緋山酔恭の「B級哲学仙境録」 倫理学のトロッコ問題と不寛容主義への回答



B級哲学仙境論


倫理学の

トロッコ問題への回答






倫理学の
トロッコ問題への回答





「我思う、ゆえに我あり」で有名な

デカルト(1596~1650)は


生得観念〔しょうとくかんねん・

生まれながらにして(=先天的)、心に具わっている観念

神や、自我(他者や外界から区別して意識される自分)

についての観念など〕


の存在を主張しました



これに対し

イギリスの経験主義哲学者の ロック(1632~1704)は

「すべての観念は、白紙(タブラ・ラサ)の心に

経験によって(=後天的) 得られる」

という有名な言葉を残しました


【 なお、観念とは、あるモノやコトについていだく意味内容

あるモノやコトについての共通認識ですが

概念よりも主観性を残す 】




よく、大学の倫理の授業で、このような↓問題が出されます


① あなたはブレーキの効かなくなった車に乗っている

このまま走ると5人が死んでし まう

しかし車を脇道にそらすと別の1人を殺すが5人は助かる

あなたは車の進路を変えるべきだろうか?



② 事故で5人の重傷者がいる

5人はそれぞれ違う臓器を致命的に損傷している

このとき事故とは無関係な男がいたとする

この男の臓器を5人に移植すれば

男は死んでしまうが、5人は助けられる

あなたが外科医だったら、1人を犠牲にしてでも5人を助けるべきか?





こうした話は、もともと

イギリスの哲学者で、倫理学の分野で業績を残した

フィリッパ・ルース・フット(1920~2010)によって

「トロッコ問題」として提示されたものです



①は、もともと


線路を走っているトロッコが制御が不能になった

このままでは前方で作業中の5人がひき殺されてしまう


このときAは分岐器のところにいた

Aがトロッコの進路を切り替えれば5人は助かる


しかしその路線には作業している者が

1人いて、5人の代わりに1人が死ぬことになる


Aはトロッコの進路を切り替えるべきか? というもの



なお、法的な責任は問われない

という前提がつけられていて

単純に「5人を助けるために他の1人を殺してもよいか」という

道徳的な見解だけを問題にしています




②は、Aは線路の上にある橋に立っている

Aの横にBがいる


Bは体重が重いため

彼を線路上につき落として障害物にすれば

トロッコは止まり5人は助かる


Aにはつき落とすかつき落とさないか

の選択肢以外はないものとする


体重のないAが自ら飛び降りてもトロッコを止められない

またその事実をAは理解している

といったもの





功利主義的な考えからいくと

1人を犠牲にし、5人を助けるするほうが

「正しい」ことになりますが



多くの人が①の質問では

「一人を犠牲にすることは許される」と答えるのに対し

②では「一人を犠牲にすることは許されない」と答えるそうです


つまり逆の結果が生じるわけです


これは文化や宗教の違う様々な地域で調べてみても

ほとんど同じ結果になるといいます



1人の死について

①の場合、巻き添え(副次的なこと)

と考えることができるのに対し


②の場合は、自分の直接的な意図と行為によって死ぬこと

になるからだとされています





①は、もっとはっきりさせるとこういうことです


雨で増水する川の中洲に

20人が取り残されたとします


救出するには

上流のダムの放水を10分間止めなくてはなりません



しかし、10分間放水を止めると、ダムが決壊し

上流の村が洪水被害に合い、多くの人が犠牲になる


あなたならどうしますか?





文化や宗教の違う様々な地域で調べてみても

ほとんど同じ結果になるとなると


人間には生まれながらにして

道徳的に「なにが正しくなにが間違えか」を

直観かつ強力的に判断する能力=「理性」がある


そうした「理性」というものが

本能として具わっているのではなのか?

ということになりますよね




このようなことから

今ではタブラ・ラサ説は人気がなく

道徳性は、生得的なもの=先天的なものとして

人間に備わっていると考えられるようになってきているといいます




なお、「生得的に」とは、先天的に

あるいは先験的に(経験に先だって)ということで

生得的にとか、先天的にとか、先験的にとかを

カント哲学では「アプリオリ」といいます







ただその道徳性が

カントのいう実践理性(=良心)なのか?

というと疑問があります



①の場合も、②の場合も

良心による判断というより


「自分の心が痛まないような行動をとりたい」

という一種の利己的な欲求にもとづく判断ですよね




また、人間には生まれながらに

道徳的に「なにが正しくなにが間違えか」を

判断する理性が、備わっていたとしても


パラダイム〔しきたりやしがらみ、常識や人気〕によって

後天的に構築された善悪判断=理性の方が

それよりもずっと強力であることを

中世のキリスト教社会で猛威をふるった

魔女狩りなんかがはっきりと示しています




5人を殺すことをさけて1人殺すのが正しいのか

そのまま5人を殺すのが正しいのかなんて話も

ある社会のパラダイム(支配的な考え方)によって

どうにでもなってしまうということです


イスラム教徒の自爆テロなんてまさにそんな象徴といえます





それから、目の前に車にはねられ怪我をした人がいたら

「多少の犠牲を払っても助けるべきだ」

という道徳的な感情が働きますが


世界のどこかで貧困や飢餓で苦しんでいる人がいても

「助けなければならない」という義務的な倫理感情は薄く


「助ける方が望ましい」くらいにしか感じません

「助けなくても罪悪感を感じる必要などない」と思っています



こうしたことからも 生得的な理性が

カントのいう「良心」(実践理性)や


仏教において

全ての衆生に内在するとされる「仏性」


のような【善性】である というのは疑わしいです






でも、どうして世界のどこかの国で苦しんでいる人がいても

道徳的な感情が湧いてこないのでしょう?



人類は、全人類が食べていくのに十分な食糧を生産しています


富める国で過剰に生産され、廃棄している食糧が

貧しい国の人たちに分配されれば

この世界から「食べることに苦しむ」という不幸の1つが消滅します



こんなことは、皆が解っていることですが

この誰もが解る単純な話が実現できないのです



万物の霊長と称される

人間という存在の英知をもってさえ、それができないのです


だから世界の1/6もの人が、今も飢餓で苦しんでいるわけです




【 穀物は世界で年間23億トン生産されている

これは世界中の人が生きていくのに必要な量のおよそ2倍にあたる


先進国では穀物の6割が家畜のえさになっていて

肉食が飢餓を増大させている


世界の2割足らずの先進国で、世界の穀物の半分以上消費している

このことから、食べるものがいつでも十分に手にはいるのは

世界のおよそ2割の人だけと言われている


日本は年間に、世界が貧困国へ行っている

食糧援助総額分の3倍近くの食べ物を捨てていて

世界一の消費大国アメリカをも上回り、世界一の残飯大国だという 】






世界のどこかの国で苦しんでいる人がいても

道徳的な感情が湧いてこないのは


我々人類が「遠くの人を助ける」という経験を

進化的にしてこなかったことが原因だという人がいます



我々は、仕事でもグループ同士いがみあったりしますよね


同じ会社の仲間であっても

違うグループの人間に対し敵対意識をもちます


これも同じ理由のなのかもしれません



私たちは進化的に群れ同士争ってきたことから

そういった感情判断がなされるのかもしれません




すると逆に言うと

我々が進化的に経験してこなかったことは感情判断できない

理性的にしか判断し得ないということになります




だとしたら、仮に、多くの人が

「美しく生きたい」という欲求から

「遠くの人を助けるべきだ」という

感情判断がおこるような倫理思想を確立できたなら

世界の悲惨がずっと減るかもしれませんよね


そんなこと不可能でしょうけど・・・・



なぜなら「仲間は助けるが、仲間でないものは助ける必要がない」

といった進化の過程で形成された道徳性があり

これに反する倫理観を植えつけることが難しいからです





そうなると、思想や環境の操作によって

どのような人間にも育てることができる

というほど、人間は簡単ではない



魔女狩りも、自爆テロも

あさま山荘事件をおこした連合赤軍のリンチ事件も


「仲間は助けるが、仲間でないものは殺してもいい」

そういった道徳性、理性のもとに築かれた

パラダイム(支配的な考え方、教義)を基盤として

引き起こされたと考えられるのです







カントの思想は


1、人間には、普遍的に発動される

善性(=良心・実践理性)が内在していること


2、この良心の声(実践理性)に従うによって

人間としての完成を目指すことができること


3、また、それが人間の目的であり幸福であること


この3つを前提としています



人間というか衆生(生きとし生けるすべての存在)に

「仏性」が内在していて、それを顕現していくことが

人生の目的であるとする仏教とほぼ一緒です






ここで1つ考えてもらいたいのは

我々が進化的に

経験してこなかったことに対しては

感情判断できない

理性的にしか判断し得ない

ということは


「良心」=≪義務的な道徳感情≫は

限定的なコトについてしか発動し得ないということです



つまり、限定的であって、普遍的ではないということ

良心は、カントの主張するような普遍的な道徳法則ではない

ということです






ドイツの大哲学者 カント(1724~1804)

の思想の中心が「意志の自律」です


“人間は意志の自律によって「最高善」に至れる”という

道徳論者のカント(1724~1804・ドイツの哲学者)は

認識能力の「理論理性」(純粋理性)とは別に

人は、先天的・先験的な意志能力として「実践理性」を有するとしました


〔 先験とは経験に先だってということで

カント哲学においては、先天的・先験的な能力をアプリオリという 〕



なお、実践理性というのは、意志そのものではなく

意志を規定する道徳原理、道徳法則です



また、自己に内在する良心の声に従おうとする理性

=実践理性ではなく


「~しなければならない」という良心の声そのものが実践理性です



なぜ、良心そのものが「理性」なのか?

というと、この理性で考えれば、なにが正しいかが分かる

「~しなければならない」が正しいことが分かるからだといいます




例えば、川で子供がおぼれているのを見て

「あの子はいずれ死ぬだろう」

「助けに飛び込んだら自分も死ぬかもしれない」と

自然の法則に従ったものの見方をする働き=認識能力が「理論理性」



この「理論理性」(純粋理性)が

我々がふつう「理性」と呼んでいる理性です


カントによると「理論理性」も

先天的・先験的能力として、人間は有しているといいます




これに対して「なんとかして救いたい」

さらに「救わなければ」とかいう」という

内なる≪良心≫が「実践理性」というわけです


そして、カントは自然法則や他人の支配から解放され

この道徳法則に従って生きることを「意志の自律」と呼び


意志の自律=自由 と説いています




なお、「純粋理性」(理論理性)が

我々がふつう「理性」と呼んでいる理性です

と書きましたが


「純粋理性」も

カントのいうような認識能力などではなく

価値判断の結果であり

意志に近いものです





しかし、 自分が必ず死ななければならない

状況に置かれたら どうでしょうか?



例えば

見せしめのために10人が処刑されることになりました


あなたは、そのうちの1人の身代わりになることを

申し出ることができますか?


「はい。私は、良心に従って、身代わりになります」

と答えられる人が、どれだけいるでしょうか?



そう考えたとして≪良心≫とか

≪良心の声に従う理性、あるいは意志≫

なんていう原理を

持ちだすのは愚かしいですよ




そんな状況において

自分を、身代わりに差出し

死地へ飛び込ませる行為がなされるとしたら


それは「良心」や「善性」などといった

利他的な原理にもとづく理性や意志なんかではなく


≪最後まで、美しく生きたい≫とか

≪権力の横暴に、自分は屈したくない≫とか

いった「自己的な欲求」にもとづく感情や意志でしかないはずです




財布を交番に届けるのも

ゴミを道に捨てないことも

≪美しく生きたい≫という欲求ですし


弱い立場の者をいじめない

というのもそうです


この欲求に逆らうと「痛み」となるので、従うのです





おぼれている子供を助けるのも

罪や悪(自分の倫理観においての罪や悪)をする

勇気がないだけだと思います


今までの経験や教養なんかによって培われた

自分というものがあって

それに対して≪理性≫ではなくて


「こうしたい」「こういう生き方がしたい」という

≪自己的な欲求≫が

子供を助けるという行動をとらせるのだと思います



仮に、カントのいうように

人間の行動原理が「良心」だとか「善」だとかいうなら

共産主義は、成功していたはずです(笑)





それから「あいつのしていることは偽善だ」とかいいますが

そもそも≪偽善≫なんてないのかもしれません


自分の行為を他人が

「善」とか「悪」とか「偽善」とか評価しますが

自分は、つねに≪信念≫に従って生きているだけ


自分にとってあるのは

≪自分の信念に従って生きているかどうか≫だけだと思うのです



≪美しく生きる≫といったって

≪美しい≫という基準が、人によって違います


だから、結局

≪美しく生きるとは、自分の信念に従って生きること≫

以外にないということです






さて

あなたはブレーキの効かなくなった車に乗っている

このまま走ると5人が死んでし まう

しかし車を脇道にそらすと別の1人を殺すが5人は助かる

あなたは車の進路を変えるべきだろうか?


という問題に話を戻します




この問題に関して

あらゆる人が陥ってしまう間違えは


この話には、違った次元の2つの倫理観による

≪3つ答え≫があるのに

それをごちゃまぜに語っていることです




1つは、個人的な倫理観、信念とか良心としての答えです


自分の信念や良心においては、全てが自由というか勝手です


それは誰がどうしたというのではなく

生命の仕組みとして自然にそうなっています


だからこの≪答え≫は、どっちも≪正解≫です



また、Aさんが最終的に

どちらかを選ばざるを得なかったとしても

それまでに心に葛藤があったわけですから

「仕方なかった」と言い訳が成り立ちます


なので、心はそんなに痛まないはずです




これに対し、もう1つは

我々が社会生活をしていく上で

法律やパラダイム(しきたりやしがらみ、常識)

によってつくられた倫理観

としての答えです


この倫理観からすると、この問題には≪正解≫がないです


なぜなら、「これこれを正解にしましょう」といった

≪定義≫も≪暗黙の了解≫も存在していないからです





さらにもう1つは

個人の信念なり良心としての倫理観を

社会の決めごととしての倫理観で、測って


「あの人の回答は人として正しい」とか

「人として間違っている」とかと

決めつけるジャッジとしての答えです


だけどこの場合、ジャッジできないのです


≪正解≫を測ろうにも

物差し(社会の決めごととしての倫理観)に

≪正解≫がないからです








寛容主義とは?



倫理学において論点の一つとして取り上げられる

「寛容のパラドックス」というものがあります


≪寛容主義は

不寛容主義に対しても寛容でなければならないのか≫

という論題です



ただ、これに関しては

そもそもパラドックスになっているのか疑問です



なぜなら、寛容主義が

不寛容主義に対しても寛容でなければ

なにをもって寛容主義なんだかわけわかりません(笑)




≪寛容性のある宗教≫と語られた場合

その宗教は、他宗教や、一般社会(多数派)の価値を

「許容」や「容認」しているということになります



例えば、創価学会においては

「現在の不幸は

過去世で間違った宗教を信仰していたことにある」

なんていう原理のもと


謗法(ほうぼう)払いと称して


入信するにあたっては、他宗の「仏壇」はもちろん

「御守り」に至るまで破棄ざる≪謗法(はうぼう)払い≫

が徹底されていましたし


神社の鳥居をくぐることも「不幸になる」

と言われていたのです



それが、時代とともに、学会員がお祭りに参加することは

≪地域貢献≫であるといったように変化してきています





また、カトリックというのは

他の教会や他宗教に対し

長きにわたって排他主義をとってきましたが


第二バチカン公会議(1962~65)以降は、軟化して

プロテスタント諸教会や諸宗教との対話をはじめています



具体的には

前ローマ法王 ヨハネパウロ2世(在位1978~2005)が

プロテスタント諸派や、東方正教会との和解へ努力し


ルーテル教会やへの訪問

イギリスへ訪問し、英国国教会のランシー大主教と会見

東西教会の分裂以来、教皇として初めてギリシャを訪問


さらには、イスラム教のモスク(教会堂)や

ユダヤ教のシナゴーク(教会堂)をも訪問しています


〔1986年には教皇として初めてローマのシナゴーグを訪ている〕



また、法王は、ローマ・カトリック教会過去の罪をみとめ

歴史的謝罪を活発に行っています


キリスト教の歴史におけるユダヤ人への行為

十字軍の正教会やムスリムへの行為

などへの反省と謝罪


さらに、ガリレオ・ガリレイの地動説裁判における

名誉回復など

を公式に発表しています




以上で、明らかなのは

「原理主義」 「寛容主義」といったって

自分の都合によって、変わってきてしまうということです






また、一般社会(多数派)において

マイノリティ(少数派)を

「許容する」「容認する」という≪寛容主義≫もあります



いずれにしても、少数派(たとえば宗教教団)の寛容主義も

多数派(一般社会)の寛容主義も

共通するのは、基盤に「自分たちが正しい」という視点があり


そこから、他にどういう態度で臨むのか

というところにあります




多数派の寛容主義を支える「正しさ」は

社会のパラダイム〔しがらみやしきたり。常識や人気〕

というものによって

「正しい」と思わされているふしも大いにあります





共産革命というのは

パラダイムによって、信じ込まされている

「正しい」「正しくない」の倫理こそに間違えがある


下層民が、一部の特権階級や資本家に

搾取されている社会なんて「正しくない」といって

武力を用いて、それを変えようとしたわけです



仮にこうした自分が「正しくない」と信じていることに対する

反抗が、全て≪寛容でない≫ ≪非寛容である≫というのなら

寛容主義とは、「洗脳」でしかないということになります




また、下層民が、搾取されている社会を

「正したい」という情熱は


民衆に対する「慈悲」とか「愛」

すなわち、他者に対する≪寛容性≫と言い換えることもできます



つまり、暴力革命ですら

≪非寛容≫どころか≪寛容≫であるという論理も成り立つわけです




以上、総合して考えると

もし、≪寛容主義≫というものがあるとするなら


それは、なるべく広くものごとをみていこう

また、ものごとをあきらかに見ていこうという態度にしか

ないのではないでしょうか?





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