもので

後に離檀禁止令が出され

初めに結んだ檀那寺から離檀することもできなくなりました




このため、寺院の横暴は極まるところを知らず

檀家に対して

伽藍の修復費の負担、僧侶の僧位取得金の負担

仏事費用の負担、僧侶とその家族の生活費の負担など

際限のない負担と義務を課していたといいます


また檀家制度に支えられ経営が安定していた寺院が

神社を支配していたのです



これに対し政府は、村鎮守の神主(かんぬし)の身分を

僧侶より上位にし「釈迦の教えなどとるに足らない」と宣伝します



これに刺激され、水戸学や国学思想の強い地域を中心に

それまで僧侶の権威の下に置かれていた

神職や神道家たちが先頭となって


「廃仏毀釈」〔はいぶつきしゃく・仏を廃し釈迦を捨てる〕

の運動が全国にまき起こり


多くの寺院が破壊、焼却され、仏像や仏具、経典などの文化財が消失


廃寺や寺院の統合(全国の約半数の寺院が消滅したとされる)

僧侶の還俗などが相次いだとされます



なかでも薩摩藩、松本藩、富山藩

苗木潘(なえぎはん・岐阜県中津川市)

津和野藩、伊勢の神領、隠岐、佐渡などで激ししく


薩摩潘(1060ヵ寺)、苗木潘、隠岐では寺院が全廃

富山潘では1635ヵ寺のうち6ヶ寺を残して撤廃されています




1870年(明治3)、政府は地方官庁の独断で

寺院の破却や統合を行わないよう命じて仏教側と妥協


大規模な廃仏は収束したそうですが

その後も神仏習合思想が強い山岳信仰の排除は徹底されたといいます






●   水戸学


国学、史学、神道を基礎とし、江戸時代、水戸藩で興隆した学問

国体観念の高揚と尊皇攘夷思想を特色とする


日本民族は天祖(天皇の先祖)の末裔であり、皇室はその直系ゆえ

天皇は国民の家長である


ゆえに忠(臣下が君主にまごころを尽くし仕える)と

孝(子が親を大切にする)とは

本来一体であるという「忠孝一体」は水戸学に始まる








神道国教化の失敗



また、国家神道においては

路傍や山内の小祠、石仏、石碑の排除も徹底され

〔一村一社の氏神に統合

これに統合されない民間信仰的な存在は

婬祠、迷信として排除された〕


神がかっておつげを下すシャーマン的信仰

性神信仰なども迷信や低俗なものとして排除されたそうです


また、その地域で古来から祀られてきた祭神を

皇室とつながりのある記紀(古事記と日本書紀)神話の神に

変えた神社も多かったといいます





明治4年には、門跡(もんぜき)制度が廃止となります


明治5年には、修験道が廃され、修験道各集団は

天台宗か真言宗かのいずれかに取り込まれました




●  門跡制度


皇族や貴族が出家して入る特定寺院が門跡寺院である


江戸期には制度化して 宮門跡


摂関(摂政、関白に任じられる家柄)門跡


公方(くぼう・将軍家)門跡


清華(せいが・摂関家の次に位置する公卿の家柄)門跡


准門跡(じゅんもんぜき・門跡寺院と同等の扱いとされた寺院

脇門跡ともいう。西本願寺、東本願寺など)に区別された



なお皇族や貴族の子女などが出家して入寺する尼寺を

比丘尼御所【 女王(にょおう)御所

天皇の娘や孫の入る御宮室(ごきゅうしつ)と

貴族の子女が入る御禅室の区別があった】と呼び


こちらも一種の寺格となっていたが

明治以降、天皇の娘や孫が尼寺に入ることはなくなり

比丘尼御所の寺格も消滅しています




武家社会のもとでは

皇室や公家は、財政的にひっ迫していましたから


門跡制度というのは、皇室や公家の血筋の者が入寺することで

寺院は「格式」を得て

皇室や公家は生活の援助をうける制度でもあったのです




明治5年には

"僧侶の肉食、蓄髪、妻帯は勝手たるべし"

といういわゆる勝手令を出し


これによって、国民が僧侶に抱く特別な感情を

排除しようとしたとされます





一方、楠木正成を祀る

湊川(みなとがわ)神社(明治5。神戸市中央区)や


戊辰戦争の戦没者を祀る

東京招魂社(明治12。のちの靖国神社)など

新たな神社が創建されていきました





明治政府は当初、祭政一致(政教一致)の理念のもと

≪神道を国教化≫し

国民精神の主柱にすえることを目標としました



また「獣肉を食べたからといってけがれることはない

釈迦の教えなどとるに足らない」


「神代(かみよ)には、海の幸、山の幸といって

肉食は自由であった」などと宣伝し


肉、卵、乳製品を日本人の食生活に取り入れ

「富国強兵」政策〔殖産興業と軍事力強化〕を

推し進めて近代化を目指したそうです





ところが仏教の完全排除に対する

仏教側の抵抗が非常に強いこと


政府の考えている以上に仏教が国民生活に浸透していたこと


〔 とくに神社参拝を否定する教義を持つ

浄土真宗の僧侶や信徒を中心に

廃仏毀釈に反対する運動が盛んとなり

三河や越前では農民一揆も勃発している 〕



また、政府のかかげた理念が当時の民衆になじみが薄かったこと



さらには神道において

共通した教義体系を確立することが不可能であるとを悟ったこと




これは、東京の日比谷に設けられた

神道事務局神殿の祭神をめぐり


造化三神〔古事記に最初に登場する天地創造の三神

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

高御産巣日神(たかみむすひのかみ)

神御産巣日神(かみむすひのかみ)〕と

天照大神の4柱を祀ることを主張する

伊勢神宮の大宮司らの伊勢派と



大国主命を加えて5柱にすべきだとする

のちに出雲大社教(教派神道の1つ)を起こした

千家尊福〔せんけたかとみ・出雲大社の大宮司家出身

貴族院議員、埼玉、静岡県知事、東京府知事、司法大臣などを歴任〕

らの出雲派が激しく対立



明治天皇の勅裁で、神道事務局神殿は

皇大神宮遙拝殿

(東京大神宮の起源・皇大神宮とは伊勢神宮の内宮のこと) と決まり

事実上、出雲派が敗北する

という事件(明治13~14)がきっかけとなったようです







神道は国家の祭祀



また、国家が直接、国民の宗教を取り締まるのは

近代国家としてふさわしくないと気づいたことから


神道国教化政策を廃し

1882年(明治15)に、宗教と祭祀を分離して

≪神道は国家の祭祀であり宗教ではない≫としたのです



とは言え、神道を事実上の国教とし

仏教、教派神道、キリスト教のみを国家神道に従属する

事実上の公認宗教としたわけです





●  教派神道


教派神道は、神道が国家の祭祀となって、布教活動が分離されたことから

伊勢神宮や、出雲大社の 「講」が 独立したものだったり


天理教のように、、独自の教義をもつ神道だったりします


1908年(明治41)に、天理教の独立が認可されて以降、教派神道13派と呼ばれました


扶桑教(富士山信仰)や、おんたけ教(木曽のおんたけさん信仰)などの 山岳信仰系


伊勢神宮の 神宮教(明治32年に離脱)や

出雲大社の 出雲大社教など 特定の神社を崇敬する 神社信仰系


天理教や、金光(こんこう)教などの 神がかり教祖の教義を中心とする 純教祖系


他に、禊系、儒教系、復古神道系 などに、分けられるようです






その間にも新たな神社の建設はすすみ


橿原(かしはら)神宮 (明治23。奈良県橿原市。主祭神は神武天皇)


吉野神宮 (明治25。奈良県吉野町。主祭神は後醍醐天皇)


平安神宮 (明治28。平安遷都1100年を記念し

平安京を開いた桓武天皇を祭神として建立

皇紀2600年の昭和15年に平安京最後の孝明天皇を祭神に加えた)


明治神宮(大正9。祭神は明治天皇と昭憲皇太后)


近江神宮(滋賀県大津市

天智天皇の大津京跡に皇紀2600年の昭和15年に創建。主祭神は天智天皇)


などが創建されていきます




1890年(明治23)には

国家神道の事実上の経典となった全文315字からなる

「教育勅語」(勅語は天皇の意思表示

教育勅語は国民教育の理念を示したもの)

が発布されます




●  教育勅語


内容は3つの部分からなる


天照ら神々や歴代天皇によって形づくられてきた

天皇の徳と臣民の忠誠が日本独特の国体であり教育の根源であると


国体のうるわしさを強調する第一段



"父に孝、兄弟に友、夫婦相(あい)和合し"などの徳目を述べ

国がひとたび危急におちいれば、身をささげて天皇の治世を助けることは

祖先の遺風を次ぐことであるという第2段 (12の徳目をあげている)



以上は、天照や歴代天皇の遺訓であり

古今(永遠)中外(国内外)に通じる普遍妥当性を持つという第3段



【 教育勅語の12の徳目 】


親に孝養をつくし(孝行)、兄弟・姉妹は仲よく(友愛)

夫婦は仲むつまじく(夫婦の和)

友人同士は信じあい(朋友の信)、自らの言動をつつしみ(謙遜)

全ての人に愛の手をさしのべ(博愛)

勉学に励み・職業に専念し(習学・勤労)

知識を養い(教養)、人格をみがき(徳性)

社会公共のために貢献し(公益)、法律や規則を守り(秩序の維持)

非常事態には身命を捧げて、国のために奉仕する(義勇)






これによって天皇が超越的な国民統合の基軸

神聖不可侵の現人神(あらひとがみ)とされ

国民は天皇制国家への忠誠を命じられたのです



教育勅語は

各学校へ配布された天皇、皇后の「御真影」

〔ごしんえい・教育勅語発布前後より申し出のあった

一部の学校などに宮内省から交付

1930年(昭和5)代には、ほぼ全ての学校に普及〕

とともに

国民に国家への忠誠を命じる柱となったのです




また、それとともに教育勅語の理念が

「先祖の美風」とか「先祖の教訓」などと宣伝され


教育勅語を通じて祖先崇拝が強調されたのも、国家神道の特徴です








宣布大教詔



システム的な面を中心に、≪国教としての国家神道≫から

≪祭祀としての国家神道≫の成立までの経緯を述べておきましょう


神道の国教化をすすめるための

布教機関およびその職名の1つに

「宣教使」(せんきょうし・明治2年に創設)というのがありました


宣教使は、神祇官(じんぎかん)の管理下にありました


職員は、神道家、国学家、儒者などが採用され


階級は、宣教長官(神祇官長官である神祇伯を兼務)、次官

正と権(ごん)の判官(はんがん・判官以上は、神祇官職員が兼務)

主典、宣教使、講義生など19級に分かれていたようです



また、1870年(明治3年)には各府藩県に

「宣教掛」(せんきょうかかり・宣教係)も置かれ

大教宣布運動の基盤がととのいます


全国で活躍する宣教使や宣教掛は府藩県の推挙で採用されたようです



なお宣教使には、キリスト教の進出を防ぐ目的もあったといいます



明治3年には、宣教使に

天皇崇拝中心の神道教義の布教を命じる

大教宣布〔宣布大教詔(せんぷだいきょうみことのり)

その国民教化運動も大教宣布という〕が下されています



大教宣布とは、結局

惟神(かんがながら)の道

(天皇および日本の神々の神意にしたがって生きる道)を

国民に教化していくことを、宣教使に命じたもので


これによって、神道の国教化を実現させていく

というものだったわけです




ところが前述のとおり

神道の国教化はみるべき成果が得られなかったのです



宣教使官員の少なさ

教義の未確立、府藩県宣教掛の能力不足などから


宣教使による大教宣布運動はまったく成果が得られず

キリスト教進出に対しても、みるべき効果が上がらなかったといいます




一方、廃仏毀釈で打撃をうけた仏教側は

新たな宗教事情に対応するため

仏教を管理する中央官庁の設置をのぞみ


神祇官、宣教使および政府は

大教宣布運動の失敗を打破すべく

仏教をも取り込んだ国民教化運動を画策し


72年(明治5)に神祇省、宣教使を廃し

神祇官の廃止と同時に

神仏両教を管轄する「教部省」を設置します



教部省は、社寺の廃止

神職や僧侶の任命など社寺行政全般を司った他


全国の神職と僧侶の全て

さらには民間信仰から生じた講社などの教師らも

教導職に任命しました


これによって宗教者全てを動員して

国民の思想統一運動を展開することになったのです





教部省が設置された翌月(明治5年4月)

布教の基準として


① 「敬神愛国」(けいしんあいこく)と

「天理人道」をあきらかにすること


② 「皇上奉戴」〔こうじょうほうたい・

皇上とは現在の天皇ことで、皇上をつつしんで奉ること〕


③ 「朝旨遵守」〔ちょうしじゅんしゅ・朝廷の考えをよく守ること〕

という「三条教則」が下されています





明治5年の9月には

東京の紀伊徳川家邸に、大教院が設置


大教院は、大教宣布〔尊皇・愛国の国民教化運動〕の中央機関であり

また教導職の研修道場でもあり

教義と布教の研究機関であったようです


翌年の2月には

東京都芝公園の増上寺(浄土宗の大本山)内に移っています


また、地方機関として各府県に中教院を置き

各社寺を小教院にしたそうです




大教院は、仏教側の発意により認可され

当初は仏教側が指導的立場にあったそうです


廃仏毀釈で低迷していた仏教側にとり

一定の地位回復となっていたといいます


ところが明治6年の10月、大教院と中教院に

造化三神と、皇祖神で太陽の女神である天照大神を祀るという

「四大神奉祀」(しだいかみほうし)が義務づけられ

これにより神道側の指導となっていきます






●  造化三神 (ぞうかさんしん)


古事記に最初に登場する天地創造の三神

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

高御産巣日神(たかみむすひのかみ)

神御産巣日神(かみむすひのかみ)


天之御中主は宇宙の中心

産巣日のムスは生成、ヒは霊力で

生成エネルギーを意味するという


これらは男女の区別はない神である





三条教則は、浄土真宗を中心に

キリスト教徒、開明派の者、欧米諸国からの反発をうけます


明治8年には、浄土真宗4派が大教院から離脱し、大教宣布体制は瓦解

同年、大教院は解散となっています


さらに明治10年には教部省も廃されています


大教宣布=神道の国教化は

教導職の廃止まで形式的には続いたようですが

事実上はこの大教院解散によって終結しているといいます



その後、前述したとおり

政府は神道に教義体系を確立することが不可能であることを悟り


また国家が、直接国民の宗教活動を統制することが

近代国家にふさわしくないことに気づき


明治15年、神道国教化政策を放棄し

「神道は非宗教、超宗教の立場にある

国家の祭祀である」と位置づけたわけです








敗戦後



第二次世界大戦の敗戦とともに

国教分離令が発布され

国家と神社神道が完全に分離され、国家神道は解体されます



これにより、政府が神道を、特別に保護、支援、監督し

弘めるといったことがなくなります


それ以前は、国家神道は国民の義務であったので

事実上、信教の自由が制限されていたのです



国家神道消滅にともない

神社神道は、21年に宗教法人「神社本庁」

〔事務所は渋谷区代々木(明治神宮の隣)

地方機関として全国47都道府県に神社庁を置く〕を設立します


神社本庁は、天照大神を祀る伊勢神宮を本宗とし

加盟する全国の大半、約8万の神社(単位宗教法人)を統括しているそうです



国家神道とは、そもそも「皇室神道」と「神社神道」

をひとつにまとめたものでもありましたが


宮中の祭祀を中心とする皇室神道の方は

全て天皇の「私事」と位置づけられ


今までどおり、主として宮中三殿や

山陵(天皇や皇后の墓所)などで祭祀をとり行っているようです




●   宮中三殿


賢所(かしこどころ)は、三種の神器で最も重要な

八咫鏡(やたのかがみ。天照大神の御神体

本物は伊勢神宮にある)の形代(模造品)を祀る


神殿は、天神地祇(てんじんちぎ・天地全ての神)を祀る


皇霊殿は、歴代天皇の霊魂(みたま)を祀る





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