緋山酔恭の「B級哲学仙境録」 カミュの不条理について



B級哲学仙境論


カミュの不条理






カミュの
不条理について





フランスの小説家、劇作家、哲学者 アルベール・カミュ

〔1913~60・フランス領アルジェリア出身

46歳の若さでノーベル文学賞受賞。交通事故により急死〕は

「反抗」から起こったあらゆる革命が


恐怖政治と全体主義へと変貌していくことを説き

共産主義者のサルトルと論争しています



結果は、文学者のカミュは

文学者だけでなく哲学者でもあった豊富な知識を持つ

サルトルの敵ではなかったといいます




彼は、キルケゴールとともに

不条理主義者としても知られています



哲学でいう「不条理」とは

世界に意味を見出そうとする人間と

世界が意味を持たないこととの

不調和によって生じるとされます



その「不条理」に

どのように対処するかを説く立場が不条理主義です



人は「生きるということに何か意味があるのか」

と生きる意味を求めます


この答えは2つに分かれます


「人生に意味とか、人間に使命なんてない」

という現実的な結論と


神のような超越者の存在を仮定し

「人生には意味がある。人間には使命がある」

という結論です



しかし後者を選択すると

「神の意志は何か?」ということになる



そこで後者を排除し

「世界や人生は意味を持たない。生きるに値しない」


「世界に意味を見いだそうとする

人間の努力は失敗せざるを得ない」


という前提のもとに論理を展開していくのが

不条理主義だといいます




キルケゴールの場合


神を排除して

「世界に意味を見いだそうとする

人間の努力は失敗せざるを得ない」→

傲慢ゆえの絶望 → 神を求めなさい といった話です





カミュの代表作

「異邦人」〔裁判で殺人の動機を問われ

「太陽が眩しかったから」と答え、死刑判決を受けるも

関心を示さず、上訴もせずに、留置場内では

死刑の瞬間、人々から罵声を浴びせられることを

希望に生きた主人公を描く〕は


「不条理」をテーマにしたもので

ノーベル文学賞の受賞は

この作品によるところが大きいと言われています




カミュは「不条理」を

理想と現実の間に生じる対立、葛藤、分裂であるとし


特に、人生に意味を求めるときに生じ

理性をもつ人間が直面する問題としたそうです



彼によると、不条理に気づき、悟った個人には

①自殺、②宗教などへの盲信

③不条理を受け入れて生きる という

3つの選択が用意されているといいます



このうち自殺は、最も単純な不条理の解決法で

「人生は生きるに値しない」「もう十分に生きた」というものだといいます



理性を捨てて、宗教など不条理を超えたものを信じること

=「盲信」は、「哲学的自殺」だとしています




それゆえ、生き続ける唯一の方法は

3つ目の不条理を受け入れることだといいます



キルケゴールのような

≪現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと

「死」によってもたらされる「絶望」は回避できない≫

と、不条理を受け入れ


≪それゆえ「神」(キリスト)による救済のみが信じられる ≫

として生きる方法は


≪「悪魔に取り付かれた狂気」≫

≪自殺を引き起こす可能性がある≫と批判しています




カミュの思想は

≪ 不条理に気づくことができれば

この世界が意味を持たないことに気づく


世界が意味を持たないということは

我々は真に自由であり

世界を主観的に生きることができる


人が、不条理が受け入れることができるのは

人生の意味が不条理を超えたところにあるからである ≫

といったところのようです




それから、カミュは

不条理を明確な意識のもとで

見つめ続ける態度を「反抗」と呼び

反抗こそが生を価値あるものにする

と主張したそうです



≪「反抗」とは、奴隷が突然主人に「否」を突きつける態度で

「これ以上は許すことができない」という境界線が存在し

人は、その外側のものを「否」として退け

内にあるものを「諾」として受け入れる

このため「反抗」とは、自分の中にある価値に対する意識である ≫






人が、不条理が受け入れることができるのは

人生の意味が不条理を超えたところにあるからである


これは素敵な言葉ですね



サルトルなんかよりも、全然、深いし、面白いです




ただ確かに カミュの言うとおり

世界は世界にとって何の意味も持たないかもしれません


だけど人間にとっては意味を持つと言えると思います


だから、思いがけない不幸が自分に降りかかると

世界に不条理を感じり、神や運命を呪うのです



また、人間関係でいうと

自己中心的で、周りが見えていないときに

自分の心に、生まれる不条理もあるんじゃないですか?




また「神」なんて原理を持ち出さなくても

こうもいえますよ



時間レベルというか宇宙レベルで考えると

全てが循環しているわけですから


あらゆる存在は

差別も不条理のない

完全に平均化された平等な存在ということです



つまり、宗教の世界ばかりでなく

科学の世界においても不条理を超えているということです






それから、「詩人」のような哲学者というのは

たいがい本職であるべき、哲学には魅力がないものです


ニーチェなんかがその代表です



ニーチェの哲学を簡単に言い切ると

人間を理性的な存在とだけ考える

理性偏重主義に対して


人間には、非理性的な部分もあり

ともにあって、人間として完成する

ということを主張した というだけです




ニーチェの言葉に

≪ 世界には、君以外には誰も歩むことのできない 唯一の道がある

その道は何処へ行くかは 問うてはならない、ひたすらすすめ! ≫


というのがありますが


こういう言葉というか話を聞くと

創価学会の池田名誉会長の言葉を思い起こします(笑)



ニーチェというのは「哲学者」というより

「宗教家」や「詩人」としての素質があったのではないかと思います



私のなかでは、哲学者としての評価は低いです





カミュなんかはそもそもが、小説家、劇作家の方が本職であって

それ兼 哲学者といったところなので


言葉のマジックはお手の物だったことでしょう



「自由とは、より良くなるための機会のことだ」


「やましい心には罪の告白が必要である。芸術作品とは告白なのだ」


「生きることへの絶望なしに、生きることへの愛はない」


などといった言葉を残しています




たいした内容でなくとも

詩的で、哲学性をもたせた言葉であれば

人は、その言葉に、「深い真理」があるのではないか?

と錯覚してしまいます



詩的で美しい言葉

あるいは、宗教家が使うような

ロックな言葉(心をゆさぶる熱い言葉)というのは


理性よりも、感情や欲求に訴えかけくるので

理性的な思考が麻痺されてしまうのです



なので、言葉はマジックになるのです





でも、こうした言葉に、答えや真理を求めても

答えなんかない  答えなんか分かるはずがない


そんなことから

→ 哲学には答えがない

と信じられるようになったのかもしれません





とはいえ、カミュは

ニーチェや、他の詩人兼哲学者のような人物 とは違って

深い哲学性がみられる言葉も残しています



とくに、≪「反抗」とは、奴隷が突然主人に「否」を突きつける態度で

「これ以上は許すことができない」という境界線が存在し

人は、その外側のものを「否」として退け

内にあるものを「諾」として受け入れる

このため「反抗」とは、自分の中にある価値に対する意識である≫

という「価値」についての理解と



≪人が、不条理が受け入れることができるのは

人生の意味が不条理を超えたところにあるからである≫

という「人生の意味」についての理解は


特筆すべきものではないかと思います





なお、≪不条理に気づくことができれば

この世界が意味を持たないことに気づく

世界が意味を持たないということは

我々は真に自由であり、世界を主観的に生きることができる≫

と、彼は言っていますが


不条理を受け入れて、世界を主観的に生きるとは

自分の「救済原理」〔自分を成り立たたせている根源的な論理〕

「自分の根拠」を創造し、その原理もとに生きる

ということ以外にありません



救済原理にすがってさえいれば

いい意味でも悪い意味でも「次こそは何かある」

「まだ何かある」と空虚な人生を埋めることができるのです


救済原理というのは麻酔、麻薬であって

宗教ばかりでなく全てが


カミュ的に言えば

≪悪魔に取り付かれた狂気≫です(笑)




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