緋山「B級哲学仙境録」 キリスト教のアガペー、孔孟の「仁」、仏教の慈悲



B級哲学仙境論


神とはなにか?編


 



宗教と「愛」




キリストの贖罪の愛と

仏教の放生



キリスト教には、イエスが全人類の罪をあがなって

十字架の刑で死んでいったという

≪贖罪(しょくざい)の愛≫ という考えがあります



イエスが、救世主(メシア)として、全人類の罪を背負い

自ら十字架の刑に身を捧げたというもので


この教義こそ、キリスト教の根幹中の根幹で


この教義を根拠とし

キリスト教はユダヤ教のような民族宗教を超えて

世界宗教へと成長、発展していったわけです




ちなみに、世界宗教となった外的要因としては

当初、キリスト教はローマ帝国の弾圧を受けますが

それでも教勢を拡げてゆきました


そこでローマ帝国は、帝国の立て直しに利用しようと考え

キリスト教を公認、さらに国教としたのです


これにより帝国各地に普及したことが

世界宗教へのきっかけとなったとされています





「贖罪」とはどこからきてるのか?


古代のユダヤ人は「贖罪(しょくざい)の日」という祭日に

牛、山羊、羊に人間の罪を背負わせて犠牲にする

贖罪の儀式を行っていたといいます



ユダヤ教の≪贖罪≫とは

動物に人間の罪をあがなわせること

人間の罪を背負わせて犠牲として神にささげることです



贖罪とはそもそも、人間は神と交わるとき

全ての罪を清めていなければならない

という考えから生まれたとされていて


一種の生けにえ信仰てす




これがキリスト教では、イエスの弟子たちにより

イエスが、人類の罪を背負って

十字架の形で、人類の罪をあがなった

≪贖罪の羊≫(スケープゴート) と位置づけられたのです



ちなみに、イエス自身はあくまでユダヤ教徒であり

キリスト教とは復活したイエスに出会ったと主張する

弟子たちによって創始された宗教です



エルサレム近郊のゴルゴタの丘で

十字架にかけられたイエスは

最後に「わが神、わが神、どうして私を見捨てるのか

(エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ)」と叫んだとされています





釈迦は当時、バラモン教で盛んに行われていた

生けにえの祭儀に対して

「山羊や羊や牛を殺して、人は清浄にならない」

と述べています



小乗仏教では、畜生(動物)を殺すことは、罪にあたります



また、大乗仏教には「放生」(ほうじょう)という思想があります


「放生」とは、捕獲した鳥や魚を野や池や沼に放つことです


放生の根拠となったのが

金光明経(こんこうみょうきょう)の長者子流水品の話や


梵網経などにみられる

「生類は前世に父や母であったかも知れない」

といった言葉だとされます




金光明経の長者子流水品には


釈迦が、前世に、流水長者(るすいちょうじゃ)であったとき

水が枯れて死にかけていた大きな池にすむ無数の魚を

象20頭に水を運ばせて助け、説法をして放した


魚たちは死後、忉利天(とうりてん)に「十千の天子」として転生し

長者の恩にむくいるため「天妙蓮華」などの財宝をふらせ

それが膝の深さにまで積みかさなった


という話がみられ

この長者子流水品は「放生会」(ほうじょうえ)という

仏教行事で読誦、講義されています



また、梵網経には

「あなたたち仏弟子は

慈悲の心をもつゆえ、放生という行為をしなさい」


また「六道の衆生は、みんな自分の父母である

だから生類を殺して食べることは

父母を殺害し、我が身をも殺すことである」とあります



禅宗のよりどころの

楞伽経(りょうがきょう)にも


「すべての有情(うじょう・生命)は

宇宙はじまって以来、輪廻してやまない


かつて自分の父母や兄弟や家族や友人や使用人であった者が

生まれ変わって鳥や獣になったりしている

どうしてこれを捕獲して食べることができようか」とあります





天台大師 智顗(ちぎ・538~598。中国天台宗の祖)が

漁民のとった魚が多いことに憐れみを感じ

放生池をつくって放したことはよく知られています



日本では587年以来

各天皇が放生会(ほうじょうえ)を行ってきたとあります



後世、寺社の境内に放生池をつくることも多く行われ

放生田で収穫した米で買い取った魚を放すこともあったようです




放生会は、捕らえておいた鳥や魚や獣を野や川や池に放ち

殺生を戒め、海の幸や山の幸に感謝する仏事や神事です


興福寺(奈良県。法相宗大本山)

放生寺(東京都新宿区。高野山真言宗の別格本山)


宇佐八幡宮(大分県宇佐市。八幡宮総本宮)

石清水八幡宮(京都府。三大八幡宮)


筥崎宮(はこざきぐう・福岡県。三大八幡宮)

のものが有名のようです



宇佐八幡宮のものは

20年に放生を行うよう八幡神より神託があったことに

はじまるといいます







キリスト教のアガペー



古代ギリシアの哲学者 プラトンは

肉欲からはじまる段階的な「愛」(エロス)を説き


最高にして純粋の「愛」は

「美」のイデアについてのあこがれであると唱えたそうです



また、プラトン哲学による「愛」(エロス)とは

善や美へのイデアへと向かう魂の志向性といいます


より高いものを求める情熱であるといいます



真理を求める哲学的衝動も

このようなエロス的な愛にもとづくとされます


なので、エロスは、真・善・美に到達しようとする

哲学的衝動であった言えます



ところが「エロス」は

のちに男女間の性愛を意味するようになり

自己愛的なものとなっていったといいます





これに対し、古代ギリシア語の「アガペー」が

他者への愛として、キリスト教へと取り込まれ


このアガペーを基盤として

キリスト教の「愛」が組み立てられていったとされます



古代のギリシア語には「愛」を表現する言葉として

エロース(性愛)、フィリア(隣人愛)

アガペー(自己犠牲的な愛) 、ストルゲー(家族愛)があり


新約聖書の福音書の記録者たちは

神の無限の愛、人間に対し普遍的に提供される愛

を表現するにあたり「アガペー」を選んだとされます




キリスト教のアガペーは


≪人間は、神が人間を愛するように、神を愛するべきであり

同時に、神が全ての人間を愛するように

人間は全ての他者を愛するべきである=「隣人愛」≫


≪「隣人愛」とは同類への愛であり、この隣人愛の広がりが

「博愛」という人類愛、平等愛になる≫

ということです


ゆえに、キリスト教では、アガペーとは

神の愛を意味しますが


人間の隣人愛も、アガペーであるということです








現在のローマ法王 フランシスコは

同性愛者の男性に


「それは問題ではない

神はあなたをこのようにつくり

このままのあなたを愛している」


「あなたも自分自身を愛しなさい

人々の言うことを心配してはいけない」

と話したといいますが


これもアガペーを根拠とする言葉です







福音と愛



でそもそも≪神がなす人間への愛≫ってなに?

救済のこと?



旧約聖書や新約聖書の「約」とは

神と人間との「契約」を意味しています



キリスト教においては、モーゼが神と交わした契約である

「律法」(神から与えられた掟。十戒)を古い契約


イエスの「贖罪」による契約を新しい契約  とします



そして、律法を守れなくても、イエスの贖罪により

「福音」(ふくいん)を信じることで救いが与えられる

としているとされています



ちなみに、福音とは、本来 「よい知らせ」の意味で


イエスの説いた人類の救済と神の国に関するよろこばしい知らせ


メシアが人類に救いの道を開き

サタンの支配が破られ神の支配が始まるという知らせ


を意味し


イエスの生涯や言行をも福音といい

それを弟子が記録したものを福音書といいます



福音は、さらにいうと、新約聖書のことです




ユダヤ教の唯一神 ヤーウェは、律法(掟)を守る者は守護し

恩恵を与えますが、律法を守らない者に対しては、容赦なく罰を与えます



これに対しキリスト教では

神の愛に「赦し」という性格をもたせたわけです




聖書には「汝(なんじ)の敵を愛せよ」とか

「ひともし汝の右の頬をうたば左の頬をもむけよ」とか

いった有名な言葉があり


信者がよく

「敵を憎むのではありません。哀れむのです」

とか言うのは、このためです




当時、ユダヤ教では、律法を学ばない者は「田舎者」(地の民)

律法を学ぶことさえ許されない者を「罪人」(つみびと)と呼び


さらにハンセン病患者や不治の病にある者を

「悪魔に支配された者」として差別していたそうです


これに対してイエスは

神より見捨てられたとされる取税人や罪人とともに食事をし

彼らに神の救いを約束したり

怪我をした異教徒のサマリア人を介抱したとされます



さらにイエスは、ユダヤ教の指導者たちに対し

「貧しいゆえに律法を守れない人たちを差別する心が罪である」

「自分の敬虔(けいけん)さにおごり、敬虔であることを神に誇り

その報酬として救いを願う者は、神よりしりぞかれる」

と批判したそうです





ちなみに、掟を守らない人間には、神が、容赦なく罰を与える

ユダヤ教やイスラム教は父性的な宗教


これに対し、神の救済を強調し「愛の宗教」と呼ばれる

キリスト教は母性的な宗教である などと論じられることがあります



確かに前者が「裁きの原理」に立つのに対して

後者は「赦しの原理」に立ちます



ただ、神自体をいうと、一神教の神は

基本的には全て父性的な神と言えます



なぜなら

「私はあなたしか拝みません

あなたにだけ敬虔(けいけん)です

だから救済してください」というところに

父性的な愛を求める姿がみえるからです



ローマカトリックでは

この父性的な神の性格をおぎなうために

マリアという母性愛の象徴が置かれているのです






≪ 愛する者たちよ。これからも互いに愛し合ってゆきましょう

愛は神からのものだからです


そして、すべて愛する者は神から生まれており

神について知っているのです


愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです ≫


「ヨハネ第一の書翰(しょかん)」



≪ 愛は辛抱強く、また親切です

愛はねたまず、自慢せず、思い上がらず、みだりな振る舞いをせず

自分の利を求めず、刺激されていてもいらだちません


傷つけられてもそれを根に持たず、不義を歓(よろ)こばないで

真実なことと共に歓びます


すべての事に耐え、すべての事を信じ、すべての事を希望し

すべての事を忍耐します。愛は決して絶えません。愛は決して絶えません≫


新約聖書「コリント人の手紙 第一の手紙 」




キリスト教では

不幸を「神の与えた試練」としてとらえ

「神は乗り越えられる力がある人にしかその試練を与えない」

「神が与えてくれた試練だから乗り越えられないわけがない」

「試練とともに救いの道を準備されている」

と教えます







ヒンズー教のカーマ



バラモン教とは、前2千年~前1千5百年頃 西インドに侵入を開始し

前1千年頃にはインダスやガンジス河流域などに

都市国家をつくったアーリア人のもたらした信仰で多神教です


仏教やキリスト教のような創唱宗教ではなく

日本の神道のように教祖はいません



ヒンズー教は、バラモン教が変貌して成立した宗教です


前6~前4世紀に、釈迦をはじめとする

反バラモンの自由思想家たちが活躍し

これによりバラモン文化の枠組みが崩壊したといいます



バラモン教は、前3世紀頃からアーリア人の神々に

土着民の神々を加えるなど土着民の非アーリア的な民間信仰や

習俗を吸収し、変貌していきました



そしておそくとも5世紀までにはシヴァやヴィシュヌを最高神とする

ヒンズー教へと生まれ変わったと考えられています





ヒンズー教では

愛情や性愛を求める「カーマ」(愛欲)を


宗教的・社会的義務を果たす「ダルマ」(法)


物質的経済的利益を追求する「アルタ」(実利・富)


「解脱」(輪廻転生からの解放)

とともに人生の四大目的とします





● カーマ


ヒンズー教の愛神


ヴェーダの創造神話では、最高原理の1つで

宇宙的意欲を意味したが、のちに意味がせばめられ

性愛、愛欲の意味となり

これが神格化され、愛神 カーマとなって親しまれたという


文学では、美男子で、オウムに乗り

ミツバチが群がるサトウキビの弓を左手に


5つの矢〔悩ます、焦がす、迷わす、かき乱す、酔わす の花でできた矢〕

を右手に持ち、人間の男女を射て、恋心を起こさせる




カーマに関する論書が

カーマ・シャーストーラ

(1000編に及ぶといわれる古代インドの性愛論書)で


このうちの「カーマ・スートラ」は

「アナンガ・ランガ」(1172年頃に書かれた性技マニュアル)


「ラティラハスヤ」(女性器を蓮の花に譬えたり

女性を4つのタイプに分け、その性的志向を記す)

と並んで3大性典とされる



カーマ・スートラは、一般的な愛に関することから

性交、性器の種類と大きさ

性技、婦女誘惑の方法などを記した書で

カーマ・シャーストーラのうち最も古く

(4から5世紀にかけて成立)重要な文献とされる






カーマは、ギリシア神話のエロスと類似する


ちなみにエロスは、もともとは、カオス(混沌)、ガイア(大地)

タルタロス(奈落)と同じく

世界の始まりから存在した原初の神であったが


後に、軍神 アレスと

愛と美の女神 アフロディテ〔ローマ神話ではウェヌスを対応

ウェヌスの英語読みが、ビーナス〕の子であるとされた



エロスは、当初、青年であったが

やがて少年の神として描かれるようになった


ローマ神話ではクピド(英語読みキューピッド)を対応させる


肩に翼を持ち、弓と、金と鉛の二本の矢を携える


黄金の矢で射られた者は愛にとりつかれ

鉛の矢で射られた者はその愛を嫌らうようになる







ヒンズー教のバクティ



ヒンズー教では「解脱」を最終目的としますが


その手段として


行為の道〔カルマ・ヨガ。法典に定められている社会的義務を

報酬を求めず実践する道〕


知識の道〔ジュニャーナ・ヨガ。自己の本質であるアートマン(我・霊魂)が

宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と同一であると知る道〕


信愛の道(バクティ・ヨガ)


の3つの道が説かれています



このうち、知識の道は

自己が宇宙の本体である梵と同一であることを知る必要があります


このため、宇宙を深く洞察できる知的エリートだけが

「解脱」が可能ということになります



これに対し「信愛の道」は

女性でも下層カーストの人々でも実践可能です


このため「信愛の道」はのちに爆発的な流行をみて

ヒンズー教が大衆化されるに至ったとされます



バクティ(信愛)とは、神に絶対帰依することで

神の恩寵により無明の闇が払われ、解脱できるというものです




現在のヒンズー教においても

「梵我一如」(自己の本質であるアートマンと

宇宙の根本原理である梵と同一であると知ることで

梵と我が合一し、解脱すること)と


「バクティ」が、信仰の柱となっています








孔孟の「仁」と 墨子の「兼愛」



儒教では、「徳」を

「仁」(他者への愛・慈愛)

「義」(正義・人としてなすべきこと)

「礼」(謙虚な心)

「智」(善悪判断の能力)

「信」(信頼・嘘偽りのない態度)

と定義しています



このうち「仁」が根本の徳で

「信」を除いた4つを「四徳」

「信」を加えた5つを「五常」といいます



但し「仁」は、全ての人を平等に愛するといった

キリスト教の「博愛」(人類愛)とは異なり

及ぼすべき順番が決められています



父母に対する

「孝」〔親から子への「慈」の反対〕が、仁の第一で


次が、年長者に対する「悌」(てい)

その次が、君主に対する「忠」です



そして「仁」が、孝や悌や忠によって拡大され

民衆に及ぶのが「仁政」です





天命(天の意志)が

人の真心(まごころ)に通じているとし

悪や不正をさけ「仁」と「義」を実践することを説くのが儒教です



なお「仁」とは「忠恕」(ちゅうじょ)だとされます

忠恕は、まごころ(真心)と思いやりです


「忠」は、忠義とか忠誠とか忠実の忠で

正直で裏表のないこと、私欲のないこと、まごころの意味です


君臣間においてとくに重要とされる徳目です



「恕」は、自分を思うのと同じように相手を思いやること

相手の身になって思いやることです



簡単に言うと「忠」とは、誠実であること

「恕」は、その誠実な心で

他者を思いやることと言っていいと思います






中国の思想かでキリスト教的な人類愛を説いた人に

墨子(ぼくし・前470頃~前390頃)がいます


孔子と孟子(もうし)の中間の時代に活躍した人です


墨子は、平等・無差別の「兼愛」を説いています



墨家(ぼっか)は、儒家(じゅか)と並び

思想界を2分するほどであったそうですが


のちに急速に衰え、墨子の説は2千年間忘れ去られ

中国に博愛主義が根付くことはなかったといいます



これは、支配者にとって都合が悪い思想を含んでいたからだ

と考えられています



墨子の思想には、他に「非政」があります

これは反戦平和です



儒教の孟子

〔前372~前289・性善説で有名

基本、儒教は、荀子の性悪説以外は、性善説をとり

儒教そのものを

孔孟思想孔(孟(孔子と孟子の教え)という〕は


墨子の「兼愛」を、自分の親と他人の親を区別しないのは

禽獣の愛であると批判しています







仏教の慈悲



本来、仏教では「愛」を煩悩としてとらえ

「慈悲」という概念を尊重してきました



「慈悲」は

楽(利益や安楽)を与えるマイトリー(慈)と

苦を除くカルナー(悲)の合成語で


≪抜苦与楽≫〔ばっくよらく・仏典によっては、苦を除くのが大慈

楽を与えるのが大悲となっている〕を意味します



原始仏教においては、カーマ(愛欲・性愛)や

トゥリシュナー(渇愛・愛への欲求)

ラーガ(愛染・激しい愛)を


煩悩に汚染され、苦をもたらすものとして

否定していたといいます




但し、このうちのラーガは、大乗仏教において

衆生救済の力と見なされるようになります



密教では、愛をもって

衆生の煩悩〔愛欲貪染・あいよくとんぜん〕や

悪業を浄化させ


生死の苦から解放する尊格として「愛染明王」が登場しています





●  愛染明王


愛染明王の梵名は、ラーガラジャー

ラーガは、情欲や愛染、また赤を意味し、ラジャーは、王者を意味する


図像はふつう身体が赤く、3眼6臂の忿怒相で頭上に獅子の冠をのせ

日輪の光背を持ち、蓮華座の上に坐す


蓮華座は、宝瓶の上にある

6臂の中央左右の手には弓と矢を持つ



 東京国立博物館蔵  重文



日本では中世以降、縁結びや美貌を与える神

また、愛欲から生じる人間男女の悩みを救う神

として信仰され

近世には遊女の守護神にもなり、愛染参りが盛んであったという





釈迦の「慈悲」の実践については

「ジャータカ」(原始仏典の1つ)にみられる

「捨身飼虎」

〔しゃしんしこ・餓死しそうな母虎と七匹の子虎を救う為

薩埵王子(さったおうじ・釈迦の過去世の姿)が自分の身をささげた話

金光明経(こんこうみょうきょう)などにもみられる〕

はとくに有名です





釈迦は


≪足ることを知り、わずかの食物で暮らし

雑務少なく、生活もまた簡素であり

もろもろの感官が静まり、高ぶることない≫ような状態となり


執着を離れて、身心の煩悩が浄化されるとこんな↓ふうな

「慈悲」の心があらわれてくると説いたようです



≪ いかなる生物生類であっても

怯(おび)えているものでも強剛なものでも

ことごとく、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも

短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも

目に見えるものでも、見えないものでも

遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すぐに生まれたものでも

これから生まれようと欲するものでも

一切の生きとし生けるものは、幸せであれ ≫



≪ あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように

そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても

無量の〔慈しみの〕心を起こすべし

また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし


上に、下に、また横に、障害なく

怨みなく敵意なき〔慈しみを行うべし〕


立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも

臥しつつも、眠らないでいるかぎりは

この〔慈しみの〕心づかいをしっかりと保て


この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ


もろもろの邪(よこしま)な見解にとらわれず、戒を保ち

見るはたらきをそなえて


もろもろの欲望に関する貪(むさぼ)りを除いた人は

決して再び母胎に宿ることがないであろう

(=輪廻転生することがないであろう) ≫


〔NHKブックス中村元・田辺祥二著「ブッダの人と思想」より〕





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