緋山酔恭「B級哲学仙境録」 山王神道、吉田神道、垂加神道、復古神道、国家神道



B級哲学仙境論


神道論の歴史


 




神道論の歴史




神道というのは、お祓いしたり鎮魂したりと

儀礼的側面ばかりの宗教で、ろくに哲学がありません



それって神道が寛容な宗教ということ?


寛容というかいいかげんってことでしょううけど

一神教のような強烈な哲学を持たないゆえに

結果的に寛容であるとは言えますよね




そこで仏教が伝わると仏教と結びつき 〔両部神道や山王神道〕

江戸時代に儒教が思想の中心になると儒教と融合し 〔儒家(じゅか)神道〕

江戸後期に国学がはやると国学とくっついてきました 〔復古(ふっこ)神道〕






本地垂迹説



日本に仏教が伝来した当初、こうした考えが理解されず

仏は、蕃神(ばんしん・外国の神)

というレベルでとらえられていました


奈良時代になると「神」と「仏」の本質的違いが理解されるようになります


僧侶たちは、土着の神々を人間と同じように欲望をそなえた

「煩悩具足の衆生」として位置づけ


神も仏の慈悲によって成仏(煩悩を断って仏になる)できるとしました



神は仏道修行を求めているとして

神のために神社に付属して神宮寺

(宮寺、神供寺、神護寺、神宮院、別当寺ともいう)も建てられました



一方、奈良時代には

神は仏法を守護する存在であるという護法善神説も登場します



平安初期になると

八幡神に朝廷から大菩薩の称号が与えられ

八幡大菩薩となり「神仏習合」

(しんぶつしゅうごう・神道と仏教の融合現象

習合とは互いに違った教義を調和させること)

のさきがけとなります



さらに平安時代後半になると

筥崎宮(はこざきぐう・福岡県

宇佐、石清水(京都)とともに三大八幡宮)や


熱田神宮(愛知県)などの祭神が

権現(ごんげん)と呼ばれるようになります


権現とは、仏が権(か)りに神の姿をとってこの世に現れた

という意味です


これは「本地垂迹説」(ほんじ(ち)すいじゃくせつ)

の成立を示しています



「本地垂迹説」とは、日本の神々は

もともと(本地)はインドの仏菩薩であり

日本の衆生を救うため、姿を神に変えて現れた

〔迹(あと・跡と同じ意)を垂れた〕

というもので、垂迹とは影の意味です



鎌倉期になると、神社のほとんどの祭神に

本地仏が定められたといいいます


熊野の本宮、新宮、那智の三社の神々の

本地(本来の姿、本当の姿)に

それぞれ阿弥陀如来、薬師如来、千手観音菩薩を配する

といったようにです



この「本地垂迹説」は1868年(明治元年)の

神仏分離令(神仏判然令)の発布まで

我が国において神と仏の関係を説明する主流の座にあったのです



なお、神道側から

鎌倉中期以降に成立したとされる

「反本地垂迹説」(神道を優位においた本地垂迹思想)では

神道の理念である清浄を本地、仏の慈悲を垂迹とみなしました






山王神道



真言宗(真言密教)では

金剛界と胎蔵界の両部の曼陀羅に描かれた仏菩薩を本地とし

日本の神々をその垂迹として解釈する「両部神道」が生まれました




天台宗(天台密教)では

「山王神道」(さんのうしんとう・日吉神道)が生まれています



山王、山王権現とは

全国約3800社の日吉(日枝・ひよし/ひえ)神社の総本社の

日吉(ひよし)大社のことです


日吉大社は、比叡山の地主神(鎮護社)です



古事記にみれる「日枝山(ひえのやま) が

後に「比叡山と呼ばれるようになったといいます



山王神道は、日吉神 = 山王権現の本体を

釈迦如来とし

諸神はこの根本仏の示現(分身)とするようです



また、山王二十一社

(日吉大社に所属する21の神社)の祭神に

それぞれ仏,菩薩に配したといいます




比叡山は、滋賀県と京都市の境にあります


この山には、高い場所が2つあります

主峰の 大比叡岳(大岳・848m)と

西の 四明岳(しめいだけ・839m)です


大岳より東北方面に広がる平坦な山上に、延暦寺があります


寺域は、東塔、西塔、横川(かつては北塔といった)の三塔

さらに細かく十六谷に分け、三塔十六谷と呼ばれています



大宮(大比叡神、東塔)に釈迦如来

二宮(小比叡神、西塔)に薬師如来 を、山王両明神


聖真子(横川)に阿弥陀如来 を加えて

山王三所または三聖とし


八王子(本地千手観音)、客人(本地十一面観音)

十禅師(本地地蔵菩薩)、三宮(本地普賢菩薩)を加えて上七社とし


中七社、下七社を加えて山王二十一社といいます








上七社(山王七社


西本宮(大宮(大比叡))  大己貴神

東本宮(二宮(小比叡))  大山咋神

宇佐宮(聖真子)   田心姫神

牛尾神社(八王子)  大山咋神荒魂

白山姫神社(客人)  白山姫神

樹下神社(十禅師)  鴨玉依姫神

三宮神社(三宮)  鴨玉依姫神荒魂




中七社


大物忌神社(大行事)  大年神

牛御子社(牛御子)  山末之大主神荒魂

新物忌神社(新行事)  天知迦流水姫神

八柱社(下八王子)  五男三女神

早尾神社(早尾)  素盞嗚神

産屋神社(王子  )鴨別雷神

宇佐若宮(聖女)  下照姫神




下七社


樹下若宮(小禅師)  玉依彦神

竈殿社(大宮竈殿)  奥津彦神・奥津姫神

竈殿社(二宮竈殿)  奥津彦神・奥津姫神

氏神神社(山末)  鴨建角身命・琴御館宇志麿

巌滝社(岩滝)  市杵島姫命・湍津島姫命

剣宮社(剣宮)  瓊々杵命





山王の「山」の字も「王」の字も

三本の線と、それを貫く一本の線からなっていることから


山王神道は、天台教学の究極である

「三諦即一」(さんたいそくいつ)「一念三千」に通じるとしています



結局、山王神道とは

例えば、大宮、大比叡神、釈迦如来

は、一つであるというように


神仏習合思想を、三諦即一に、むりやり結びつけたものです




ちなみに仏教史上最大の天才と言われる

天台大師 智顗(ちぎ・538~598)は

「空仮中の三諦」〔くうけちゅうのさんたい・諦とは真理の意〕

という法門を説いています


一念三千とともに、天台教学の究極とされます

真理を3つの方面から明らかにしたものです




●  「諦」(たい)とは真理の意味で

「諦観」とは、本来、仏教で

ものごとの本質をあきらかに見きわめることをいう


のちに欲望を空しいものと悟ること

さらにあきらめることの意味になっている





「空仮中の三諦」の


空諦は

全ては、不変的、固定的な実体を持たず

一瞬一瞬変化してやまないという真理です


般若心経でいう「色即是空」(しきそくぜくう)ですね




仮諦(けたい)とは

空諦と表裏一体の真理で、全てが空ゆえに

全ては因と縁によって

一瞬一瞬 仮に和合しているという真理です


般若心経でいう「空即是色」です




そして、中諦とは

例えば、ここにある石は、空でもあり仮でもあるが

この石はこの石以外には存在せず

≪この石≫というありのままの実在である

という真理だといいます


空と仮に偏らずに

空と仮を超越した≪ありのままの実在≫という真理だとされます





現在の一瞬は、過去の因(原因)による果(結果)であり

未来の果への因でもあります


今の一瞬一瞬の生命は、過去の因と未来の果をはらんでいます


そして過去から未来まで真実の存在として一貫しています


中諦とは、このような真理ではないかと思います




そして、あらゆるモノやコトには

空・仮・中の三諦が具わっていて

それぞれがとどこおりなく融和しているというのが

「円融(えんゆう)の三諦」(三諦即一)であり



一念(一瞬一瞬の心)に三諦を観じることを

「一心三観」といって


円融の三諦を知り、一心三観に至ることが

天台宗では悟りの境地とされています




桜の花を見て

はかなきもの、散りゆくものと観じるのは空

その一瞬、一瞬の姿に、美を観じるのは仮(け)

その命としての尊さを観じるのは中 


それぞれの真理が一瞬の念(おも)いに

あらわれたなら一心三観を観じたことになる

といったところでしょうか・・・





話を戻します


1571年、日吉大社は、織田信長の延暦寺焼打ちにより

延暦寺とともに焼かれていますが


江戸初期,天海の出現によって

≪山王一実神道≫となって

おおいに流行したとされます



「一実」とは、一乗教(全ての衆生を悟りに導く教え)

を意味するといいます


山王一実神道では、山王権現とは大日如来であり

天照大神であると説いたといいます




ちなみに

真言密教では、法身(ほっしん・真理の仏)

の大日如来を


応神(衆生の願いに応じて肉身で現れた仏)の

釈迦より上位に置きますが


天台密教では、釈迦と大日は一仏である

としています





家康は、死後、久能山〔静岡市・216m

家康を主神とする久能山東照宮がある〕に神道式で祀られましたが


家康の「遺体は久能山におさめ

一周忌をすぎたら日光に小堂を建てて勧請(分霊)し

神として祀りなさい

私はこれにより国家鎮護の神となりたい」という遺言から

日光に改葬されることになります



このとき純粋な神道式(吉田神道)で改葬するか

神仏習合の仏教神道で改葬するか論争となりますが



天海〔天台宗中興の祖。慈眼大師

3代家光の庇護のもと寛永寺を創建〕の主張が通り


山王一実神道により改葬されたといいます



その後、家光が社殿の大造営に着手し

現在の東照宮が完成しています



なお、東照大権現は、後水尾天皇の勅許を得

天海が亡き家康に贈った神号で

本地は薬師如来と決められています




ちなみに、3代家光が没しすると

家光の霊廟 大猷院(だいゆういん・輪王寺大猷院廟)が

建立されていますが


東照宮が神仏習合の建築群であるのに対し

大猷院は純粋な仏式だといいます



輪王寺(天台宗)は

1655年には、後水尾(ごみずのお)天皇の皇子

守澄(しゅちょう)法親王が入寺し門跡(もんぜき)寺院となります


守澄法親王は、比叡山、東比叡(とうひえい・上野の寛永寺のこと)をも兼務


つまり輪王寺門跡に、天台座主、寛永寺貫主(かんず)をも兼ねることとなり


以後明治に至るまで、歴代の法親王は

管領宮(かんりょうのみや)として

三山〔比叡山・東比叡・日光〕を監督しました



1871年(明治4)の神仏判然令で

二荒山神社と東照宮が、輪王寺より独立しています




【 天海 (1536~1643) ・・・・

家康の帰依をうけ、家康に天台や山王一実神道と伝え

2代秀忠、3代家光も天海に帰依している

また、寛永寺において、天海版(寛永寺版)と呼ばれる

日本で初めての版本による大蔵経〔一切経。仏教聖典を集大成したもの〕

を刊行している。107歳まで生きている 】






山王神道は、明治の神仏分離によって廃止となり

主祭神は、東本宮:大山咋神(おおやまくいのかみ)

西本宮:大己貴神(おおなむちのかみ・大国主命の別名) と

なっています



『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神

此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあります



現在も残る山王社の多くは

大山咋神を祭神とする日枝神社や日吉神社などになっています




大山咋神は

大山に杭を打つ神

すなわち大きな山の所有者の神を意味するらしく

山の地主神であり、農耕(治水)の神とされます



『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)

および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座するとあり


日吉大社の他に、この神を祀ることで有名な神社が

京都嵐山の松尾山の麓にある 松尾大社です


なお、日吉大社の神使が猿、松尾大社の神使は亀と鯉です







法華神道



日本国中にまつる30の神々が

1ヵ月30日の間,毎日,順番に国家と人々を守るという信仰です


法華経の護法神として、天台宗(最澄が祀ったとも)に始まり

これを日像が、日蓮宗に取り入れ、さかんになったとされます


京都に日蓮宗を布教しようとした日像は

布教のために比叡山の三十番神を取り入れたといいます




日蓮没後、六老僧のうちの日昭から浜門流

日朗から比企谷門流(ひきがやつもんりゅう・池上門流ともいう)

日興(にっこう)から富士門流

日向(にこう)から身延門流 といった各門流が生じています


また、富木常忍(ときじょうにん・千葉氏に仕えた武士で

日蓮の有力信徒)を祖とする中山(なかやま)門流も生じています


さらには、日昭の弟子の日像による四条門流

日静(日朗の弟子である日印の弟子)による六条門流 が生じていjます


(六条門流は、四条門流とともに京都の日蓮宗主流派となった)


このうち最も栄えたのが、日像(1269~1342)の四条門流です



日像は、日蓮に将来を期待され

日蓮臨終のとき(このとき日像は14歳)に

帝都弘通(ぐつう)を託されたといいます


(創価学会は14歳という若さでそんことあるわけない

デタラメだと言っています)


比叡山のいやがらせで3度京都を追放されたそうですが

ついに、妙顕寺(日蓮宗大本山・

日蓮宗の京都における最初の寺院)の建立を許されています





室町後期には、京都の日蓮宗は、毎月2、3ヶ寺が建立され

市中は題目(南無妙法蓮華経)のちまた

と言われるまでに隆盛したといいます


信徒の多くは町衆と呼ばれる商業、手工業の者だったそうです



一方、山科本願寺(浄土真宗)は、畿内門徒に一向一揆をおこさせ

堺に三好元長を倒し、さらに京都市中に侵入する勢いにありました



これに対して町衆も武装化し出陣して一向一揆を撃破

細川氏・六角氏とともに山科本願寺を焼き討ちしたそうです


さらに畿内各地にしばしば出撃し、一向一揆と戦っています



これにより日蓮宗は自治権を拡大、年貢や地代が免除また軽減され

一種の警察権や裁判権を獲得したのです





これに対して王城鎮護を名のる比叡山(天台宗)は

1536年、園城寺、東大寺、興福寺、根来寺

東寺、本願寺などから援兵をうけ

さらに戦国大名の力を借りて連合軍を結成します



連合軍は洛中の日蓮宗の本山21ヵ寺の全てを炎上させました


このとき連合軍の兵力は18万とも15万とも8万とも6万ともいい

日蓮宗の兵力は2~3万だったといいます



これにより、日蓮宗僧侶は全員洛外へ追放

洛中での布教も禁止となったそうです


この21ヶ寺が焼き討ちされ

洛中のほとんどが焦土化した襲撃事件を

「天文(てんぶん・てんもん)法華の乱」といいます



なお、延暦寺は、日蓮宗が、天台法華宗の宗号を盗んで

法華宗を名のったことなどを罪状としてあげています








法華経の第26品はで、薬王菩薩、勇施(ゆぜ)菩薩、毘沙門天王(多聞天)

持国天王、十羅刹女(じゅうらせつにょ・鬼子母神の10人の娘たち)が

神呪(陀羅尼)を唱えて法華経の行者を守護することを釈迦に誓っています



十羅刹女は「若し我が呪に順ぜずして

説法者を悩乱せば頭破(こうべわ)れて七分に作(な)ること

阿梨樹(ありじゅ)の枝の如くならん」と述べています



ちなみに、日蓮の曼荼羅本尊の左肩には


"有供養者福過十号"〔うくようしゃふくかじゅうごう・

曼荼羅を供養する功徳は、十号(仏の10種の尊称。如来・世尊など)

を具えた者(=仏)を供養する福よりも優れる〕


右肩には

"若悩乱者頭破七分"(もしのうらんしゃずはしちぶん)

と書かれています



鬼子母神は

鬼子母経などによると、自分の子を養うために

人間の子を盗み、我が子に与えていたので人々の嘆きがやまなかった


そこで釈迦に救いを求めると

釈迦は、鬼子母の末の子 嬪迦羅(びんから)を隠した


鬼子母は7日の間、その子を捜し求める

そして子を失う悲しみを知ったことで、仏法へ帰依したとされます







伊勢神道



伊勢神道は

平安末期に神仏習合の影響のなかで発生し

伊勢神宮の外宮の神職 度会(わたらい)氏の人々が説いた神道で

度会神道ともいいます


社家(しやけ・代々特定神社の奉祀を世襲してきた家)

が説く神道説としては、わが国最初のものとされます



儒教・仏教など外来思想を加えながら

神道中心の反本地垂迹説を主張したところに特徴があります


「天照大神や神道は日本固有のものである

末世になり人の心が濁って悪くなったので

天照は衆生の教化を仏にまかせたのである

必要であるならいつでも神託を下す」




またもう1つの特徴は、外宮(祭神は豊受大神)を

内宮(祭神は天照大神)とを同等に説くことです


豊受大神(とようけのおおかみ)は

豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)ともいうように

女神であり、食物神です


両神格に格差をつけず

食物の神たる豊受大神をもっとも根本的な神として位置づけています







吉田神道


京都の吉田神社に奉仕する

吉田家〔本姓卜部(うらべ)氏〕に伝わる神道で


唯一神道ともいいます



室町中期の 吉田(卜部)兼倶(かねとも・1435~1511)が

その教学と行法を大成したとされます



儒教、仏教、老荘思想、陰陽道など

さまざまな教説を融和させたものですが


わが国固有の随神(かんながら・惟神)の道

を主張しています


随神(惟神)の道とは

日本の神々の神意にしたがって生きる道のことです



「釈迦や孔子の教えも神道に関係し、神道こそが根であり

儒教は枝葉であり、仏教は花実にすぎない」

「仏教はもともと神道という種子から出て

文字という枝葉によりささえられて花を開き日本へもどってきた」







垂加神道と吉川神道



垂加(すいか)神道は、江戸前期の儒者

山崎闇斎(あんさい・1618~82)が唱えた

神儒一体の神道です



「南学」は、土佐で興隆した朱子学の一派です


室町末の周防国(山口県)の儒学者

南村梅軒(むなみむらばいけん・1579~?)が

土佐に朱子学を伝えたので、南学の祖とされます


この梅軒の思想が、禅僧に受け継がれ

のちに禅から完全に分離され、土佐藩で発展したとされます



江戸時代初期の 谷時中(たにじちゅう・1598?~1650・

仏門に入るが朱子学を学んで還俗)

が、実質的な祖とされます


山崎闇斎は、谷の門下です


闇斎は、京都の妙心寺(臨済宗妙心寺派大本山)の僧となり

のちすすめられて土佐の寺に住し

ここで南学の影響をうけたといいます


しかし強烈な個性の持ち主ゆえ争いを生じ

土佐を追われ京に帰り還俗(このとき28歳という)


38歳のとき京で私塾を開き、門弟6千に達したといいます



53歳のときに吉川惟足(よしかわわこれたり)より神道を学び

垂加神道を提唱します

垂加は闇斎の神道号で惟足が授けたものです




吉川惟足〔1616~94・紀州、加賀、会津の諸侯に仕え

江戸幕府の神道方に任じられた〕は

吉川神道を創始しています


これは神道に、陰陽五行説や朱子学の考えを取り入れた神道で

山崎闇斎の垂加神道は、これを発展させたものといいます



垂加神道とともに、儒家(じゅか)神道の代表とされています






復古神道



復古(ふっこ)神道というのは、国学と結びついた神道です


簡単にいうと

これまでの外来の思想(仏教や儒教)と結びついてきた神道を批判して

「天照の時代に帰れ!!」という神道です



国学というのは、記紀(古事記・日本書紀)や

万葉集・古今和歌集などの古典の研究にもとづき


仏教や儒教が渡来した以前の

日本固有の文化や精神を明らかにしようとする学問です




和歌なんて、理念的に研究してなんの意味があるの?

という感じですが


例えば、古今和歌集

〔平安時代初期に成立した

わが国初の勅撰(勅命により編集)和歌集。20巻。1111首〕の場合


成立後100年以上もたつと、歌の本文や解釈について

各人各派の注釈が行われるようになり


室町時代中期になると、難解な歌や語句などの解釈が

歌道や神道その他で、密教のように師から弟子へ

秘伝として受け継がれる≪古今伝授≫が誕生し

堺・奈良・二条の各流派が成立しています




国学は、江戸中期から後期の「国学の四大人(しうし)」と呼ばれる

荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)

本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)

また彼等のその門流によって確立されたとされます



なお、真淵は春満の、宣長は真淵の直接の弟子であり

篤胤は宣長没後の門人です



復古神道も彼らによって提唱された神道です


内容は、外来の仏教や儒教と融合してきた

これまでの神道を批判し


仏教や儒教を排除して、国学に神道の理念をもとめたもので


天皇中心と、神道第一主義を根本とする神道です







国家神道



神道は、明治になって、国家主義・民族主義と結ばれます

これが「国家神道」です



国家主義、帝国主義と結びついた

神道というのは具体的にどんなものだったの?


宗教と祭祀を分離し、神道は国家の祭祀であり非宗教

超宗教である としたところに特徴があります




明治政府は当初、祭政一致の理念のもと神道を国教化し

国民精神の主柱にすえることを目指し

神仏分離令により寺院と神社を明確に分離します



これにより八幡大菩薩など神に菩薩号をつけること

権現号を用いること

日本の神に仏教の仏菩薩を本地としてあてること

御神体に仏像を用いることなどが廃されました




当初、神道の国教化を目指したが失敗します


失敗の原因は祭政一致が近代国家にふさわしくないことを悟ったことと

仏教が思いの他、国民に根強く定着していることを思い知らされたこと

によります



すると今度は、宗教と祭祀を分離し

神道「は国家の祭祀であり非宗教、超宗教」であるとしました



明治政府により創始された「国家神道」は

第二次大戦の敗北により解体されました



具体的には


そして全神社を政府が保護、監督し

天皇崇拝と神社信仰を国民に義務づけました


国家、天皇に忠実な人間をつくるための神道だったわけです


戦争遂行のための精神的支柱となった神道だったのです



具体的には、天皇を現人神(あらひとがみ)とし

天照大神を祀る伊勢神宮を全神社の本宗(ほんそう)と定め


一村一氏神を決めて地域の信仰の中心にすえ

国民全てを地元の神社の氏子として組織しました



各学校には、天皇、皇后の御真影(ごしんえい・写真)を配布

聖像として礼拝することを義務化しました


それとともに先祖崇拝をも強調したのです





国家神道




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