緋山酔恭「B級哲学仙境録」 新興宗教とオウム ① 宗教の特徴



B級哲学仙境論


新興宗教とオウム


 




新興宗教とオウム ①




オウム真理教という宗教は

なぜ暴走し、自ら破滅していったのでしょうか?


信徒にとって、麻原彰光(しょうこう)とはどういう存在で

麻原教祖は、いったいどういう思考をしていたのか?


ジャーナリストの方々が

雑誌やTVの報道番組において様々に論じ


また、宗教評論家や心理学者の方々が本を書き

明らかにしようとしてきました



しかし、どのTV番組、またどの本も

私の疑問に答えてくれるものではありませんでした


それは彼らが、宗教について

勉強不足のもとに、ものを語っているからです




私の疑問とは

どうして他の宗教団体は、みんな

≪よろしくやっている≫のに

オウムだけあんなになっちゃったんだろうか?

ということです


つまり≪よろしくやってりゃいいのに≫

どうしてあんな事件を起こしていったのだろうか?

ということです




これについての信者の意識はわかります


人には誰しも「父性原理」を求める気持ちはあります


麻原の気持ちに応えようと

その欲求を暴走させていったということでしょう


分からないのは麻原教祖の心理なのです




麻原に「慢心」や「勘違い」があったのは分かります


慢心、勘違いというのは、小さな権力に溺れて

教団内部の殺人は揉み消せても

他人を殺したら大変なことになることが

分からなくなっちゃっていたんでしょうね


我々の社会でも

身内の間の暴力なら大ごとにならずにすんでも

他人を殴ったら大変なことになります



麻原はそうした「慢心」から暴走してしまった

それだけなのでしょうか?



これに迫るには

宗教について、深く知らなければなりません


そこで、宗教(とくに新興宗教)の特徴、新興宗教の分類から

宗教の本質を明らかにしていきます






宗教の特徴



まず、宗教というものが持つ特徴を6つあげておきます



1、ドグマを真理と教える



キリスト教なら 唯一絶対神が6日間で宇宙の全てを創造したとか

マリアが処女のままイエスを産んだとか


悪魔はもともと天上界にいた天使で

イエスの試練に耐えきれず地上に落とされた堕天使であるなどといった

「真理」があります



神が6日で世界を創造したという話は旧約聖書にあります


「マリアの処女懐胎」や「悪魔は堕天使」は

1962~65年に行われたカトリックの公会議で正統教義として承認されています



しかしこのような真理は、その宗教宗派にしか通らない話です


特定の宗教宗派にしか通用しない真理など

私に言わせると真理ではなくてドグマ(独善)です



題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば

自己に内在する仏界の生命である南無妙法蓮華経が

曼荼羅を仲立ちとして、宇宙の仏界である南無妙法蓮華経と合致し

自己の仏界が顕現される

こういうのはみんなドグマなのです



では、真理とは何か? ここに水の入っているコップがあったとします

このコップの中身を「水である」と言えば真理だし、「火である」といえば虚偽です

ただそれだけのことなのです





麻原は≪オウム真理教においての「愛」「慈悲」とは

全ての衆生に対して、高いステージに転生してもらうための心の働きだ≫

と語っています


そして「ポア」(殺害することで高いステージに転生そせること)

などというドグマを

ヴァジラヤーナ(麻原の教え。もともとは密教のこと)の真理である

と教えたのです





じつは、この「ポア」に似た思考が、じつは、創価学会にもあります


入信を勧めることを日蓮仏法では「折伏」(しゃくぶく)といいます

教えを説いて相手を折り伏せ帰依(きえ)させる意味です


この折伏で、素直に教えを聞いて入信する者を順縁

逆に日蓮の法をそしり、その罪で地獄に堕ち

後に信心する者を逆縁といいます


逆縁の者も折伏により、仏法の種が植えられるので

いずれ仏道を求める種が開き、最終的には救済されるとされます


この教えを「毒鼓(どっく)の縁」といいます




日蓮の御書には


"本と大の善根もなく今も法華経を信ずべからずなにとなくとも

悪道に堕ちぬべき故に但 (ただ)押して法華経を説いて

之を謗 (ほう)ぜしめて逆縁ともなせ"


〔 もともと大きな善根を積んでおらず、法華経を信じる力量がない者は

そのまま放っておいても悪道に墜ちていくので、あえて法華経を説き聞かせ

そしらせることによって逆縁を結ばせなさい 〕



"末代の凡夫はなにとなくとも悪道を免れんことはかたかるべし

同じく悪道に堕るならば法華経を謗ぜさせて堕すならば

世間の罪をもて堕ちたるには・にるべからず、 (中略)

法華経をはうじて地獄に堕ちたるは釈迦仏・阿弥陀仏等の

恒河沙(ごうがしゃ)の仏を供養し帰依渇仰する功徳には百千万倍すぎたり"


〔 末法の凡夫は、何もしなくても悪業が深いので、悪道を免れるのは難しい

同じ悪道に堕ちるのなら法華経をそしらせて堕せば

世間の罪で堕ちたのとは全く違う

法華経をそしって地獄に堕ちた者の功徳は

釈迦や阿弥陀などの無数の仏を供養し

帰依、渇仰する功徳の百千万倍勝っている 〕


とあります



この毒鼓の縁を根拠に

"日蓮仏法は全ての衆生を必ず成仏させる唯一の法である"

との主張がなされているのです




法華経の 常不軽菩薩品(じょうふぎょうぼさつぼん・第20品)に

悪世に24文字の法華経を説き

人に対し礼拝することをやめなかった不軽菩薩(常不軽菩薩)の話があります


この不軽菩薩は会う人に

「我れ深く汝等(なんじら)を敬う。敢(あ)えて軽慢(きょうまん)せず

所以(ゆえん)は何(いか)ん。汝等皆菩薩の道を行じて

当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得(う)べし」

といういわゆる「24文字の法華経」を唱えて礼拝しました


〔 我深敬汝等(がじんきょうにょとう)

不敢軽慢(ふかんきょうまん)、所以者何(しょいしゃが)

汝等皆行菩薩道(にょとうかいぼさつどう)、当得作仏(とうとくさぶつ) 〕



全ての人に仏性が具わることから

彼らはいずれ菩薩の道を行じて仏になる人たちである

として礼拝したわけです


この功徳で、不軽菩薩は成仏したとありますが

この不軽の行為に対して

人々は杖で打ったり、石を投げつけて迫害を加えています





おもしろいのは、それに対する不軽の態度です


杖でたたかれ、石で追われると、少し逃げて

また振り返って「我れ深く汝等を敬う」と言っては礼拝します



不軽菩薩は、釈迦の過去世の1つだとも言われています


日蓮は"法華経の修行の肝心は不軽品にて候(そうろう)なり

不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ

教主釈尊の出世の本懐(生まれてきた本当の目的)は

人の振る舞いにて候けるぞ"

と述べていいます




私なんかが不軽の話を読むと

「しつこいやつだな(笑)」と感じますが

一般的には素晴らしい菩薩とされています





但しこの話には、続きがあります


不軽に迫害を加えた人々は、千劫という計り知れない長大な期間

無間地獄〔むげんじごく・間断なく大苦を受ける地獄

梵語の音写で阿鼻(あび)地獄ともいう〕に堕ちて


その罪を終えてから

再び不軽の教化を受けて仏に成ることができたとあるのです



先に述べた日蓮の「毒鼓(どっく)の縁」は

不軽菩薩の話を根拠に立てられたわけです





なお、毒鼓とは、毒薬を塗った太鼓のことで

日蓮は、謗法(ほうぼう・正法をそしること)の者に

法華経を説いて地獄に堕とすことを、毒鼓の音に譬えています


本来は大乗涅槃経にみられ、涅槃経を譬えた言葉らしく

毒鼓の音を聞けば皆、死に至るように

涅槃経を聴けば思うが思うまいが、煩悩が滅却されるというものらしいです



中国天台宗の祖 天台大師 智顗(ちぎ)は

忉利天の天鼓(とうりてんのてんく)を「生善」、毒鼓を「滅悪」とし

毒天二鼓が仏の説法であると説いたといいます




【 忉利天の天鼓・・・・

帝釈天が住するとされる忉利天の善法堂にあり

打たなくとも自然に妙音を発し、聞く者は悪をつつしみ善を好む心を生じる

また勇気が奮い立つ。仏の説法のときに鳴るとされたり仏の音声に譬える 】








2、言葉のバーテャルな世界にひきずり込む



例えば、もとオウム真理教の大幹部で

現在はオウムの後継団体の1つ「ひかりの輪」の代表

上祐史浩(じょうゆうふみひろ)氏が

オウムに出家する際、母親にこう語ったそうです


「第三次世界大戦で核戦争がおきて、人々が焼かれるのを防ぐためにも

母さんのためにも 出家しなければいけない

僕たちが一生懸命修行したら、特別な変化がおこって

世の中が真理にもとづく平和になるんだ」




≪第三次世界大戦≫  ≪特別な変化≫

≪真理≫  ≪真理にもとづく平和≫  ≪救済≫  ≪使命≫

≪人類愛≫  ≪世界の終末≫  ≪解脱≫

≪宇宙の根本原理≫  ≪宇宙根源の法則≫



宗教とは、このような言葉の世界に人間をひきずり込み


言葉のバーチャルな世界において

組み立てられた思考でしか

ものごとを考えられない人間をつくるわけです








3、根拠を与え、使命感を与える



人間は

「自分は○○会社で一番営業成績のいいごんた」とか

「自分は○○家の父のごんた」とか


「自分はこんな珍しいモノを所有しているごんた」とか

「我々は神に選ばれた民族である」とか

いった根拠を人は求めます



こうした根拠は

救済原理〔自分を成り立たせている根源的な論理〕でもあり

幸福の源泉でもあるのです




とくに宗教というやつは

死後にまで自分の根拠が存在するので、麻薬性が強いのです


「死後、天国に生まれて永遠の幸福を得る」とか

「死後、宇宙の仏界に溶け込む」とか・・・



結局、釈迦も、イエスも、ムハンマドも

日蓮も、オウムの麻原教祖も・・・・


いいとか悪いとかは別にして

自分の根拠を自分で築けない人たちに、根拠を与えてあげたのです


また、根拠の上に、使命なり、使命感というのが生まれているのです



その意味において宗教とは、人を幸福にします



イエスと、麻原を一緒にするなんてけしからん!!」

という人は

個人の幸福と、社会の幸福をごっちゃに考えているのです



神戸牛のステーキ食べて

「美味しかった!幸せだ」と言っている人に対して


「肉を食べれば、家畜の飼料として穀物が多く必要となり

飢餓が増えるんですよ。あなたそれでも幸せですか!!」

と言っているのと同じなのです



そもそもキリストの教えがそんなにすごいのなら

「魔女狩り」なんておこるわけないのです(笑)





宗教とは、詐欺的側面を持ちますが

人に根拠を与えられる=幸せにする という側面ももつのです



ただ、彼らがしていることは

神仏などによって解決できるとし、根拠を与えるというものであって


その結果、人間は、依存、熱狂、陶酔、盲目な状態になります





人間という存在は、救済原理にすがってさえいれば

いい意味でも悪い意味でも「次こそは何かある」

「まだ何かある」と空虚な人生を埋めることができるのです


結局、全ての人は救済原理によって生きている

その意味でみんな大差がありません



「私には執着がありません」なんて言っている

禅宗の立派なお坊さんも


ガンプラ(ガンダムのプラモ)集めることを

人生の生きがいにして自己実現いる人も

救済原理によって生きているということでは、五十歩百歩なのです





大半の人は、自分で方向性を決められないのです

誰がなんて言おうと自分を信じて行動することができません


だから「魔女狩り」ないていう歴史がおこるのです



それはなぜでしょう?


本質を見抜く力がないからなのです


そのため、誰かに決めてもらいたいのです

「これはこうです」と言ってもらいたいわけです

それによってはじめて自分を信じて行動できるのです




ニーチェは

「自分に命令する力のないものほど、自分を命令するものを求める」

と述べていますが


釈迦も、イエスも、日蓮も

創価学会の池田さんも、幸福の科学の大川さんも


オウムの麻原教祖も

そうした人たちのために

救済原理、存在理由を創造してあげたのです





ひとたび信者になってしまうと

教えが「真理」か「虚偽」かではなく


信じたことを「絶対に正しい」「真理である」

と思い込みたいだけの状態になります



なぜなら、教えが間違っていたとしたら

自分の根拠が失われてしまうわけですから・・・・



だから、信者というのは

教祖にちょうちんのようにぶらさがっているのです








4、自分の欲でしていることを
救済にすりかえさせる 



これは、教祖はもちろん、信徒も

自分の欲でしていることを

救済や使命にすりかえて行動しています


教祖の仕事は、およそ信徒の使命感(=欲)を、あおり

自分の欲を実現させることにあります



本来、そもそも人間が行動する意味は

「痛みをさけ、快楽を得る」ことに他なりません


ダイエットする人は、今の体重が痛みで、体重を減らすことが快楽


ダイエットしない人は、食事を減らしたり

運動することが痛みで、好きに食べるのが快楽


人によって何が痛みで、何が快楽かが違うだけで

人間の行動する意味は「痛みをさけ、快楽を求める」というものです



創価学会の信者が

「学会の教えだけが唯一、宿命転換できる教えです」

なんて言っているように


本来、自分の快楽の追及

つまり、利を得たいとか、宿命を変えたいとか

いったことが基本なのです



また活動に、熱狂したり、陶酔したりすること自体、快楽です


それを、「人類愛」「世界平和」「慈悲」

なんていうバーチャルな言葉の世界で塗り固めているのです




オウムの麻原は


「皆さんは必ずハルマゲドンに巻き込まれる

これは避けることができない

残り少ない時代を全力で救済者として生きようではないか」


「1999年から2003年までの間に確実に核戦争がおきる

私たちに残された時代はわずか15年しかない」


「人類を救済するには、3万人の解脱者が必要だ」


など信徒と語り、勧誘活動をさせていたのです








5、階級の逆転



この5は根本的には3に含まれます


社会で、自分の根拠を創造できなかった人

社会で必要とされなかった人が


宗教に入信すると

「信じる者が救われて、信じない者は地獄に行く」

などといった教義のもと

階級を逆転させることができるのです


階級の逆転とは、すなわち優越と劣等の逆転です



さらにオウムは、この優越・劣等の原理を

教団内でも徹底させていきます


それが≪ステージ≫です


そして、これが

「精神のステージの高い者が

低い者をポア(殺害)することが≪救済≫である」

なんていう教義の基礎となったのです



「幸福の科学という宗教もこうしたステージが基本となっています




創価学会では、かつて「罰論」(ばちろん)なんてのを

全面に押し出して布教をすすめてきた時代がありました


これも「世法」「国法」に従って生きる一般人

「仏法」に従って生きる創価学会員

という立て分けをし

階層逆転の方程式を、信者にすりこんだものと言えます




罰論とはおよそこんな↓話です


≪「罰」も「功徳」も日常の生活にあらわれてくるものである


例えば、信号を無視して横断した場合

自動車にはねられたり、警官に怒られたりする


これは法則があるにもかかわらず従わなかったから出たものであり

外界の者(神とか先祖)が「罰をあてた」とかいうものではない


自らが不幸の中に飛び込んでいったようなもので、このときの損害を罰という



我々の生活には様々な法が存在している

憲法とか刑法とかいうようなものである


しかしこれらは、生活の一部に適応される法であり

また人間がその時代に都合のよいようにつくるものであるから

時代が変ればその法則も変る



ゆえに、このような法に反しても、反動(罰)は少ないと言える


しかし宇宙の根源の法則である

因果を無視した罰は計り知れない

生命は三世(過去、現在、未来)永遠である ≫



≪ 様々な「法」は「世法」(世間法)

「国法」、「仏法」の3つに大別される


世法は、社会的な常識で、これに反すると

おかしな人だとうわさされたりするなどの罰を受ける


国法は、国の法律

仏法は、生命の世界の因果の理法である



これらの違いを「網」(あみ)に譬えると

小さく目の粗い網が「世法」

大きさも目の粗さも中くらいのものが「国法」

大きく目の細かいものが「仏法」である


「世法」の網の及ぶ範囲は狭く「正邪」「善悪」の峻別も厳正ではない

世間の見方や判断が誤っている場合も多々ある


「国法」は「世法」に比べ、適応範囲が広く、罰則規定もあるが

法の網をくぐって逃げおおせてしまう悪もある



このように世法、国法は、人間のつくったもので

効力には自ずと限界があり、絶対的基準にはならない



これに対し、仏法は、三世永遠に変らぬ生命と

宇宙の真理を解き明かした法である


ゆえに、我々の生命活動において

1つとして仏法の網から漏れることはない


自らの行為の善悪は「善業」「悪業」として

厳然と自らの生命に刻まれるものである ≫








6、詐欺的要素



これは根本的には、1や2に含まれます


A、不安を煽って唯一救われる方法を提示する

これは、霊感商法などで顕著です



B、根幹部分=たとえば、宇宙の真理などという話 ではドグマを語るが

枝葉末節=人生訓みたいな話 では、ためになることを言って信用を確保する


という特徴があります



例えば、創価学会なんかでは

南無妙法蓮華経が、宇宙の根本原理であり、宇宙の究極の法則であり

南無阿弥陀仏(念仏)を唱えると地獄に落ちる

念仏宗の信徒の死相はみな苦しみに満ちている

などと教えます


しかし、念仏宗の信徒でも安らかになくなる人はたくさんいるでしょ(笑)



こういうふうに根幹の話では、ドグマを真理として語るのですが

人生訓、人の道みたいな枝葉末節的な話では、普遍的なことを語るのです


これによって信用性を確保するのです








以上の6つは

すべての宗教が多かれ少なかれもつ要素であり

このうち、2番目が、全ての根本になります







7、敵をつくる



これは、日蓮系、創価学会、そしてオウムなんかで顕著です



日蓮は、他宗派は、みんな「間違えだ!!」と激しく攻撃しました

≪念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊≫と非難したのです



当世念仏者無間地獄事に、

"何(いか)に況 (いわん)や念仏宗の長者為る善慧(ぜんえ)・

隆観(りゅうかん)・聖光(しょうこう)・薩生(さっしょう)・南無(なむ)・

真光(しんこう)等・皆悪瘡(あくそう)等の重病を受けて

臨終に狂乱して死するの由之(これ)を聞き又之を知る

其の已下(いか)の念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず"

とあったり


また、小乗大乗分別抄では

"当世の禅師・律師・念仏者なんど申す聖一(しょういち)・

道隆・良観・道阿弥・念阿弥なんどと申す法師どもは

鳩鴿(いえばと)が糞土(ふんど)を食するが如し"

と述べています




その一方


"仏(釈尊)の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・

たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし"



"大地はささばはづ(外)るるとも

虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも・

潮のみちひ(満干)ぬ事はありとも日は西より出づるとも・

法華経の行者の祈りのかな(叶)はぬ事はあるべからず"、



"願くは我が弟子等は師子王の子となりて

群狐(ぐんこ)に笑わるる事なかれ"



"各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ

師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし

彼等は野干(やかん・キツネ)のほう(吼)るなり

日蓮が一門は師子の吼(ほう)るなり"、



"此の経文は一切経に勝れたり地走る者の王たり

師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり鷲(わし)のごとし

南無阿弥陀仏経等はきじ(雉)のごとし兎のごとし・

鷲につかまれては涙をながし・師子にせめられては腸(はらわた)をたつ

念仏者・律僧・真言師等又かくのごとし

法華経の行者に値(あ)いぬれば・いろを失い魂をけすなり"、



"犬は師子をほう(吼)れば腸(はらわた)くさる・

修羅は日輪を射奉れば頭(こうべ)七分(しちぶん)に破(わ)る

一切の真言師は犬と修羅との如く・法華経の行者は日輪と師子との如し"



"仏法を学し謗法の者を責めずして徒(いたず)らに

遊戯雑談(ゆげぞうだん)のみして明し暮さん者は

法師の皮を著(き)たる畜生なり"


などといった言葉で

信徒の心を鼓舞しています



他宗教の教祖は、徹底的に批判し

信徒の頭を「いい子、いい子」なでているわけです(笑)



そして、信者の思考を

バーチャルな言葉の世界でみたしていくのです




日蓮とまったく同じことをしたのが

創価学会の池田大作さんです




≪ みんな、しっかりした考えをもっているね

全部、それぞれ正しいと思う


そのうえで、私が言っておきたいのは

実は、広宣流布(こうせんるふ・布教のこと)のために働いている

皆さんのお父さん、お母さんこそ"国際人"なんだということです


その理由は、毎日、全人類の幸福を真剣に祈っている

そして、利己主義を捨てて、人の幸福のためにボランティアで行動している


毎日、忙しいなかを、世界的な大哲学である仏法を学んでいる

その人こそ、「世界から尊敬される人」です

「世界に通用する生き方」なんです


たとえ一回も外国に行ったことがなくても ≫



(「青春対話Ⅱ」② (聖教新聞社) 国際人って何?) 






創価学会の「折伏経典」に

〔かつては日蓮の御書に次ぐ聖典として扱われていた。会員の間では

「内容は正しいが、表現が過激で今の時代に合わない。だから封印した」

と言われている

昭和26年初版発行。以下の文は、昭和40年発行の改訂版によるもの〕



≪ いま、身延山には七面山、石割り稲荷、日朝堂、願満稲荷

摩利支天堂、帝釈堂、瘡守(そうしゅ)稲荷、鬼子母神堂等々があり

その前にさいせん箱をおいて金もうけに必死で

ニセ本尊を店頭で売り出しているありさまである

こんなものを拝み歩いてなんの利益があるのか

ますます不幸のドン底へおちいることはとうぜんである

本尊の雑乱は日蓮正宗以外の各宗派に共通であるが

とくに身延山を本山とする日蓮宗ははなはだしくて

末寺の小寺では、まったくとんでもないものを祭って拝ませている


これらは、すべて無知の大衆を迷わせて

坊主が生活のかてにしているものである

とくに身延や中山の行者の狂乱ぶりはまったく身の毛がよだつ思いであり

これらの邪教にたぶらかされて苦悩のドン底にあえぐ大衆こそ哀れである ≫


とあります




このように、かつては

身延派(日蓮宗)が≪一番悪い≫として、攻撃し


その後、喧嘩別れした

大石寺(日蓮正宗総本山)の法主(ほっす)を

≪極悪≫として盛んに攻撃しているのです(笑)


(もともと、創価学会は、日蓮正宗の講の一つとして出発しています)




つまり、日蓮系の宗教というのは

敵があってはじめて成立するわけで

都合に応じて、敵を変えたり、つくったりしていくのです



創価学会という団体はかつて

神道から新興宗教まで

あらゆる他宗教をこのように批判してきたのにも関わらず


自分が批判されると≪宗教弾圧≫と騒ぎ立てる

きわめて幼稚で、たちの悪いの集団です





一方、オウムが、敵としたのは≪社会≫や≪国家≫であり

サリン70トンを製造し、人類70億人をボアするなんて発想に至り

空からサリンを撒くために

ソ連の軍用ヘリコプターまで購入していたといいます



さらには核武装計画まで立てて

原料になるウランが採れる土地をオーストラリアで購入しています


≪日本ハルマゲドン計画≫とは

在家信徒を含めて

一般の人々を全てポアし、救済することであったといいます





新興宗教とオウム ② 霊友会・真光・天理教




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