緋山酔恭の「B級哲学仙境録」 マックスウェーバーの「プロ倫」を考察する



B級哲学仙境論


マックスウェーバーの

「プロ倫」を考察する






マックスウェーバーの
「プロ倫」を考察する




人類は、全人類が食べていくのに

十分な食糧を生産しているといいます


だから、富める国で過剰に生産され、廃棄している食糧が

貧しい国の人たちに分配されれば


この世界から「食べることに苦しむ」という

人間の不幸の1つが消滅します


このようなことは、皆が解っていることです



でも、この誰もが解る単純な話が実現できない

だから世界の1/6もの人が、今も飢餓で苦しんでいます


ちなみに 日本は食糧の7割以上を輸入しながら

その1/3を捨てている世界一の残飯大国なんだそうです





こうした「貧困」や「差別」といった不幸に対し


釈迦は

"執著を離れれば「苦」は消滅し涅槃の境地を得る"と教え


イエスは

"全てが神のもとに平等で、信じる者は救われる"

と答えたわけです



つまり、"本来 差別なんかは存在してやしない

平等に救済の道が開かれている"

と答えたのであり


現実にある「貧困」や「差別」といった

不幸そのものを解決したのではありません





むしろ「貧困」については

経済学者たちが模索してきたと言えます



アダム・スミス(1727~90・イギリスの経済学者。哲学者)は

「国が貧しいのは市場が発達していないからであり

規制を緩和・撤廃し、多くの人が

市場に参入できるようにすれば、貧困はなくなる」と主張し



マルサス(1766~1834・イギリスの経済学者)は

「国が貧しいのは人口が多すぎるからだ」と言いました



マックス・ウェーバー(1864~1920・ドイツの社会学者。経済学者)は

「その国が貧しいのは、人々が迷信や慣習にとらわれ

科学的で合理的な判断をしないからだ」と主張し



マルクスは「貧困は資本家による搾取が原因だ」と訴えたわけですす






アウグスティヌスの予定説と
カルヴァンの二重予定説




キリスト教では

ルターやカルヴァンのように

全く人間の自由意志を否定する立場と


一部、自由意志をみとめて

あとは、神の恩寵であるとする立場(カトリック)が

ずっと論争してきました




キリスト教では、仏教でいうところの「善行」を

≪功績≫といいます


カトリックにおいては、功績は、神から救いをうける助けになる

助因になるとされています


宗教改革当時は、免罪符を買うことも、功績とされていました



これ対して、ルターは、人間の努力(功績)によって

神に義される(正しい人間と認められ救済される)ことはない

信仰によってのみ義されるとし

人間の自由意思を否定したのです



これが、プロテスタント3原則の1つ「信仰義認」です





●   ルター (1483~1546)


ドイツの宗教改革者。プロテスタンティズムの確立者


ルターを祖とするルター(ルーテル)派教会は

スイスのジュネーブに本部を置く


「ルーテル世界連盟」は79カ国にある145の加盟教会を有し

全世界には7500万人の信徒を抱えているとされ

単独教派としては世界最大という


ドイツ、北欧諸国が ルター主義の国





カルヴァンは、ルターの考えをさらに進めて

有名な「カルヴァンの二重予定論」を唱えています


人間は努力(善行)によって救われることはない

いくら善行を重ねても救われることとは関係ない


人間の救いは神の無差別の選択によって決まっている

神の意志によって救われる者と救われない者とが

あらかじめ定められるというものです





●   カルヴァン (1509~64)

ルターと並ぶ宗教改革者で

スイス南西部のジュネーブで活躍した


改革派教会は、カルヴァンや

同じくスイスの宗教改革者の ツヴィングリの流れを汲む

(とくにカルヴァンの流れを汲む)プロテスタント諸教会の総称


改革派の一つ長老派教会はカルヴァン主義に基づく


フランス、スイス、オランダ、スコットランド

アメリカなどがカルヴァン主義の国







旧約聖書では、イスラエルの民は

神の選民として救いは予定されています



また、初期キリスト教会最大の思想家であり

教父(カトリックの称号の1つ。2~8世紀の神学者のうち

正統教義を唱えた精神的指導者)の

アウグスティヌス〔354~430・青年期はマニ教を信奉〕の

「予定論」は


救いへの願いがおきて、それが維持

完成されるのは、全て神の恩寵であり予定であるというものです


つまり、救いを求める意志

それによって祈りがおこり救われるのではない


キリストの恩寵によって祈りがおき、それによって救われる


この原理がキリストを信じる者にあらかじめ定められている

というのが、アウグスティヌスの予定論と言えます



アウグスティヌスによると

人間は神の絶対的恩恵のみによって救われるといいます


彼は、人間の意志より神の恩寵を重視し

教会が神の恩寵(救い)を届ける唯一の伝達機関であるとしています


この他、歴史は神の国と他の国の戦いであることや

悪は善の欠如にすぎず実在性がないことなどを唱えたといいます






アウグスティヌスの思想は

親鸞(浄土真宗の祖)に似ています


親鸞は、阿弥陀の名を称える「行の一念」を強調した

法然(浄土宗の祖)を≪自力の念仏≫と定義し


≪絶対他力の念仏≫

(阿弥陀のはからい、恩寵が人にさせる念仏)

によってのみ、真実の浄土に往生できるとしています



親鸞によると

正信の念仏者は

阿弥陀の信心を分かち与えられた存在であるため

内在的には仏と等しい(如来等同)のである


自らの力で念仏するのではなく

如来の力が人に念仏をさせるのである


また、自他はともに

如来のはからいで念仏を信じ唱える身であるから

同朋(とも)であり、同行(同じ念仏の行者)である

といいます



なお、親鸞は、信の一念を強調しましたが

親鸞の「信」とは、阿弥陀に全てをまかせきる心

=信楽(しんぎょう) です






話を戻します


アウグスティヌスや、ルターの立場を極限まで押し進めたのが

カルヴァンの二重予定論と言え、恐るべき運命論・決定論でもあります



カルヴァンの思想は、神の支配を強調するところにあり

彼の改革は、聖書の立場を市政や風俗にまで適応するもので

カトリック的儀式ばかりでなく


酒場、踊り、ゲーム、性道徳といったものまで取り締まり

違反者を極刑にさえするという一種の神権政治であったとされます




三位一体説に反対し

汎神論(はんしんろん・

一切は神であり、神と世界は同一という考え)的思想を唱えた

セルベトゥス(スペインの神学者。医学者)は

ウィーンとフランスでカトリックの審問を受け異端と宣告をうけ


カルヴァンをたよりジュネーブに赴きますが

カルヴァンに捕らえられ

プロテスタント裁判にかけられて火刑に処されています







ヴェーバーのプロ倫とは?



ドイツの経済学者 マックス・ヴェーバー(1864~1920)は

著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(プロ倫)

において


カルヴァンの予定論と、資本主義を結びつけています



≪プロテスタンティズムの倫理が

資本主義の精神を生み出した≫という話です





旧約聖書によると


【 イブは、サタンであるへびに誘惑され

神に決して食べてはいけないと命じられていた

知恵の木の実をもいで

最初の男であるアダムとともに口にする


最初に食べたのはイブで

アダムもイブのすすめで食べ

二人は裸であることへの羞恥心に目覚める


神に逆らったことにより

二人は天上の楽園であるエデンを追放される



このとき神は、イブに「お前は苦しんで子を産む」

「男を求め、男はお前を支配する」と告げ


アダムには「お前は生涯、食べ物を得るために苦しむ」

(=労働の義務) と告げる 】 とあります




また、神は人間に「死」を与えています


旧約聖書では、エデン追放以前

アダムとイブが不死であったとは記されていませんが


新約聖書には、このとき人類に

「原罪」〔 アダムとイブが神に背いたことにより

その子孫である全ての人間が生まれながらにしてもつ罪 〕と

「死」が入ったと記されています





アダムに労働の義務が与えられている

ことからすると、そもそも


1、労働は、神が定めた職業=天職


1、天職を全うすることで、神に召される

(神の世界である天国に招かれる)=召命


1、労働は、地上に神の栄光を示すためのものである


という理解が生じても不思議ではありません





ところが、カトリックは

ローマ法王を頂点するピラミッドを形成し

底辺に教会の神父を置きました


そして一般の信徒は、さらに下におかれ

教会を通してでなければ、神の救いは受けられないとしたのです



つまり、ローマ法王、教会の神父は

一般信徒よりも、神に近い存在なわけです



これに反発したのが

ルターやカルヴァンといったプロテスタントの改革者です



プロテスタント三原則の「万人祭司主義」は

教会のみちびきなどいらない

万人が直接「神」とつながった祭司であり

信仰によって、直接、神より救いを与えられる ということです





ちなみに、プロテスタント三原則とは

前述の「信仰義認」(信仰によってのみ神の救済を受けられる)

この「万人祭司」、それと「聖書中心」です



宗教者にとっては、神の言葉がなにより大事なので

当然、プロテスタント3原則の中で最も重要といえるのが

聖書中心主義です



これは簡単にいうと

聖書に書かれていないことは認めないということです


例えば「マリアに原罪はないとして(マリアの無原罪)

マリアが単にイエスの母ではなく、神の母とする」(マリアの神聖化)

考えや


「信徒は、教会を通じてしか神の救いを受けられない」

といった教義は

ローマカトリックのねつ造であるとして認めていません



また、こうしたことから

「新教」と呼ばれていることに対し、嫌悪、反発しています


カトリックこそ、聖書にない新たな教義をつくった「新教」である

というわけです




聖書中心主義は、「福音(ふくいん)主義」ともいいます


福音とは、イエスの言行のことなのですが

聖書(新約聖書)とは、それを記したものであるからです



キリストの福音(言行)にのみ、救済の根拠があるわけですから

「律法主義」〔 旧約聖書のモーセの十戒の厳守を

信仰の根本とする立場。ユダヤ教の立場〕を否定しています





「万人祭司主義」に話を戻します


プロテスタントには、法王のような

全体を統一する権威がなく、諸教会に分かれています


但し、カトリックの神父(司祭)にあたる「牧師」はいます



とはいえ「万人祭司」なのですから

牧師は、なにも特別な存在ではない 神に近い存在ではない

単なる職業の1つにすぎない ということになります



ならば、牧師という職業だけでなく

全ての職業が平等に

「神の威光を示す所業」ということになり


ここに、全ての職業が「天職」であり

それを全うすることで「召命」される という観念が、明確化してきます



そして、ルターのドイツ語訳聖書においては

「職業」は「天職」と訳されることになったのです



これにより、もともと清貧を美徳としてきた

キリスト教世界に大きな変化をもたらしていくのです






ヴェーバーの「プロ倫」とは


カルヴァンの二重予定論 (生まれたときにすでに救われる者と

そうでない者が決定されているという運命論) ⇒


自分は救いを受けられる存在なのか不安を抱 く ⇒


救いの確信がほしい ⇒


労働により神の威光を示すことで

救いの確信を得ようと努力する ⇒


「財産を得ることは悪」とする

慣習が打ち破られる ⇒


もともと清貧を旨とするキリスト教徒ゆえ

利益は遊びに使われることなく、事業に投資される ⇒


資本主義の発展に欠かすことのできない

投資を可能にした ⇒


カルヴァン主義の国であるイギリスやフランスは

ルター主義のドイツより経済が発展した


という話なのです





つまり、禁欲的労働と、世俗に対する禁欲が

信徒の生活全般を、合理化し

この合理性が、資本主義における精神的な基礎となった

という話であり


「プロテスタンティズム」(カルヴァン派の教義) →

「天職倫理」 → 「禁欲的労働」 → 「資本主義の精神」

という構図なわけです




「利潤の追求」と、「禁欲」という相反する概念を用いて

≪禁欲の精神こそが、資本主義を発展させた≫

と、逆説めいて語るところが、おもしろく


世界の学生から熱狂的に読まれたのです






ヴェーバーは

資本主義には2つの不合理があるといいます


1、楽して、たくさんの賃金を得たい

2、手にした賃金を、享楽に使いたい



そして、この2つの不合理を克服させたのが

カルヴァンの予定論であるといいます



具体的には


1に対する克服は、賃金を得るというのでなく

労働そのものが目的であるという意識 ⇒ 天職と勤労



2のに対する克服は、人間は、神の恩恵によって

与えられた財貨の管理者にすぎず

それを、神の栄光のためでなく


自分の享楽のために使うなどもってのほか

神の救いに反する行為である という思考 ⇒ 禁欲と倹約


とうことです





また、ヴェーバーによると


【 本来、禁欲的な労働

合理的な仕事 というのは


豊かな生活を求めるためではなく

神の意志を、地上に実現するためのものにあった


ところがしだいに

宗教的な意義が失われていく



やがて単に、利潤の追求における

合理的(効率的)なシステムにおいて

人々は、禁欲的な労働を強いられるに至った


これが、現在の資本主義である 】


ということのようです







天職倫理は口実



プロ倫によると

≪カルヴァン派信徒の思考が資本主義発展の原動力になった≫

ということですが


歴史的事実の真偽が定かでない

として批判的な立場をとる人も多いようです



また、ヴェーバーは

自分の都合のよい事実だけを根拠に論理を展開しているとか

事実を誇張して論理を組み立てたといった主張もあります




これに関しては

私は経済学者でも、歴史学者でもないので判りません




なので以下

≪カルヴァン派信徒の思考が資本主義発展の原動力になった≫

という ヴェーバーの話を

とりあえず「真」として、その内容を吟味していきます




吟味していく前に

理解しておかなければならないことがあります


それは「禁欲的な労働」という言葉のマジックに

だまされないようにしなければならないということです


そもそも労働の本質が、禁欲的なものです


経営者の労働は禁欲的でなく

従業員の労働は、隷属的に働かされるから

禁欲的な労働であるなんてことはありません



隷属的に働かされるから → 禁欲的な労働

ここに嘘があるということです




それと、ヴェーバーのプロ倫では


世俗的なコトに対する禁欲と

禁欲的労働を、同列視していますが



世俗的なコトに対する禁欲には

「キリスト教徒」という自分の根拠からくる

自己保存(神の救済を得る)があります



これに対し、我々が禁欲的に働くのは

ご飯を食べていくためとか

もっといい生活がしたいがためとか

人の上に立ちたいがためとかいった


生物として、また人間として

普遍的な欲求からくる自己保存です



つまり、禁欲的に働くことと

キリスト教とは、直接的には関係がないと言えます


これに関しては、キリスト教など信じていない

我々日本人が、禁欲的によく働くことがなによりの証拠です






それでは、プロ倫を吟味していきましょう


カルヴァン派の教義において

≪楽して、たくさんの賃金を得たい≫

という不合理が克服されて


≪賃金を得るというのでなく

労働そのものが目的であるという意識 ⇒ 天職と勤労≫

となった

なんて話は、真っ赤な嘘です



なぜなら、そもそもカトリックにおいて

≪楽して、たくさんの賃金を得たい≫

という不合理は、解決していたからです



それは、カルヴァン自身が示しています



カルヴァンの思想は

【 神の支配を強調するところにあり

彼の改革は、聖書の立場を市政や風俗にまで適応するもので

カトリック的儀式ばかりでなく


酒場、踊り、ゲーム、性道徳といったものまで取り締まり

違反者を極刑にさえするという一種の神権政治であった 】


ことからすると


カルヴァンという人は

カトリック信徒の生活において理想とされていた

「清貧」「禁欲」を推し進めたというか、復興させたにすぎません



すなわち、神より救済をうける原因は

あくまで、清貧や禁欲であるという考え方にあったことが分かります





ヴェーバーのプロ倫というのは


カルヴァン派の教義において

労働の対価=神の救い になったという話ではありません


お金をいっぱい稼ぐこと、財産をたくさん増やすこと

=神の栄光なり威光なりを示すこと → 神の救い

という話なのです




彼の「カルヴァン派の教義」 →

「天職倫理 」→ 「禁欲的労働」 → 「資本主義の精神」

という構図は、デタラメでしょう




そうではなく


① もともと≪労働=神の恵みを得ること≫

というカトリックというかキリスト教の教えがあった



②  ①に、ルターの聖書なんかにみられる

プロテスタンティズムの「天職倫理」が結びついき

労働=天職 となった



そして

≪カルヴァン派信徒の思考が資本主義発展の原動力になった≫

という ウェーバーの話が「真」であるとしたなら



③  ②が、カルヴァンの二重予定論によって

≪人間の本来的な欲求である

いっぱいお金を得たい

富を増やしたいいうと欲求≫と結びつくことで


お金をいっぱい稼ぐこと、財産をたくさん増やすこと

= 神の栄光なり威光なりを示すこと ➝ 神の救い

という「資本主義の基礎になった精神」が確立した

ということになるはずです




つまり、「プロテスタンティズム」(カルヴァン派の教義) →

「天職倫理」 → 「禁欲的労働」 → 「資本主義の精神」

という構図ではなく



「キリスト教の教え」(カトリックの教義) → 「勤労」 →

「天職倫理」(プロテスタントの教義)

→ 「カルヴァンの二重定説」 → 「資本主義の精神」

というのが正しいでしょう



もちろん、仮に

≪カルヴァン派信徒の思考が資本主義発展の原動力になった≫

というウェーバーの話が「真」であるとしたならです






なお、いっぱいお金を得たい 富を増やしたいという欲求が

なぜ、人間の本来的な欲求であるのか?

については、ホッブスの≪際限のない欲望≫で明らかです



がまんしていたことが実現したときに

≪幸せ≫という感情が生まれるのだから

それが≪幸福≫なんだという定義もできます


そうすると、お腹減っているときにラーメンを食べれば幸福になれるし

う○こがまんしていて、排泄すれば幸福になれるわけです(笑)


そこに、神や仏はいらないし

南無妙法蓮華経もいらないですよね




社会契約論を最初に唱えた

イギリスの哲学者 ホッブス(1588~1679)は

≪ 動物は、理性を持たないため自己保存の予見ができない

このため生命の危険を感じたときだけ自己保存を考える

これに対して人間は、理性によって未来の自己保存を予見して

つねに他者より優位に立とうと行動する

それゆえ「際限のない欲望」が生まれる ≫ と考えました



人間というのは、ホッブスのいうように、未来を予見します

将来の不安を考えます



だから、≪幸福≫を論じるとき

「今」だけでなく、時間軸も考慮する必要があります



そして、人は、≪将来≫とか≪子孫≫という視点から

「子供のために何か残そう」

「子孫の代まで財産を残そう」ということになる

そうなると答えは決まってきますよね


ためるしかない!!


ためるしかないに行き着く

でも、これも至極当然な考えです




また、がまんしていたことが実現したときが

「幸福」というのなら

そこに神仏は必ずしもいらないし

また「今」だけの幸福なら神仏はなくてもかまいません



ところが「死後」とか「永遠」とかいう時間軸を設けると

これはもう神仏の世界になっちゃうわけです






話を戻しましょう


ウェーバーは

≪カルヴァン派信徒の思考が資本主義発展の原動力になった≫

という話を根拠に


以下の結論を導き出しています



【 本来、禁欲的な労働

合理的な仕事 というのは


豊かな生活を求めるためではなく

神の意志を、地上に実現するためのものにあった


ところがしだいに

宗教的な意義が失われていく



やがて単に、利潤の追求における

合理的(効率的)なシステムにおいて

人々は、禁欲的な労働を強いられるに至った


これが、現在の資本主義である 】




しかし、そもそも

≪カルヴァン派信徒の思考が資本主義発展の原動力になった≫

という話は正しいのでしょうか?



労働によって蓄財することが

≪神の威光を地上に具現化すること≫なんていう話は

自己保存を実現するための「たてまえ」「口実」ですよ



なぜなら、蓄財より清貧のほうが、誰が考えたって

神のご意志を、体現した生活だからです(笑)



しかも仕事で成功し、富を得て、いい思いできる

つまり、神のご威光にあやかれるのは、一部の人間だけです(笑)




ウェーバーの示した

プロ倫の構図というのは



ブラックな会社の社長が

【自分の欲】を

≪人間としての成長≫とか

≪従業員のため≫とかいう話にすり替えて



従業員に

「仕事は自分が成長するためにある」

なんて話(=たてまえ)を信じ込ませたり


「みんなを店長にして

いい思いをさせてあげたい

そのために私はがんばっている」

なんて話(=口実)を語って


時給500円にも満たない賃金で

劣悪な環境のもと

長時間、重労働させる


といった構図と全く一緒ですよ(笑)




例えば、ある人が

ラーメン屋を開業し成功を収めたとします

そこで従業員を増やしました


するとそれまで、スープ作ったり

麺をゆでたりなんかしていた経営者は

その仕事を、新たに増やした従業員にまかせることができる



そうなるとこの経営者は、仕事がなくなり「暇」になる



そこで「暇つぶし」として新しい仕事を見つけなければならない

結局、経営者のすることといえば、店舗の拡大しかない


なので、自分の「暇つぶし」を

「会社を大きくするのはみんなの幸せのため」とかいう話にすりかえ

かえって従業員を苦しめたりする


ほとんどの経営者というのは、そんなものです(笑)




≪神の意志を地上に実現するための労働≫

なんていう思考は

資本家階級の「たてまえ」「口実」にしかなり得ません



労働者階級の信徒にとっての

労働の「たてまえ」「口実」は

やはり、≪労働=神の恵みを得る≫

ということでしかないはずです






そもそも、プロテスタントというのは

キリスト教の復興運動です



旧約聖書の創世記に、バベルの塔の話があります



ノアの洪水後、ノアの子孫である人間は

名声を高めるため

レンガを用いて町をつくり

さらに天に達するほどの高い塔を建てようとした


神は、これを人間の自己神化であり、驕りであるとして怒り


それまで1つであった言葉を、混乱させ

〔バウル。ここからバベルの塔の名がきている〕

互いに通じないようにし、工事を失敗に終わらせた


神はそこから人々を、全ての地域に散らせた

このためそれぞれの民族が、違う言葉を使うようになった


という神話です




資本を投資して、社会を発展させることが

≪神の意志≫とか≪神の威光≫とかいったものとは

真逆であることが、ちゃんと聖書にありますよ


しかも「創世記」という聖書の中でも根幹部にです(笑)






【 カリスマ的支配・・・・

ウェーバーの示した「支配の三類型」も有名です


支配には、「合法的支配」 「伝統的支配」

「カリスマ的支配」の3つがあるという話です



カリスマは、本来はギリシア語で、神の賜物(たまもの)

神より与えられた能力の意味とされます



キリスト教では、奇跡や予言などを行う

神から与えられた力をさしたといいます




のちに、大衆を指導し心服させる人物や、その資質や能力

をいう言葉となったわけです




“カリスマと人気者の違いは

権威の基盤をもつかもたないかである”と言った人もいます



ウェーバーは、

≪カリスマとは、ある人物が手にした超自然的または超人間的

または特殊で日常的に誰もが持ち得ない力や特質≫で

≪それゆえ、神から使わされた者、または指導者として選ばれる≫


≪この場合、その天性の力や性質(つまりカリスマ)が

倫理的または他の観点からみて

客観的に正しく評価されているかいなかはどうでも良い


その資質が人々(帰依者)によって

事実上どのように評価されているか

ということだけが問題なのである≫と語っています



そしてカリスマ的人物と、その帰依者との結びつきを

「カリスマ的支配」と呼び、支配類型の1つと考えたということです 】







創価学会とカルヴァン派



それと、現世における幸福が、来世における幸福を確約する

という考え方は、日蓮仏法、創価学会にもあります



日蓮は「この娑婆世界の変革をほうっておいて

死後の極楽往生を願うばかりの念仏宗を信仰すると地獄に落ちるぞ!

念仏無間地獄!!」と、浄土宗を批判しました



それゆえ創価学会をはじめとする日蓮系は、布教に熱心であり

社会改革(政治)に積極的なわけです



すなわち、現実の世界であるこの娑婆世界を

浄土(仏国土)にしていこうという考えに立っているのです




また、現世で幸福になれなくて

なぜ来世で幸福になれるのか!!

という日蓮の考えから


創価学会では、「化他行」〔けたぎょう・

他者を教化していく行。自行に対していう〕である


「折伏」〔しゃくぶく・法を説いて入信を勧めること。布教活動〕と

「宿命転換」とが結び付けられているのです





大乗仏教の基本は

菩薩(大乗仏教の修行者・仏を目指し利他を修行する者)が

衆生を救済する誓い(誓願)を立て

利他を修行して、仏を目指すというものです



ところが、浄土教典

〔無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経を浄土三部経という〕

をよりどころとする念仏宗では

≪衆生救済≫が

阿弥陀如来の本願にすり替わってしまっているのです



つまり≪衆生救済≫が、菩薩の誓い(誓願)から

阿弥陀仏の願い(本願)にすり替わってしまっているのです



これは「神の救済を求める」という一神教の性格が

仏教に入り込んだとものされています


本来、自力であった仏教が

他力にすり替わってしまったということです




こうしたことから、浄土教は

西方メシア思想の影響のもとに成立したのではないか

という指摘もあります




キリスト教や念仏宗のような

神や仏(如来)に、救済を願う宗教は

死後、天国なり浄土なりに生まれて

永遠の幸福を得るというのが、主題です



こうした宗教の教義から

自己変革(宿命転換)や社会変革の

思想が生まれてくるはずもなく


カルヴァン派の教義から

資本主義の精神が生まれたという

ウェーバーの話はおそらくデタラメでしょう



逆に、もともとあった

資本主義の精神たる自己保存に


カルヴァン派信徒が

「天職倫理」とか

「労働によって蓄財することが

≪神の威光を地上に具現化すること≫」なんていう

口実をマッチさせていった

というほうが、真実味があるというものです







資本主義の精神



「資本主義」のような資源を奪い合い

獲得することによって


個人の幸福を実現させることは

「正しい」とされる社会の論理の源流は、どこにあるのでしょうか?





社会契約論を唱えた

イギリスの哲学者 ホッブス(1588~1679)は


≪ 人間は、自然状態にあっては

自己保存のために積極的に暴力を用いてもよいといった

「自然権」〔自然状態にあって人間が持つ権利、人権〕

を生まれながらに持つ


ゆえに自然権の行使は、敵対者に、先制攻撃を加えることで

殺害するか服従させるかの選択となる



人々は、自己保存の本能から、他人の暴力による死を嫌い

それ回避するために、自然権を主権者(代理人)に委ねる契約をする


自然権を委ねるとは、自己保存の放棄でも

その手段としての暴力の放棄でもなく、理性を委ねることである


この契約によって成立した社会が国家である ≫


と述べています




このホップスの社会契約論を突き詰めると

社会のルールを守るなら、資源を奪い合い、獲得し

幸福になることは、人として正しいというより

あたりまえの権利であるということになります



こうした権利というか思考に


カルヴァン派信徒は

「天職倫理」とか

「労働によって蓄財することが

≪神の威光を地上に具現化すること≫」なんていう

口実、たてまえをのっけた

にすぎないということです







ニーチェとヴェーバーの嘘



ニーチェ(1844~1900・ドイツの哲学者)は

現実を否定し死後の幸福を求めるキリスト教と

ソクラテス以来の理性主義を

生きる力を持たない者たちが作り上げた

「弱者の奴隷道徳」と批判し


さらに、奴隷道徳の人は「復讐しない無力を善意や赦しに

臆病を謙虚や寛容に、屈従を従順に、すりかえている」と述べ


≪陶酔的、激情的、衝動的、創造的に生きよ≫と叫びました



このニーチェの話もデタラメです




ニーチェの主張の要点まとめるとは


【 ギ 人間は、本来、ギリシア悲劇のように

夢想的・静観的・知性的なもの(アポロン型の芸術)と

陶酔的・激情的・衝動的なもの(ディオニソス型の芸術)

とが見事、調和していた



ところが、ソクラテス以来、理性主義がはびこって

人間が卑小化されてしまった



人間の本質は、ディオニソス的なもの、つまり豊かな生命力と創造力である



ディオニソス的なものを圧殺したのが

理性主義と、現実を否定して天国での幸福を説くキリスト教である



これらは、生きる力を持たない者たちが創り上げた

偽りの価値、「弱者の奴隷道徳」で

これが2千年もの間、ヨーロッパを支配した



新たな価値は、ディオニソス的創造性

生きる「力の意志」によって与えられる



現実を否定するキリスト教

またその神のような超越的な存在によっては与えられない

「神は死んだ」のである 】


といったとこです





ニーチェという人は

人間は「信念」(これだけは譲れないもの)に対しては

「理性」は働かない

ということを理解していなかったのです




≪理性≫は、自己保存の欲求=本能と対立し

「倫理観」や「道徳観」を生じさせ、これを維持しようとする


これが、ごく一般的に考えられている

「理性と本能についての対立の構図」です




では、受験勉強を例として考えてみてください


「自分はなんとしても○○大学に合格するぞ」

という信念にもとづき

自己保存の欲が働いてがんばれるわけですが


このとき理性は

「寝ちゃいけない」「テレビなんかみちゃいけない」と

自己保存を助けていますよね




この事実は

「これだけは譲れない」という信念に従って働いている

「自己保存」に対しては、「理性」は働かないということです


むしろこのとき自己保存を助けるのです




禁欲的生活、理性的な生活を送るキリスト信者が

教義(これだけは譲れないもの)にもとづき


非理性的に、無実の人を処刑していった

「魔女狩り」なんて

それを如実に物語っているのです



だから宗教の信徒は「死」さえ惜しまず

非理性的な自爆テロなんてできるのです


その意味で一般人よりはるかに情熱的です




宗教の本質は、ニーチェがいうように「理性」なんかでなくて

言葉のバーチャルな世界に、人間をひきずり込むことです






そして、我々が

禁欲的に労働に励むのも


ヴェーバーのデタラメな話ではなく


社会的に優位な立場に立ちたいとか

家族にいい生活をさせたいとか

いった自己保存の欲求を


理性が助けるという

もともとの人間のしくみからであると言えるのです



簡単に言うと

「自分はなんとしても○○大学に合格するぞ」

という信念に


カルヴァン派の教義なんて関係ないでしょ

という話なのです





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