緋山酔恭「B級哲学仙境録」 天皇論 Ⅰ 天皇は国家の象徴



B級哲学仙境論


天 皇 論


 




天皇は国家の象徴



天智天皇(在位668~672)から

「天皇」という言葉が使われていることが

発掘や、唐・新羅などの外交文書で確認されているといいます


但し、当初は「天皇」と書いても

ヤマト言葉で「スメラギ」とか「スメラミコト」

とか読まれていたといいます


古墳時代は、天皇は「大王」(オオキミ)と呼ばれていたそうです




「天皇は日本の文化の象徴だ」という人がいます

しかし、文化というのは民族特有の意識の具現化です


例えば、日本人なら「侘び」とか「寂」とか

「小さな自然に大きな自然を感じる」とかいった意識が

茶道とか盆栽とかいった文化として具現化されているのです



もちろん「天皇制」は

日本人のつくった文化の1つではありますが


天皇は「文化の象徴」というより

「民族の象徴」といった方が正確です



神道家なら「家族にはおとうさんという中心者がいる

会社には社長という中心となる者がいる

国の中心者は誰ですか?」 →


「天皇しかいないでしょ

国民は、ふだん天皇の存在を意識していないけど


日本がいざ国難にあったなら

天皇を中心に民族がまとまるしかないんだよ」

なんては話になりますが


そういった話ではありません




国語辞典で「○○国」を引くと

必ず最初に、その国が、君主国なのか

共和国なのかかが書いてあります


そこから考えても「天皇」は

「国家や民族の象徴」と言った方が分りやすいはずです



「日本」というと、まず思い浮かぶのは、縦長の日本列島ですね

それから日の丸、次に富士山とか、天皇とかです




まず言えるのは

天皇が政治的にも軍事的にも大きな権力を持った時代は

そんなになかったということです


飛鳥時代、蘇我氏に政治の実権を握られて以来

藤原氏や平氏が、娘を天皇の妃に入れ

自分の血を引く者を天皇に立てることにより、政治の実権を握りました



源頼朝が鎌倉幕府を開いてから明治に至るまでは

将軍や執権が王のような位置にありました


天皇が政治権力を奪い返したのは

後醍醐天皇の建武の新政(1334~36)のときだけです



1869(明治2)の「版籍奉還」〔版は土地、籍は人民の意〕によって

土地と人民が朝廷に返還されたわけですが

江戸時代は土地と人民は藩主のものだったのです


江戸時代、"お上"と言えば「将軍様」のことですし

その頃の庶民は

≪天皇≫に対する意識などなかったのではないのかと思います




王権というのは、国庫の管理

政治権力者の任命、全軍隊の指揮権

風紀を取り締まる権限などを有しますが


明治憲法でさえも、天皇が主権を行使するには

議会の承認が必要とされていたのです



現在の日本は、国民主権(主権在民)なので

国民が主人ということになります


但し、国民が主人というのは1人1人勝手というのではなく

主権が国民全体の意志を通じて行使されるということです





そもそも主権って何?


国家が有する最高で不可分不可侵の権力とされます


対内的には国の政治を最終的に決定し

体外的には国家の独立性を意味するものとされます


分りやすく言うと統治権です

この統治権を持つ者が、国家の統率者です


日本では統治者は国民で

統治機関の第一次的なものが国会、内閣、裁判所になっています




元首は?


国家の代表が元首です


君主国では君主が

共和国では行政権の最高首長である大統領が元首です


明治憲法において天皇は

元首として統治権(主権)を有する地位にありました


昭和憲法では主権は国民にあり

また天皇 「象徴」というだけで

元首としての明確な位置づけはなされていません







天皇の意味



「天皇は日本の象徴である」と言いますが

天皇が国民の精神的存在になったのは

ホント最近

しかも日清、日露、太平洋戦争の時代ぐらいです



では、天皇ってなんなんでしょう?


憲法によると

日本国および日本民族の統合の象徴で

その地位は国民の総意に基づく


一定の国事行為だけを行い

国政に関する機能を持たない


皇位は世襲され

男系の男子によって継承される

とあります




明治から昭和の敗戦まではともかく

それ以前の天皇には

どのような意味(使命)があったのでしょうか?



大化の改新で、仏教を信奉する蘇我氏が滅亡しましたが

もし、蘇我氏の政権がずっと存続していたら

日本という国はもっと宗教色の強い国になっていた

と考える人もいます



宗教色って、当然ながら

哲学性・教義性の強い宗教ほどあらわれます


なので、神道のように、教義らしい教義がなく

哲学性に乏しい儀礼だけの宗教よりも


仏教の方が、社会に宗教色が現れやすいことは想像に難くありません



仏教を奉じる蘇我氏が滅んだという意味は

これによって祭祀を司る天皇と


政治を司る貴族や武士という

日本の国体構造の基礎ができたことを意味し


これは、暗黙のうちに「政教分離」が成立したことを意味します



「建武の新政」や「日本帝国憲法」により

天皇が政治に関わった時期もありましたが


総体的に見て、日本人は「大化の改新」以来

宗教が政治に関わらないことを

≪美徳≫としてきたということなのです





そんな日本での「天皇の意味」ですが

よく神道団体なんかで言われているのは


天皇がいたおかげで

外国と比較して「日本では内乱が少なかった」とか

「内乱がおきてもすぐに終結し、犠牲者が少なくてすんだ」

という話です



戦争の勝利に不可欠なのが「大義名分」です


天皇味方につけることで、大義名分を得て、官軍となり

戦争を早期に終結できたとなると

天皇の意味というのは

そういうところにあったというのも間違えではないでしょう


ただ、これを、神道家は、天皇の使命=平和 として語りますが

単に権力者に、天皇の利用価値があった

ということではないでしょうか?





それよりも、日本人の宗教観を観察すると

天皇の意味が分ってきます


日本人というのは、正月には神社に初詣に行き

お盆には仏事を行い

クリスマスにはキリストの誕生を祝い賛美歌を歌う民族です



天皇というのは、皇室神道の祭祀です


もし、その神道が、哲学性・教義性の強い宗教で

国民の意識や風俗までもに影響するものだったら

そうはいかないでしょう


そう考えると、日本人の宗教に対する寛容さというか

いいかげんさの一翼を、天皇が担ってきたとも言えますよね



つまり、天皇という存在が

異文化の衝突回避に役立ってきたということです







国 体



「国体」とは

本来は、主権(統治権)が誰にあるかを示す言葉です

君主にある場合が君主国体で、国民にある場合が共和国体です


これに対し主権の運用で区別するのが「政体」で

専制政体と立憲政体があります


専制政体とは、身分的支配者層が

被支配者層とは無関係に営む統治で

大衆の参加を前提とした独裁とは異なるそうです



ただ日本で「国体」というと、天皇を長とするお国柄を意味します

「教育勅語」では、国体のうるわしさが強調されています





●  教育勅語


1890年(明治23)に発布。全文315字からなる

勅語は天皇の意思表示の意味


教育勅語は国民教育の理念を示したもの

国家神道の事実上の経典となった



内容は3つの部分からなる

天照ら神々や歴代天皇によって形づくられてきた

天皇の徳と臣民の忠誠が

日本独特の国体であり教育の根源であるとする第一段



"父に孝、兄弟に友、夫婦相(あい)和合し"などの徳目を述べ

国がひとたび危急におちいれば

身をささげて天皇の治世を助けることは

祖先の遺風を次ぐことであるという第2段



以上は

天照大神(あまてらすおおみかみ)や歴代天皇の遺訓であり

古今(永遠)中外(国内外)に通じる普遍妥当性を持つとする第3段



これにより天皇が超越的な国民統合の基軸

神聖不可侵の現人神(あらひとがみ)

現つ御神(あきつみかみ)とされ

国民は天皇制国家への忠誠を命じられた



教育勅語は、各学校へ配布された天皇、皇后の御真影

〔 ごしんえい・教育勅語発布前後より申し出のあった

一部の学校などに宮内省から交付

1930年(昭和5)代には、ほぼ全ての学校に普及 〕

とともに国民に国家への忠誠を命じる柱となった



それとともに教育勅語を通じて祖先崇拝が強調された







天皇機関説



なお、明治憲法の解釈について

当初、国家の統治権は天皇にある

とする立場が支配的だったのですが


「大正デモクラシー」の時代になると


吉野作造〔政治学者、思想家

東京帝国大学教授で、大正デモクラシーにおける代表的な論客〕が

「民本主義」を提唱します


大日本帝国憲法下では天皇主権体制が

「国体」「神聖不可侵」とされていたので


吉野は、国家の主権は人民にあるという民主主義ではなく

国家の主権の活動の目標は人民にあるという民本主義を唱えたのです




●  大正デモクラシー


1910年代から20年代にかけて起こった政治・社会・

文化の各方面にあらわれた民主主義、自由主義的な運動、風潮


政治面においては普通選挙制度を求める普選運動、婦人参政権運動

社会面においては

言論・集会・結社の自由に関しての運動

部落差別解放運動

ストライキ権などの獲得運動


文化面においては自由教育 など





吉野の「民本主義」の影響を受けて

一木喜徳郎〔いちききとくろう・

内務官僚、憲法学者、政治家。東大教授〕や


彼の門下の 美濃部達吉〔憲法学者、政治家。東大教授

東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男〕らによって

「天皇機関説」が唱えられ


1920年代から30年代前半には

ほぼ国家公認の学説になっていたそうです




「天皇機関説」って?


憲法における解釈の理論で

天皇は、国家を動かす諸機関のうちの最高機関であり

主権者ではなく、主権は国家にあるというものです



美濃部達吉は「天皇は国家人民のために統治するのであって

天皇自身のために統治するのではない」と主張



天皇と国家を同一視し

「天皇は、天皇自身のために統治する」

「臣民は絶対無限に服従しなければならない」

「国務大臣の補佐なしで、統治権を勝手に行使できる」

「議会も国家にとって不可欠の機関ではない」

と唱える

上杉慎吉(憲法学者。東大教授)と激しく論争したといいます





しかし天皇機関説は

軍国主義の台頭にともない反国体的なものとされ


35年(昭和10)、当時貴族院議員であった美濃部は、議会で弁明


「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」

と非難した者もいたといいます



さらに、美濃部は不敬罪(天皇に対する不敬)の疑いにより

取り調べを受け(起訴猶予)

貴族院議員を辞職し、翌年には右翼の暴漢に銃撃され重傷を負っています



この年(35年)、軍部らに応じた政府は

天皇が統治権の主体であることを明示し

日本が天皇の統治する国家であると宣言する

「国体明徴声明」(こくたいめいちょうせいめい)を発表


美濃部氏の著書3冊を発売禁止処分としています


これにより、天皇機関説は大学の講義から姿を消したそうです




37年には、日本とはどのような国か明らかにするため

文部省が当時の学者たちを結集し

「国体の本義」という書物を出版しています




●   国体の本義


国体の尊厳と天皇への絶対服従を説いたもの


記紀(古事記・日本書紀)神話に基づき

天壌無窮の神勅〔邇邇芸命(ににぎのみこと)およびその子孫が

君主となって日本を治めることは、天照大神の意志に基づく〕や

万世一系を冒頭で強調

国体明徴運動の理論的な意味づけとなった


共産主義、無政府主義のみならず

民主主義、自由主義、権力の分立を原理とする立憲主義をも

国体にそぐわないとして排撃






それから、当時は

井上哲次郎〔哲学者

東京帝国大学で日本人で初の哲学の教授

国家主義の立場から宗教に対する国家の優越を主張〕と


キリスト教徒の間で展開された

キリスト教が国体に反するか

をめぐる論争なんかもあったようです



井上哲次郎は1893年(明治26)に「教育と宗教の衝突」を刊行し

第一高等中学校教員であった 内村鑑三(かんぞう)が

教育勅語奉読式において、天皇親筆の署名に対して

最敬礼(45度の会釈)をおこなわなかった不敬事件などを取り上げ

キリスト教を反国体的宗教として激しく批判したといいます




●  内村鑑三(1861~1930)


多数の著書を残し

キリストの再臨運動〔終末とキリストの再臨が近いことを語る運動

内村は不義の戦争によって日本が滅亡すると唱えた〕を展開し

日本の代表的予言者として知られる


無教会主義〔教会の建物はもちろん教会の制度や儀式

すなわち教会組織そのものは否定されるものではないにしろ

キリスト教徒にとって不可欠なものではないという立場

日本独自の思想〕の創始者でもある




しかし、天皇機関説を排除した軍部が

天皇機関説のとおりに活動していた

というのは語るまでもありません (笑)







玉音放送と人間宣言



「玉音放送」は、8/15日の正午にラジオ放送された

「終戦の詔書」〔しょうしょ・ポツダム宣言を受諾し

降伏することを国民に知らせるため詔(みことのり)〕

を音読する昭和天皇の肉声(レコード盤録音)です

(4分47秒ほど)


なお、前日14日の午後9時のニュースと

15日午前7時21分のニュースで

「15日正午に天皇自らの放送がある」

「全ての国民は玉音(天皇の肉声)を拝するように」

との予告があったそうです



現代語に訳すとだいたい以下のおりになります



≪ 朕(私)は深く世界の大勢と、日本の現状を考え

特別な方法で、この事態を収拾しようと願い

ここに、忠義の心を持った善良なる臣民

(国民のことを当時は臣民と呼んだ)に告げる


朕は政府に、米・英・中国・ソ連の4国に対して

ポツダム宣言を受諾することを通告させた


そもそも臣民の安全と、世界の共存をともにすることは

歴代天皇が残した遺訓であり、朕も大事にしているところである


米国や英国と戦争をしたのも

日本の自存とアジアの平和を願うからであり

他国の主権を排除し、領土を侵すようなことは朕の志ではない


開戦から4年が経過し

わが陸軍の将兵が勇戦し、役人たちが懸命に働き

一億の国民が奉公して、おのおの最善を尽くしたにもかかわらず

戦局は必ずしも好転しない


世界の大勢もまた我々に利がないことを示している


その上、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪のない人々を殺傷し

その惨害ははかりしれない


このまま交戦を続ければ、わが民族の滅亡を招くだけでなく

人類の文明をも破却するであろう


そのようなことになれば

億兆の赤子(せきし・国民)をあずかる朕はどのように

皇祖皇宗の神霊に謝罪することができよう


これが、朕が政府に共同宣言に応じさせるに至った理由である


朕は日本ともに終始アジアの解放に協力してきた同盟国に対し

遺憾の意を表さずにはいられない


日本の国民で戦地で死んだり、職務に殉じて非命にたおれた者と

その遺族を想うと、心が張り裂ける思いである


また戦傷を負い、戦禍をこうむり

家業を失った者たちへの厚生に至っては

朕の深く心配するところである


考えると今後の日本の受けるであろう苦難は尋常ではない

臣民の悔しさも朕はよく知っている


しかし朕は時運に従い、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで

のちの万世のために、太平を開こうと思っている


朕はここに国体を護ることができたので

忠義で善良な国民の赤誠(真心)を信頼して、つねに臣民とともにある


感情の激するままみだりに事件を起したり

同胞同士が争って時局を乱し

そのために大道を誤り

世界の信義を失うことは朕が最も戒めるところである


国をあげて一家子孫に伝え、神州の不滅を信じ

任務は重く道は遠きことを思い、将来の再建のために総力を傾け


道義を厚くし志を堅くし、国体の精華を発揚し

世界の進歩に遅れないように決意すべきである


あなたたち臣民は、朕の意を汲み、身をもって行いなさい ≫



難解な漢語がたくさん含まれていたので

多くの人は意味がよく解らなかったようです


ただ、天皇の肉声を聴くのが初めてであったこと

放送を聴く周囲の雰囲気、玉音放送の後の解説などで

事情を悟ったそうです






「天皇人間宣言」は


昭和21年の1/1日に官報(国の機関紙)により

広く国民に知られた「昭和天皇の詔書(しょうしょ)」の通称だそうです


≪ 私(天皇)とあなたたち国民との間の

紐帯(ちゅうたい・むすびつけているもの。絆)は

初めから終わりまで相互の信頼と敬愛によるもので

単に神話と伝説によって生じるものではない


また、天皇を現人神(あらひとがみ)とし

かつ日本国民を他の民族に優越するものとして

世界を支配する運命にあるなどといった

架空の考えによるものではない ≫ といった内容のものです







天皇と皇帝



中国の神話伝説上の「三皇五帝」の「三皇」を

天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、人皇〔にんこう。秦皇(たいこう)〕

とする史書があります



また、道教(中国の多神教)の最高神は

3・4世紀には、老子を神格化した「太上老君」(たいじょうろうくん)でした


4・5世紀には老子の説く「道」そのものを神格化した

「太上道君」(霊宝天尊)が加わり


6世紀になると、さらに「元始天尊」

〔天地万物の造物主。宇宙の原初に根源の気より生まれ、永遠不滅の存在

元始天王はその古称。宋代以降は

玉皇(ぎょくこう)や玉皇大帝などとも呼ばれた〕

も加わって「三清」(さんせい)となりました



三清の下に、三清を補佐する四御(しぎょ)がいます

玉皇大帝は、その1人で天界を総合的に司る神で

「天帝」や「上帝や「天皇上帝」」と呼ばれています


天の神格化で、神学的には三清よりも下位ですが

民間道教では、事実上の最高神といえるほどに信仰を集めています



他の四御は、玉皇大帝を助けて

天地、日月、星辰、気候などを司る

紫微北極大帝〔しびほっきょくたいてい・北極星の神格化〕


やはり、玉皇大帝を助けて、南極、北極、天地などを司る

天皇上帝(てんこうたいてい)


陰陽の生育・万物の美・大地山河の秀を司る女神

后土皇地祇〔こうどこうちぎ・天を司る天帝に対し、万物・陰陽を司る地帝〕です



以上のように四御に「天皇上帝」というのがいます



唐の高宗(こうそう・第3代皇帝)は

674年に皇帝の称号を天皇に代えましたが

中国で天皇を皇帝の称号として使用したのは、高宗だけだそうです


これは「天皇」が道教の思想からきたものだったからだと考えられています





日本では、日本書紀608年に

聖徳太子が隋の煬帝(ようだい)に送った国書に

「東天皇(やまとのてんのう)敬白西皇帝(もろこしのきみ)」とあり

これが最初とされますが

日本書紀は8世紀の編者による潤色が多いことから

事実とは考えられていません



40代 天武天皇(在位673~686)の頃から用いられたというのが有力です

これは、唐の高宗が天皇の称号を用いたという情報が

日本に伝わった結果だとされます



天皇号が成立する以前の古代の日本では

「大王」(おおきみ)が、君主の号で


6~7世紀の大和朝廷は

各地の王である「キミ」や「ワケ」を服属させ

統一国家を実現させています



また、古くは

天皇〔全てをあらわす「天」と

輝かしいものをあらわす「皇」を合わせた語〕と書いて

「スメラミコト」(皇命)、「スメラギ」、「スベラギ」などと読みました


スメラとは統べる・統治するの意味(澄めるで、神聖を表すとも)で

ミコトは神や身分の高い人の敬称です



また、天皇の別称を、天津日嗣(あまつひつぎ・天津日継)といいます

これは皇祖神 天照大神〔あまてらすおおみかみ・太陽の女神〕

の霊を引き継ぐ者の意で

スメミマノミコト(皇御孫命。天照の子孫・皇孫の意味)ともいいます





大日本帝国における

明治憲法において天皇は

元首として統治権(主権)を有する地位にありました



なお、王国とは王の治める国。帝国とは皇帝の統治する国

皇帝が王と違うのは、国家や民族を超えて

全世界を統治する者という意味を含んでいるところにあります




皇帝の称号は、ヨーロッパでは、全地中海世界を統一した

ローマ帝国に始まるといいます


共和制ローマ(前509~前27)における一世紀の内乱を終結させた

オクタウィアヌス(前63~14・・カエサルの姉の孫)は


前27年に、元老院より、アウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられ

この日以来、インペラトル・カエサル・アウグストゥス

と名乗るようになりました


これが、初代ローマ皇帝の誕生です



英語のエンペラー(皇帝)や、フランス語のランペルールは

ラテン語のインペラトルに由来するとされます


インペラトルは、命令する者の意で

共和政期には軍隊の最高指揮者をさしたそうです



一方、ドイツ語のカイザー(皇帝)や、ロシア語のツァーリ(皇帝)は

カエサルの発音が変化したものといいます





●  カエサル(前100~前44)


共和政ローマ期の政治家、軍人

英語では ジュリアス・シーザー


ガリア(フランス・ベルギー・スイス、およびオランダとドイツの一部)を平定

エジプトの王位継承戦に勝利し、クレオパトラを再び王位につけ

彼女との間に一子をもうけた


ローマの内乱にも勝利、独裁者となるが暗殺された


内戦に突入することを決意し

軍を率いてルビコン川を渡ったときの言葉が「賽は投げられた」


カエサルが暗殺されたとき

腹心の1人であったブルータスに言った「ブルータス、お前もか」も有名






中国では、秦(前77~前206)の始皇帝に始まり

清(1616~1912)に至る歴代王朝の君主が「皇帝」の号を用いたとされます


始皇帝は、前246年に秦王となり

前221年に、戦国六国のうち最後に残った斉(せい)を滅ぼし

史上初めて中国を統一し、中国史上初めて皇帝を称しています


家臣たちは、天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、泰皇(たいこう)の

「泰皇」の使用をすすめとされますが


満足しない始皇帝は、三皇の「皇」と、五帝の「帝」を合せた

「皇帝」の称号の使用を宣言したといいます


【 中国の伝説では、最古の王朝 夏(か・前2100~前1600頃)以前に

「三皇五帝」による王朝があったとされている 】






知り合いの大学教授のお話を記しておきます


皇帝が王と違うのは

国家や民族を超えて全世界を統治する者

という意味を含んでいる

ということですが


ここは西洋ではないので

王と皇帝の違いについては

古代中国の使い分けがしっくりきます




中国では中央に「皇帝」

各地方(属国)に「王」がいました

要するに、「皇帝」が一番偉い人

「王」は県知事みたいな存在です


ちなみに、高麗や李氏朝鮮のトップは全て「王」です

彼らが「皇帝」を名乗ったら

中国から戦を吹っ掛けられ

間違いなく国が滅ぼされてしまいます 苦笑



日本では「天皇」の以前は

「大王」(オオキミ)が使われていたわけですが

中国と対等な国であることを宣言するために

格下に当たる「大王」は

所詮「王」でしかないのでボツ


かといって「皇帝」を名乗ることは

大国である隋のメンツが立たないので

(何より国際戦争になりかねない)

「天皇」という称号が使われたとされています

(皇の字が重要)



このような背景があるので

天皇は英語では Emperor ですし

天皇が政治の中心だった戦前の日本を

皇帝の国である≪大日本帝国≫と呼ぶのも自然かと思います




天皇論 Ⅱ 万世一系




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