緋山「B級哲学仙境録」 修験道と山岳信仰 ① 霊山と女人禁制



B級哲学仙境論


修験道と山岳信仰


 




修験道と山岳信仰 ①




修験道とは山岳で修行し

霊験〔れいげん・験は{「しるし」の意味

一種の超能力。霊力。功力(くりき)〕を得


この霊験によって加持祈祷、

調伏〔ちょうぶく・怨敵や魔を降伏させる呪法〕

治病なんかを行うものです



治病には

邪神や動物の霊が憑(つ)いたとし、経文や真言を唱えたり

人形に憑きものを移したり

蟇目法(ひきめほう)といって、弓の弦をならし

鏑(かぶら)のついた矢を放つことによって、病魔を退治したといいます


〔 鏑・・・・ 矢の先につける蕪(かぶ)の形をしたもの

中は空洞で数個の穴があり、矢を射ると、音を出す

合戦の合図や儀式に用いられた。音を発することから魔を破るとされた 〕




一般でも、富士山などの霊山に登ることで

「ご利益が得られる」といった考えも広くあり


これなど修験道に通じる要素と言えます




修験道の起源は?


日本古来の古神道(こしんとう)的な

山岳信仰〔お山登拝や滝での禊(みそぎ)〕


密教の呪術や荒行


さらには、シャーマニズムや陰陽道の要素


道教の神仙思想なんかも入り混じって


教義や修行体系がととのっていき

平安時代末期に

仏教(密教)の一派として教団が形成されたと考えられています





その基礎となったのは

奈良時代に、山岳で修行した在家の宗教者で


彼らは、真言や

陀羅尼〔だらに・密教の呪文。一般的に真言より長い呪文

空海以前の奈良時代に、雑密(ぞうみつ)と呼ぶ

体系性を欠く修法が伝えられている〕

といった密教の呪文を唱え

呪術的な宗教活動をなしたそうです



のちに修験道の開祖にまつりあげられた

役小角〔えんのおづの・役行者(えんのぎょうじゃ)〕

もその1人だったといいます




役行者には、様々な伝説がつけ加えられていき

はるか後の室町時代に、修験道の開祖とされたといいます



生まれながらにして博学で、岩窟で修行をして霊験を得

鬼神たちに水汲みをさせたり、薪(まき)を集めさせたり

従わない鬼神は神通力によって縛ったりしたとか


夜に富士山に登って修行を積み

ついに空を飛べるようになったとか

虚空で仙人と交わったなどといった伝説が語られています



実在を疑う説もあります


但し、「続日本書紀」

〔しょくにほんしょき・日本書紀の後をうけて書かれた史書〕

の669年の項目に彼の伊豆流罪の記事があることから

一般に実在した人物と考えます



多くの話を総合すると

葛城山(かつらぎやま・奈良県と大阪府の境。959m)や

生駒山(いこまやま・いこまさん。奈良県と大阪府の境。642m)

といった大和(奈良)の山で修行し

のちに神仙術や密教を取り入れて修験道を確立した


その後、奈良県吉野の金峰山(きんぷせん)など

多くの山を開いたようです



1799年、役行者の一千百年御遠忌のとき

小角は、光格天皇(119代)より

神変大菩薩の諡号(しごう・贈り名)を受けています


近世には、多くの修験道寺院で、不動明王などの諸尊とともに

神変大菩薩の尊像が祀られたそうです





●  金峰山(きんぶせん)


大峰(おおみね)山の吉野から山上ヶ岳に至る山岳の総称

また、山上ヶ岳(1719m・日本300名山)をいう

山上ヶ岳は現在でも女人禁制


大峰山は、長さ約100キロにわたる山脈

八経ヶ岳(1915m)は近畿地方の最高峰で日本100名山

南の釈迦ヶ岳(1800m)は200名山


北の吉野から南の熊野(紀伊半島南東部)までの

大峰山の縦走路(172キロ)を奥駈(おくがけ)と呼ぶ


役行者により開かれたとされる


なお、役行者が開いた修行の道は、熊野から吉野へ至る順峰で

逆路を逆峰と呼ぶ






空海(774~835)は入唐以前、阿波の大滝岳、土佐の室戸岬

伊予の石鎚山(いしづちやま・100名山)などで修行したと伝えます


そして、平安時代には、最澄が比叡山(北嶺)を

空海が高野山(南山・なんざん)を開いて、山岳仏教が興隆します



またこの頃から、天台宗や真言宗の僧で

山岳で修行し、加持祈祷にすぐれた者が

修験者(験を修めた者)と呼ばれるようになったようです


修験者たちは主として

吉野や熊野を拠点とし、大峰山で修行したといいます





中世になると

本山派〔ほんざんは・天台宗系

聖護院(しょうごいん・京都市

本山修験宗の総本山。もと天台宗寺門派大本山)が統括

熊野を拠点とした〕と


当山派〔とうざんは・真言系

醍醐寺(真言宗醍醐寺派本山)の三宝院が統括

吉野を拠点とした〕

が成立しました




地方でも

羽黒山〔山形県。標高414m〕

英彦山〔ひこさん・福岡県と大分県の境。1200m。200名山〕

立山〔富山県。3003m。日本100名山〕

石鎚山〔愛媛県。1982m。100名山〕

白山〔石川県。2702m。100名山〕

大山〔だいせん。島根県。1729m。100名山〕

日光〔栃木県。男体山は2484mで100名山〕

などの霊山で修験者による集団が成立したといいます






室町以降は

大峰山をはじめとする各地で


山岳の全体が

金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅にあてられるようになり


大峰山では、吉野側半分が金剛界

熊野側半分が胎蔵界とされたようです





なお、山伏〔山に伏すところから。修験者のこと〕は

頭巾〔黒の布でつくり

釈迦の十二因縁の教えにちなみ12のひだをもうけてある〕

鈴懸〔すずかけ・上衣と袴〕、結袈裟(ゆいげさ)を身に着け


笈〔おい・衣服や経典、食器などを入れる〕を背負い

錫杖〔しゃくじょう〕または金剛杖〔八角形の堅い木の棒〕や

法螺(ほら)を持ちます



この山伏が身につける12の道具も

鈴懸や結袈裟は金剛界と胎蔵界

頭巾は大日如来

数珠・法螺・錫杖などは成仏の過程


笈や肩箱〔笈の上に付ける経文や仏具を入れる小箱〕

は仏としての再生

などといったように、意味づけされるようになったそうです




さらに、山伏の「山」の字を、縦三画と横一画に分解し

天台宗の根本教義である

三身即一身や一心三観に通じるとされたり



また縦三画は、身密・口密・意密

あるいは仏の三徳〔大定・大悲・大慈〕

を意味するとか


天台密教では、金剛界・胎蔵界の両部に

蘇悉地法(そしつじほう)を加えた三部を根本とすることから

これを三部の秘伝にあてたりしていたといいます




「伏」は、人と犬をあわせているので

悟りと無明の不二をあらわし、成仏の可能性を示すといいます






修験道は特定の人物によって創唱されたものではないですが

教団化に深く関係した人物としては

増誉〔ぞうよ・1032~1116。権大納言の藤原経輔の子〕がいます



増誉は、園城寺〔おんじょうじ・天台宗寺門派総本山〕で

顕教、密教、修験道を学び、とくに修験道に通じ


1090年には、白河上皇の熊野詣(くまのもうで)の

先達〔せんだつ・山での作法に通じ、道案内をつとめた者〕をつとめ


その功に対して、初代の熊野三山検校(けんぎょう)という

熊野に常住する者を管理する役職と

役行者が創建したとされる寺を下賜されています

(これが聖護院の創建)


これによって、聖護院と熊野の修験道が結びついています


なお、増誉は堀河天皇の護持僧にもなり

皇族、貴族の病気治しにも験を示したそうです




熊野は、鎌倉時代には

修験道の一大拠点となったそうですが

本山派教団が形成されたのは室町時代のようです


戦国期には全国最大の修験集団となったそうです





一方、当山派は

聖宝〔しょうぼう・832~90。天智天皇6世の孫。理源大師〕

を派祖とします



聖宝は、醍醐寺の開祖で

真言宗小野派

〔事相の流派。広沢流と並ぶ事相の根本流派〕の派祖でもあり

東大寺別当や東寺長者などもつとめています


また、金峰山に如意輪観音、毘沙門天、金剛蔵王を祀ったり

吉野への道を開いたり、吉野川に渡し舟を置いたりするなど

修験道の基礎を築いたそうです



当山派は、聖宝の業績を慕う近畿地方の真言宗系山岳寺院と

この36の寺に属する廻国修験者によって

当山三十六正大先達衆として成立したのに始まるといいます



近世に至って本山派との間に争いが生じ

醍醐寺三宝院が、これらを統括するようになったそうです





室町以降は、本山派と当山派の対立が深まり

家康は、駿府城で

本山・当山の代表者に法論対決をさせています


その結果、本山派の本山を聖護院

当山派の本山を醍醐寺三宝院と正式に定め

全国の修験道各教団は

そのいずれかに属することと決定したといいます




しかしこれは各地で混乱を生じることとなったようです


例えば、本山派の者が、羽黒派の者に対し

「羽黒派は本山派に属するのだから

羽黒山は自分たちの支配をうけるべきだ」

と主張したことから、両派の間に論争が起きています



また、英彦山を末山に所属させようとした本山派に対し

英彦山の者が寺社奉行に訴え

別格本山として公認されるに至っていったそうです


結局、羽黒山と英彦山は、独立を認められたようです




それから、修験者は、戦乱のときは

間諜(スパイ)としても活躍したとも言われています






維新後は

国家神道の国教化をもくろんだ明治政府により

神仏分離の一環として

神仏習合思想の強い修験道に対し

修験道禁止令(明治5)が出され


修験道各集団は

天台宗か真言宗かのいずれかに取り込まれました




第二次大戦後は、本山派が天台宗より離れ

本山修験宗〔総本山は聖護院〕を成立させた他



金峰山修験本宗〔きんぷせんしゅげんほんそう・

総本山は吉野の金峰山寺(役行者の創建。聖宝の中興)〕



羽黒山修験本宗〔総本山は羽黒山の荒沢(こうたく)寺〕



修験道〔総本山は岡山県倉敷市の五流尊流院

役行者の五大弟子にはじまるという

五人の弟子はそれぞれ

尊流院、太法院、建徳院、伝法院、報恩院の五ヶ寺を建てた

本山派に属したが中国、四国などに縄張りをもち

本山派の中でも別格的地位にあった

戦後、五流の首位の尊流院が総本山となり

宗教法人の修験道を結成〕


などが成立しています







修験道ではどんな神仏を信仰するのか?


蔵王権現や熊野権現、不動明王や大日如来などが崇拝されます


不動明王を守護霊とし、不動明王の力を借り

その眷属(家来)を使役霊として駆使するなんていう

修験道もあったようです





蔵王権現は、役行者が吉野の金峰山頂上で

衆生救済を祈る千日修行を行い、感得したとされ

修験道の隆盛にともない諸国の霊山に分霊され

祀られていったそうです


日本で生まれた神格です



金剛蔵王菩薩とも呼ばれ

いちおう菩薩のようですけど忿怒の相をしています


一面で二手。右足をあげ左足だけで立ちますが

これは役行者の祈願により岩から躍り出た姿だされます



 神童寺  京都府木津川市



 如意輪寺 重文  奈良県吉野町




眷属には、除魔、後世(ごせ)、慈悲、悪除、剣光、香精

検増(けんぞう)、虚空の八大金剛童子がいて


それぞれの本地(本来の姿)は

釈迦、獅子音(ししおん)、雲自在(うんじざい)

阿弥陀、帝相(ていそう)、栴檀香(せんだんこう)

(あしゅく)、虚空蔵(こくうぞう)の各如来だとされます



それから蔵王権現を分霊(勧請・かんじょう)した山を

とくに御嶽(金峰山の異称でもある)と呼ぶこともあり


木曾の御嶽山(おんたけさん)や

奥多摩の御嶽山(みたけさん)はその代表だといいます







●  千日回峰行



比叡山は、滋賀県と京都市の境にあります


この山には、高い場所が2つあります

主峰の 大比叡岳(大岳・848m)と

西の 四明岳(しめいだけ・839m)です


大岳より東北方面に広がる平坦な山上に、延暦寺があります


寺域は、東塔、西塔、横川(かつては北塔といった)の三塔

さらに細かく十六谷に分け、三塔十六谷と呼ばれています




千日回峰行は、十六谷の1つ 無動寺谷を開いた

相応〔831~918・第3代天台座主 円仁の弟子

865年、東塔に無動寺を建立〕

によって始められた修験道です


ちなみに、相応は

朝廷に奏上し、最澄と円仁の諡号を賜っています

(伝教大師と慈覚大師)

これが日本の大師号の最初です




比叡山の三塔の260余の諸堂・霊跡を

読経、誦呪(じゅじゅ・真言を唱える)、拝礼して回る修行で

約30キロの山道を回ります



7年間で1000日の行をなして完了としますが

3年までは毎年100日


4年目と5年目は200日の回峰を行い



700日の満行の直後

無動寺本堂に9日間こもって

断食・断水・不眠・不臥(ふが・横にならない)の

四無行(しむぎょう)をします



四無行は、水をとらないので命の危険があので

行をなす前に、生き葬式をするちいいます

また介添え役が付くようです



午前2時に外に水を汲みに行き

仏前に供える以外は

蔵王権現と不動明王の真言を唱え続けるといいます




5日目の中日からは1日1回のうがいが許されますが

飲むことは許されていません


うがいした水は、となりの容器に吐き出し

量が減っていないか確認されそうです

飲んでいたらそこで行は失敗とされるそうです




700日の満行で下根満

四無行を成功させて中根満(常行満)といいます


次の年は、100日の回峰をしますが

山中の30キロの他

山麓の 赤山禅院(せきざんぜんいん)への往復が加わります


これを赤山苦行というそうです

約60キロの苦行です



【 赤山禅院・・・・ 赤山明神を祀る

この神は、円仁が唐より将来し、横川に祀ったとされる

道教の神 太山府君(たいざんふくん)だという


円仁は唐に留学、赤山法華院に身を置き

太山府君に祈願して望みを遂げた


帰国後、この神を横川に祀ったという

弟子で天台座主の安慧(あんえ)が

山麓に赤山禅院を建てこの神を移した 】





最後の年は、さらに京都市街の寺社をも巡る大廻り行で

1日で約100キロを走破するといいます


1時間に5キロ歩いたとして

20時間かかるという計算になりますから大変です



これを100日間行い

最後に再び山中の30キロを100日回峰し、大行満だそうです








山岳への畏敬



古代インドの宇宙観では、宇宙の中心に

須弥山(しゅみせん・スメール)が

置かれていいます

須弥山はヒマラヤがモデルになったともいいます




また仏教では

釈迦如来は

霊鷲山〔りょうじゅせん・法華経や無量寿経が

説かれた釈迦の説法の場〕を


観音菩薩は

補陀落山(ふだらくせん)を

国土(自分の住む国土)としています




ギリシア神話では

最高神のゼウスをはじめとするオリンポス12神は

オリンポス山〔ギリシアの最高峰。2917m

ギリシアテッサリア地方にある〕

に住むとされています




中国の神仙思想では

蓬莱山(ほうらいさん)がよく知られています

仙人が住む不老不死の霊山です




また、日本の山岳、とくに火山には

○○地獄、賽の河原

弥陀ヶ原(弥陀とは阿弥陀如来のこと)

といった地獄や極楽を示す場所がありますよね




秀麗な峰や荘厳な山を

神聖視するのは

人間としてあたりまえの心情なのかもしれません






記紀(古事記・日本書紀)神話の「天孫降臨」によると

天照大神

(あまてらすおおみかみ・太陽の女神。皇祖神)の孫で

赤子の 邇々芸命(ににぎのみこと)は


筑紫(九州)の日向〔ひむか・現在の宮崎県と一部の鹿児島県〕の

高千穂の久士布流岳(くしふるだけ・久士布流多気)

に降臨したとあります



邇々芸命が、高千穂の久士布流岳に降臨した

という神話からも

古代の日本人が、山を神聖なものとみていたことが分かります


なお、邇々芸命の曾孫(ひまご)が、

神倭伊波礼毘古命〔かむやまといわれびこのみこと〕

初代 神武天皇です



邇々芸、山幸彦〔火火出見命(ほほでみのみこと)〕

鵜葺屋葺不合命〔うがやふきあえずのみこと〕までは九州王朝 で

神倭伊波礼毘古命が東征を行い(神武東征)

大和朝廷を開き、初代天皇に即位しています





古代の日本人は、山、巨石、巨樹などを

神が依り憑く場所と考え


それらに対し、畏敬の念やタブー意識を持っていて

ふだんは山に入ったり、登ったりはしなかったといいます


のちに山には、山の神が住むと考えるようになり

山を聖域、鳥や獣を神の使いとみなすようになったようです


このような時代には、山は山麓から拝み奉る存在と考えられています




わが国最古の神社と称される

大神神社〔おおみわじんじゃ・奈良県桜井市

大物主大神(おおものぬしのかみ)を祀る。大和国一宮〕は


三輪山そのものを御神体(祭神を象徴するもの)とし

本殿をもたず、拝殿から三輪山を神体として仰ぎ見る

古神道の形態を残しているとされます




なお、古神道とは、仏教や儒教といった外来の思想が

日本に入る以前の古代の神道です



お正月に飾る「門松」(かどまつ)は

年神(としがみ)や先祖の霊が依り憑くためのものだといいますが

巨石や巨樹に神が依り憑くという古神道の思想が

こんなところにも息づいているわけです





古代には、神々は

天空や海のかなたなど人間とは離れた場所に住んでいて

山、巨岩石、巨樹に依り憑くと考えられていました


神が依り憑き鎮まった小山やうっそうと木々が茂る森などを

「神奈備」(かんなび・神名火)と呼んだそうです


神奈備とは、神留る(かんずまる)とか、神隠り(かんなばり)とか

神の森の転化であるとか言われています


これらはいずれも神の住居の意味です

前述の三輪山も神奈備だと考えられています




また、神が依り憑く巨岩石は

「磐座」(いわくら・岩座)と言います



 神倉神社  新宮市

熊野速玉大社の摂社で、ご神体はゴトビキ岩



 ゴトビキはヒキガエルをあらわす新宮の方言だという



神倉神社の祭神は、天照大神と

高倉下命(たかくらじのみこと・

神武東征のとき夢の神託を得て神武に神剣をもたらした人)




古代の信仰では、神々の依り憑く巨岩石や巨樹

また神が依り憑いて鎮まった小山や森などが

≪神の社≫であったのです


祭り(祀り)もそのつどそこに神を招いて行っていたとされます



のちに建築技術の進歩で

里に神社がつくられるようになったといいます


そこには、いつも神に見守っていてほしいという

人間の心情があったと考えられています




古神道では、社を建てて神を祀るのではなく

祭りのたびごとに、神を招いていたわけですが


巨木の周囲に玉垣をめぐらせて

神の依り憑く神聖な場所としたのが

「神籬」(ひもろぎ)です


神籬の漢字の意味は、神の籬(まがき=垣根)ですが


ひもろぎとは大和言葉であって

「ひ」は神霊、「もろ」とはあもる(天下る)で

「ぎ」は木なので、≪神霊の天下る木≫の意味だといいます






【 御祖神(みおやのかみ)に対し、富士の神は

「物忌みである」として食事を出すのを断った

御祖神は怒り

「お前の山を夏冬に関係なく雪や霜に閉じ込めてやる」

と言って東へ去った



すると筑波山があった

筑波の神は、御祖神を快くもてなした


喜んだ御祖神は「あなたの山は日月とともに幸せである

人々が集い、供物をたくさん捧げるでしょう

永遠に、遊楽は、きわまることを知らないでしょう」と述べた



このため富士にはいつも雪が降り

人も登らず供物をささげるものがない 】


常陸風土記〔奈良時代の地誌。11郡中9郡の記事が残っている〕

にあるよく知られている話です




深田久弥の「日本百名山」には

“おなじく「常陸風土記」によれば

関東諸国の男女は、春花咲く頃、秋紅葉の節

(筑波山に)相たずさえて登り、山上で御馳走を拡げ

歌をうたって舞い楽しみ、そこで夜を過ごす者もあった


筑波山へ登ってその会合で男から結婚を

申し込まれないような女は、一人前ではないと言われさえした

わが国では宗教登山が最初のように言われるが

筑波山のような大衆の遊楽登山も早くから行われていたのである”


とあります




常陸風土記に

「鷲(わし)の住む筑波の山の裳羽服津(もはきつ)の

その津の上に率(あども)いて

未通女(おとめ)、壮子(おのこ)の行き集い

かがふかがふに人妻に吾も交らむ

あが妻に他(ひと)も言問(ことと)へこの山を領(うしは)く神の昔より

禁(いさ)めぬ行事(わざ)ぞ今日のみは

めぐしもな見ぞ、言も咎(とが)むな」とあり


古代、日本の農民は、春秋の2回

筑波山に酒食を持ち寄り、老いも若きも歌踊り

夜がふけると好みの異性と一夜を契り

大らかに性生活を楽しんだようです


また、こういった踊りが、「盆踊り」となり

今日に伝わるとも言われています





最も発達した段階の感情とされる「情操」には

美的情操、知的情操、宗教的情操

倫理的情操があるとされますが


我々日本人は、さまざまな形で、山と関わり

情操を育んできたと言えましょう








霊山と女人禁制



日本では古来、多くの山が信仰の対象で

もともと人間は立ち入ることはできす

遥拝する対象だったといいます



のちに山に入って霊力を得ようとする修行者や僧侶が現れ

山自体が修行場となると

俗人の立ち入りが禁止されるようになったそうです



さらに、仏教の影響が強まり

修験道へと発展すると

「女人結界」や「女人禁制」

という考えが生まれるに至ったと

考えられています





仏教では

女性は修行しても、梵天王 ・ 帝釈天(たいしゃくてん) ・

魔王・ 転輪聖王(てんりんじょうおう・理想の王) ・ 仏

にはなれないという

「五障」〔五礙(ごげ)ともいう〕という考えがあります



しかし、これは釈迦滅後

小乗部派の一部の宗派によって唱えられたもののようです



釈迦の養母で、仏教初の女性出家者

摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)は

阿羅漢(もともと仏の別称)の位を得ています



また、一般的な説では

釈迦の妻 耶輪陀羅姫(やしゅだらひめ)も

摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)が

釈迦へ三度懇願し、女性初の出家を許されたとき

他の釈迦族の婦人とともに比丘尼になったとされます



テーリーガーター(長老尼偈。パーリ語経典の1つ

釈迦の弟子である女性の

長老(修行年数が長い者)たちの詩を集めたもの〕

にも、解脱、涅槃に達した女性たちの境涯が述べられています






小乗部派の法蔵部の律典である「四分律」にも

男性の修行者は 250戒、女性は 348戒とあります


男性より戒律が多いというものの

女性の修行が認められている以上


男性同様、阿羅漢になることも当然認められているはずです


〔なお、小乗教は釈迦一仏主義なので、仏は釈迦のみであり

仏弟子の最高位は阿羅漢まで〕


法蔵部は、仏教の上座部の一派です





これに対し

東南アジア諸国の南伝仏教は

上座部の異端、分別説部を源流とします


出家者は比丘だけで、比丘尼はいません


比丘は227戒など厳しい戒律を守り


在家信徒の男女は5戒〔不殺生・不偸盗(ふちゅうとう)・

不邪淫・不妄語・不飲酒〕を守り

出家者を供養することで功徳を得ます






日本で最初の出家者は、善信尼という女性です



善信尼は、飛鳥時代の

渡来系の仏師・鞍作止利(くらづくりのとり)の叔母です


鞍作止利は

法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像や

飛鳥寺の本尊の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を作ったとされる人です




敏達天皇の584年

百済から石像一体、仏像一体が伝わると

蘇我馬子は、これをもらい受けます



また、馬子は

司馬達等〔しばたつと・渡来系の人

仏教公伝以前から仏教を信仰していたとされる

善信尼の父。鞍作止利は達等の孫〕に


播磨国で、高句麗人の恵便(えびん)という

還俗者を見つけ出させます



そして、馬子は、恵便を師とし

司馬達等の11歳の娘の嶋を得度させます


嶋は、善信尼となりましたが、これが日本で最初の出家者です


更に、善信尼を導師として、禅蔵尼、恵善尼を得度させています



馬子は、仏法に帰依し、三人の尼を敬い

邸宅に仏殿を造り

百済から請来した弥勒仏の石像を祀って、仏法を広めます




疫病がはやり多くの死者を出ると

廃仏派の 物部守屋と中臣勝海(かつみ)は


「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し

敏達天皇はこれをうけ入れ

仏法を止めるよう詔(みことのり)を出しました



守屋は、馬子の仏塔を破壊し

仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませます


さらに馬子に三人の尼僧を差し出すよう命じ

善信尼ら三人は、法衣を剥ぎ取られて全裸にされ


海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)の駅舎で

鞭打ちの刑に処されています



587年、馬子が、丁未(ていび)の変で

守屋を葬り


善信尼ら三人は 588年、戒律を学ぶため、百済へ渡り

正式に受戒をうけて90年に帰国

仏法興隆に貢献したそうです






奈良時代には

聖武天皇と光明皇后が仏教に傾倒し


国家鎮護のため

諸国に国分寺、国分尼寺を建設しています



国分寺=国分僧寺の正式名は

「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)


国分尼寺は「法華滅罪之寺」(ほっけめつざいのてら)

といい


国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ

国庁とともにその国の最大の建築物であったといいます


なお、壱岐や対馬には「島分寺」(とうぶんじ)が建てられたそうです



総国分寺は、東大寺であす

総国分尼寺は、法華寺(奈良市県法華寺町)です




●  法華寺


光明皇后の創建で、大規模な寺院であったという

平安遷都、兵火や地震で衰微する


鎌倉初期に、平家の南都焼き討ちによって焼失した


東大寺(平家の焼き討ちにあった)復興につとめた

重源(ちょうげん・鎌倉期初期ま浄土宗の僧

造東大寺大勧進職となり

諸国を回って勧進に努めた)によって復興


さらに、真言律宗の祖 叡尊(えいぞん・えいそん)によって

本格的に復興がなされ真言律宗の尼寺となる


現在の伽藍は、豊臣秀頼・淀君の復興による


1999年(平成11)には、真言律宗を離脱し

光明宗(光明皇后から)の尼寺となる





金光明四天王護国之寺の名は

金光明経〔こんこうみょうきょう・金光明最勝王経ともいう

四天王=東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天

北方の多聞天(毘沙門天)をはじめとする諸天善神

による国家鎮護の教説を含んだ経典〕にもとづき


法華滅罪之寺は、法華経の「竜女成仏」にもとづくといいます




なお、光明皇后が

重症の癩病(らいびょう。ハンセン病)患者の

膿(うみ)をみずから吸ったところ

その病人が阿閦(あしゅく)如来であった

という伝説が広く知られていますが


聖武天皇と光明皇后が仏教に傾倒し

諸国に国分寺と国分尼寺を建設したのは


長屋王(ながやおう)の霊を鎮め

それによって国家を鎮護するためだったとされます




●  長屋王の変


藤原氏が、藤原不比等(ふひと)の娘で

聖武天皇の妃である光明子(こうみょうし・のちの光明皇后)

を皇后にしようと画策して起きた事件


光明子が生んだ皇太子が没したことで


天皇の別の妃に王子が誕生すると

藤原氏は、光明子を皇后にしようと考えた


そこで藤原氏は、これに反対する

長屋王(天武天皇の孫で行政の最高位の左大臣)

を排除しようと


「長屋王が、自分が天皇になろうとして呪術を学び

光明子の子である皇太子を呪い殺した

との密告が

長屋家に仕えていた2人の者よりあった」として


朝廷軍によって長屋王邸を包囲

長屋王と夫人と3人の王子を自殺に追い込んだ


長屋王の後、光明子は

臣下の娘としては異例の皇后になっている






話を戻します



奈良時代の仏教では『不邪淫戒』により

僧寺では女人禁制

尼寺では男子禁制だったそうです



奈良時代以降、徐々に尼寺は廃れていき

その結果、女人禁制だけが突出していったといいます




平安時代になると

変成男子(へんじょうなんし)や

五障など、女性差別的な教えが広がり


加えて、女性に対する穢れ(けがれ)の観念も

発達していったとされます





「変成男子」とは

大乗仏教に登場した考えで


これは、仏の功徳によって

女子が男子に生まれ変わること


女子には五障があって成仏(じょうぶつ)が困難なので

男身を得て成仏するというものです


法華経の「竜女成仏」はとくに有名です





【 竜女成仏・・・・


法華経の第12品の「提婆達多品」

(だいばだったぼん)にある話

この品では、提婆達多(=悪人)と

竜女の成仏が説かれている



竜女は、女性というばかりでなく、畜生でもあり

子供でもある




●  提婆達多



釈迦の従弟。幼少から釈迦と敵対し

釈迦と耶輪陀羅姫〔やしゅだらひめ・釈迦の妻〕を争い敗れた


のちに釈迦の弟子となるが

釈迦に叱責されたのを怨み、新教団を設立


マカダ国の阿闍世(あじゃせ)太子をそそのかし

父王を殺させて王位につかせたり

阿闍世と結んで釈迦教団を迫害した


提波達多は新教団をつくるさい

釈迦教団より厳格な5つの戒律をもうけている


5つは経典によって違うが

おおむね、修行者は林に住し里に入ってはいけない

乞食(こつじき)を行い食のもてなしを受けてはいけない

粗衣をまとう。樹下に住み屋根のある下で暮らしてはいけない

鳥獣や魚の肉を食べてはいけない


500人の釈迦の弟子が提波達多に従ったが

のちに舎利弗(しゃりほつ・釈迦の1番弟子)や

目連(釈迦の2番弟子)に諭され

教団に戻ったという


あるとき爪に毒を塗って、釈迦の足を傷つけて殺そうと

マカダの首都 王舎城に行くが

蓮華比丘に責められたので、これを打ち殺すと

立っていた王舎城北門の大地が裂け

生きながら無間地獄に堕ちたという






提婆達多品では

釈迦が過去世に大国の王であった話をする


王は徳による政治をなし

さらに王位を捨て、大乗を求めた


この求道心に、阿私(あし)仙人が応え

「言うとおり修行すれば法華経を説こう」と言う


王は仙人のもと千年間修行し仏となる



釈迦はこうして自分の過去世の話をした上で

過去世の師の阿私仙人は、提婆達多であると語り


今、悟りを得て人々を救済できるのは

善知識(仏道に導くよき友人)の提婆達多のおかげであると述べる



そして、提婆達多に法華経の功力により

無量劫(むりょうこう)の後に

天王如来という名の仏になるという

授記(未来に仏になる約束・予言)を与える




提婆達多への授記が終わると

智積(ちしゃく)菩薩が、自分の世界に帰ろうとする


釈迦がこれを止めて

「文殊菩薩と語って行きなさい」という


そこへ大海の竜宮で、法を説いていた文殊が

教化した沢山の菩薩をつれて登場する



智積は文殊に

「あなたは竜宮でどれだけ衆生を教化しましたか」と聞き


文殊は「法華経によって無量の衆生を教化しました」といい

さらに「娑羅竭(しゃから)竜王の8歳の娘が

法華経を聴いたとたんに仏になりましたよ」と答える



仏というのは、何度も生まれ変わり長大な期間

菩薩行をなしてなるものであるにも関わらず


竜という畜生で

しかも幼い娘(女性)がすぐに仏になったという話に

納得しない智積ではあった



そこへ竜女が登場し

釈迦に「仏だけが私の成仏を知っています

私は苦悩する人々を救済してまいります」と述べる



釈迦の一番弟子である舎利弗(しゃりほつ)が

「あなたは瞬時に仏になったと言うが信じられない

なぜなら女性はけがれていて仏法を受け入れる器ではないからだ」

と言う



そこで竜女は、全宇宙と等しい価値の宝珠を取りだし

釈迦に渡し、智積や舎利弗に

「あなたたちの神通力をもって私の成仏の姿を観なさい

私の成仏はこの珠を仏(釈迦)に渡すよりもすみやかです」

と述べ


男子に変じ

南方の無垢世界で仏となり

人々に法華経を説いている姿を示した




この話は、女性にも

全宇宙と等しい価値の宝珠=仏性

の存在することを示しています



また、智慧第一と言われた舎利弗と

智慧の菩薩である智積菩薩が

頭の固い男性を象徴する存在となっていて


変成男子が、こうした男性を理解させるための

方便にすぎす


法華経を信受すれば

女性も平等にまたすみやかに成仏できる

ことを説いているわけです 】




鎌倉仏教になると

道元、法然や親鸞、日蓮、叡尊などは、女人への差別的な考えに

批判的な立場をとります




霊山では明治期まで、ほとかどが女人禁制であったとされます


明治5年(1872)、京都で博覧会が開かれるのに当たり

外国人に遅れた風習を見せられないという

新政府の文明開化政策から


比叡山の女人禁制が解かれ

その後は各宗派の判断に任せられたそうです


現在は、ほぼどこでも女性の登山が可能になっています





修験道と山岳信仰 ②




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