緋山酔恭「B級哲学仙境録」 老荘思想・老子と荘子



B級哲学仙境論


老荘思想


 




老荘思想




老 子



儒教を「孔孟」(こうもう・孔子と孟子)の教えといいますが

これに対し「老荘」(老子と荘子)の教えというがあります


老荘思想とは「道」(のちに「無」と呼ばれるようになる)を

宇宙の根本的な原理と考え

道に従い、無為自然に生きることを説いたものです


老荘思想をひと言でいうと“無為自然”(むいしぜん)です


老子は、形式的な礼を尊ぶ儒教と対立し

無為自然に生きることを説いたとされます




老子は、儒教の祖 孔子(前551~前479)と同じ時代の人とされます

道教の祖とされていますし


2世紀半ばより神格化され

老君、また太上老君(たいじょうろうくん)となり


太上道君(老子の説いた「道」を神格化した)

元始天尊(天地万物の造物主)とともに

道教の最高神にもなっています



但し、孔子没後100年の前4世紀頃の人であったとか

道家(道教を信奉する人たち)によって

作り上げられた架空の人であるという説もあります




また、老子が、天竺(インド)へ行って釈迦となり

仏教を説いてインド・西域の人たち(胡人)を教化したという

「老子化胡説」(ろうしけこせつ)なんてものも生まれています




書の「老子」(老子道徳経ともいう)は

周王室の守蔵室(図書室)の管理役人であった老子が

周の衰微による乱世を逃れて


函谷関〔かんこくかん・河南省北西部にある交通の要地

古来、数限りない攻防戦が繰り広げられた〕

あるいは散関〔さんかん・陝西(せんせいしょう)秦嶺山脈の

大散嶺の狭く険しい道にあった関所〕に来たとき


その関守(せきもり)の尹喜(いんき)が、道を求めたのに対して

説いたものとされます



しかし、実際は、もっと後の時代に

多くの人たちの言葉が集められ

前2世紀初頭に書として成立したとみられています




書の老子によると


≪「道」は、天地万物に先立って存在し

万物を生成し消滅させる万物の根源であり

永遠不変の宇宙の法則である


人間を含む全ての存在は

道によってそれぞれのあり方が決められている


このため、万物は、道に従い

自然に、あるがままに存在している


ところが、人間だけは、私的な意欲により、道をはずれてしまう

これが人の不幸である


それゆえ、人生において成功を収めるには

さかしらを立てて他人と争ったりはせず


無欲となり、あるがままに環境に順応していくことである

「無為」とは、道、すなわち天地自然の法則に従って生きることである ≫


ということです




但し、老子は「権力を持つ者が、赤と言ったら

青であっても民はそれに従わなければならない

と思っているが、そうではない


全てに関して、人の素直な感じ方こそが

起点であり終点であるべきだ」

などとも述べているといいます



つまり老子のいう「無為」とは

何もしないというのではなく

素直な心で生きてゆくという意味なのです



礼や制度といったものは

人間がつくったもの、人為的なものであって

人間を束縛するものである


人為は偽りであるから、道に従う無為の生き方をしなさい

と言っているのです




書の老子に


“智恵出て大偽(たいぎ)あり”


〔人が素朴であった頃は、自然に従って生きていて平和であった

後世、人々の智恵がすすみ、不自然な人為が行われ

大いなる偽りが生じ、世の中が乱れてしまったのである〕

とあります




老子の生き方を示す言葉としては

「上善如水」(じょうぜんみずのごとし)があります


“上善は水の若(ごと)し 水は善(よ)く万物を利して争わず

衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し”



水は、どのような器にも収まる

最も善き生き方は、水のように柔軟に変化し

人に恵みを与え、人と争わず

誰もが厭う低いところに身をおことである

なので「道」に近いのである







荘 子



荘子(前370頃~前300頃)は

孟子よりやや遅い時代の人です


但し、生没年・伝記ともに明確でなく

最近では実在を疑う説も出ているようです



漆という国で小役人を勤めたこともあったとされますが

ほとんどが自由の生涯を過ごしています


楚(そ)の威王が宰相に迎えようとしたが

「自由がよい」とこれを断っています




荘子は、老子の無為自然の思想を発展させ

万物は、本来「斉同」(さいどう・等しく同じ)ゆえ

差別(違い)や対立している相(すがた)にとらわれず

道に従って生きなさいと説いています



苦悩は、大小・是非・善悪・美醜などといった

対立相や差別相にとらわれ

わずらわされることで起こるとしています



対立・差別にとらわれない境地、全てを平等視できる境地


これを荘子は「道枢」(どうすう・道の中心)・

天鈞(てんきん・天の中心)・

逍遥遊(しょうようゆう・自由にのどかに遊ぶ)と呼んでいます



そしてこの境地に至るには

さかしらを立てずに、無私忘我の態度〔坐意〕で


環境に因(よ)り循(した)がって〔循因・じゅんいん〕

生きることだいい


そこから「人生は天命による」

という一種の宿命論を説いたとされます





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マナ・フェティシズム・トーテミズム〕





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