修験道と山岳信仰 ② 白 山 白山(2702m。100名山)は 古来より、富士山、立山とともに日本3霊山とされた 加賀(石川県)の名峰で、西日本では、すば抜けて高い
白山修験道を開いたのは 泰澄(たいちょう・681?~767?)という伝説的な修験者で 通称 越の大徳 716年に、白山神の霊夢をうけ 翌年、臥(ふせり)行者と浄定行者という2人の弟子とともに 白山に登ったとされる このとき山麓で、妙理菩薩を 山頂の御前峰で、十一面観音を感得したという 泰澄は、飛行術や十一面観音法の加持祈祷による病気治しを修め 諸神の本地仏を出現させるのも得意としたそうで 吉野山や九州の阿蘇にも登ったとされる さらに、愛宕神社(京都市北西部の愛宕山・ 全国に約900社ある愛宕神社根本社)は 役行者と泰澄が、洛北の鷹ヶ峰に創建した白雲寺に始まり 781年、和気清麻呂(わけのきよまろ)が勅命により 神霊を愛宕山に移したとされている 白山の主峰とされる御前峰(2702m)には 白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)の奥宮があり 白山比咩神(しらやまひめのかみ)を祀る 大汝峰(おおなんじみね・2684m)には、大汝神社があり 大己貴神(おおなむちのかみ・大国主命の別名)を祀る 別山(2399m)には、別山神社があり 大山祇神(おおやまつみのかみ・山の神)を祀る これらの本地仏は それぞれ十一面観音、阿弥陀如来、聖観音で 泰澄が各峰で感得したといいます 全国2700余の白山神社の総本社が 白山比咩神社で、白山比咩神とは 日本書紀の一書(あるふみ)に登場する 菊理媛神〔くくりひめのかみ・ 古事記および日本書紀の本文には登場しない〕 と同一とされている 【 白山比咩神社… 石川県白山市三宮町。加賀の一宮 創建は10代 崇神(すじん)天皇の頃という 現在の加賀一の宮駅に隣接する古宮公園の場所にあったとされ 1480年の火事で末社の三宮があった現在地に遷座したらしい 白山比咩神、伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 伊耶那美命(いざなみのみこと)を祀る 】 日本書紀の一書には ≪ 黄泉の平坂(ひらさか)で、伊耶那岐(いざなぎ)と伊耶那美とが争い 伊耶那岐が伊耶那美に対して 「あなたは黄泉国(よみのくに・地底にある死者の国)に残り 私と一緒に地上に帰るべきではない」と言い 菊理媛神も、「地上を伊邪那岐命が 黄泉を伊耶那美命が治めるべきである」 とすすめた 伊耶那岐はそれを聞いて菊理媛神をほめた さらに2神に従って、地上と地下を治める神々の分配を決めた ≫ という神話がみられるという また、白山は、加賀(石川県)、越前(福井県) 飛騨(岐阜県)にまたがるが 加賀より見た姿が一番美しいことから 加賀の白山として知られるようになったという 白山比咩神社は 白山三馬場〔はくさんさんばんば・ 馬場は、登山路の基点に置かれた社寺 白山三馬場は、加賀・越前・美濃〕 の1つ 加賀馬場として発展したましたが 近世、白山嶺上の管理をめぐり 越前馬場の平泉寺(へいせんじ)と争って敗北 白山を含む山麓18ヶ村が、幕府の直轄となり 山上の堂社の支配権は、平泉寺に与えられたという 【 平泉寺… 天台宗。泰澄の創建。白山参道の正面として発展 泰澄が越前の人であったこと 越前より白山への道を開いたことから正面を主張 また強力な僧兵集団を擁し一向一揆と抗争した 明治の神仏分離で廃寺。白山神社(福井県勝山市)となった 】 なので山頂の神祠が、白山比咩神社奥社と決まり 全国の白山神社の総本社として仰がれるようになったのは 明治の神仏分離からという 白山比咩神社と一体であった 白山寺は神仏分離で廃寺となっている ちなみに、三馬場の1つ 美濃馬場〔岐阜県郡上郡白鳥(しらとり)町〕には 現在 白山長滝(ながたき)神社と 長滝寺(ちょうりゅうじ)として残っている ● 立 山 立山の開山は、越中(富山県)の国司 佐伯有若(さいきのありわか)の子 有頼とされる 有頼が、父の白鷹を借りて鷹狩りをしていたところ 鷹を追って立山の奥に入り込んでしまい熊に遭遇する この熊を矢で射ると、熊が阿弥陀仏に変じたことから 有頼は受戒して僧 慈興となり、701年に立山権現を建立したという 雄山には雄山神社があり、伊耶那岐命を雄山神(立山権現)として祀る 白山の姿を比咩神(姫神)として崇めたのに対し 立山は雄山神として崇めたとされる なお、奈良時代の万葉集にみられる立山(たちやま)は なりの剣岳〔つるぎだけ・2998m 槍ヶ岳とともに北アルプスのシンボル。100名山〕 をさすのではないかとも考えられている 剣岳の神は、天手力男神(あめのたぢからおのかみ)で 本地仏は、不動明王という 】
御嶽山 木曾の御嶽山〔おんたけさん・御嶽山。3063m(主峰の剣ヶ峰) 長野と岐阜の県境。100名山〕は 富士山、南・北アルプス以外で、唯一3000メートルを超える 中央アルプス最高峰の 木曽駒ヶ岳(2956m)よりも高い しかも、独立峰として3000メートルを超えるのは、日本では富士と御嶽だけ 立山と御嶽を入れ替えて、日本三霊山とする場合もある
蔵王権現を分霊(勧請・かんじょう)した山を とくに御嶽(金峰山の異称でもある)と呼ぶこともあり 木曾の御嶽山(おんたけさん・御嶽山)はその代表だが 木曾の御嶽信仰の場合 神仏分離によって、仏教的(修験道的)要素は消滅している 御嶽は、7世紀初期に開かれ 室町時代には修験者による登山が盛んだったいうが 江戸中期までは、修験者が75日間 精進潔斎〔しょうじんけっさい・ 酒や肉食を断ち、水垢離(みずごり)などをして心身のけがれを取り去ること〕 をして登る山と決められていて 一般の者が容易に登山できる山ではなかったという。 覚明(かくみょう)・普寛(ふかん)という修験者が 軽精進で登ったことをきっかけとし 軽精進の登山が許されるようになり 登山道の整備も進んで 覚明・ 普寛およびその流れを汲む弟子たちによって講も結成され 各地に信仰が広まったとされる ウィキペディアよると 【 覚明は、(数百年に渡る従来の登拝型式を破る軽精進での登山の) 登山許可が出ないまま1785年(天明5年)6月8日に地元住民8名と 6月14日には尾張の38名の信者らと 6月28日には約80名を引き連れて強引に登拝を行った 登拝したものは罪を受け 覚明行者も21日間拘束を受けたとされている 】 【 1786(天明6年)にも多数の同志を引き連れて登拝を強行し 黒沢の登山道の改修を行ったが その最中の6月20日にニノ池畔で病に倒れ、その直下にある黒沢口九合目の 覚明堂の宿舎上の岩場に埋葬された (中略) その後覚明行者の志を受け継いだ信者により 黒沢口の登山道の改修が完結され 覚明行者が強行登拝したことによって 事実上の「軽精進による登拝解禁」となった 】とある 普寛(1731~1801)は、武蔵国の秩父の出身で 秩父の三峰山の観音院で天台密教を学んだという 92年に木曾谷の者の案内で、御嶽に登り、王滝口からの登山道を開く その後、御嶽講を結成し江戸を中心に御嶽信仰を広めている 越後の八海山〔はっかいさん・越後三山の1つ。200名山〕や 上州(群馬県)の武尊山〔ほたかやま・100名山〕なども開いたとされる 御嶽信仰の拠点は 王滝御嶽神社で、御嶽山頂(剣が峰)に奥社、山麓に里宮がある 王滝御嶽神社の祭神は 国常立尊(くにのとこたちのみこと) 大己貴神(おおなむちのかみ・大国主命の別名) 少彦名神(すくなのかみ) 御嶽教信者の参拝が絶えない 御嶽教は、1873年に下山応助が 全国の御嶽大神を崇拝する信仰者を集団結合させ成立 1882年に教派神道の一派として公認) 御嶽教は、修験道を起源としているが、仏教色は薄く祭祀も神道に準じている 国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱を 「御嶽大神」とし、覚明、普寛の二霊神を開山霊神」とし 天神地祇(てんじんちぎ)八百万神 つまり、日本の全ての神々を配祀神としている 石鎚山 伊予(愛媛県)の名峰 石鎚山(いしづちさん・いしづちやま。1982m)は 四国の最高峰にして、四国最大の修験道場 四国では、剣山(つるぎさん・徳島県。19555m) と石鎚山が100名山 石鎚とは、石の霊(ち)の意味だともいう 今でも7月初旬の例祭には、行者の列が続く修験道のメッカ この山も、役行者が開いたとされる その後、寂仙菩薩〔?~758・奈良中期の修験僧 石鎚山で修行し菩薩と称された〕が 臨終のさい、28年後、国王の子として生まれ変わり 神野(かみの)と名づけられるだろうと遺言した 嵯峨天皇(死後のおくりなは神野)が、その生まれ変わりと信じらている 天皇は、登山道を整備し、石鎚神社の成就社を創建したとされる また、空海は、出家前に石鎚山で修行したという のちに空海は、寂仙の生まれ変わりとされる嵯峨天皇から 東寺や、高野山の地を与えられている なお、四国八十八ヶ所の第六十番札所 横峰寺 同じく第六十四番札所 前神寺が 石鎚神社の別当寺となっていたそうであるが 明治の神仏分離で、神仏混淆が禁止され 別当寺が廃止となり、石鎚神社は、純粋な神社と定められている 石鎚神社の本社は、西条市西田に座 石鎚山中腹には、成就社と、土小屋遥拝殿があり 山頂の弥山には、頂上社がある 石鎚神社の祭神は 石鎚毘古命〔いしづちひこのみこと・ 石土毘古命(いわつちひことのみこと)や 石鎚大神(いしづちおおかみ)ともいう〕で この神は、伊耶那岐命と伊耶那美命の 「国生みの神話」で、両神が 大八洲(おおやしま・日本)に続いて 生んだ神々のうちの第二の御子の石土毘古神だという 眷属神(神使・しんし)は、白鷲だそうである また、石鎚毘古命の霊魂(みたま)を 和魂(にぎみたま)、奇魂(くしみたま)、荒魂(あらみたま)の3つに分け それぞれ、仁、智、勇の徳をあらわすとし 玉持(たまもち)、鏡持(かがみもち)、剣持(つるぎもち)という 3つの神像を祀るのも特徴の1つである
これは神仏習合で、かつて3体の蔵王権現像を祀っていた その名残りだと考えられている 玉持の神像が、家内安全、病気平癒 鏡持のそれが、商売繁盛や学業成就 剣持の神像が、厄除け なんて話になると 古神道のアニミズム的要素が薄いが ただ山そのものを御神体として登拝する というのは大自然教の意識をとどめている また、写真をみて分かるように 御嶽信仰系が、ほとんど仏教的要素が消滅しているのに対し こちらは、逆で、本来の修験道の要素を色濃くとどめ 雑多な尊格が、祀られている 成就社(ロープウェイ下車徒歩20分) から山頂までは2時間半で行ける 「鎖の行場」で名高く 試しの鎖、一之鎖、二之鎖、三之鎖がかけられている 但し足の弱い人は、鎖の迂回路を通って頂上へ行ける また、スカイライン終点土小屋からも山頂までは2時間半かかる この場合、試しの鎖、一之鎖は通らない
石鎚神社によると 鎖場(くさりば)を通ることで無我の境地に至り 頂上に到達することで、大自然と一体になって神の心にふれ 神人合一のすがすがしい境地 〔これが石鎚修験の鎮魂(ちんこん)だという〕に至るとしている 大 山 大山〔だいせん・主峰の 弥山(みせん)が1711m 最高峰の 剣ヶ峰が1729m〕は 中国地方の最高峰にして最大の名峰 伯耆大山、伯耆(ほうき)富士、出雲富士 とよばれている 伯耆の国は鳥取県にあたる 「出雲風土記」〔いずもふどき 勅命より編まれ20年後の733年に成立 出雲の国9郡の風土・物産・伝承などを述べたもの 記紀神話にみられない出雲地方の神話も含む 完本として残る唯一の風土記〕には 八束水臣津野命〔やつかみずおみつのみこと 別名 於美豆奴神(おみずぬのかみ) 須佐之男命(すさのおのみこと)の子孫で 大国主命の父の 天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)の父〕 という巨人の神が 自分つくった出雲国が小さいことから 志羅紀(新羅)の岬、佐伎(さき)の国 農波(ぬなみ)の国、高志(越)の岬の余った土地を 縫い合わせようと考えた そして土地を鋤(すき)で切り取り 綱につけ「国来、国来」 (くにき、くにき。また、くにこ、くにこ) と引き寄せて、出雲の国に縫い付けた その縫い付けた土地が、杵築(きづき)や三保の岬などに 引綱が薗の長浜と、夜見(よみ)の島に 引綱の杭(くい)が、佐比売山(三瓶山・さんべさん)と 火神岳(ひのかみだけ・大山)になったとあるという 【 三瓶山・・・・ 日本200名山 中国地方には、高い山は大山しかないので 大山に次ぐ名山とされるよ 山名は、昔、山頂から3つの瓶(かめ)が見つかったからという 山頂部は、男三瓶(1126m)、女三瓶(950m) 子三瓶(961m)、孫三瓶(910m)などのピークがある 】 大山に話を戻すと 中腹にある大山寺〔天台宗の別格本山・本尊は地蔵菩薩〕は もと漁師で、地蔵菩薩の霊験により 教えを求める心をおこして僧になったという 金蓮(こんれん)上人の創建だとされる 8世紀初期の創建だという 866年に、円仁(天台宗山門派の祖)が 阿弥陀仏を安置し天台宗となる 大山は、平安時代には修験道場として著名な山となる また、大神山(おおがみやま)神社は、大山を御神体とし 大己貴命(おなむちのみこと・大国主命の別名)を祀っていたが 神仏習合により、大己貴命は、智明権現と称すようになり 地蔵菩薩を本地仏とするようになったという 大山寺は、西日本における天台宗の一大拠点となり 寺の座主(住職)は比叡山から派遣され ここでの任期を勤めた後 比叡山に戻って出世するという キャリア形成の場でもあったそうである そして、3千余の僧兵をかかえるに至ったとされる 大山寺の僧は、後醍醐天皇が隠岐を脱出し これを伯耆の豪族 名和長年(なわながとし)が 船上山(鳥取県西部。687m)に迎えて 鎌倉幕府軍を打ち破った戦いに参加して奮戦している 戦国期には、尼子、毛利などの崇敬をうけ 家康からは3千石をうけたが 明治の神仏分離で 大山寺は、「大山寺」の号の使用が禁止となり (明治36年に復号がゆるされている) 本殿も大神山神社に引き渡すこことなり 大日堂(現在の本堂)に本尊(地蔵菩薩)を移し、衰退した 〔なお、大神山神社の奥宮と、大山寺の間は徒歩で10分ほどの距離にある〕
日 光 日光は、男体山〔なんたいさん・2484m。100名山〕 を中心とした修験道場であった 日光には、男体山の他に 女峰山〔にょほうざん・2464m。200名山〕 太郎山〔たろうやま・2368m。300山〕 大真名子山〔おおまなこやま・2375m〕 小真名子山〔こおまなこやま・2323m〕があり 女峰から小真名子、大真名子、太郎、男体と巡る 五禅頂(秋峰行)と呼ばれる峰修行が行われていたそうである それから少し離れて 北関東以北の最高峰 日光白根山〔2578m。100名山〕もある
日光の山はかなり標高が高い 富士山、アルプスを除くと 一番高いのが 御岳山(3063m) 次に 八ヶ岳(最高峰の赤岳が2899m) 続いて西日本でずば抜けて高い白山(2702m) そのあとが、奥秩父とか、妙高・火打とか、日光 女峰が西日本にあったら 確実に100名山に入っているだろう 山容もいい 日光を開いたのは勝道上人 勝道上人は日光を 観音菩薩の浄土 補陀落山(ふだらくせん)に見立てたという 日光の地名もふだらくに由来する 〔ふだらく→ 二荒(ふたら)→ 二荒(にこう)→ 日光〕 という説がある 他に、勝道の開山によって 男体と女峰の2神があらわれた二現(ふたあれ)が 二荒になったという説 中禅寺の鬼門にある洞穴から大風が年に2度吹き 国を荒らしたという二荒説もある この説では、この風を、空海が鎮めて 二荒を日光に改めたという さらにマレー語のプトガラの転訛だなんていう説もある プトは白、ガラは荒れるの意味で 二荒山が噴火で荒れた山であったことに由来するという いずれにしても日光の名は、二荒(ふたら)の音読みのようである 12世紀になって二荒を日光と音読みするようになったらしい 勝道上人は、男体山に初めて登った人で 残雪や悪天候による2度の失敗の後 中禅寺湖で17日間神仏の加護を祈願、樹間を登り 途中で2夜を過ごし登頂に成功したという 勝道上人48歳のときだという このとき山頂に、祠〔ほこら・ 二荒山神社の奥宮〕を置いたという 但 し、男体山(二荒山)山頂部では 古墳時代の信仰遺物が出土しているので 実際には、勝道以前から登られていたとされる また、勝道上人は 中禅寺〔天台宗。別名 立木観音堂 明治34年(1902)に山津波により湖に押し出され 大正2年(1913)に現在地に再建 本尊は勝道が湖上に拝した観音を 桂の巨木に刻んだと伝える立木観音 実際には鎌倉期のもの〕を創建している
輪王寺(天台宗)は 勝道上人が建てた四本竜寺が起源だという 勝道が、この地より男体山を拝すると 紫雲が立ち上ったことから この地が、四神〔青竜・朱雀・白虎・玄武〕が守護する聖地だと悟り 四本竜寺を創建したそうである 坂上田村麻呂や空海(820年に来山) 円仁(えんにん・天台宗山門派の祖。848年に来山)が来山し、諸堂が建立 また円仁により天台宗となったという 四本竜寺は、それ以後、鎌倉幕府の庇護をうけ 僧兵を擁する一大拠点となったそうである 秀吉の北条討伐では北条氏に組して寺領の大半を没収されている 江戸初期には、天台宗中興の祖とされる天海が入り興隆する 家康から寺領2千余石を受けている。 1655年には、後水尾(ごみずのお)天皇の皇子 守澄(しゅちょう)法親王が入寺し門跡(もんぜき)寺院となる 守澄法親王は 比叡山、東比叡(とうひえい・上野の寛永寺のこと)をも兼務 つまり輪王寺門跡に、天台座主、寛永寺貫主(かんず) をも兼ねることとなり 以後明治に至るまで、歴代の法親王は 管領宮(かんりょうのみや)として 三山〔比叡山・東比叡・日光〕を監督した 三仏堂〔緑色の地に金字で金堂と書かれた額を掲げる朱塗りの伽藍〕は 輪王寺の本堂で、円仁が延暦寺の根本中堂を模して建てたという 日光山内最大の建物で、日光信仰の中心地とされた
日光三山の男体山、女峰山、太郎山を御神体とし その本地仏の、千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の三仏を祀るという 輪王寺は、江戸時代までは、東照宮と二荒山神社の間にあったが 明治の神仏分離で現在地に移されたという なお、最初 四本竜寺、810年に朝廷より満願寺の号を受け ずっと満願寺と称し、1655年、輪王寺の号を受け、輪王寺となったという 1871年(明治4)の神仏判然令で 二荒山神社と東照宮が、輪王寺より独立すると 満願寺の旧称に戻ったが 1885年(明治18)に輪王寺の号を復活させている 二荒山神社は? 大己貴神〔おおなむちのかみ・大国主命の別名〕を二荒大神とし その后神 田心姫(たごりひめ) 二人の御子神である 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を祀る 大己貴神は男体山を神体とし 本地は千手観音で福徳・縁結び 田心姫は女峰山を神体とし、本地は阿弥陀で子授け・安産 味耜高彦根命は太郎山を神体とし 本地は馬頭観音で農業・漁業の神とされていたらしい 江戸時代になると、家康を 東照大権現として祀る東照宮が建立され 二荒山神社には神領70余郷が寄進されている さらには、3代家光が没しすると 家光の霊廟 大猷院(だいゆういん・輪王寺大猷院廟)も建立されている ちなみに、東照宮が神仏習合の建築群であるのに対し 大猷院は純粋な仏式だという
それから家康は、死後、久能山〔静岡市・216m 家康を主神とする久能山東照宮がある〕に神道式で祀られたが 家康の「遺体は久能山におさめ 一周忌をすぎたら日光に小堂を建てて勧請(分霊)し 神として祀りなさい 私はこれにより国家鎮護の神となりたい」という遺言から 日光に改葬されることになった このとき純粋な神道式(吉田神道)で改葬するか 神仏習合の仏教神道で改葬するか論争となるが 天海〔天台宗中興の祖。慈眼大師 3代家光の庇護のもと寛永寺を創建〕の主張が通り 山王一実神道〔さんのういちじつしんとう・ 比叡山の鎮守社 日吉大社(ひよしたいしゃ)の神道 天台宗の教理に基づいた仏教神道〕により改葬された その後、家光が社殿の大造営に着手し 現在の東照宮が完成している なお、東照大権現は、後水尾天皇の勅許を得 天海が亡き家康に贈った神号で 本地は薬師如来と決められている 【 天海 (1536~1643) ・・・・ 家康の帰依をうけ、家康に天台や山王一実神道と伝え 2代秀忠、3代家光も天海に帰依している また、寛永寺において、天海版(寛永寺版)と呼ばれる 日本で初めての版本による大蔵経〔一切経。仏教聖典を集大成したもの〕 を刊行している。107歳まで生きている 】
富士山信仰 深田久弥の「日本百名山」には “富士山ほど一国を代表し 国民の精神的資産となった山はほかにないだろう (中略) 万葉の昔から、われわれ日本人は どれほど豊かな情操を富士によって養われてきたことであろう もしこの山がなかったら 日本の歴史はもっと別の道を辿(たど)っていたかもしれない 全くこの小さな島国におどろくべきものが噴出したものである” “しかしまた何人(なにびと)もその真諦(しんたい)をつかみあぐんでいる 幼童でも富士の絵は描くが その真を表すために画壇の巨匠も手こずっている 生涯、富士ばかり撮って いまだに会心の作がないと嘆いている写真家もある 富士と睨めっこして思索した哲学者もある”とあります 富士ほど人々に愛され 多くの人に登られている山は、世界のどこにも存在しないといいます 富士山に初めて登ったのは 聖徳太子また役行者なんて話がありますが 9世紀頃には盛んに登山されていたといいます 富士の語源って分かってるの? 不二山や不尽山とも書くけど フジは、アイヌ語の「火」を意味するフチに由来する説があります これは古代の日本語とアイヌ語の共通性を認める立場からのもののようです 中世には、女人禁制の思想が広まり 登山は男性に限られましたが 江戸中期頃より富士講の信者に女性が増えてゆき 60年に1度の「御縁年」(ごえんどし・庚申の年)に限って 女性の登山も許されるようになったそうです 江戸中期には、富士講の結成によって富士登山が爆発的に流行し 富士のある方角へ遥拝(ようはい)が行われたり 浅間神社の祭神を分霊した富士権現社や、富士塚が各地に築かれたそうです 富士塚は、富士山を模して築かれた塚で 江戸やその近郊の神社境内に多数つくられたといいます 埼玉・千葉・神奈川に多いそうです 富士山に登れない女性や子供や病人などのためにつくられたとか 町人がお金を出し合ってつくったとか 富士講身禄派の信徒が、身禄の教えに基づき 所定の方式で築いたのに始まるとか言われています 富士山の溶岩を積み上げたものと すでに存在した丘や古墳を利用したものがあり 頂上には浅間神社の祠を祀ったそうです
それから明治期には、富士山頂は国のものとした上で 浅間神社に無償で貸与されていたらしく 昭和21年には、政教分離の原則に従い 浅間神社に無償譲与されることになったのですが 富士山の国有化めざした国は 山頂の神社境内のみを譲与すると主張し 浅間神社側は、御神体として管理していた 8合目より上の返還を主張して この争いはなんと昭和49年(1974)の最高裁の判決までもちこされています そしてようやく浅間神社が勝利し、これにより8合目以上は 浅間神社による宗教活動の神域と認められたそうですが 山頂周辺がどの自治体に属するのかが決まっていないため 登記されないまま30年も放置され 2004年になってようやく登記にかかわらず 譲与する旨の通知書が交付されたといいます つまり山頂は静岡県にも山梨県にも属していないということです
富士浅間神社 浅間神社(せんげんじんじゃ・あさまじんじゃ)は 富士山を神格化した浅間大神(あさまのおおかみ) また、浅間大神を 木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)として祀る もともとはアサマと読むのが正しいらしい アサマは本来、火山に対する呼称だという説がある 信州の名峰 浅間山〔2568m。日本100名山〕も火山 また、霊威のある山の呼称だという説もある 総本宮は、静岡県富士宮市の 富士山本宮浅間大社〔浅間大神と木花之佐久夜毘売を主祭神に 邇々芸命と大山津見神を配祀〕 起源は、11代 垂仁天皇のとき 富士の神を鎮めるため 富士山麓に浅間大神を祀ったのにはじまるという 当初はその時々に 場所を定めて祭祀が行われていたそうで 12代 景行天皇のときに 現在地の北東6キロの場所に山宮が置かれ 806年に、坂上田村麻呂が 51代平城(へいぜい)天皇の勅をうけ 大山津見神を祀る 富智(ふち)神社が鎮座していた現在地に 浅間大神の社殿を造営したという 甲斐の国の一宮の 浅間神社(山梨県東八代郡一宮町)をはじめ 浅間神社は全国に1300社あるという 木花之佐久夜毘売は、山の神である 大山津見神(おおやまつみのかみ・大山祇神)の娘で 邇々芸命(ににぎのみこと)の妻となり 海幸彦・山幸彦を産んでいる 記紀(古事記・日本書紀)神話によると 邇々芸命が、木花之佐久夜毘売に求婚したところ 大山津見神は大いに喜び 木花之佐久夜毘売の姉の 岩長比売(いわながひめ)も添えて差し出した しかし姉はとても醜かったので 邇々芸命は岩長比売を送り返し 木花之佐久夜毘売だけをめとった 大山津見神は「天孫よ。あなたに2人の娘を 差し上げたのには意味があります 姉は岩のように不変という名で 契っていればあなたは永遠の命を得られたのです 妹は桜の花が咲くように栄えるという名ですが 花はすぐに散るものです あなたは妹だけをとどめたので 寿命は短くあられるでしょう」と言った これによって神の子孫である天皇の寿命が 人間と同じに有限となったとある ちなみに、大山津見神の娘には 木花知流姫(このはなちるひめ)というのもいる この女神は、八島士奴美神〔やしまじぬみのかみ・ 須佐之男命と櫛稲田姫(くしなだひめ)の子〕の妻となっている 大国主命の祖父の祖母にあたるらしい また、木花之佐久夜毘売と同神で この神の別の面を表したものとも考えられている 後世、木花之佐久夜毘売は、富士山の神や安産の神 また、神の国にある狭名田(さなだ)でとれた米から 天甜酒(あまのたむざけ)をつくり 新嘗祭〔にいなめさい・新穀を神にささげる祭〕を行ったとかで 酒解神〔さけときのかみ・酒づくの祖神 一説には大山津見神という〕と同一視もされている ≪ 他に、大国主命、少彦名神(すくなびこなのかみ)も酒造りの神される 日本書紀では、酒は「き」(伎、岐、支)と書かれ これに美称が加わったものが 「御酒」(みき)「神酒」(みき)「造酒」(みき)だという 「き」が「さけ」の読みになったのかは不明 「さけ」は「栄え」からきたという説 ヤマタノオロチに酒を飲ませ「裂き」殺したとところからきたという説 寒気や邪気を「避く」からきたという説などがある ≫ 記紀神話によると 邇々芸命の妻 木花之佐久夜毘売 (このはなのさくやぴめ・全国1300社の浅間神社の祭神)は 邇々芸命の子を身ごもごりますが 邇々芸に「お前とは一夜しかともに過ごしていない」と疑われます そこで木花之佐久夜毘売は 「お腹の子があなたの子でないなら 無事に生まれてくることはないはずです」と言って 産屋(うぶや)に火を放ち、その中で出産します (神明裁判) 長男の 火照命(ほでりのみこと・海幸彦)は 火が燃え始めたときに生まれ 次男の 火須勢理命(ほすせりのみこと・ 日本書紀ではこの神が海幸彦になっている)は 火が盛んに燃えているときに生まれ 三男の 火遠理命〔ほおりのみこと・ 火火出見命(ほほでみのみこと)。山幸彦〕は 火の勢いが弱まったときに生まれています 山梨県富士吉田市の 浅間神社 〔 北口本宮(もとみや)と呼ばれる 日本武尊(やまとたけるのみこと)が 背後の大塚に登って富士を拝したことに由来するという 本殿は武田信玄の再建 富士の登山口は、静岡県側に4つ、山梨県側に2つ存在するが 江戸時代には吉田口が最も栄え 浅間神社の門前には百軒ほどの宿坊があったという 〕 の「吉田の火祭り」は 木花之佐久夜毘売が火の神を出産したことにちなむ祭です 富士の山開きの8/26日 富士御影(みえい)という富士山の形をした神輿が 吉田市内をねり 御旅所(おたびしょ)に着いた夕刻 浅間神社と街の各所 それに吉田口の5合目から8合目までの各山小屋で 松明(たいまつ)がいっせいに燃やされるそうです 翌27日に神輿は 御旅所を出発し市内の火を鎮めながら神社に戻り 祭は終了となるといいます 壮大な祭りでしょ 神話がこのように現実化されている国なのです 日本という国は・・・・ その意味では、日本というのは 「神の国」であり、「天皇の国」なのです 富士講 富士講の開祖とされるのは 長谷川角行〔かくぎょう・1541~1646〕とされるが その生涯は伝説化されているところが多い 陸奥国の岩窟で役行者のお告げをうけ 富士山中の人穴〔ひとあな・静岡県富士宮市にある 富士山の噴火でできた溶岩洞穴〕で 千日間苦行して開眼する その後も富士登山や水垢離をし さらに、九州、中国、北陸、関東で修行を重ね霊験を強めた それとともに、各地で病気治しを中心とする布教活動を行った そして富士山中の人穴にて死去したという 江戸で「つきたおし」という疫病が流行ったときは 人々に「おふせぎ」という霊符をくばり霊験を示したとか 富士の神 仙元大菩薩〔浅間大神の本地〕に出会ったとかいった話もある この角行の流れを汲むのが 富士講身禄派の祖 食行身禄〔じきぎょうみろく・ 1671~1733。角行から五代目の弟子〕 身禄は伊勢の農家の出身で、13のときに江戸に出て 17歳のときに富士講に入信、油売りをしつつ修行を積んだという 油商人として成功を収め 59歳のとき、奉公人に家財を分け与え、富士山信仰の布教の道に入り 乞食身禄と呼ばれたという そして世の中を救うため、富士山の烏帽子岩で断食して没したらしい 身禄の思想は以下 【 世界の寿命は、4万8千年余りで 世界が、元の父母という創造主によって創造されてから 日本の国ができるまでの6千年が「元のちちはは様の世」 元の父母が支配する時代 次の「神代」は、元の父母より統治をゆだねられた天照大神が支配する時代で これが元禄元年(1688)までの1万2千年続いた 元禄元年からは、元の父母の御子の仙元大菩薩が支配する 「みろくの御世」で、この時代は、この世界が消滅するまで、つまり3万年続く 「元のちちはは様の世」では、人は、元の父母に庇護されていたので 善悪もなかった これが「神代」になると、人間は自立するが、神仏を作るようになり 神仏に依存し、ご利益を願うばかりの「影願」(かげねがい)の世となってしまった 本来、幸・不幸の報いは、行為によるが 神仏に依存しているので、自分の行為を反省する心を失い 地道に努力することを忘れてしまった 「みろくの御世」では、ご利益ではなく 正直を求める「御直願」(おじぎねがい)の心でつとめ 心を本来の清浄な状態にもどせば 誰でも「みろくぼさつ」となれる 】 身禄の後継者は、いくつか分派をつくるが その1つ「不二道」を創始した 小谷三志(こたにさんし・1766~1841)は、 身禄の思想を、陰陽で説明し 【 「元のちちはは様の世」では、陰陽が調和していた 「神代」になると、陰と陽には優劣がないのに 陽が尊ばれ、陰が卑しめられるようになった 男女でいうと、男性が尊ばれ、女性が卑しめられた この状態が続くと、陽はますます尊ばれ、大陽となって猛火を起こす 陰はますます卑下され、大陰となって大洪水を引き起こす そして世界は泥海となり滅亡する しかし、これを憐れんだ 仙元大菩薩が 小陽と小陰に直して、神代を終わらせ「みろくの御世」となった にもかかわらず、人の心が曇っているので、世の中が幸福になっていない 】 と唱えたという そして小谷は、男女平等思想をさらに徹底させていく 【 これまでは、陽が陰より重じられてきたが 下がる性質をもつ陰を上に、上る性質をもつ陽を下に置くことによって 気の調和が達成される 男女のあり方も、これまで卑しめられてきた女性を 男性より上位におくことによって、男女の性の和合が成る 】と説いたという 徹底はいっそう進んで、男女の服装、労働、性交渉などが入れ替わった 「おんながだんなになる」世を「みろくのみ世」を理想とし 高山たつという女性を伴い、富士登頂を強行したという 実行教の開祖 柴田花守(はなもり)は、小谷三志の門人である 【 実行教… 富士山信仰系 江戸後期に富士講身録派(みろくは)より不二道(ふじどう)が分立 これに明治初年国家主義的思想が加わり成立 教祖は、不二道第10世 柴田花守 】 富士山信仰系というからもっとアニミズム的なものかと思っていたら 教義的には、新興宗教とまるっきり一緒でした 陰陽道 修験道と山岳信仰 ① |
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