緋山酔恭「B級哲学仙境録」 天皇論 Ⅱ 万世一系



B級哲学仙境論


天 皇 論


 




天皇論 Ⅱ




万世一系 ①



明治維新以来、日本は「万邦(全世界)無比の神国」で

「万世一系」(ばんせいっけい)の天皇が統治する国である

とされましたが

太平洋戦争ではとりわけ強調されました



また、太平洋戦争を「大東亜戦争」ともいうように

日本は「大東亜共栄圏」を構想し


「八紘一宇」(はっこういちう)


「五族協和・王道楽土」

〔五族(日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人)が協力し

王道に基づいて治められる楽園を建設する〕


「聖戦」


「悠久の大義に生きる」

〔戦死すれば、悠久の大義に殉じた「英霊」として靖国に祀られるとされた〕


などといったスローガンが掲げられ


国民に対しては

「欲しがりません勝つまでは」の戦時標語のもと

「滅私奉公」(めっしぼうこう)が求められたそうです




【 八紘一宇・・・・

八紘は、本来、天地を結ぶ8本の綱を意味し

転じて世界のすみずみ、全世界の意

一宇は一軒の家(屋根)の意で、全世界を一つの家として仲良くの意


日本書紀にある神武天皇の言葉

「兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」

(くにのうちを かねて もってみやこをひらき

あめのしたをおほひて いへに せむこと、またよからずや)に由来 】




【 戦前・戦中には、小・中学校の修身(道徳)教育において

「忠君愛国」「滅私奉公」「七生報国」が教えられました


「七生報国」とは「何度も生まれ変わって

(あるいは、何度、生まれ変わったとしても)

皇国から受けた恩に報いる」という意味


楠木正成が足利尊氏の軍に敗れて自刃する時に

言い残したことに由来すると伝えられています 】





「万世一系」というのは

永久に1つの系統の王朝が続くことをいいます



万世一系がことさら宣伝されたということは

他にそういう国がないってことなの?


じつは、日本のような歴史を持つ国はないかもしれません




例えば、ロシアの最初の国家

「キエフ・ロシア」(9世紀から13世紀半ば)は

現在のロシアの主要民族である東スラブ人ではなく

ノルマン人(このうちのスウェーデン人)によって建国されています


さらに1240年から240年間に亘り、モンゴル族に支配され

モスクワ公国のイヴァン3世が、これを打ち破り

初めてツァーリ(ロシア皇帝)を名乗ったのは1480年のことなのです

このようにロシアなんかは、民族としての国の歴史が短いのです




また、イギリス・北欧3国〔デンマーク・スウェーデン・ノルウェー〕

ベネルクス3国〔ベルギー・オランダ・ルクセンブルク〕

なんかは、民族の歴史は比較的長いですけど

現在の王家の歴史が短いのです



デンマークでは1448年に

ドイツ貴族のオルブデンブルク伯家

(デンマーク王エーリク5世の女系の子孫)

のクリスティアン1世が国王に推戴され、オルデンブルク朝が成立


1863年、フレゼリック7世が没しオルデンブルク朝は断絶


オルデンブルク家の分家にあたるグリックスボー家の

クリスティアン9世に始まるグリックスボー王朝が

現在のデンマーク王家です


これがヨーロッパで最古の歴史を持つ

王家の歴史(1448年~)なのです



また、スウェーデンの現在の王家の始祖は

ナポレオンの元帥だった人です




それとヨーロッパの国では、王に後継なく没した場合

別の王家〔王や皇帝を輩出する貴族の家系〕から王を選んでいました


王や皇帝を輩出する貴族の家系があったということです




ハプスブルク家は、オーストリア大公国

(神聖ローマ帝国の領邦国家の1つ)

を本国として


婚姻政策によって、一族の所領を増やし

神聖ローマ帝国(現在のドイツ)内で

圧倒的な影響力をもつようになり


選挙で選ばれていた神聖ローマの皇帝位を

世襲するようになったのをはじめ


スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国

ボヘミア王国、ハンガリー王国

オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの

大公・国王・皇帝を輩出し


神聖ローマ帝国の版図外にまで及ぶ

他民族地域をも支配していました




ブルボン王家のルイ16世に嫁いだ

マリー・アントワネットも、ハスプブルク家の出身です




なお、ドイツという国は

かつては神聖ローマ帝国と呼ばれていました


神聖ローマ帝国(962~1806)は

ドイツ、オーストリア、チェコ

イタリア北部を中心に存在していましたが

実際は帝国というより、大小の国家連合体です

首都もありませんでした



とくに、13世紀頃になると、有力な貴族が誕生し

皇帝の地位をおびやかしていましたが

16世紀の宗教改革によって、これに新旧教徒の対立が加わります



最終的には

プロイセンによるドイツ統一によって、消滅しています


ハプスブルク家の王家としての歴史は

第一次大戦(1914~18)にオーストリアが敗北するまでの

700年続きました






アジアでは、タイの王家が有名ですよね


13世紀にタイ人による諸王国が形成され

1350年、タイ中部のアユタヤにアユタヤ朝が成立します


アユタヤ朝は1767年、ビルマにより滅亡しますが

中国系の将軍 タークシン〔父は中国人・母はタイ人

アユタヤ朝に仕え、ターク(タイ西部)の国主に任じられた〕が

すぐにビルマ軍を撃破し、タイの独立を回復します


翌年、自ら王となり

都をドンブリーに移し、ドンブリー王朝を建設します


タークシンは、アユタヤ朝時代の属国であった

カンボジア、ラオスをも回復させますが

1782年に、精神に異常をきたとする理由で

クーデターが起き、処刑されます



このとき軍最高司令官であったチャクリが王に推戴され

ラーマ1世となりバンコクを都とします

これが現在のチャクリ王朝です


なお7代目〔在位は1925~35年〕のとき

人民党によるクーデターが発生し

タイの政体は、絶対王制から立憲君主制に移行しています







万世一系 ②
神武天皇の遺伝子



当時、皇太子であった浩宮(ひろのみや)殿下と

雅子妃殿下の間になかなか世継ぎ(男子)が生まれないことから


小泉総理大臣が、女性皇族および女系皇族にも継承権を拡大する

という皇室典範の改正案の提出を明言したことがありました



これが実現されれば

浩宮殿下と雅子様の長女で

当時国民に人気の高かった 愛子様(当時幼児)が

将来天皇になれたわけでした



小泉さんは、こうして国民感情を取り込もうとしたようですが

逆に、皇室関係者ばかりか国民からも反感を買います


結局、秋篠宮殿下(浩宮の弟)の妃 紀子(きこ)様が懐妊し

男子が生まれたことで、立ち消えとなり

改正法案提出には至りませんでした



なぜ女性皇族、女系皇族の天皇を認める改正案が問題なの?

国民の多くが反発した理由はどこにあったの?



小泉さんは「皇位継承の安定性」「愛子様への帝王教育の時期」

なんかを言っていました


現実に、雅子様も紀子様も40前後になってい

て次子を望むのは難しかったし

皇室も晩婚化、少子化に向かっています



だからといって、女系天皇を認めてしまうと

初代 神武天皇のY遺伝子が引き継がれなくなってしまうのです



日本という国は、九州王朝の支配者 神倭伊波礼毘古命

(かむやまといわれびこのみこと)が東征を果たし

神武天皇に即位し、大和朝廷を開いたことに始まるのです


〔神武が大和朝廷を開いたとされる2/11日が建国記念の日〕




万世一系の根拠は、神武天皇のY遺伝子にあるのです


男性はXY、女性はXXの性染色体を持ちます

男子は父からYを、母からXをもらいます

女子は父からも母からもXをもらいます


単純に考えてみても

この時点で女子の遺伝子から父親のYが無くなります

父からもらうのはXだけです



その女子とある男性が結婚し、男子が生まれると

女子のXX(一方は父方、もう一方は母方)のうち

どちらかが男子に受け継がれるますが

母方のXが伝わったとしたら

そこで父方の性遺伝子は途絶えたことになるのです


天皇には、神武天皇の遺伝子を受け継ぐ者しかなることがではない

ここが天皇が天皇たるべきところなのです








万世一系 ③
王朝交替説




王朝交替説というのも聞くけど…


日本の皇室は、万世一系なんかではなく

王朝の交替があったという説ですね


10代の崇神(すじん)、15代の応神

26代の継体(けいたい)天皇のとき


つまり合計3回の王朝交替があったとする説が有力です



また、多くの学者は、崇神の王朝が


日本で最初の統一王朝と見ているのです


つまり、初代 神武天皇と

10代 崇神天皇とは、同一ということになります



その根拠としては

日本書紀では、神武を

始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)

と讃えていますが


古事記では、崇神を同様に

所知初國御眞木天皇(はつくにしらししすめらみこと)

日本書紀では、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)

と称しています


つまりどちらも初めに国を開き、統治した天皇と述べているのです



また、記紀(古事記・日本書紀)に

2代目から9代目までの天皇に対する記述が極端に少ないことから


初代から9代までの天皇とその神話は架空のもので

崇神天皇のときに創作されたとする説


また神話を史実の反映とみなし

2代目から9代 までは架空で、神武と崇神を同一とする説があります




それから、日本初の統一王朝とされる崇神朝が

大和(奈良県)を基盤に誕生したのか

九州など他地域から大和に侵入したものか

についても意見が分かれているようです



崇神王朝は、大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいたと

推測されることから三輪王朝ともいいます


この王朝の天皇や皇族には「イリヒコ」「イリヒメ」など

「イリ」のつく名称をもつ者が多いことから「イリ王朝」とも呼ばれます



崇神の名は、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ・古事記)

御間城入彦五十瓊殖天皇

(みまきいりびこいにえのすめらのみこと・日本書紀)


11代 垂仁の名は、伊久米伊理毘古伊佐知命

(いくめいりびこいさちのみこと・古事記)

活目入彦五十狭茅尊

(いくめいりびこいさちのみこと・日本書紀)といいます



崇神天皇については3~4世紀初めの人物だとされます






応神天皇による新王朝については

河内(大阪府東部)を基盤に発生し

大和に侵入して大和政権を打倒したという説


崇神が創始した大和朝廷と連合政権を構成していた

1つの王家(河内の王家)が

崇神朝が絶え、これを受け継いだという説


九州など河内以外の地域から侵入したものであるという説

の3つがあるようです



大阪平野に、巨大な前方後円墳が現存することや

応神天皇は難波の大隅宮に

16代 仁徳天皇は難波の高津宮に都を置いたことなどから

河内王朝時代に大阪平野に

強大な政治権力の拠点があったことは確かで


〔 仁徳天皇陵(大阪府堺市堺区大仙町)は

墳長486mで日本最大規模の古墳

応神天皇陵(大阪府羽曳野市)は墳長422mで仁徳に次ぐ 〕



河内湾に港を築き、水軍を養い、瀬戸内海の制海権を握り

朝鮮半島へ外征も行っていたとされます



但し、大阪平野の開発は新王朝の樹立などではなく

初期大和政権の河内地方への進出であったとして

応神天皇による新王朝を否定する立場もあります



また、応神天皇の出生が伝説的であることから

応神天皇と仁徳天皇は同一の人格で

三輪王朝と河内王朝を結びつけるために

応神天皇が作り出されたとする説もあり

この説では、仁徳王朝と呼びます


応神天皇については4世紀後半の人のようです





継体天皇については

近江(滋賀県)か越前(福井県)

または摂津(大阪・兵庫)の豪族であった人で

大和に侵入して皇位を簒奪したとされます



継体天皇の1つ前の25代 武烈天皇は

様々な猟奇性を帯びた悪事を行ったことが日本書紀に見られます


妊婦の腹を裂いて胎児を見たり

生爪を剥して山芋を掘らせたり


木に登らせその木を切り倒して殺したり

木に登らせて弓で射殺したり


池の樋から人を流して出てくるところを矛で刺し殺して楽しんだり


また女性を裸にし馬の交尾を見せて、陰部が濡れた者を殺し

そうでないものを奴隷にするなどしたとあります



しかしこうした記述が、古事記には全く見られないことから

武烈天皇を暴君に仕立てることで

王朝の交替を正当化したのではないかとする説が有力です


なお、武烈天皇は子をなさず若くして崩御しています



また、継体天皇は、即位してもすぐには大和の地には入らず

20年間、北河内や南山城(みなみやましろ)などの地域を転々とし

ようやく大和に入っていることから

大和に継体天皇の即位を認めない勢力があり

戦闘状態にあったとす説



継体天皇は、大王家に妃を何度となく入れていた

近江の息長氏〔おきながうじ・応神天皇の皇子 若野毛二俣王の子

意富富杼王(おおほどのおおきみ)を祖とする〕

系統の王位継承資格者で


当時認められていた女系男子の王位継承資格者であって

簒奪のような王朝交替ではないとする説もあります



また、24代 仁賢天皇の皇女

白香皇女〔たしらかのひめみこ・武烈の同母姉〕を妻として

入り婿の形で皇位を継承していることから

これを新王朝と言えるかどうかを疑問視する考え方もあるようです


継体天皇は5世紀の終わりから6世紀の初めにかけての人のようです





いずれにしても王朝交替があったのは確かなのか?



但し、これらの王朝交替論も、征服であったのか

入り婿による先の王朝の継承であったのかはっきりしないようです


畿内連合政権論によると

王権の世襲がまだ確立していなかった頃は

複数の王家が大王を交替で出していたといいます


このようなことから入り婿が同族

また1つの王家によるものであれば

王朝交替とは違うという意見もあります



それに現在の天皇家の始まりが

たとえ継体天皇による新王朝であったとしても

1500年もの歴史を持つことになります








万世一系 ④
騎馬民族王朝交替説




騎馬民族征服王朝説というのもあります

こんな話↓を聴いたことありませんか?


【 邇邇芸命(ににぎのみこと)の「天孫降臨」の神話は

中国東北部やモンゴルあたりの騎馬民族が朝鮮半島に入り


さらに古代の日本列島にはいなかった馬に乗り

対馬や北九州や山陰地方から侵入したことを意味する


彼らが日本の原住民を征服し

さらに神武天皇の代に東征を果たし、ついには大和朝廷を樹立した 】



騎馬民族征服王朝説というのは、王朝交替説の1つで

東大名誉教授の 江上波夫(1906~2002・考古学者)

によって1948年に発表されました



これは


東北アジアを席巻していた騎馬民族の集団が

紀元前後から朝鮮半島に侵入し、いくつかの国家を形成した


これらの国家の1つが変貌した

半島南端の「伽耶」〔かや・任那(みまな)〕

の騎馬集団が、4世紀頃に日本に侵入した


邪馬台国をはじめとする倭の国々を征服し

伽耶と北九州の連合国家を形成した


5世紀には畿内に進出し

大和の豪族とともに大和朝廷を建設した


という話です



弥生時代(農耕文化)から

古墳時代(騎馬文化)への文化的な推移は

騎馬民族侵入による大陸文化の導入であったとか


巨大な墳墓は騎馬民族の王権の誇示であったとか

いった主張がなされています



また江上氏は、実在した天皇のうち

諡号に「神」の文字を持つのは


神武天皇を除くと、崇神天皇と応神天皇だけであることから

2人を、邇邇芸命=神武天皇 と同一とみなしています


つまり、邇邇芸命=神武天皇=崇神天皇=応神天皇 とみています



そして、崇神天皇の名を

御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ・古事記)

御間城入彦五十瓊殖天皇

(みまきいりびこいにえのすめらのみこと・日本書紀)

といい


古事記では、所知初國御眞木天皇(はつくにしらししすめらみこと)

日本書紀では、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)

と称していることから


崇神天皇は、ミマキ〔ミマ(任那)の宮城〕に居住し

そこを出発点として国を創建したと主張しています



それから、弥生時代に日本に

牛馬がいた形跡は発見されていないのに


古墳時代後期(5、6世紀)になると

急に多数の馬が飼養されるようになり


埴輪の馬も見られることなどを自説の根拠にしているようです





反論としては、古墳時代前期(2世紀後半~4世紀)と

中・後期の間には、文化に断絶は見られず

強い連続性がみられること


前方後円墳は日本独自の古墳形式で

2世紀後半から3世紀前半にかけての畿内で発生していること


騎馬民族であるという

皇室の祭儀に牧畜由来のものがみられないこと



馬は神経質な動物で、当時の船による大量輸送は不可能であり

鎌倉時代の「蒙古襲来」のときも、モンゴル・高麗連合軍は

軍馬をまったく輸送していないこと

などがあげられています



確かに、大和朝廷が騎馬民族を先祖とするなら

牧畜文化がもっと日本に浸透していてもいいように思われます





また、日本の文化の基盤は

中国華南地方や東南アジアに共通する

南方系農耕民族の文化であるといいます


記紀神話においても

日本は「豊葦原瑞穂国」〔とよあしはらみずほのくに・

葦が生い茂り、稲が豊かに実り栄える国〕と呼ばれています



天照大神〔あまてらすおおみかみ・皇祖神。太陽の女神〕が支配する

「高天原」(たかまがはら・天上界)には

天照の神田があり稲作が行われています


邇邇芸命(ににぎのみこと)は「天孫降臨」のさい

祖母の天照から、稲の穂を授かり地上に降臨しています





また、古事記には以下のような話がみられます


【 空腹を覚えた 須佐之男命

〔すさのおのみこと・天照の弟。暴風神などと考えられている〕が


食物の女神 大気都比売(おおげつひめ)に食べ物を求めると

大気都比売は色々な食物を須佐之男命に与える


不審に思った須佐之男が、食事の用意をするところを覗いてみると

大気都比売は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた


須佐之男は「汚い物を食べさた」と怒り

大気都比売を斬り殺してしまう



すると、大気都比売の頭から蚕、目から稲、耳から粟、鼻から小豆

陰部から麦、尻から大豆が生まる


神産巣日神(かむむすひのかみ)は、これらを取って五穀の種とした 】




日本書紀には


【 天照大神は

月夜見尊〔つくよみのみこと・天照の弟。須佐之男の兄〕に

葦原中国(あしわらのなかつくに・地上世界)にいる

保食神(うけもちのかみ)という神を見てくるよう命じる


月夜見尊が保食神の所へ行くと

保食神は、陸を向いて口から飯を、海を向いて口から魚を

山を向いて口から獣を吐き出し、月夜見尊をもてなした


月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚い」と怒り

保食神を斬り殺してしまう


それを聞いた天照大神は怒って

「もう月夜見尊とは会いたくない」と言い


これにより太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになった 】


とあります



また、天照大神が保食神の所に

天熊人(あめのくまひと)を遣すと


保食神は死んでいて

死体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗(ひえ)

腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれたので


天熊人はこれらを持ち帰ると

天照は「民が生きてゆくために必要な食物です」

と喜び、これらを田畑の種としたとあります




こうした神話は「ハイヌウェレ型神話」といい

南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に広く分布しているとされます


【 ハイヌウェレは

インドネシア セラム島のヴェマーレ族の神話に登場する女神

ココヤシの花から生まれた少女


神話によると、様々な宝物を大便として排出し村民に配った

村人たちは気味悪がって彼女を生き埋めにして殺した


ハイヌウェレの父親は、死体を掘り出して切り刻んであちこちに埋めると

彼女の死体からは様々な種類の芋が発生し、人々の主食となった 】




それから宮中の祭祀には

天皇が執り行う大祭と、掌典職(しょうてんしょく)らが祭典を行い

天皇が拝礼する小祭があるそうですが


大祭にあたる「神嘗祭」(かんなめさい・初穂祭にあたる)

「新嘗祭」(にいなめさい・収穫祭にあたる)も

稲作に基づいています



新嘗祭の11/23日が「勤労感謝の日」です


なお、大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇即位後初めて行う新嘗祭で

天皇にとって生涯最大の儀式です





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