緋山酔恭「B級哲学仙境録」 陰陽道・安倍晴明



B級哲学仙境論


陰 陽 道


 




陰陽道




万物は、月と日、秋と春、北と南

夜と昼、女性と男性などといった

静穏的な性質の陰と、活発的性質の陽との

相互作用によって生じるというのが

「陰陽説」(いんようせつ・おんようせつ)です




一方、万物を成り立たせている

五行(木・火・土・金・水という5つの要素)

の力関係によって

天変地異や人の吉凶などが決まるというのが「五行説」です


両者を融合させたのが「陰陽五行説」です



これらは、古代中国に起源をもつ一種の自然哲学であり

陰と陽、五行は、天と地の間に

つまり宇宙空間に充満している“気”だとされます




「五行説」には、木から火が生じ、火から土が生じ

土から金が生じ、金から水が生じ、水から木が生じる

という相生説〔そうしょうせつ・木火土金水の順〕と



土は水に剋(か)ち、水は火に剋ち、火は金に剋ち

金は木に剋ち、木は土に剋つという

相剋説〔そうこくせつ・相勝説

土木金火水の順で前者は次者に勝てない〕があります



相生説によると、相生のものが合したときに幸が訪れるとし

相剋説によると、相剋のものが対するときに災いが来るとされます




紀元1世紀頃になると相生説が優勢となり

以降、季節、方角、色、五味、干支などから

道徳 (五常=仁義礼智信)に至るまで五行が配され


陰陽説とも結ばれ(木と火が陽、土は中間、金と水は陰)

陰陽五行説となり


万物は五行の力関係によって生成されるとなったようです



そして陰陽五行説は、卜占や禁忌などに取り込まれて俗信化し

長く中国人の社会生活を規定してきたそうです





日本の陰陽道(おんみょうどう)は

こうした陰陽五行説にもとづいて

天文、暦、卜占、卜地などをおこなうものです



陰陽五行説は、6世紀頃に日本に伝わり

律令制で陰陽寮という役所が置かれ


長官の陰陽頭(おんみょうのかみ)の下に

陰陽師(おんみょうじ)という職員や

陰陽博士という学生に教える教官


また天変地異の意味や未来の予見をなす天文博士や


日月の運行から30日の大の月と29日の小の月を決めたり

閏月(うるうづき)をいつ置くかなどを計算して

暦を作成する暦博士がいたそうです




陰陽師の仕事は

宮廷行事や公家の日常における

忌むべき日取りや方角を占ったり


護国や疫神・邪鬼の侵入防止のための

祓いやまじないを行ったり


さらには個人の長寿や栄達の祈祷なども行った

ということから


陰陽道ってのは占いと宗教の性格をあわせもったもの

と言ってよいでしょう




なお、占いは、古来から神道の神祇官(じんぎかん)

という役所が行ってきたそうですが

次第に陰陽寮のものが優勢になったそうです





平安中期以降は、賀茂氏(主に暦博士)と

安倍氏〔のちに土御門(つちみかど)と称す。主に天文博士〕が


暦博士と天文博士を分担

世襲して煩雑な禁忌を唱え


ふつう陰陽道が宗教として成立したのはこの時期とされます



なお、戦国時代には暦術家が絶えたことから

以降、土御門家が、陰陽頭、天文博士、暦術博士をかねることとなり

諸国の陰陽師を支配したそうです




江戸時代にも土御門家は

幕府の暦の作成と頒布(はんふ)の権利をにぎり栄えたそうです


また、江戸期には陰陽道の説が庶民の生活全般にも浸透し

民間陰陽師も活躍して、加持祈祷や病気なおしを行ったそうです



明治になると、国家神道により陰陽道は弾圧され

多くの陰陽師が神道各派に吸収されていきました


土御門家の子孫は明治に至り、相次いで子爵をうけたようです






ちなみに奈良時代の官職に

呪禁師(じゅごんし・呪文を唱え邪気や虫などの害を除く者)

というのがあったようです


日本書紀には、飛鳥時代 敏達天皇のとき、百済(くだら)王から

呪禁師が献じられたとあるそうです


この呪禁師には、仏教系と道教系があり

仏教系は雑密による祈祷を行ったと考えられていて


呪は真言・陀羅尼の意、禁は真言の行者でない者が修することを禁じる意

ではないかと考えられています


平安時代に入ると、陰陽師(おんみょうじ)や

真言密教の僧侶に役割が移り、呪禁師の名は消滅したといいます






現在では


「六曜」

【 ろくよう 先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口(しゃっく)


14世紀に中国から伝えられ

当時は、大安・留連(りょうれん)・速喜(そくき)

赤口・将吉(しょうきつ)・空亡(くうぼう)であったという


その後、名称や順番が何度か変化し

天保(1830~44)の頃、現在の形になったとされる 】




「鬼門」

【 家を建てるとき不吉とされる北東(艮・うしとら)の方角

鬼が出入りするという 】




「三隣亡」

【 さんりんぼう・この日に建築(とくに普請始め

柱立て、棟(むね)上げをすれば

後日火災を起こし、近隣の3軒をも焼失するという忌日(きじつ)


室町末より暦本にみられ

江戸時代にはそれほど強いものではなかったが

明治に入って庶民に浸透


1・4・7・10月は、亥   2・5・8・11月は寅   

3・6・9・12月は、丑(うし)の日 がこれにあたる 】




「厄年」

【 数えで、男性は25・42・61   女性は19・33・61

男性の42と、女性の33歳を大厄(たいやく)といい

その前後の年も前厄(まえやく)

後厄(あとやく)といって恐れ慎み、新年に厄除け祈願をしたりする 】


などに名残りをとどめるにすぎません





なお、陰陽道は多神教です


特徴としては

年によって住する方角を移動する遊行神が多く

祟る神様が多いことです



例えば、金神(こんじん)は

忌避(きひ)しなければならないと恐れられる方角神です


五行説の火、水、土、木、金の五元素の一つ

金が神格化した中国起源の神(道教の神)です



日本では遊行神となり

この神が遊行する方角に建築や移転、また旅行をしたり

この方位から嫁をもらうと祟(たた)りが生じ


“金神七殺”といって必ず家族七人が殺され

家族が七人にみたないと、隣家にも祟りが及ぶとされたそうです




平安時代には貴族のあいだで

方違え〔かたたがえ・陰陽道の俗信で

外出するとき金神のいる方角をさけ

前夜、吉方の家に泊まり、方角を変えて行くこと〕が行われ


江戸時代には修験者や祈祷師が

金神の祟りを除く祈祷を行い


金神信仰は西日本を中心に庶民の間にも広がった

といいます



家を建てるとき、金神のいる場所に呪符を埋めたり

稲荷などの社を建て金神を封じ込めることがなされたようです






また、今日では廃れてしまっていますが


正月元旦に、その年の恵方(えほう)の方角=

歳徳神(としとくじん)が在位する方角に

存在する寺社に参詣し


その年の幸福を祈願する「恵方詣り」という風習があったといい


元旦詣は、江戸時代末までは、恵方詣りが多かったいいます


明治になって、氏神や恵方とは関係ない有名な寺社への参詣が

一般的になったそうです




歳徳神は、金神同様

もともとは中国の道教の方位神で


日本の陰陽道に取り込まれています

歳徳神は、その年の福徳を司る女神です




歳徳神は

神仏習合思想では、牛頭天王(ごずてんのう)の妻

頗梨采女〔はりさいにょ・

八大竜王の娑竭羅龍王(しゃかつらりゅうおう)の娘〕

が本地(本来の姿)され


また、牛頭天王が、 須佐之男命と結ばれたことから

須佐之男命の后である櫛稲田姫命とも同一視されたそうです



【 牛頭天王…

祇園精舎(釈迦の道場)を守護するとされる

日本の神仏習合における神


起源不詳

道教的色彩の強い神だが、中国の文献には見られない


日本では、八坂神社(京都祇園社)の

祭神 須佐之男命(すさのおのみこと・素戔嗚尊)の本地とされ

八坂神社では、明治の神仏判然令以前は、牛頭天王を祀っていた 】





一方、神道の年神(としがみ・歳神)とも

同一視されたそうですが

日本神話の年神は、本来、男神です



日本神話では、須佐之男命と、神大市比売

〔かむおおいちひめ・大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘〕

の間に生まれた

大年神(おおとしのかみ・穀物神)がいます



この神の同母の兄弟には、宇迦之御魂神

〔うかのみたまのかみ・稲荷神社の祭神。稲荷神。穀物神である〕

がいます



また、大年神と香用比売(カヨヒメ)の間の子に生まれた

御年神(みとしのかみ・おとしのかみ)

御年神の子の 若年神(わかとしのかみ)がいて

これらも穀物神とされます



お年玉とは、歳神からの贈り物として頂いた(身祝い)のことで

歳神から新年に授かる(魂)を意味しするそうです


お年玉→御歳魂 ということですね


昔は 鏡餅を下げて子供にあげたようです







安倍清明



後世、日本第一の陰陽師としてあがめられた人が

安倍清明(あべのせいめい・921~1005。平安中期の人)で


識神〔しきがみ・式神。陰陽師の命令に従う鬼神。変化自在〕

を使うのがたくみで


あらゆる未来を予見したなんて言われています



彼には伝説が多く

天変により花山天皇の譲位を予知した話などが有名です



他には、藤原道長が

法成寺〔京都にあり、壮大な規模を誇った浄土寺院であったが

のちに火災にあい鎌倉時代に廃絶〕

の工事現場を訪れたとき


愛犬が歩みを止めた愛犬が足を止めた


これを清明に占わせると

従兄弟で左大臣の藤原顕光が


蘆屋道満(あしやどうまん・法師。陰陽師)に依頼し

道長を呪詛(じゅそ)していたことが判明した


これにより道満は、故郷の播磨に追放された

という話もよく知られています



晴明桔梗 (安倍晴明の家紋)



なお、晴明神社

〔京都市上京区。安倍晴明御霊神を祀る

一条天皇が「晴明は稲荷神の生まれ変わりである」として

1007年に、清明の屋敷跡に創建

その後、衰微、放置。幕末以降整備〕

の祭神として、神道の神にもなっています





儒 教




Top page


修験道





 自己紹介
運営者情報




 時間論




 幸福論




 価値論




 心と
存在




言葉と
世界




食べて
食べられ
ガラガラ
ポン





Suiseki
山水石美術館