緋山酔恭「B級哲学仙境録」 道教(タオイズム)、神仙思想、庚申待ち



B級哲学仙境論


道  教


 




道 教




「道教」(タオイズム・タオは道の意味)は

中国の民族宗教であり、多神教です


神仙思想にもとづく

伝統的、土着的な多神教で、創唱宗教ではなく


釈迦やキリストのような特定の教祖はいませんが

仏教や儒教に理論的に対抗するために

老子の思想を取り入れたので、一般に老子が教祖とされます



また、老子とともに

黄帝〔こうてい・古代の伝説上の帝王

四方を平定。衣服・貨幣・舟・牛馬車・弓矢・家屋・暦・医学・

文学・音律(リズム)などあらゆる文化の創造者〕を教祖に置きます




道教は、古来から民間に存在したアニミズム的信仰

シャーマニズム、多神教、現世利益、神仙思想、呪(まじな)いなどに

老子や黄帝に対する信仰が加わり成立したといいます



その成立は比較的新しく

ふつう後漢(25~200)時代に成立した

「五斗米道」(ごとべいどう)や「太平道」といった教団が

道教の源流とされます




最高神は

老子を神格化した

「太上老君」(たいじょうろうくん・

3、4世紀はこの神だけが最高神であった)


老子の説く道そのものを神格化した

「太上道君」(霊宝天尊・4、5世紀に加わった)


さらに6世紀に

「元始天尊」〔天地万物の造物主

宇宙の原初に根源の気より生まれた永遠不滅の存在

元始天王はその古称

宋代以降は、玉皇(ぎょくこう)や玉皇大帝などとも呼ばれた〕

が加わり


「三清」(さんせい)となっています





この他、道教の神には


始皇帝などの帝王


孔子や顔回(がんかい・孔子の弟子)


張天師〔ちょうてんし・五斗米道の祖の張陵の神格化〕



関帝〔関帝聖君。三国志の英雄 関羽(かんう)の神格化

敵軍を滅ぼす軍神。財神としての信仰が厚い

関帝廟は、関羽の霊を神として祀る〕



保生大帝〔ほせいたいてい・

宋の時代の名医 呉本という人物の神格化。医術の神〕


斉天大聖〔せいてんたいせい・孫悟空のこと〕


九天玄女〔きゅうてんげんにょ・帝になる前の黄帝が

蚩尤(しゆう)と戦ったとき

天より顕れ霊符と兵法を授けたという戦の女神〕




自然神としては


玄天上帝〔北極星の神格化・紫微北極大帝とは別の神〕


北斗神君〔北斗真君。北斗星君。北斗七星の神格化〕


などの天体神の他



山や川、風や雨や雷といった気象現象

また竜王などが神格化されているといいます



全ての雷神の最高神で

三清に次ぐ高位とされるのが


九天応元雷声普化天尊

〔きゅうてんおうげんらいせいふかてんそん・雷帝ともいう〕で

悪行をなす者は落雷によって懲らしめ

善人は加護するという勧善懲悪の神だといいます



五雷元師〔ごらいげんすい・別名 雷公・雷神爺〕は

天雷、地雷、水雷、神雷、社雷の5つの雷を司るといいます




泰山府君〔たいざんふくん・のちに東岳大帝とも呼ばれた〕は

中国の五岳の1つ泰山の神格化


泰山府君は、民間信仰の代表的な神となり

この神を祀る東岳廟が各地に建立されたそうです


のちに娘の碧霞元君(へきかげんくん)の信仰も生まれたとされる




西王母(せいおうぼ・さいおうぼ)は

古来から信仰されてきた女仙で

もとは、西方極地の洞窟に住み

人の姿で、豹の尾と虎の歯を持つなどとされていたそうですが


神仙思想の影響で美女となり

崑崙山〔こんろんざん・神話伝説上の聖山

西方極地にある。黄河源流の山

西王母の宮があり、その周りは不死の水が巡る〕に住み

女仙を統率するとされます



後漢時代には、男仙を統率する 東王父(東王公)も登場し

西王母と一対とする信仰も生じているようです




娘娘(ニヤンニヤン)は、女神の通称で

天母娘娘(泰山娘娘)と、聖母娘娘(天后娘娘)を最上位に

送子(そうし)娘娘(子授け)、子孫娘娘(子孫繁栄)

眼光娘娘(眼病治癒)、疱瘡(ほうそう)娘娘(天然痘の治癒)

地母娘娘(土地神)などがいて、娘娘廟に祀られているといいます



この他


五路財神〔ごろざいしん・

招財、利市、招宝、納珍の五神。金銭を司る神々〕



土地公〔別名 福徳正神・ふくとくせいしん・

土地神でもあり福の神でもある〕



月下老人〔月老神君。月下神君。運命の赤い糸が入っている袋と

結婚相手の名が記された婚縁簿を持つ縁結びの神

運命人と赤い糸で結ばれているという話の由来となった神〕


なども人気だといいます




天帝というのは?


天帝や上帝と呼ばれているは

玉皇大帝(ぎょっこうたいてい)のことです

三清の下に、三清を補佐する四御(しぎょ)がいますが


玉皇大帝は、その1人で天界を総合的に司る神です


天の神格化で、神学的には三清よりも下位ですが

民間道教では、事実上の最高神といえるほど

信仰を集めてるといいます







閻魔大王と十王



ちなみに

閻魔大王は、道士の服を着て

学位をとった人が被(かぶ)るような四角い帽子を被っていますが

仏教起源の神です



本来は、閻魔は、バラモン教の聖典 ヴェーダの最古層である

リグ・ヴェーダでは、最初の人間 ヤマだったとされ


ヤマは、太陽神 ビバスバッドの子で

人類の祖 マヌ〔旧約聖書のノアの箱船のノアにあたる人〕

とは兄弟だといいます



双生の妹(妃とも) ヤミーとともに

他界に入り冥界への道を発見し

人類最初の死者となり、冥界の主になったとされます



ヤマは天上界の最高天の楽園に住む

とされていたことから

冥界=地獄という現在のイメージとは違い、天国にあたります




このヤマが、後に

死者の生前の行為に応じて賞罰を与える恐ろしい神

地獄の主神となったそうです


黄色い衣服を着て、冠を頂き

死者の霊魂を捕縄(ほじょう)でしばって

自分の国へ連行し、裁くとされていったわけです



こうした死者の裁判官としてのヤマが

閻魔として仏教に入り、地蔵菩薩の化身とされたりしたといいます




さらに中国に入り、道教の影響を受け

十王(道教や仏教で、地獄において

亡者の審判を行う10尊。裁判官的な尊格)の1つとして

信仰されるようになったとされます



十王経は、10世紀に中国で成立した仏教経典で

道教にも存在するといいます


日本でも、中国の十王経をもとに

地蔵十王経という経典がつくられています




十王経では

死者の生前の罪業を

初七日から三周忌まで10人の王が

順々にさばいていくことを説いています



① 秦広王(しんこうおう・本地は不動明王。初七日)

が悪をやめさせ善を修めさせる


② 初江王(しょこうおう・本地は釈迦如来。14日目)

が三途の川を渡るのを監視する


③ 宋帝王(本地は文殊菩薩。21日目の)が、邪淫の罪をただし


④ 五官王(本地は普賢菩薩。28日目)が、妄語の罪をただし


⑤ 閻魔王(本地は地蔵菩薩。35日目)が

閻魔府で罪の軽重をさばいて

死者は獄卒の鉄棒によりさいなまれる


⑥ 変成王(へんじょうおう・本地は弥勒菩薩。42日目)が

悪を責め善を勧める


⑦ 太山府君(たいざんふくん・泰山王。

太山王。本地は薬師如来。49日目)が

罪人の来世に生まれる場所を決め


⑧ 平等王(本地は観音菩薩。百箇日)が

教化しかつ公平に罰し


⑨ 都市王(としおう・本地は勢至菩薩。一周忌)が

法華経や阿弥陀仏造立の功徳を説き


⑩ 五道転輪王(本地は阿弥陀如来。三周忌)

が愚痴や煩悩をただす


とあります







五斗米道と太平道



五斗米道(天師道)は

後漢(25~200)末に、張陵が、蜀(しょく)の鶴鳴山で修行し

太上老君(老子の神格化)から呪法を授かったとして創始

主に農民を信徒として集めたといいます



病気は犯した罪によるとし

自分の名前と過去の罪を書いた

三官手書〔懺悔文のようなもの〕を

天官、地官、水官という天神、地神、水神にささげて


罪の告白をすれば

罪が赦され病気が治るなどとして、懺悔をさせ

霊符を授け、神に供えた霊水を飲ませたとされたとされます



また教団に労働力を提供することで

病気が治ると信じられていたといいます



張陵は、霊符と

神々のお告げを受けてつくったという道書を広めて

巨大な勢力を得、天師と呼ばれたとそうです



なお、五斗米の名称は、入門あるいは治病の謝礼として

米を五斗(日本の約五升)を収めたからだとされます





太平道は、後漢中期に干吉(かんきつ)という者が

太上老君(老子の神格化)から授かったという

太平清領書(太平経の原本)をたよりに

張角(?~184)が創始した教団とされます



教法は、五斗米道に似ていて、病気治しが中心で

過去の罪により病気となるとし


懺悔・告白させ、霊符を授け霊水を飲ませ

聖職者が神呪を唱え、神の赦しを受けたといいます




たちまち数十万の農民信徒を得て

184年に兵をあげ

信徒は目印に黄色の頭巾をつけたので

黄巾(こうきん)の乱と呼ばれました



張角は天公将軍を称しましたが

同年末に病死し、乱は平定されています


しかしその後も残党の反乱が続き

太平道が後漢滅亡のきっかけをつくったと言われています





古代中国では

万物を巡るエネルギーの「気」が人間の体内をも流れており

病気は、その流れがとどこおり

身体のバランスが崩れることで起こる

と考えられていたので


治病は、この乱れた体内の気の流れを正常に戻すことにありました



五斗米道や太平道といった道教の源流が

信者の病気を治療する宗教結社から出発していることからも

当時の民衆の治病への願いが

いかに大きかったかがうかがい知れます



なお、太平道は黄巾の乱を起こして消滅しますが

天師道(五斗米道)は、存続し

14世紀ごろには正一教(しょういつきょう)と呼ばれ


全真教〔12世紀に誕生した新道教の1つ〕と勢力を2分しますが

その後、衰退したとそうです







抱朴子と功過格



晋代には、葛洪(かっこう・283~343)が

「抱朴子」(ほうぼくし)を著して、神仙思想を体系化します


葛洪は「神仙伝」という92人の仙人の伝記も著しています



晩年には、不老不死の薬となる丹砂〔辰砂(しんしゃ)・

深紅の鉱物。水銀と硫黄の化合物〕の出る

交趾(こうし・ベトナム北部)に家族を連れて赴きますが

途中で止められ



広東(かんとん)省の羅浮山(らふざん)の

大洞窟〔道教の十六洞天の第七洞天

道教では洞窟の中は外と同じ世界が広がり

仙人が住むと考える〕で



練丹術〔不老不死の丹薬(金丹)を服用することで

空を飛んだり、鬼神を使役したり

変身したりする能力をもつ方術。仙人になる方術〕

に専念して没したそうです




葛洪は、死後、尸解仙〔しかいせん

抱朴子には、現世に肉体の身で虚空へ昇る天仙

地上の名山に遊ぶ地仙

死後、蝉が殻からぬけだすように

死体からぬけ出て仙人になる尸解仙 がみられる

尸はしかばねの意味〕になったとされます





彼の「抱朴子」には

胎息(呼吸法)、房中(保精術)、養生

長生、霊符、厄除け、鬼神の使役

動植物の薬と服用などの仙術の理論と実践が述べられていて


仙術の中で最も重要なのが

後漢末の道士 左慈(さじ)に由来する「練丹術」であるとし


丹砂を原料とした還丹金液を服用すれば

他の薬物や仙術を用いなくても仙人となって昇天できるとあります




また道教には、人の体内にも体内神が住んでいるので

体内の神々を想念し、定着させることによって

不老長寿を達成できるという思想が古くからあったそうですが

抱朴子にはその実践(歴臓法)も書かれているといいます




それから、仙人になろうとするものは

忠・孝・和・順・仁・信を守り、善を行い


三尸(さんし)という虫や、かまどの神が

天帝(天の神)に

自分の罪を報告しないよう注意しなければならない

と述べられているといいます





葛洪は、仙人になるために善を行いなさい

という立場から

三尸虫の話を書いていますが


のちの道教では、人間の行為は

北斗星、三尸虫、かまどの神などの司令神が

つねに監視をしていて、天に報告される


それにもとづき天が、寿命や福を与えるか

災いを与えるかを決定したり変更したりするとなり


庶民の日常日常生活においてのことに

なっていったとされます



明(1368~1644)末から清(1636~1912)初期にかけて

「功過格」(こうかかく)が、流行します


〔現存する最古の功過格は、道士によって作成された1171年のもの〕


功過格は、自己の日々の行為を

就寝前に、功(善)と過(悪)に分類し


さらに1つ1つの行為に

一功(プラス1点)とか、ニ過(マイナス2点)と点数をつけ


月末に小計し年末に総計する採点表的なもので

身分、職業を問わず広く信奉されたといいます



功過格の「格」は、書に列挙された

基準となる行為の1つ1つを格といった

ことからきているそうです



この功過格のもととなったのが

葛洪の抱朴子の三尸虫の話だとされています




なお、葛洪は、道士ではなく

道教の研究家であり役人であったそうで

抱朴子の内篇(20巻)では、神仙思想を記していますが


その外篇(50巻)では儒教思想を扱い

儒教の立場から政治、社会、処世のことを論じているそうです










北魏(ほくぎ)時代には

五斗米道を学んだ 寇謙之(こうしけん・363~448)が

新天師道を創始します


寇謙之は

中国五岳の1つ嵩山(すうざん)で20余年修行し

やがて太上老君(老子の神格化)より

五斗米道の改革を命ずる啓示(お告げ)をうけ

天師の位を授かったと主張し


五斗米道の非王法的な面を排除し

全面的に国家に依存することで教団の強化をはかりました



そして、北魏3代の太武帝を入信させたことにより

新天師道は、国教の地位を得ていています


また、寇謙之は、太武帝に

大規模な廃仏(446から7年間も続いた)を行わせています



しかしその後

、この新天師道がどうなったかはよく分かっていないようです





唐(618~907)の王室と結びついて栄えたのが

上清派(じょうせいは・茅山派)で

五斗米道とは異なる系列だといいます


この教派のはじまりは、はっきりしないようですが


9代教主の陶弘景(とうこうけい・456~536)が

さまざまな流れにあった道教思想を体系化し

上清派を大成させたとされます


しかし唐以後は、あまり振るわなかったといいます




宋代(960~1279)以後、金(1115~1234)・

元(1271~1368)の時代には


太一(たいいつ)教、真大道教、浄明(じょうみょう)道

全真教などの「新道教」と呼ばれる諸宗派が誕生しています



これらは宋の庇護のもと

堕落しはじめた旧道教に対する

改革運動から生まれたとされ

儒仏道の三教融合と

精神的な実践を唱える傾向にあったとされます



このうち、太一教は

霊符と霊水による病気治しや厄払いといった

他の新道教に比べて、比較的古い道教の特徴をもち


金や元の皇帝から保護をうけましたが

元代の後半に、正一教と全真教の二大教派に吸収され

文献から消えたといいます




真大道教は、禁欲、自給自足、相互扶助

また、忠・孝・誠・清貧・虚心(こだわりをもたない)を守り

邪淫、飲酒、賭博(とばく)をさけるなどの実践を唱えたとされます



たちまち民衆に広まり

元朝から

正一教〔しょういつきょう・天師道(五斗米道)が、元代に入って改称〕や

全真教とならぶ待遇をうけたそうですが

後継者をめぐる内紛が続き、明代以前に消滅したといいます



浄明道は、浄明忠孝道というように

本心が浄明であることと、忠孝の実践を説いたとされます





近代の教派は、正一派と全真派によって二分されます



全真教は、王重陽〔おうちょうよう・1113~1170〕

によって創始され


道・儒・仏の三教一致を説き

迷信的な呪いや霊符を排除し

内面的な行法によって悟道に達すると唱えたといいます



多読をさけて

打坐(だざ・ひたすら坐すこと)して、動と静の中を得て

心を鍛えて

神気を和暢(わちょう・和ませのびのひとさせる)

にするとあることから

仏教の禅のようなことを根本としたようです



3代教主のとき、元の尊崇をうけ

勢力を華北全域に広めましたが

元朝滅亡後は衰退


国家的道教から

民間信仰的な道教に変化して存続してきたといいます




道教は、文化大革命によって壊滅的な打撃を受けましたが

民衆の間では道教の慣習が息づき


現在では、除々に宗教活動が許され

道観の修復もなされてきたといいます


〔仏教の僧にあたるのが道士

寺院にあたるのが道観または宮観という〕








道教の神仙思想



神仙とは、不老不死で神通力を持つ仙人のことです


仙人とは神と人間の中間のような存在

山中に隠棲し、天空を自由に飛翔したり

雲や竜にのったり、鬼神を使役したり

変化(へんげ)自在であったり、千里眼を持つといいます



神仙思想とは

神仙について説き、神仙の住む海や山を楽園と唱え

神仙になるための実践を説くもので、道教の基礎をなしています




肉体を仙人に改造する実践法を

「仙術」とか「神仙術」といいます


仙術には


練丹〔不老不死の丹薬の金丹を服用する法〕

食気〔服気。宇宙の気を栄養とする食事法〕

房中〔男女の交合法。保精の術〕


吐納〔とのう・悪い気を吐き出し

清らかな気を入れる深呼吸の法〕


導引〔身体の曲げ伸ばしと深呼吸を合わせた健康体操

多くの型があるが、虎・鹿・熊・猿・鳥の5種に大別されるという〕


禁呪〔きんじゅ・まじない〕


符籙〔ふろく・霊符〕


など多くのものがあり

どれを重視するかは、教派によって異なるといいます




それから、穀物が体内で消化されると

そのカスから濁った気がつくられて、血液が濁り、病気になったり

不老不死の丹薬の効き目が悪くなるそうで


そこで、穀物を食べるのを断ち

代わりに松の実やきのこ、薬草などを食して

体内の気を澄んだ清らかなものに保つというのが

辟穀(へきこく・辟は避ける意)という仙術です



同時に、大気中の元気を体内に取り入れて

循環させる必要があるので「辟穀食気」と言われます





練丹術というのは

不老不死の丹薬を製する術です


この丹薬は

金に丹砂〔辰砂(しんしゃ)・深紅の鉱物。水銀と硫黄の化合物〕

を加えて作られたので金丹と呼ばれました


今日の○○丹という薬名はこれに由来します



他に、ヒ素、銅、鉄、それらの化合物、岩塩、雲母石

鶏卵などを加えて加熱して作ったといいます



金だけでは純度が低いとし、様々なものが加えられたらしいです


水銀や硫黄はその化学反応から

鶏卵は雛から親鳥へと成長する過程から

仙人への変化に効果があると考えられていたといいます




北魏や唐の皇帝は、道士たちに練丹術を行わせましたが

唐代には少なくとも5人の皇帝が、金丹を服用して

急死したり、苦しんで死んだとされます



宋代(960~1279)になると、それまでの練丹を外丹とし

体内の気を薬剤とみなし

精神を修錬する過程を丹薬製造の過程とみなして


聖胎(せいたい)と呼ぶ丹薬を作り出す

内丹という修行法が登場したといいます



宋・金・元に誕生した新道教各派では、

の内丹が重視されたそうです





● 蓬莱山


蓬莱山(ほうらいさん)は、神仙思想からきていて

この山は、東海中に存在する三神山の1つ

その代表的な存在とされる


3つの神山のうち蓬莱山だけが名高い

ちなみに他は、方丈(ほうじょう)山と、瀛洲(えいしゅう)山


三神山は、渤海(ぼっかい)中に存在し

海岸からそれほど遠くないところにあるが

遠くからは雲のように見えたり

また人が近づくと風や波が起こって、舟では近づけない



そこには仙人が住み

その宮殿は金銀でつくられていて

鳥や獣は全て真っ白だという



三神山は

戦国時代(前5~前3世紀)の燕(えん)や斉(せい)の

方士(方術士・神仙術を使う者)が

蜃気楼現象と神仙思想を結びつけて唱えたという説がある



燕や斉の諸王、秦の始皇帝(在位前247~前221)

漢の武帝(在位前141~前87)らは

不老不死の薬を得ようと三神山を探させている



徐福(じょふく)という方士は、始皇帝にとり入り

巨額の資金援助を得、男女数千人をつれて探索に出たという


のちにさらに海神と戦うとして、兵士ももらい受けたとされる



徐福は新たな土地を見つけて王になったとか

日本の熊野に来たとか

徐福が見つけた新しい土地とは種子島であったとか


神武天皇(初代天皇)となって

大和朝廷を起こしたなんて話もあるらしい







庚申待ち



日本へは仏教以前に入ったそうです


奈良・平安時代の貴族の間では

道教の教えが広く行われていたそうですが


その後は、仏教に比べてあまり定着しなかったといいます



但し、今でも道教的な信仰や習俗がいくつかみられ

庚申(こうしん)信仰や風水がそれだとされます



また、修験道は

日本古来の古神道と密教が習合したものだ

と考えられますが

道教の神仙思想の影響も受けているようです




庚申信仰とは

具体的には「庚申待」(こうしんまち)のことです


庚申〔かのえさる。干支(えと)の1つで60日ごとにくる〕の日の夜


体内に棲む上尸・中尸・下尸()の三尸虫(さんしちゅう)が

寝ている間に天に昇って

天帝に罪を告げ、天帝は罪に応じて寿命を奪う


これを防ぐために、人々が集まって眠らず語り明かすというのが

「庚申待」、それを行う集団が「庚申講」です




宋代(960~1279)の

「雲笈七籤」(うんきゅうしちせん。道教の百科全書)には


三尸は、小児や馬の姿に似ていて

それぞれ人間の頭、腹、足に存在する


庚申の日に昼夜起きていれば、三尸は滅んで

精神は安定し長生きできるとあるそうです



また、上尸は道士の姿、中尸は獣の姿

下尸は牛頭人身の姿をしていて

どれも2寸(約6cm)なんて話もあるそうです



 
 転 写



庚申信仰は、日本には平安初期に伝わり

守庚申(庚申待)が、貴族の間で流行したそうです



庚申信仰は早くから

日吉大社の猿神信仰と結ばれ


さらに仏教の青面(しょうめん)金剛への信仰が加わり

庚申待に用いる本尊となったそうで


庚申待ちのときには、青面金剛と

その下に三猿(さんざる)を描いた掛け軸なんか

を掲げたようです




 転 写



三猿は、見ざる・聞かざる・言わざるで


この三猿は三尸の「三」と

庚申の「申」(さる)が合体して生まれたものだとされます





青面金剛は、本来、密教の神ですが

日本の青面金剛は、庚申の神として

道教、仏教、神道が混じり合って日本で誕生した

というのが定説化しているようです


日本では、三尸が睡眠中に体から抜け出して

帝釈天に人の罪を報告して命が奪われるというように

天帝が帝釈天に代わり

青面金剛はその帝釈天の使者のとなったりしたみたいです




全国各地に見られる

青面金剛庚申塔には、多様な青面金剛が見られますが


一般的な造形は、4手また6手で

それぞれの手に、三叉戟(さんさげき・先が3に分かれた矛)や

剣や弓や法輪などを持ち、脇に童子を従え、邪鬼を踏みつけ

足元には三猿とニ鶏(雌雄のつがい)をを刻むといったものだそうです




 転 写



鶏は、申の次ぎの日

すなわち酉の日になるになるまで籠るからだそうです


 転 写




また元禄(1688~1703)頃からは

合掌型と、剣人型の2つに落ち着たといいます



 合掌型  転 写




剣人型では

シュケラ(青面金剛に髪をつかまれ吊された半裸の女人)

をつかんでいます



 転 写


庚申信仰では、シュラケは

三尸を表わしていると考えられているようです



また本来、青面金剛は

疫病を流行させる夜叉神(やしゃじん・悪鬼)

であったというから

疫病を駆逐するという意味があったとも考えられています





また、神道では、庚申待の祭神を

猿田彦神〔さるたひこのかみ・

記紀(古事記と日本書紀)神話で

邇々芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨さいに道案内をした神

道祖神とも結ばれている〕

と説いたので

猿田彦の掛け軸も広まったそうです





転 写
        
      転 写




猿田彦神については

邇々芸命の降臨のさい


途中いくつも道が分かれる

天の八衢(やちまた)で、天上天下を照らしていた


鼻が長く背が高く、目が赤く輝いていたとあります



天の八衢で道をふさいでいるように見えたので

天照と高御産巣日神が

天宇受売命(あめのうずめのみこと)を

高天原(天上界から)派遣する



天宇受売命が質問すると名乗ったので

天宇受売が笑いながら乳と陰部を見せ


驚いた猿田彦に日向の高千穂まで道案内させたとあり

これは、猿田彦の敗北を意味しているそうです


また、性の交歓(陰部を見せ合う)=和平への道を

意味するともいいます



猿田彦は、天孫降臨のあと

天宇受売命に送られて

伊勢の五十鈴川の川上に帰っていますが


阿邪訶(あざか)の海で

比良夫貝〔ひらぶがい・どのような貝かは不詳〕に

手を挟まれておぼれています



猿田彦は、伊勢の土豪の首長で

比良夫貝の話は服従儀礼を意味し

この地方の服従を神話化したものであると考えられています




猿田彦は、異形の神であることから

大昔に日本に渡った南方の民族であるとか

九州の原住民だとか

天狗の先祖だとか色々と言われています



伊勢の国の一宮 椿大神社(つばきおおかみやしろ)は

猿田彦大神を主神とし、邇々芸命などを配祀します



【 椿大神社・・・・ 三重県鈴鹿市。猿田彦大本宮

11代 垂仁天皇の代に、皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)

に下った神託により

猿田彦の墳墓の近くに創建されたという


但し、同市の一ノ宮町の

都波岐(つばき)神社

〔祭神は猿田彦神・21代 雄略天皇の代の創建〕が

927年にまとめられた延喜式〔えんぎしき・律令の施行細則〕の

神名帳〔全国の神社一覧〕にみられる椿大神社で

伊勢の国の一宮であるとする説もあり論争となっているという 】




それから、 白鬚(しらひげ)神社の祭神である白鬚大明神を

多くの神社では、猿田彦神としています


【 白鬚神社・・・・  全国約190社

うち静岡が61・岐阜が43・埼玉が20社と多い


根本社は、滋賀県高島市の白鬚神社で

11代 垂仁天皇の代に、皇女の倭姫命が創建したと伝え

近江国最古の神社とされる

現在の社殿は秀頼が秀吉の遺言により再建。祭神は猿田彦大神 】





なお、天宇受売命は

岩戸隠れの際に岩戸の前で舞を踊った神ですが


邇邇芸命から、猿田彦が名を明らかにしたのだから

猿田彦を送り届けて

猿女君(さるめのきみ)の名で仕えるように

と命じられていて


猿田彦と夫婦になったという解釈もなされます



また猿田彦を送って日向(また志摩)に帰った後

大小の魚を集めて

魚たちに「おまえたちは天孫に仕えるか」と尋ねると


魚たちはみな「仕える」と答えたたが

ナマコだけが何も答えなかったので

その口を小刀で裂いてしまい

それでいまでもナマコの口は裂けているといいます


これは志摩の国の服従神話で

魚の話は、海産物の貢献することを意味しているようです



また天宇受売命は、猿女君の祖とされますが

猿女君とは

「猿楽」の『猿』=戯(さ)る を意味するのと同じで

宮廷神事に滑稽なわざを演じて

つかえた一族を意味するらしいです





話を、庚申待ちに戻します


室町時代には、仏教行事として一般民衆に広がり

江戸時代には全国で盛んに行われるより

昭和30年代までは全国各地で盛んに行われていたといいます




庚申の日には、近隣の人たちが当番の家に集い

身体を清め、青面金剛や猿田彦などの掛け軸をかけ

庚申真言陀羅尼や般若心経などを唱え


そのあと精進料理を食べたり

酒をのんだり、談笑をしながら眠らずに夜を明かしたといい


この日は、信仰の日であるとともに

楽しみの日でもあったとされます



現在でも、町内会が主催し、庚申の日の夜に、寺に集い

和尚の話やお経を聞いて、食事をするといったものや


「庚申参り」をうたい、参詣者を募っている寺もあるようです




なお、江戸時代には、3年(18回)、庚申待を続けると満願され

その記念として儀礼を行い


「庚申塔」(庚申塚)を建てる風習が盛んとなり

庚申塔は、3年おきに建てられので、青面金剛庚申塔は

全国で万単位の数存在しているそうです







●  風 水



時間によって変化する天地の間の気を判断したり

地形をみて気が逃げるか逃げないかで

吉凶を判断したりする占いの一種です


その判断には

陰陽五行説、八卦(はっけ)

方位などといったものを用いるといいます



中国や朝鮮では、とくに墓所の良地を決めるのに重視され

祖霊を安定させることで一族の繁栄を願ったそうです


このため、吉相の場所をめぐって

氏族が争うこともしばしば起きたといいます



それから、遷都が、風水説によって行われています


李朝(朝鮮最後の王朝)のソウルへの遷都も風水によるといいます


日本でも、平城京や平安京が風水によって選ばれ

江戸が都として決められたのも風水によるらしいです




南に開け、北(背後)に、父母山と呼ぶ小山や丘があり

〔玄武がそろい〕


西(左)・東(右)には、砂(さ)と呼ぶ山脈があり

〔白虎・青龍がそろい〕


南(手前)には、水(すい)と呼ぶ川や海や湖や池などのがある

〔朱雀がそろう〕



このように、北・西・東が山に囲まれ

南に水脈が置かれているとき


「四神相応」(しじんそうおう)の地といって

官位、福禄、無病、長寿の最良の地相なんだそうです


また、その平地を「明堂」(みょうどう)といって

最良地とするそうです


平安京や江戸や日光東照宮の地がこれにあたるといいます



なお、北の「父母山」の下の場所が

「穴」(けつ)という気が溜まる重要なところで


この穴を守る左右の山脈が「砂」で

南の「水」も、気を守ってくれるらしいです



また、南に山がある場合

その山が、穴より遠く、高い山ならば「朝山」といい

穴に近く、低いければ「案山」というそうです




【 四神・・・・

古代中国が起源の方位を守護する霊獣

東を青龍、南を朱雀、西を白虎、

北を玄武〔亀と蛇が合体した姿〕が守護する 】







●  お中元



道教の神に、三元大帝(三官大帝)というのがいます


天官大帝〔賜福大帝・招福を司どる〕

地官大帝〔赦罪大帝・罪の赦しを司る〕

水官大帝〔解厄大帝・除災を司る〕



三元とは、もともと年、日、時のはじめである

1/1日を指したそうですが


のちに、天官、地官、水官の誕生日である

上元(1/15・小正月)、中元(7/15)、下元(10/15)

を指すようになったといいます



三神はそれぞれ自分の誕生日に

全人間の善悪の行為を調べ

それに対する報いを与えるといいます



三元のうち中元は、仏教の盆と重なることから

盛大な行事が営まれてきました


お世話になった人や商い先に贈り物をする

日本の「お中元」の風習は、こんなところに源流があるようです




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