緋山「B級哲学仙境録」 儒教とは? 孔子、朱子学、陽明学、古学と折衷学、四書五経



B級哲学仙境論


儒  教


 




儒 教




孔 子



儒教の根本は、自己を修めて他者を治める

「修己治人」(しゅうこちじん)です


つまり、自己を修めた人が君子で、君子や

君子よりさらに徳にすぐれた聖人が、徳をもって民を治める


民は小人(しょうじん)であり、自己を修める能力がないので

君子の教えによりはじめて道徳的な人間になれるという考えです


だから、聖人=王者が民を治めることを

理想とした思想体系が儒教なわけです


これを「徳治主義」といいます




儒教の「儒」は、濡と同じで

徳で人を濡(うるお)すという意味だそうです




儒教は

中国の孔子〔前551~前479・本名から孔丘(こうきゅう)ともいう〕

によって創始された学問です


キリストより500年も前の人

およそ釈迦と同じ時代の人です





『孔子は、幼くして父を亡くし

青年期は魯(ろ)という国の公族に仕えたが

倉庫番や牧場の飼育係とかをしていて

低い地位にあったといいます


のちに魯の君主 定公に召され、農事の長官や司法の長官に昇りつめ

55歳のときには宰相(さいしょう・総理大臣)の職務をも代行しといいます



しかし、政治を専断する三公族の勢力を削減しようとして失敗

14年間、漂泊しています


この間、法律によって政治を行う法治主義に対して

道徳によって国を治める徳治主義を諸侯に説いてまわりますが

孔子の理想を実施してくれる君主はなく


どこへ行っても採用されず、ときには人違いで殺されかけたり

餓死しかけたりしたそうです



諸国歴遊には


子路〔しろ。剛毅で実直な人柄で、つねに孔子を守護

もとは屠殺場をごろついていたやくざで

のちに衛(えい)で荘園管理人となった

衛に君位の争いが起こり、反乱鎮圧におもむき戦死。ときに38歳〕や



顔回〔がんかい・孔子最愛の弟子。31歳で死去〕

などの弟子たちがつねに同行していたそうです



69歳のとき、魯に帰り、政界への望みを絶ち

弟子の育成に専念


顔回や子路に先立たれるも弟子3千人

六芸〔りくげい・礼、楽、射、書、御(ぎょ・馬術)、数〕

に通じる者72人に囲まれて死去したと伝えられます




ことわざに "貧すれば鈍する"とありますが

孔子は、君子の境地を"貧して楽しむ"(論語)と述べています


弟子の顔回(がんかい)は、孔子が最も愛した弟子とされ

孔子は「顔回だけが道を理解している」と思っていたとされます


顔回が死んだとき「あぁ天、我を滅ぼせり」と慟哭したとされます



顔回が旨としたのが "貧乏暮らし" です

あばら屋に住み、粗衣をまとい

食事は一汁一菜の暮らしをしながら

天命(天から与えられた宿命)を楽しんだといいます


顔回は、清貧こそ人として最も正しい道であると考えていたのでしょう







孔 孟



孔子滅後、儒教は数々の教派に分かれていったそうです


その後、孟子(前372~前289)は「性善説」を

荀子(じゅんし・前298?~前235?)が

「性悪説」を唱えて対立しますが


儒教を「孔孟思想」というように

荀子を例外として

すべての教派に孔子・孟子の「性善説」が継承されています




性善説というと

「人の本性は善であるので、おのずと秩序が維持される

だから法律や罰則を厳しくしなくてもよい」

といった考えだと思われていますが


孟子の立場では、人は善の本質、可能性を具えてはいるが

環境が悪いと、それが隠されたまま

悪の環境に引きずられてゆくということです



荀子は、人には利己的欲望がある

それゆえ“人の性は悪、その善なるは偽なり”という性悪説を唱え

それゆえ重要なのは礼節であり、人は礼節を守り実践することで

聖人に至ると主張しました




孔子以来、儒教は

朱子学も、陽明学も

「性善説」に立つわけですが

これは、みなが平等に「聖人」の本性を具えているということです


なので、身体を構成している気の清濁によって

賢愚・善悪に違いが決まってくる

というわけです





また、我々は、≪性善説≫という言葉を

「共産主義の失敗は、性善説に立つからだ」とか

「性善説は現実的ではない」というように使いますが

こうした性善説の概念は

儒教のそれとは大きくかけ離れています



日本やその他の国では

「あの人は、出世したけど、人間性が悪い」

といったように

結果(成功や失敗)や能力と、人間性=道徳性を、分けて考えます



ところが、儒教の性善説というのは

徳治主義とつながっていて

勉強ができる=人徳者=善人

勉強ができない=不道徳者=悪人

勝ち組=人徳者=善人  負け組=不道徳者=悪人

ということになっていて


結果が出せないと、人間性まで否定されるわけです


韓国の遡及法と徳治主義





日本に儒教が伝わったのは

4世紀末から5世紀だといいます



聖徳太子が制定した有名な冠位十二階は

徳・仁・礼・信・義・智 に

それぞれ大徳(だいとく)・小徳(しょうとく)というように

大小をつけて12の位をつくり

それを冠(かんむり)の色によって区別したものといいます





儒教では、「徳」を、

「仁」(他者への愛・慈愛)

「義」(正義・人としてなすべきこと)

「礼」(謙虚な心)

「智」(善悪判断の能力)

「信」(信頼・嘘偽りのない態度)

と定義しています



このうち「仁」が根本の徳で、「信」を除いた4つを「四徳」

「信」を加えた5つを「五常」といいます



但し「仁」は、全ての人を平等に愛するといった

キリスト教の「博愛」(人類愛)とは異なり

及ぼすべき順番が決められています


父母に対する「孝」〔親から子への「慈」の反対〕

が、仁の第一で

次が、年長者に対する「悌」(てい)

その次が、君主に対する「忠」です



そして「仁」が、孝や悌や忠によって拡大され

民衆に及ぶのが「仁政」です





ちなみに中国でキリスト教的な人類愛を説いた人に

墨子(ぼくし・前470頃~前390頃)がいます


孔子と孟子(もうし)の中間の時代に活躍した人です


墨子は、平等・無差別の「兼愛」を説いています



墨家は、儒家と並び思想界を2分するほどであったそうですが

のちに急速に衰え、墨子の説は2千年間忘れ去られ

中国に博愛主義が根付くことはなかったといいます


これは、支配者にとって都合が悪い思想を含んでいたからだ

と考えられています



墨子の思想には、他に「非政」があります

これは反戦平和です



儒教の孟子(前372~前289・性善説で有名)は

墨子の「兼愛」を、自分の親と他人の親を区別しないのは

禽獣の愛であると批判しています






話を戻します


天命(天の意志)が

人の真心(まごころ)に通じているとし

悪や不正をさけ「仁」と「義」を実践することを説くのが儒教です



なお「仁」とは「忠恕」(ちゅうじょ)だとされます

忠恕は、まごころ(真心)と思いやりです



「忠」は、忠義とか忠誠とか忠実の忠で

正直で裏表のないこと、私欲のないこと、まごころの意味です

君臣間においてとくに重要とされる徳目です



「恕」は、自分を思うのと同じように相手を思いやること

相手の身になって思いやることです



簡単に言うと「忠」とは、誠実であること

「恕」は、その誠実な心で

他者を思いやることと言っていいと思います




「義」は、正義・人としてなすべきことですが


朱子学においては、義とは「断制裁割」

〔だんせいさいかつ・鋭い刃で物を断つようにけじめをつける〕

の道理だといいます


仁のみでは、情にながされかねない

なのでこれに正義・不正義の観点からけじめをつけるのが義

ということですね


朱子学で四書の1つとされた中庸(ちゅうよう)には

「義とは宜(ぎ)なり」〔義とは適切であること〕とあります




まず孔子が、最高の徳として「仁」を説き


これを受け継いだ孟子(前372~前289)が「仁義」を強調し

さらにこれに「礼智」をあわせた≪四徳≫を唱えて

「性善説」を展開したとされます



のちに、儒教の国教化を実現させた

董仲舒〔とうちゅうじょ・前176?~前104?・諸子百家を退けて

儒教を唯一の正統思想とすべきことを奏上〕が

五行説にもとづき「信」を加えて≪五常≫となったとされます




それから≪五倫≫というのもあます

5種の人間関係において最も重視される徳です


孟子により確定したといいます


父と子の間では「親」、君臣の間では「義」

夫婦の間では「別」(分け合うこと)

長幼の間では「序」、朋友の間では「信」で

五常とともに儒教の根本されます




また、仁・義・礼・智・忠・信・

孝(親や先祖を敬うこと)・悌(兄弟仲がよいこと)

の「八徳」が説かれたり


廉(心が清らかで欲が少ないこと)・恥(恥は恥を知ること)

も徳と考えられたようです






●  論 語



「論語」は、孔子の言行や思想を記した書で

門人たちが記録したものにはじまり

漢代に至って、儒家の一派により集大成されたという


20篇からなる



“子曰(しいわ)く、学びて時にこれを習う

亦(ま)た説(よろこ)ばしからず乎(や)

朋(とも)有り遠方より来たる、亦た楽しからず乎

人知らずして慍(うら)まず、亦た君子ならず乎”


〔 先生(孔子)が言われました

学問を時に応じて習う、これもまた人生の悦びではないか

友人がいて、遠方より訪れてくれる、これもまた愉快ではないか

世間に認められなくても恨まない、これもまた君子の道ではないか 〕



“子曰く、吾十有五にして学に志(こころざ)す

三十にして立つ

四十にして惑わず。五十にして天命を知る

六十にして耳順(みみしたが)う

七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず”

は、とりわけ有名



他に

“子曰く、学びて思わざれば罔(くら)し。思うて学ばざれば殆(あやう)し”


“徳孤(とくこ)ならず、必ず隣(りん)あり”

〔徳のある人は孤立することなく、必ず共鳴する者があらわれる〕


“徳をもって怨みに報いる”

などが名言とされる







易姓革命



中国古来の政治思想に「易姓(えきせい)革命」があります

易は、易(か)わる という意味です


天は、徳の高い者を天子として万民を治めさせ

子孫がその跡を継ぐが、その家(=姓)に不徳の者が出たときは

その命をあらためて(=革)、別の家の者に変える(=易)というものです


五行説によって体系化され

王朝交替は五行(木・火・土・金・水)の運行によりなされる

とされています



易姓の思想は、周の武王が、殷(いん)の紂(ちゅう)王を滅ぼした

殷周革命のころからおこり


戦国時代の孟子は、これを易姓革命における

「放伐」(ほうばつ・暗君を討伐して都から追放する行為)として認めています




なお、「放伐」に対して

「禅譲」(ぜんじょう・帝位を世襲しないで、有徳者へ譲ること)があります


尭(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)の交替は「禅譲」です






●  三皇五帝



中国の伝説では

最古の王朝 夏(か・前2100~前1600頃)以前に

「三皇五帝」による王朝があったとされている



三皇は


燧人〔 すいじん・燧(火打石)で火を得て

人間に料理をすることを教えた 〕



伏羲〔 ふくぎ・人頭蛇(竜)身で、網を発明し狩猟や漁労を人間に教えた

また火を使って料理することを教えた

女媧(じょか)を妻とし結婚制度をつくる

大洪水のとき女媧と2人だけが生き残り、人類の祖となった 〕



女媧〔 人頭蛇(竜)身。伏羲の妹あるいは姉で、その妻となる

黄土をこねて人間を作ったが、作業に骨が折れるため

その後、縄を泥の中に入れて引き上げ、泥を飛ばして人間を作った

前者が貴人となり、後者が凡人となった 〕



神農氏〔 しんのうし・炎帝ともいう

人身牛頭あるいは竜頭。農具を発明し、農業や養蚕を人間に教え

市場をもうけ商業を教えた


この他、種々の草を試食し、医薬の法も教えた


百草を、食べることができ体にもよいものは上品

たくさんは食べられないが薬味(スパイス)になるものは中品

毒性があるが病気に効能があるものは下品と分け

これを人間に教えた。五絃の琴も発明 〕



のうちから3者が選ばれたり

天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、人皇〔にんこう。秦皇(たいこう)〕

ともされる





五帝は、黄帝、 顓頊(せんぎょく・黄帝の孫)

嚳(こく・黄帝の曾孫)、尭(ぎょう・嚳の次子)

舜(しゅん・顓頊6世子孫。尭の娘婿)



黄帝は、蚩尤〔 しゆう・始めて武器を作ったとされる軍神

獣身で銅の頭持つとか、人身牛頭で四目六臂などという

神農氏のときに乱を起こしている

風や雨の神を従えて黄帝と戦うが、黄帝に従った日照の神により敗れた 〕

を討って諸侯の人望を集め


神農氏に代わって帝となり天下を統一したという


衣服、家屋、舟、牛馬者、弓矢などの生活用具などを発明し

文字、音律、暦、喪制などを制定、算術や医学を人々に教えるなど

人々を文化的生活に導いたとされ、黄河流域の古代文明の始祖となる


なお、象形文字を創作したのは

黄帝に仕えていた記録係の蒼頡(そうきつ・四ツ目であったという)で

彼は鳥獣の足跡をヒントに象形文字を作ったという




尭は、舜と共に聖天子として尭舜と並び称される


尭には息子がいたがこれを後継者とはせず

2人の娘を舜に嫁がせ、舜が人格者であることを見極めた後に

帝位を譲っている



また、尭の時代に黄河の氾濫があり、鯀〔こん・ 顓頊の子〕

に治水を命じたが

9年たっても氾濫が治まらなかったので、鯀に代えて舜を登用した


舜が鯀の治水を見に行ったところ、鯀は羽山で死んでいた



舜の時代となり、舜は、鯀の子である禹(う)に治水を命じる


禹はみごと治水に成功し、農業を整備。禹はこの功績により

舜から帝位を譲り受け、夏王朝の始祖となったという




なお、「皇帝」という言葉は

三皇の「皇」と五帝の「帝」をあわせたもので


始皇帝が、三皇五帝より尊い存在であるという意味で用い

以降、中国の支配者は皇帝を名乗ることになったという







朱子学



宋代になると朱熹〔しゅき・1130~1200。朱子は後世の敬称〕が

「朱子学」(宋学)を創始します


元代には朱子学が伝統的儒教に替わり国教となり

清(中国最後の王朝。1912年に滅ぶ)の末までその地位を保ちました



日本でも朱子学は

江戸時代、幕府により正学と定められ

日本人の思想に大きな影響を与えています


当時の倫理学であり、自然科学であり

社会科学〔社会学・経済学・政治学・歴史学など

人間社会の諸現象を研究する学問〕

でもありました




日本の臨済宗は

鎌倉・室町時代を通じて幕府が保護したこと

また禅の宗風が

質実剛健を旨(むね)とする武士の気質に合っていたこと

により大いに興隆し


当時の文化の中心を担いましたが


朱子学は、この臨済禅のなかに含まれる形で

日本に伝えられたとされます




鎌倉時代、中国(宋)は、モンゴル族の侵略を受け

モンゴル王朝の元が成立します



このような状況から

中国の臨済宗の名高い僧が

次々に亡命、あるいは幕府に迎えられて

日本に渡って来ていました




最初に禅から朱子学を取り出したのは

安土桃山時代から江戸初期の

藤原惺窩(せいか・1561~1619)です



惺窩は、京都の相国寺〔臨済宗相国寺派大本山〕

の首座をつとめ

仏典と共に儒学を学び、次第に儒学に専心

師を求めて明へ渡ろうとしたが失敗に終わったといいます


やがて還俗して儒者となり

秀吉や家康にも儒学を講じ


家康には仕官することを求められたますが辞退して

門弟の一人 林羅山(はやしらざん・1583~1657)を推挙ています




羅山は、家康から家綱まで4代につかえ

上野忍ヶ岡に昌平黌(しょうへいこう・昌平坂学問所)

の前身となる弘文館を設立し


孔子を祀る孔子廟(現在の湯島聖堂)を建てています



これらは5代綱吉により、神田湯島に移され

この地は孔子の生地である昌平郷にちなみ昌平坂と命名されました





1790年には、老中 松平定信の

寛政の改革の「異学の禁」により


朱子学が「正学」と定められ

幕臣により異学を学ぶことが禁じられます


また諸藩もこれにならうように要求されます


これは、幕府に忠実な官僚を育成するためだったとされます



朱子学を教える藩校は、250余校にのぼり


また、朱子学は

私塾や寺子屋を通じて一般にも普及していったそうです




● 寺子屋・・・・ 自主的に普及していった民間の教育施設

寺子屋の名称は主に上方で用いられ

江戸では手習指南所などと呼ばた

町人の子供たちに、読み、書き、そろばんを教えた

幕末期には、江戸に1500、全国では1万5千校存在したという





なお、「異学の禁」により

それまで林家の私塾であった昌平黌と林家が切り離され

昌平黌はその後、制度上の整備を整え

97年に幕府の直轄機関となったそうです



昌平黌は、維新後には昌平学校、改称して大学本校となるも

国家神道の時代でもあり

国学・神道を上位に置き儒学を従とする機関であったといいます


明治4年に廃止されています







南学と垂加神道



「南学」は、土佐で興隆した朱子学の一派です


室町末の周防国(山口県)の儒学者

南村梅軒(むなみむらばいけん・1579~?)が

土佐に朱子学を伝えたので、南学の祖とされます


この梅軒の思想が、禅僧に受け継がれ

のちに禅から完全に分離され、土佐藩で発展したとされます



江戸時代初期の 谷時中(たにじちゅう・1598?~1650・

仏門に入るが朱子学を学んで還俗)

が、実質的な祖とされます



神儒一体の垂加神道(すいかしんとう)を創唱した

山崎闇斎(あんさい・1618~82)は、谷の門下です




山崎闇斎は、京都の妙心寺(臨済宗妙心寺派大本山)の僧となり

のちすすめられて土佐の寺に住し

ここで南学の影響をうけたといいます


しかし強烈な個性の持ち主ゆえ争いを生じ

土佐を追われ京に帰り還俗(このとき28歳という)


38歳のとき京で私塾を開き、門弟6千に達したといいます



53歳のときに吉川惟足(よしかわわこれたり)より神道を学び

垂加神道を提唱します

垂加は闇斎の神道号で惟足が授けたものです




ちなみに、吉川惟足〔1616~94・紀州、加賀、会津の諸侯に仕え

江戸幕府の神道方に任じられた〕は

吉川神道を創始しています


これは神道に、陰陽五行説や朱子学の考えを取り入れた

儒家(じゅか)神道で

山崎闇斎の垂加神道は、これを発展させたものです







朱子学とは?



朱子学では


≪ 万物は宇宙に充満する「気」という

ガス状の物質によって形成されているが

そこには「理」という原理が内在している ≫

と考えます


≪ 天地万物の根源は理で

この理は、純粋であり、至善(最高の善)であり

万物は理を天より与えられていると説き

人間は本性として理を持つ ≫

と説きます


これを「性即理」

(せいそくり・本性すなわち理であるという意味)

といいます



一方、≪ 肉体は、物質である気によって形成されているため

物欲を生じる心(気質の性)が生じる

人の本性は、等しく理であり善であるが、気質の性の清濁によって

聖と凡との違いがある


ゆえに物欲を克服し

理という本来的な自己に立ち返らなければならない ≫とし



その方法として「居敬」と「窮理」を重んじ

経書(四書五経など)を読むことで

知的に深まることが求めらています



「居敬」〔きょけい・敬(心を1つに集中させること)の状態を保つこと〕

「窮理」〔きゅうり・事物の理をきわめ知ること〕





なお、宋学(朱子学)は

「程朱学」〔程顥(ていこう)・程頣(ていい)・朱熹の学問の意〕

ともいいます


程頣(ていい)は、程伊川(ていいせん)ともいい

程顥(ていこう)=程明道(ていめいどう)

の弟で


朱熹が最も多く取り入れたのは

程頣(ていい)の説だといいます



兄の程顥(ていこう)が、性を人の生命の働きとしたのに対して


程頣(ていい)は、性(生命の働き)には

「気質の性」

(陰陽の気によりつねに生々流転している性・物欲を生じる性)と


天から与えられた「極本窮源の性」があるとし

後者=「理」であるとました



ここではじめて朱子学の根本たる

「理気二元論」的な考えが登場したわけです




程頣によると

≪ 万物・万象は、陰陽の気によって成立しているが

気の背後に理(すなわち道)がある

人の極本窮源の性は、理そのものであり善である

気質の性は、身体を構成している気の清濁によって決まる

これにより賢愚・善悪に違いが出てくる


気質の濁りを正して、本来的な理に戻るには

学問・修養が必要であり


その方法が「居敬」と「窮理」である ≫





なので、朱子学の根本となる

「性即理」(せいそくり)や「居敬窮理」は

程頣が提唱しさせたもを、朱熹が継承、発展させたわけです


彼らと朱熹には1世紀(100年)の差があります



朱熹は、≪ 万物は気によって生成されるが

万物は天から理が与えられている

人間の本来の性は、理であり善であり

具体的には仁義礼智信などの徳がこれにあたる ≫

としています





宗儒(宋代の儒者)の程顥(ていこう)、程頣(ていい)

朱熹、陸九淵(りくきゅうえん)らは


仏教を研究しその哲理を儒教に取り入れたとされますが

一方で、排仏論を唱え、仏教を激しく攻撃したといいます



朱子学の人間の本性は「理」であり

物欲を克服し、理という本来的な自己に立ち返らなければならない

というのは


自己に内在している仏性を顕現していくことにより

仏という理想の境涯を目指していく

という仏教の考え方と全く同じです







陽明学



朱子学と並び称される「陽明学」(心学)は

王陽明〔1472~1529・本名から王守仁(しゅじん)とも呼ばれる〕

よって創始されました


朱熹より300年以上も後の人です


心学の根本思想は

朱子学の「性即理」に対して「心即理」に集約されます



但し、陽明学のいう「理」とは、倫理的・道徳的原理であって

朱子学のようにそれに

プラス「宇宙の根本原理」などといったものは含みません


つまり、道徳的な判断能力です



但し、万物および人の本性に

理〔宇宙の根本原理であり、かつ道徳的な原理〕が

存在しているという朱子学の立場そのものを

否定したわけではありません



朱子学が、外部に理を求めることばかりに熱心で


自己に内在している理を求めていくこと

あるいは自己に内在している理を顕現していくこと


これについての実践を軽視していると批判したのです




陽明の「知行合一」(ちこうごういつ)は

朱子学が知を先にして

その実践(行)をあとにする知先行後(ちせんこうご)に

傾きがちであったことから立てられた立場です



「知っているのに実践しないというのは

まだ本当に知っているとはいえない


朱子学では仁義道徳を口にするが、これを実践しない」

「朱子学は知識の量的拡大を目的としているに過ぎない」とし


知(道徳的自覚)と行(実践)は、1つのことの両面にすぎない

と主張したわけです



そしてこの知行合一は

「致良知」(ちりょうち)によって実現されるといいます



大学(儒教の経典の1つ)の「致知」(ちち)について

朱熹が、知は知識であり

致知とはあらゆる事物の理をきわめ知ることであって

窮理(事物の本質をきわめること)と同じであるとしたのに対し



陽明は、致知の知とは

「良知」(善悪を判別できる道徳的な能力・聖賢の心)

であるとし


≪良知は、心にもともと具わっているゆえ

良知が善と判断したことをそのとおりに行い

悪と判断したことを行わないことにより

良知を拡大し発現していくことができる≫

としました


これが「致良知」です




なお、心即理を最初に主張したのは

陸九淵(りくきゅうえん・1139~92)という人だとされます


陽明学は「陸王学」ともいいますが

これは陸九淵と王陽明の学問の意味です



朱熹は、経書を読むことで知的に深まることを重視しましたが

陸は本心にもとづく道徳的実践を主張し

手紙により朱熹としばしば論争したといいます


また会見も行われたといいますが、理解し合えず

朱熹は陸九淵の立場を「学問を軽視する実践主義だ」とし

陸は朱熹の考えを「実践を軽視する博学主義だ」と評したそうです



陸九淵(象山・しょうざん)の「心即理」は

≪人の心には

かつての聖賢と同じ心(理)が生まれながらにして具わっている≫

というもので


これを王陽明が

発展させて「致良知」(ちりょうち)を主張したようです




中国では陽明学は

官学として硬直化した朱子学を

しのぐほどの盛況振りを見せたそうです


ただ、知識を外に求めなくてよいという考えが強調され

経書の権威を否定し

読書を廃するといった極端な傾向も生まれたといいます




日本には江戸時代初期に入っていますが

幕府や諸藩の弾圧によりそれほど普及しなかったようです


反骨の儒者と呼ばれる 熊沢蕃山(くまざわばんざん)や

大塩平八郎、西郷隆盛なんかが陽明学を学んだといいます







古学と折衷学



日本の儒教には、朱子学と陽明学の他

「古学」や「折衷学」というのも生まれています



「古学」は、孔子や孟子の時代の古典を

原文に即して解釈することで

儒教を理解すべきであると主張した学派です


古学は一時、朱子学を圧倒したそうです



寛政異学の禁ので

朱子学が正学とされ、異学が禁じられたことにより

次第に衰退したとされます




当時は

8代将軍 吉宗が、理念的な朱子学よりも

実学(実生活に役立たせることを目的とした学問・

科学・法学・医学・経済学・工学などといった)

を重んじたこと



【 吉宗は

蘭学(西欧の学術、文化を研究する学問)の書の禁をとき


青木昆陽〔サツマイモの栽培有名

『和蘭話訳』や『和蘭文字略考』を著した〕や


野呂元丈(げんじょう・本草学者)

に蘭学を学ばせている 】



加えて、古学派や折衷学派

その他諸学派が流行したこともあって

朱子学は不振となり

湯島聖堂の廃止さえも検討されたといいます






古学派は、山鹿素行(やまがそこう・)の「聖学」にはじまり

次いで、伊藤仁斎(じんさい)が「古義学」を創始し

さらに、荻生徂徠(おぎゅうそらい)が「古文辞学」を唱えています



但し、≪古学派≫とは言うものの

実際は、3者がそれぞれ独自の説を立て

独自の学派を形成しました




山鹿素行(1622~1685)は

兵学者(山鹿流兵法の祖)でもあり

儒学を基礎とした武士のあり方を説いたといいます


林羅山に朱子学を学びますが

のちに「聖教要録」〔孔子・孟子の言葉に帰すことを中心に

儒教(聖学)について説いた書〕

を著して朱子学を批判しています




伊藤仁斎(1623~1705)の思想の特徴は

古学の立場の他には


仁の本質は「愛」であるとし

愛で天下みたす文化人=聖人と考えたことと


また、感覚によりとらえられるものだけを

実在とみなす気一元論です

これは朱子学の理気二元論に対立します




古学派の「古文辞学派」は

中国古代の文章(古文辞)で書かれた

儒教の古典を正しく理解するには

まず古文辞から研究する必要があると主張し


他の古学派に対し

「後世の文章にとらわれた古典の解釈をしている」

と批判したそうです




古学、朱子学、陽明学などの長所を折衷(せっちゅう・調和)させ

孔子の真意に近づけようと試みたのが「折衷学」です







儒教の経典 ① 五経



儒教の最も基本的経典は、四書五経といいます


五経(ごきょう・ごけい)は、秦(前221~前206)

漢(前漢・前202~後8)の儒家から重んじられてきたものです


易経(えききょう)、書経(しょきょう)、詩経(しきょう)

春秋(しゅんじゅう)、礼記(らいき)をいいます


五経は全て孔子が述作ないし編纂とされていますが

書経と詩経以外は、疑問だといいます



四書は、朱熹により定められたもので

大学、中庸(ちゅうよう)、論語、孟子をいいます





① 「易経」は「周易」ともいいます

占筮(せんぜい)の書で

もともと易に用いられていたそうです


中国古代の伝説上の皇帝の三皇の1人 伏羲(ふくぎ)

がつくった卦について


周(前1100頃~前256)の始祖の武王の父 文王がその総説を書き

武王の弟で魯王に封ぜられた 周公が細説

さらに孔子が深遠なる原理を書き加えたものとされます



全ての事象を示す8種の形である八卦(はっけ)が

互いに重なり64卦を生じるとし


これを自然現象、家族関係、方位、徳目などにあて

倫理や政治を説明している一種の哲学書だといいます





② 「書経」は「尚書}(しょうしょ)ともいいます


中国古代の伝説上の理想の王である五帝の

尭(ぎょう)と舜(しゅん)から

春秋時代(前770~前403)前半までの政治史です





③ 「詩経」は、諸国や王宮で詠(うた)われていた

詩歌311首を集めたもので


風〔民の詩歌。多くは恋愛や結婚の喜びや悲しみ

その他、狩猟・農事など〕


雅〔貴族の饗宴での祝福・兵士の望郷・

将軍の武勲・亡国の憂いや政治批判など〕


頌〔しょう・祭祀に関する詩歌

先祖への祈りや求福、建国神話など〕

の3部から構成されるといいます



現存するものは

漢の学者 毛亨(もうこう・詩経の研究家)が

伝えたので「毛詩」(荀子から魯の毛亨に伝えられた)

ともいうそうです





④ 「春秋」は、春秋時代(前770~前403)の列強国の1つで

孔子の生国でもある魯(前1055~249)の歴史書です


注釈書には、公羊伝〔くようでん・孔子の弟子の

子夏(しか・孔子の弟子)の門人 公羊高(くようこう)の作〕


左氏伝〔さしでん・孔子の弟子の左丘明(さきゅうめい)の作〕


穀梁伝〔こくりょうでん・子夏の門人 穀梁赤(こくりょうせき)の作〕

の春秋三伝があります



公羊伝と穀梁伝は

春秋に記されている孔子の精神を明らかにするために

著されたもので


左氏伝はそれとは違い、歴史物語としての評価が高く

文章が巧みで古典文の模範とされます





⑤ 「礼記」(らいき)は、儀礼についての解説・理論

および音楽・政治・学問における

礼の精神について述べたものだそうです


前漢(前202~後8)の戴聖(たいせい)が

古い礼の記録を整理したものされます



"男女七歳にして席を同じゅうせず"

〔席とはむしろやござのことで

7歳になったら1つの布団で寝かせるようなことをしてはならない

つまり男女の別を明らかにし、みだりに交際してはならないということ〕

は、もともとはこの礼記にみられる言葉だそうです





なお、唐2代皇帝 太宗(たいそう)は

五経の解釈が多様であったので

孔穎達(くようだつ・574~648)を総裁に命じ

多くの学者とともに、五経正義〔180巻。五経の正統公認の解釈集〕

を編纂させています



このとき易経は、王弼(おうひつ・226~49)

書経は、孔安国(こうあんこく・前117~?。孔子11世の孫)

春秋左氏伝は、杜預(どよ・322~284)

毛詩と礼記は、鄭玄(じょうげん・127~200)

の注釈書の説が採用され


五経正義は、その後の科挙(かきょ・官吏採用試験)の基準となり

現在に至る経書解釈の基礎となったそうです







儒教の経典 ② 四書



四書は、前述のとおり朱熹によって定められたもので

朱子学によって、五経中心の儒学から

四書中心の儒学へと推移していったそうです



朱熹は、47歳のときに

論語集註(しっちゅう・10巻)と孟子集註(7巻)を


59歳のときに、大学章句(1巻)と

中庸章句(1巻)という注釈書を作っています



朱熹は、四書のうち「中庸」こそが儒教哲学の根本だとしています


儒教を学ぶにあたっては

大学から入り、論語、孟子を学び、中庸に至り

そののち五経へ進むように述べているそうです



「大学」と中庸は、もともと礼記の一編です





① 「大学」の原文は1753文字にすぎませんが

自己の修養からはじまり

そこから政治へと発展していくまでを段階的に示していいます



その段階が、格物(かくぶつ)、致知(ちち)、誠意

正心、修身、斉家(さいか)、治国、平天下の8つです


"修身、斉家、治国、平天下"

〔身を修め、家をととのえ、国を治め、天下を平定する〕は

儒教の根本をあらわす言葉です


同時に"天下の本は国にあり、国の本は家にあり、家の本は身にある"

という言葉も知られています




8つのうち、格物と致知については

様々な説が生じてたそうだが、朱熹と王陽明の解釈が有名です



朱熹は、格物とは事物に至ること

一事一物の理をきわめることであり

致知とはあらゆる事物の理をきわめ知ることであって

窮理(きゅうり・朱子学の根本理念で、事物の本質をきわめること)

と同じであるとしました



これに対して陽明は

格は至るではなく正すという意味である

物は事物ではなく意の所在(意志の対象・行為)である


格物とは、行為を正す、正しい行いをすることである

としています



また「致知の知は

良知(善悪を判別できる先天的能力)であり

致知とは、致良知(陽明学の根本理念)と同じで


良知が善と判断したことをそのとおりに行い

悪と判断したことを行わないこと

つまり、良知の判断を行為に実現させることである

と説いたそうです





② 「論語」は、孔子の言行や思想を記した書で

門人たちが記録したものにはじまり、漢代に至って

儒家の一派により集大成されたといいます

20篇からなります





③ 「孟子」は、孟子の言行や思想を記した書で

門弟の編集したものをもとに

のちに集大成されたものと推測されています

7篇からなります


孟子によると「徳」へと向かう

4つの心(四端・したん)があるといいます



「四端」は

惻隠〔そくいん・あわれみの心。他者を見ていたたまれなく思う心〕

羞悪〔しゅうお・不正や悪や不義を恥じて憎しむ心〕

辞譲〔じじょう・へりくだる心。ゆずる心〕

是非〔正を正、誤りを誤りだと判断する心〕



そしてこの4つが拡充されると

それぞれが仁、義、礼、智という徳に至り

この4つの徳を顕現することにより君子・聖人に至ることができる

四端は、全ての人に具わっている

というのが孟子の性善説です



この他に、君主を王者と覇者に、政道を王道と覇道とに分け

前者が後者に優れていることなどの思想がみられるといいます



なお「孟子」は朱熹が四書として定める以前は

基本的な古典として扱われていなかったそうです


孟子自身も儒学者の1人にすぎなかったそうですが

朱子学の興隆とともに地位が高まっていったといいます





④ 「中庸」も前述したとおり、大学同様もともと礼記の一編で

孔子の孫の子思〔しし・孟子に学を伝えたとされる〕作とされます



子思が有名となったのは、朱熹により中庸が重んじられ

孔子 → 會子(そうし・孔子の晩年の弟子。孝経の作者) →

子思 → 孟子(子思の門人に学を受けたとされる)

の系譜が強調されたことよります



なお、子思は、幼くして父と祖父を失ったため

孔子との面識はほとんどなく

曾子の教えを受け儒家の道を極めたとされます





中庸〔中はすぎたりおよばなかったりしないこと。偏らないこと

庸は平常の意味で、儒教では直情径行を野蛮とし

奇をてらい俗を驚かす行為を嫌う〕を説き


徳とは中庸(正しい中間)を見つけ、これを学ぶことだとしています




太陽と月、天と地、晴天と雨天

こうした対立を調和する概念が「中庸」で

晴天ばかりで雨が降らなければ作物は育たない

だから双方が循環する必要がある とみるわけです


一方に偏ったり、白か黒かはっきりさせる 考えとは対立します



論語に、"子温而厲、威而不猛、恭而安"


〔 子(孔子)温にして厲(はげ)し、威(い)ありて猛(たけ)からず

恭にして安(やすし)


師の孔子は、温和であるが厳しくもあり

威厳はあるが威圧せず、礼儀正しいが堅苦しさがない 〕とあり


これが「中庸」の徳であるといいます




それから、「中庸」は「天人合一」の真理を説きます


天人合一は、人は天と合一することにより

その不完全性が克服されるという思想です





なお、儒教においては

漢代に登場したとされる「天人相関説」


君主が善政を行えば瑞祥〔ずいしょう・めでたいしるし

日月の輝きが増したり、鳳凰・麒麟・

連理(れんり・根や幹は別だが、枝があわさった木)

などの動植物の出現〕があらわれ



悪政をなせば、地震、洪水、大火などの災害や

日食などの不吉なしるしがあらわれる

という思想


これなども広い意味では

天人合一に含まれると考えられています



 連理  転写







以上が四書五経ですが

日本の江戸時代の儒教は

四書と「孝経」が中心だったといいます


「孝経」は、孔子の晩年の弟子の會子(そうし)

あるいはその門人の作とされる

孝道を説いた書です


孔子が會子に語り聞かせる形になっているそうです


なお、會子は孔子と同じ魯の人で

孔子の没後、魯の儒教教団の後継者であったと考えられています


子夏など礼節を重んじる客観派に対して

會子の学派は仁と内省を重視し主観派と呼ばれたそうです


なお、子夏の学風が、荀子に受け継がれたとされます



但し、子の會申(そうしん)は、子夏より詩経を

左丘明から春秋左氏伝を受けたとされるので

主観派と客観派が対立したわけではないようです



"子曰く、先王、至徳要道(しとくようどう・孝徳と孝道)あって

もって天下を順にす"



" 子曰く、それ孝は徳の本なり。教(教え)の由(よ)って生ずるところなり

坐に復(かえ)れ。われ、汝(なんじ)に語らん

身体髪膚(はっぷ)、これを父母に受く

敢(あえ)て毀傷(きしょう)せざるは

孝の始めなり 、身を立て道を行い、名を後世に揚(あ)げ

もって父母を顕(あら)わすは、孝の終りなり

夫(そ)れ孝は、親に事(つか)うるに始まり

君に事うるに中(あた)り、身を立つるに終ふ"



〔 孝道は徳の基本である。道徳の起源も孝道から生じたのである

席に復りなさい。私はあなたに語って聞かせよう

身体や髪や皮膚などは父母から貰ったものなので

むやみに傷つけず生を全うすること これが孝の始めである

立身出世して正しい道を行い、後世に名を残し

それによって父母を宣揚すること

これが孝の成就である。孝というものは親に仕え

主君に仕えて天命を全うし

身を立てて人生を終わることである 〕




なお、易経、書経、詩経

三礼〔さんらい・周礼(理想的官制を述べた書)

儀礼(ぎらい・宗教的・政治的儀礼を集録)、礼記〕


春秋左氏伝、春秋公羊伝

春秋穀梁伝、論語、孝経、爾雅(じが・中国最古の辞典)

孟子を「十三経」(じゅうさんけい)といいます


儒教の基本的な経典です

宋代に決められたようです







諸子百家



なお、中国では春秋戦国時代にいわゆる

諸子百家(しょしひゃっか)と呼ばれる

さまざまな思想家が現れて、独自の学説を展開しました



「家」というのは学派ととらえてよいと思いますが

実際に学派というのに妥当なのは

儒家(じゅか)と墨家だけだといいます



他は同じ問題を論じた思想家が

ひとまとめにされただけのようです



儒家と墨家の他にどんなのがあったの?


道家〔老荘思想を奉じた人たち〕


陰陽家〔五行説を体系化した人たち〕


法家〔天下を治める根本は仁義礼などではなく

法律であると主張した人たち。政治家〕


縦横家〔諸国を遊説し外交を論じた人たち〕


兵家〔用兵や戦術などを論じた人たち。孫子など〕


雑家〔ざっか・儒家、墨家、法家など

諸家の説からよいところを選択し

総合することを試みた人たち〕


農家〔君子もともに耕作すべきという君民農耕を説き

自給自足による集団生活を実践した人たち〕


名家〔めいか・名(言葉)と実(対象)との関係を

論理的に明らかにしようとした人たち〕


小説家〔小説とはささいな話の意味で、町のうわさ話や

見聞を集めて処世の術に役立てたり

余暇の楽しみとすることを説いた人たちのようである〕


などがあったといいます




なお、名家の代表である

公孫竜(こうそんりゅう・前320頃~前250頃)は


人間が、モノを構成する

「実」(材料)や「位」(すがたかたち)を認識し

のちにモノに名称が与えられる

と主張したといいます


つまり実が名に先立つということです



そんなのあたりまえのようですが・・・・


儒教においては、実体より名称を優先させるのです

これを正名(せいめい)論といいます


正名論は孔子によって素朴な形で説かれ

荀子によって論理的に説かれたとされます



つまり、君・臣・父・子・夫・婦などの名称に

各人の本分(自分のつとめ)を一致させてゆく

これによって社会の秩序を維持する

という倫理観が儒教なわけです






孫子は、武田信玄の風林火山で知られている兵法家です


「疾(はや)きこと風の如(ごと)く、徐(しず)かなること林の如く

侵掠(しんりゃく)すること火の如く、不動(うごかざる)こと山の如し」

という兵の動かし方=風林火山は有名ですよね



≪百戦百勝は、善の善なる者に非(あらざ)るなり≫

これは、戦わずに勝つことこそ最善

〔戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり〕

という意味とされますが



私が思い浮かんだのは


1つは、百戦百勝するためには汚いことに

手を染めなきゃならないからということ


もう1つは、負けることがないということは

負けから学ぶことをしていないということ です




他には


≪兵とは、詭道(きどう)なり≫

〔兵法とは敵をあざむくことである〕



≪戦いは正を以(もっ)て合い、奇を以て勝つ≫

〔戦いは、正攻法で敵を防ぎ、敵の意表をついて勝利する〕



≪能(よ)く敵人をして自ら至らしむ者は、之を利すればなり≫

〔敵軍を自軍の軍の思いどおりに進ませることができるのは

相手に利益を与えるからである〕



≪智者の慮(おもんばかり)は、必ず利害を雑(まじ)う≫

〔智者の状況判断は、必ず利益となる点と不利益となる点を

同時に考えてのことである〕




≪将に五危あり。必死は殺す可(べ)し

必生(ひっせい)は虜(とりこ)とす可し

忿速(ふんそく)は侮(あなどる)る可し

廉潔(れんけつ)は辱(はずか)しむ可し

愛民は煩わす可し≫


〔 将としての資質にそぐわない五つの危険がある


自らの命をかけて夢中になって戦う者は

全軍の動きを把握することを忘れているので

たやすく殺すことができる


生き延びることばかり考えている者は

消極的になるので取り囲んで捕虜にすることができる


短気で逆上しやすい者は

侮られたと怒るので、挑発にのせればよい


清廉潔白でありすぎる者は

周囲の視線を気にするので中傷して己を失わさせればよい


情の厚い者は、部下に犠牲が及ぶように

煩わせて決断を鈍らせればよい 〕


(以上の言葉は、日本文芸者「図解 孫子の兵法がよくわかる」より)


などは、人の心理に通じていて面白いです








焚書坑儒



前213年と前212年に

秦の始皇帝が行った旧中国最大の思想弾圧に

「焚書坑儒」(ふんしょこうじゅ)があります



前221年に天下を平定した始皇帝は

法家の李斯〔りし・始皇帝の死後

趙高とともに末子の胡亥(こがい)を2世に立てることに成功するも

のち趙高・胡亥によって処刑〕を重要し


それまでの封建制を廃して、郡県制を施行しました


これに儒家をはじめとする諸子百家が異論を唱えたことから

李斯が始皇帝に焚書をすすめたとされます


これにより、民間にあった種樹(しゅじゅ・農業)・

医薬・卜筮(ぼくぜい・占い)以外の全ての書物


諸子百家の書をはじめとする全ての書物が没収され、焼き払われたそうです




但し、この時代の書物は

木簡(もっかん)に文字を書いたものであったため

民衆や知識人は壁に塗り固めるなどして残したので

全てが灰となる事態は避けられたようです





なお、前述の五経に「楽経」(がっけい)を加えて

「六経」(りっけい・りくけい)といったそうですが


このとき「楽経」が失われて、五経となったといいます


〔 但し、「楽経」そもそも存在しなかったという説もあり


実体についても

もともと儀礼(ぎらい)に付けられてる儀式音楽のことであるとか

詩経に付けられている音楽のことであるという説


さらに音楽そのものの書であったという説と

音楽理論の書であったという説があるようです 〕




そして、さらに翌年には

始皇帝に批判的な方士(神仙術の体得者)や

儒学者 あわせて460人余りを穴埋めにするという坑儒が行われています



始皇帝は、道教の神仙思想に傾倒し

あらゆる手をつくして不老不死の霊薬を求めさせていますが


これが偽りだと知り、方士だけでなく

儒学者もとらえ問いただすと

互いに罪をなすりあったため、穴埋めにしたといいます








儒仏論争 ①



儒教と仏教の論争はなかったの?


中国では、仏教はインドで誕生した外来の思想です

これに対して儒教は中国で生まれた教えです


そこで対立が起きています


争点になったのは

1つには、仏教の剃髪、出家の制度が

儒中国の伝統思想(儒教)の「孝」に反するというものです



仏教側は、仏教は父母を救済し

先祖に福徳を与えるので不孝ではない

と主張したといいます



また、中国社会にあわせて

「父母恩重経」〔ぶもおんじゅきょう・中国で作られた経典

父母の恩は天のように広大で重く、子は報恩の義務があるので

7/15日には、盂蘭盆会(うらぼんえ)を行い

本経を書写して人々に広め

自らも受持し読誦せよと説く〕などを作成したり


1人が出家すれば9代前の先祖まで極楽に行ける

といった信仰も誕生されたといいます







別の争点としては

儒教が「聖人即王者」という立場にあるのに対し


仏教の慧遠〔えおん・334~416・中国浄土教の祖の1人

念仏結社の白蓮社をつくった〕は

「沙門不敬王者論」〔沙門(しゃもん・男性の出家者)は

君主に対して礼をとらなくてよいという考え〕を唱えました


東晋の桓玄(かんげん)が、沙門の敬礼を要求したのに対し

慧遠は沙門不敬王者論を著して、これを許されています



しかしその後も議論はつづき

王朝側から、君主が仏であるから

君主を拝することが、仏を拝することである

といった主張もなされたそうですが


結局、沙門は君主と父母に礼拝しなくてもよいこととなり


梵網経〔ぼんもうきょう・中国で作られた経典。大乗菩薩戒の聖典

日本天台宗の祖 最澄は本経による大乗の戒壇の建設を目指した〕


の「四十八軽戒」の第四十戒に

出家の人の法は、国王、父母に向かって礼拝しないとあります




沙門不敬王者論は

日本では、道元(曹洞宗の祖)などが主張したとされます



なお、東南アジアの仏教国ではむしろ国王が僧侶に礼拝し

僧侶の方は礼拝しないそうです





また、ヨーロッパの絶対王政期(16~17世紀)においては

それまで「神の代理人」とされてきた

ローマ教会の権威に対する


王権の独立と国民に対する絶対的支配

の理論的根拠として

「王権神授説」(おうけんしんじゅせつ)が登場しています


これは「王権は神から与えられたものであり

王は神に対してのみ責任を負う

王権はローマ教皇も含めた何人にも拘束されることはない

国王のなすことに対して人民は反抗できない」というものです








儒仏論争 ②



また、慧遠は著書の「沙門不敬王者論」において

神(たましい・霊魂)の不滅と

神(霊魂のこと)が他の肉体へ伝わること(輪廻)を述べていますが

これも争点となっています



慧遠の神(霊魂のこと)不滅論に対し


儒者の范縝(はんしん)は

「神滅論」を著し、形(肉体)と神(霊魂)の関係を

質(物体)と用(働き)の関係として説明し、神滅を主張したそうです


以後も、仏教側の神不滅説と

儒教側の神滅説の論争が繰り広げられたといいます





儒教では、霊魂の存在を否定するのですね?


そうでもありません(笑)


中国では、古代から家の敷地内に

廟(びょう)という祖先の霊を祀る建物があったそうです


墓所は別存在したので

廟は仏教の仏壇のような位置づけと考えられていjます




孔子廟は、孔子の霊を祀った聖堂で

日本でも奈良・平安時代には、大学、国学に設置され

江戸時代には、神田湯島(東京都文京区)をはじめ

各地に建てられたといたといいます


孔子の霊は、神道の神様のように分霊までできるのです




【 大学… 律令制における官吏養成機関

紀伝道〔中国の古典から歴史や文学を学び、作文を習う学科〕

明経道〔めいきょうどう・儒教の基本的な経書を学ぶ学科

論語と孝経が必修

易経・書経・詩経・礼記・周礼・儀礼・春秋左氏伝のうち1つを選択〕

明法道〔みょうほうどう・律令(法律)を学ぶ学科〕

算道〔算術を学ぶ学科〕の四科を教授。】



【 国学… 律令制における地方官吏養成機関

国ごとに一校もうけられ、郡司の子弟に経学(けいがく・経は儒教の経書)が

庶民から選ばれた医生に医学が教授された】






そもそも、中国では霊魂についてどのように考えられていたの?


古来、中国では人が死ぬと霊魂(魂魄・こんぱく)のうち

精神を司る陽の精気である「魂」は昇天して神(陽の気のたましい)となり、


肉体を司る陰の精気である「魄」は地に帰り

鬼(陰の気のたましい)となるとされていたそうです



また、人の生と死を、陰陽五行説から

気の集合と離散という自然現象で説明したそうです




他にも争点はあったの?


この他、善を積んだ家に善の福徳が

不善の家には不幸があらわれるという

儒教の「家」を根本とした考えと


善不善の報いは、あくまで本人のみにおよぶ

という仏教の因果応報説の対立があったり



インド由来の風俗である

偏袒右肩(へんだんうけん・右肩をあらわにし

左肩だけに着衣をかけること

インダス文明にまで遡るインドの礼法)や


乞食行(こつじきぎょう)が

中国の礼法にあわないという批判あったり


仏舎利信仰への非難

なんかがあったようです



宋代には、仏教、儒教それぞれの立場から

様々な儒仏道(道教)の三教一致論も登場したり

明代にはさらに三教一致の考えが強まったそうですが

儒者の排仏論も依然としてみられたといいます




それにしても

奈良・平安時代の官吏養成機関の学問(大学・国学)の中心が


儒教だったとなると


我々日本人は、江戸時代ばかりでなく

ずっと儒教の思想を受けてきたということになりますよ





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