緋山酔恭「B級哲学仙境録」 進化論 Ⅰ ダーウィン



B級哲学仙境論


進 化 論


 




進化論 Ⅰ




ダーウィン ①



イギリスの生物学者 チャールズ・ダーウィン(1809~1882)が

1859年に発表した「種の起源」にみられる生物進化論は

様々な批判を受けつつも現在まで生き残っています


彼の説を一部修正した「ネオ・ダーウィニズム」(新ダーウィン主義)が

今でも正統派、主流派の位置を譲りません



ダーウィンの進化論をひとことで言うと「自然選択」です


自然に適応した生物が生き残り

適応しない生物が滅んでいくというものです





ダーウィン父は、医師で

母は、陶芸家・実業家として有名なウェッジウッドの娘です


ダーウィンもウェッジウッド家の従姉妹(いとこ)を妻にしています



また、祖父の E(エラズマス)・ダーウィンも

医師であり、進化論者でした


彼は、フィラメント状の生命が

海で発生し、陸上生物へと進化したという進化説を唱えたそうです




ダーウィンは、ケンブリッジ大学で学び

牧師になるつもりだったそうですが


博物学(動物、植物、鉱物、地質学などの総称)に関心があり

植物・動物の採集や、地質調査の旅行をしていたことから


1831年に大学を卒業すると、同年末

海軍の測量船 ビーグル号の世界周航に、博物学者として乗船します



船は5年間の航海で

南アメリカの海岸、南太平洋諸島、オーストラリアを巡り

ダーウィンは、化石や動植物や地質を調査しました



帰国後、種の起源や変異について研究した結果

「生物は多産であり、過剰生産をするため生存競争が起こる

その結果、環境に適した変異が保存され

適さない変異は淘汰されていく」という結論を得たといいます



なお本来、ビーグル号の航海の目的の1つは

世界の多様で不思議な生物の存在を明らかにし


これは「神の業(わざ)」「神の創造」以外にあり得ない

と結論付け、神の偉大さ、聖書の正しさを証明することにあったそうです





ダーウィンは、ガラパゴス諸島で採集した

フィンチ類

〔スズメに似た体長10~20センチの鳥

ガラパゴス諸島には13種が存在(世界には14種)

これらは1種の祖先から分かれたものとされる〕のくちばしの形が


餌〔昆虫・種子・雑食・サボテンの花や花蜜など〕

によって違うこと〔ピンセット形・モンキーレンチ形・両者の中間形など〕

に着目します







そしてこれらは共通の祖先より自然環境に適応するため

何千年もの時間をかけて分かれていった

という結論を導き出したのでした



ちなみに、フィンチは、ダーウィンが

最も注目した存在のように言われていますが


ダーウィンは、当初、それぞれが全く別の種の鳥であると

考えていて重視していなかったようです



鳥類学者によりこれらが近縁の種であると分り

ダーウィンはこの鳥の採集をいい加減に行ったことを

ひどく後悔したとも言われています





ではどこから進化論のヒントを得たの?


ハトのようです



キリスト教というか旧約聖書では、神が天地を創造した後

地球上の全ての生物を、永遠に不変な存在、完成された存在

進化したり退化したりしない存在として作ったとされています



ところがダーウィンの時代

すでに観賞用の様々なハトが

カワラバトという原種から人間の手で作り出されていたのです




以下、写真、転写


 
 カワラバト



     
   
     
     
     




神によって創造された永遠不変の存在であるはずの生物が

人間の手で創造されていたということです



そこでダーウィンは

「このような人の手による選択と同様なことを

自然は長い時をかけて行ってきたのではないのか!」

と気づき「進化論」に至ったようです



生物は「突然変異」と「自然選択」

その積み重ねによって進化してきた

という考えに至ったのです




ダーウィンは、人間と猿とが同じ祖先より分れた

と書いたことで

「人間は神の似姿(にすがた)として創造され

海・空・地上のあらゆる生き物を服従させ、奉仕させる権限を持つ」

というキリスト教の教義と対立することになります



なお「種の起源」(1859)では、人間に関して

ほんのひとこと書かれているだけでしたが


「人間の由来と性選択」(1871)で

人間も他の生物と同じ法則に従い

進化してきたことを明しているそうです



それによりはじめは多くの人から反感を買いましたが

やがてダーウィンを支持する者が現れ

彼の説に反対する者との論争が繰り広げられたそうです


そうした結果、証拠を積み重ねたダーウィンの説は

しだいに人々に受け入れられていったようです




また、ダーウィンは、万能であるはずの神が

なぜ、生物を過剰に生産し、生存競争を起こさせているのか

ということにも疑問を抱いていたといいます


但し、ダーウィンは

ただの一度もキリスト教の批判は行っていないそうです



ローマ教会が、ダーウィンの進化論が

カトリックの教義に違反しないとして

彼の進化説を受け入れたのはなんと、1996年(平成8)です






それから、ダーウィンは

シカやクジャクのように

雄と雌で、形や色また生態が著しく違う動物に対して

「性淘汰」(性選択)という進化説を唱えています


性淘汰には2つあります


異性を獲得する争いで

優れた武器(角や牙)を持つものが、生き残り子孫を残す


これにより優れた武器が進化していくという「同性間淘汰」



雌が顕著な形質を持つ雄を選択する


これにより顕著な形質を持つものが子孫を残し

その形質が進化していくという「異性間淘汰」です







ダーウィン ②



「種の起源」の内容は

家畜や栽培植物は、育種家が生物のわずかな変異に着目し

これを選択改良(人為淘汰)して作ったものである


自然界の生物は体の部分に様々な変異を持つ


また多産で、生じた種子や生まれた子で

大人になれるものはごくわずかである


これは生物間に生存競争があることを意味している



餌を得ること、繁殖相手を得ること

敵から逃れることなどの生存競争において

より有利な変異を持つ個体が生き残り繁殖する

そうでない個体は滅ぶ (適者生存・自然淘汰)



生き残った適者の子孫には

親よりさらに有利な変異があらわれ

このような変異が蓄積されるとやがて変種が誕生する (進化)


といったところで

形態学や発生学の観察事実や、痕跡器官の存在により

各生物が、下等なものから次第に進化してきたとしています





「淘汰」ってそもそもどんな意味なの?


「淘」は、水中よりすくってより分けること

「汰」は、水を注いで洗うことで


「淘汰」とは洗ってより分けることだそうです


転じて、よいものを選択し

悪いものを除くという意味になったようです





この「種の起源」を出版するまでに

ダーウィンは、着想から20数年もかかっています


33歳のとき、自説のあらましをノート35枚に書きとめたそうですが

大著「自然淘汰」(未完)の著作にとりかかったのが、1856年(47歳)です



2年後の58年に、文通相手の ウォーレス(イギリスの博物学者)

から受け取った論文が、自説とほとんど同じだったため


同年、未発表論文の一部にウォーレスの論文をあわせ

連名でロンドンの学会に提出したといいます



一方、自然淘汰の執筆をひとまず中止し

あらましだけを書き上げて

翌年発表したものが「種の起源」だといいます






●  アルフレッド・ウォーレス(1823~1913)


イギリスの博物学者、進化論者、探検家


昆虫学者のベーツと1848から52年までアマゾンに博物採集に行く


54から62年には、現在のマレーシアとインドネシアを探検

ある海峡を境に、生物の特徴が変わることに気づく



その境界とは

ロンボク海峡〔東南アジアのバリ島とその東隣のロンボク島との間〕と

マカッサル海峡〔ボルネオ島とスラウェシ島との間〕をほぼ南北に通る

境界線(ウォール線)で


この線を境に西側は東洋区の生物

東側はオーストラリア区の生物が見つかることを明らかにした



また、ダーウィンとは独立的に自然選択の原理を見出し

「変種がもとの型から出て無限に離れていく傾向について」

という論文を著し

58年にマレー半島からダーウィンに送った



ウォーレスは、自然選択の原理の発見を

ダーウィンの功績とし

自然選択の原理を「ダーウィニズム」と呼んだ



これはダーウィンの社会的、また科学者としての地位が

ウォーレスよりもはるかに高く


ダーウィンなしで彼の見解がまじめに採り上げられることは

ありそうになかったからだという



むしろウォーレスは、ダーウィンによって

イギリス科学界の最高レベルの一員となった



ウォーレスとダーウィンとの違いは

ダーウィンは、同種の個体間の生存競争を強調したのに対し


ウォレースは、地理的、環境的な圧力が

変種を生みことを強調したという



また自然選択が「生殖的隔離」

(ウォーレス効果・互いの間で交雑が起きないようになる仕組み)

をもたらすことを指摘


64年には「人種の起源と自然選択の理論から導かれる人間の古さ」

を発表し

ダーウィンよりも前に進化理論を人類に適用した



ところがまもなく

心霊術(死者との交信をめざす思想)に傾倒


「数学能力、芸術能力、音楽の才能、抽象的な思考

ウィットやユーモアは自然選択では説明できない」


「人間の脳は自然選択によるものではあり得えない」とし


無機物から生命が誕生したとき

動物への意識が芽生えたとき

人類の精神能力が発生したとき の少なくとも三度は

「宇宙の魂」が関与したと主張したという



彼の「宇宙は、人類の霊性を進歩させるために存在する」

という視点は


ダーウィンより拒否されたが

心霊術に傾倒したのちもダーウィンを支持


89年には「ダーウィニズム」を出版し

自然選択に向けられる科学的な批判に応えている







ちなみに、ダーウィンの進化学説

とくに「適者生存」の原理を

人間社会に適応し


「人間の社会は、適者生存の原理が支配している」

とする思想を「社会ダーウィニズム」といいます




それから

イギリスの哲学者・社会学者の スペンサー(1820~1903)は


進化を、自然(宇宙、生物)だけでなく

人間の社会、文化、宗教、道徳、心理など

あらゆるものを貫く第一原理であると考え


あらゆるものが、単純なものから複雑なものへと進化・発展する

という「社会進化論」を唱えています



スペンサーの理論は

ダーウィンの進化論にヒントを得たとされますが


むしろ、ダーウィン以前の進化論者 ラマルクの「用不用説」

(使用する器官は発達し、使用しない器官は発達しない)

に近いそうです



明治期の日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され

「スペンサーの時代」と呼ばれるほどであったといいます





進化論 Ⅱ





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