緋山酔恭「B級哲学仙境録」 仏教編 阿頼耶識と如来蔵、一乗教と三乗教



B級哲学仙境論


仏 教 編


 




阿頼耶識と如来蔵




西洋における無意識(潜在意識)の研究は

オーストラリアの精神科医の

フロイト(ジークムント・フロイト・1856~1939

国際精神分析学会の創設者)

が起点となっています


つまり、19世紀の終わりから20世紀になって

ようやく潜在意識の存在を知ることになったのです




これに対し、仏教においてはすでに

4世紀に、唯識派が

末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という

かなり精緻な無意識(潜在意識)を解明しています








阿頼耶識



仏教は「空」という立場から

「霊魂」のような固定的・不変的な自己の本質を認めません


そこで「業」(行為)の集積体、いわば業エネルギーのようなものが

輪廻する自己の本質と考えます




釈迦は、アートマン(不滅の自己の本質・霊魂)

の存在を否定する一方


バラモン教の「業」(ごう)や「輪廻」の考えの上に

仏教という新宗教を創始しました



そうなると「輪廻する主体」の存在が問題となります


この輪廻する主体の存在について

釈迦が没したあと様々な説が展開されました


そして定着したのが「阿頼耶識説」(あらやしきせつ)です




阿頼耶識説では「阿頼耶識」という無意識層を立て

これが輪廻する主体となります


阿頼耶とは蔵(くら)の意味で、阿頼耶識を「蔵識」ともいいます



この説では、阿頼耶識という無意識層に

身口意(しんくい・意は心の意)の

全ての「業」〔行為のこと。カルマン(カルマ)〕が蓄積されていきます


すなわちその人のおよそ一切の行為が蓄積されていきます



今、あなたが、私の話を読んでいるという行為も

あなたの阿頼耶識に蓄積されているわけです



蓄積されるとは

トラウマのように経験として刻まれていくということです



トラウマなら、その人が死ねば消滅しますが

宗教というのは

生命を、永遠という時間軸の上で語るので


ある事実は、自分の生命の中で永遠に継続される

ということになります



そして、現世の阿頼耶識に蓄積された

「業」の善悪のプラスマイナスで


来世の果報(結果と報い)が決まる

というのが阿頼耶識説なのです




つまり仏教の生命学の基本は

霊魂による輪廻ではなく、業相続・業輪廻なのです







阿頼耶識の正体



仏教では、生命は

「色心不二」(しきしんふに)

「依正不二」(えしょうふに)

という側面をもって存在していると説きます




1、「色心不二」

生命の物質的側面と、精神的側面は

2つにして2つにない。切り離せない。一体であるということ


例えば、病気で熱があれば、心も不安となり

心に不安があれば表情も暗くなるなどといったことです




1、「依正不二」

自己(正報)と、自己がよりどころとする環境(依報)は

2つにして2つにない切り離せない。一体であるということ



正報というのは、生を営む主体。我々の心と身体です


つまり、美人に生まれたり、醜く生まれたり

健康に生まれたり、病弱に生まれたり


頭がよく生まれたり、バカに生まれたりというのが正報

生まれながらに具わっている素質です



これに対して、依報は、正報がよりどころとする環境です


裕福の家に生まれたり、貧乏の家に生まれたり

両親そろった家に生まれたり、片親しかいない家に生まれたり


両親が仲のよい家に生まれたり、喧嘩ばかりしている家に生まれたり

平和な国に生まれたり、戦乱の国に生まれたり

というのが依報です




「正報」と「依報」とは「宿命」と言えますが

仏教では「空」(すべてが変化してやまない。一瞬一瞬変化している)

を説きます



「空」とは「無常」で「はかない」という意味をもつ一方

新たな因と縁を加えればいくらでも変化しうる

という可能性の論理でもあるので


本来、仏教は

決定論や宿命論とは対極にあると言えます




そして、正報と依報が「不二」

(ふに・2つにして2つにない。一体で切り離せない)

というのが「依正不二」です



「私には正報がない」という人間など存在しないし

同様に「自分には正報だけあって依報はない」

という人も存在しません


つねに人間は環境と一体で存在するというのが「依正不二」です





我々が、活動エネルギーを

「肉体エネルギー」と「精神エネルギー」とに分けるのは

あくまで便宜上のことであり


肉体エネルギーと精神エネルギーは

本来 一体の活動エネルギーということになります



それゆえ、人が死ぬと

「肉体は滅び、精神エネルギーだけが残る」

というのではなく


色心不二・依正不二の業エネルギーが残る

と考えるのが仏教的な思考と言えます



そしてこの色心不二・依正不二の業エネルギーこそが

阿頼耶識の業エネルギーそのものであり


仏教の考える 自己の本体と言えるのではないでしょうか







八識論



阿頼耶識説は

インド大乗仏教の2大教派の1つ唯識派にはじまり


その流れを汲む

法相宗〔ほっそうしゅう・華厳宗とともに奈良時代に栄えた宗派

平安二宗(天台宗と真言宗)の興隆により衰退

興福寺、薬師寺、清水寺などが法相宗の寺院

かつては、法隆寺も大本山の1つであったが、昭和25年に独立し

独自の聖徳宗となっている〕をはじめ


日本の伝統仏教各派が取り込んでいることから

大乗仏教の生命学の基本とみてよいでしょう



唯識派は

瑜伽(ゆが・ヨガ)の実践を重んじたことから瑜伽行派ともいいます


事物の全ては心の本体である識によって仮にあらわれた存在であり

ただ識のみがあるという立場をとります


4世紀頃に登場しています





唯識派では「八識論」というのを説きます



まず、対象に対応して

眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という

五識が生じるとされています


五識とは、外界の様々な刺激に応じて

起こる感覚、知覚作用と言えます



これは、眼、耳、鼻、舌、身という「五根」(五官のこと)が

それぞれ、色〔しき・色や形〕、声(音声)、香、味

触〔寒暖や、硬い・柔らかいなど〕

といった対象(五境)に対応して生じる心の働き、知覚作用です


受動的な心の働きと言えます





次ぎに、五識で得られた知覚、認識にもとづいて

意識という第六識が起こるとされます


仏教の意識とは、五識を統括する心の作用で

推理し、判断する知性の働きとされます



但し、意識には

五識の対象となる客観的実体なしに

生まれてくるものも含まれるとされ


それが、夢や空想、平和や幸福や愛などといった抽象的な概念です


〔但し、これらも五官の体験のもとに起こる意識と同じで

自らの過去の体験(記憶)にもとづいき、体験を抽象化させているという〕







末那識



第七識以下は

無意識(潜在意識)と呼ばれている領域です



第七識の「末那識」(まなしき)というのは

「深層自我意識」にあたります



末那とは、梵語のマナスの音写で

思量(あれこれと思いはかること)

思考(考えること)の意味だそうですが


意識と区別するために音写訳を用いて、末那識というそうです



ことわざに「年々歳々人同じからず」とあるように

つねに人というのは、変化しているのですが

それを(とくに自己を)不変的、固定的にとらえてしまう

心の働きが、末那識です




例えば、一流企業の重役だった人が定年となり退職したとします

退職した時点で、彼の肩書きは過去のものです



ところが「自分は偉いんだ」などと

過去の自分に執着して

「人はこうでなければいけない」と固定化してしまう


過去の自分に誇りを持つのはいいですが

独善的になったりすると

新たな人生を踏み出すのにプラスに働きません




同様に、わたしたちは

「あいつはかつてこうだったから、今もこうだ」

と他人をも固定的にみてしまうものです




末那識というのは

不変的、固定的な自己があると考え(我見)

その自己に執着し、愛し(我愛)、高く評価して

他人を見下す(我慢)といった無意識の働きだとされます




自己とは具体的には阿頼耶識であり

変化してやまない阿頼耶識を

固定的にみてしまうのが

末那識という深層自我意識ということです



つまり、究極的には、自己に

不変的・固定的本質(アートマン=霊魂)が

あるとみるわけです




なお、お金や地位のある今の自分を、無意識的に固定化し

その自分を根拠に、他人を見下す心理というと


「他人を見下す心理が、末那識なんだ」

という誤解が生じるので


もう一度、はっきりさせておくと

無意識的に、自己を固定化するのが、末那識です



なので逆に、今のダメな自分を、固定的にとらえて

悲観的になるという心理も、末那識と言えますし


「あいつは、昔こうだったから、今こもうだ」

と、他人を固定化してしまう心理も、末那識と言えます





要は、1つ1つの経験自体(過去の事実)は

固定的・不変的ですが


≪総体としての経験≫ ≪総体としての自分≫

すなわち、阿頼耶識は

つねに変化しているということです


一瞬、一瞬変化をしているということです



にもかかわらず、無意識に

自分あるいは他人の本質を固定化しているのが

末那識と言えます



そして、末那識のさらに奥に、阿頼耶識があるのです







阿頼耶識と阿摩羅識



目の前に、幅の広い大きな道路があったとします


信号機はありません

車がバンバン走っています


あなたはどうやってこの道路を横断しますか?


もちろん、右見て、左見て、車がこないことを確認して渡りますよね


それは過去の経験にもとづいて確認するということです



でも、そこで恐い思いをすると

それがまた新たな経験となり

過去の経験に積み重なっていきます



こうして、総体としての経験というものはつねに変化しているのです

さらに言うと、自分というものはつねに変化しているのです

「空」なのです




1つ1つの過去の経験は

トラウマ(過去に経験した心の傷)が意識に刻印されるのと同様に

消えることも変わることもないですが


総体としての経験の容器、自分という容器は

つねに変化しているということなのです






法相宗では阿頼耶識には、煩悩に染まっていない部分(浄分)と

煩悩に染まった迷いの部分(染分)があるとしました



唯識思想の八識論を取り入れた華厳宗・天台宗では

第8識である阿頼耶識よりさらに根源的な

第9識の「阿摩羅識」〔あまらしき・根本清浄識(しょうじょうしき)

根本浄識、無垢(むく)識、真如識などと意訳される〕を立てます


この阿摩羅識が仏性、仏界の生命であるとしています




でもそれでは

「仏性」という固定化された生命

霊魂のような存在が

自己に実在するという話になるし


阿頼耶識と阿摩羅識(仏性)という2つの自己の本質が

同時に存在するという話になってしまいます



それとも、無意識のさらに

奥に人類共通の道徳的な原理(意識)である

阿摩羅識が存在していると言っているのでしょうか?



はたまた、私たちは阿頼耶識よりも深層で

自己に慈悲の生命(仏性)が内在していることを

無意識的に悟っているということを意味するのでしょうか?



十界論というのは、生命の状態の違いから

仏界(仏性)という自己の本質を説明したものです


八識論の場合は、意識から無意識へとたどる形で

自己の本質である 阿頼耶識を説明したものです


両阿頼耶識によって、色と心に渡って現れてくる

生命の状態に、10種の違いがある ということにしなければならな



つまり、阿頼耶識から切り離して

阿摩羅識を立てるのはおかしいです








薫習と習気



唯識派というのはと

≪全ては心の本体である識によって仮にあらわれた存在である≫

という極端な「唯心思想」を説きます


心が「価値」を生み出すという「唯心論」ではなく


本来、心の本体の識しかこの世界には実在しない

ということです(有相唯識)


つまり他は因と縁によって仮に現れた「空」の存在とみなすわけです


なお、その識すら「空」とする立場もあります(無相唯識)





我々が認識する客観世界である諸法(全ての事物・現象)は

以下のように生じるといいます



経験したコトガラが「薫習」

〔くんじゅう・強い香りが衣服に付着、残存するように

経験したことが心や身体に印象を与え残存する〕される


その結果「種子」(しゅうじ、しゅじ)がつくられる


種子が阿頼耶識によって発現され、客観世界を顕現する



なお、薫習されたことで生じた習慣的な力を

「習気」(じっけ)といいます



例えば、悪業が阿頼耶識に薫習されると

その結果 煩悩が生じます


この煩悩を滅しても習慣性が残る

この残された習慣性が習気だといいます


結局、習気は種子と同じことらしいです



阿頼耶識には

過去全ての経験の潜在余力(習気)が蓄積されます


この習気が、現在と未来の自己の身心

および

一切の事物・事象である「諸法」を生み出すとされます






それから阿頼耶識には4つの働きがあるとされます


① 善悪の業の種子を蓄える働き



② 種子から果報(因に対する果。業に対する報

報は果が事実となって現れ出たこと)を生じさせる働き


これを「異熟」(いじゅく)という



③ 身体の感覚機能を維持する性質



④ 他の7つの「識」を生じさせる根本の働き

ここから根本識ともいう








有相唯識と無相唯識



唯識派には様々な異説が生じました


このうち、有相(うそう)唯識派は


認識を司る「心王」(しんのう・8つの識のこと)と

心王にともなって働く「心数」(しんじゅ)は

ともに「有」(う)=実在と説きます


(有とは、因と縁によって作られたものではなく

それを超えた不生不滅の実在ということでしょう)



【 心数・・・・

心所ともいう。心王にともなっておこる種々の精神作用

怒りや貪りなど様々な感情を起こす心の働き

その数が多数なことから心数と呼ぶ 】



日本の法相宗は有相唯識の流れを汲みます




これに対して、無相唯識派では、心王、心数は

因と縁によって仮に生起したもので、常住不変の実体ではなく

空であり、非存在であると説きます






ちなみに、法相宗というのは

玄奘(げんじょう・602~664)の弟子の

基(き・632~682。慈恩大師)が開祖とされます



玄奘は、西遊記の三蔵法師のモデルとなった人で、四大訳経僧の一人

16年間、西域、インドを巡り、大量の仏典と、仏像や仏舎利を持ち帰り

仏典を漢訳しています



大般若経(全600巻)、般若心経、地蔵十輪経

解深密経(げじんみっきょう・法相宗が依りどころする経典)

薬師経、阿弥陀経、維摩(ゆいま)経、

世親の倶舎論(くしゃろん)、無著の摂大乗論(しょうだいじょうろん)など

75部1335巻を訳出しています



無著(むじゅく)と、世親(せしん・旧訳では天親)は

インドの唯識派を確立した人です







無著と世親



唯識派は

祖の 弥勒〔マイトレーヤ。350頃~430頃

存在は明確でないが、弥勒作とされる全ての著書を

無著(むじゃく)のものとするのは無理があるため

無著以前に、唯識論を唱えた論師を弥勒としている〕よりも


無著(アサンガ・395~470頃)と

その弟の 世親(400~480頃・ヴァスバンドゥ)

によって確立されたといってよく


無相唯識派は、無著、世親の流れを汲みます



有相唯識派の祖 陳那(ディグナーガ・400?~480?)は

世親の弟子です


有相唯識は、陳那によって主張され

陳那の孫弟子 護法(ダルマパーラ。530~561)により大成し


中国には、護法の弟子の 戒賢(シーラバドラ。7世紀中頃)に学んだ

玄奘(げんじょう・602~664)によって伝えられたとされます




日本へは遣唐使船で入唐し、玄奘に学んだ

道昭〔どうしょう・629~700。飛鳥時代の僧

653年に入唐。660年に帰国

飛鳥寺で法相学を弘めた

禅をはじめて日本へ伝えた人でもあり

日本ではじめて火葬にされた人でもある〕が

最初に唯識学を伝え、日本法相宗の祖となっています




法相では、一切唯識という立場において観ずる

中道の「唯識中道」を説きます








五性各別



法相宗を除く、日本の既成(伝統)仏教では

全ての衆生に仏性が内在する

つまり全ての人が仏の生命をもつ

という立場にあります


これは、来世に極楽に往生することを願う

浄土宗や浄土真宗でも同じです



これに対して法相宗は

「五性各別」(ごしょうかくべつ)を立てています


「五性各別」とは、生まれながらにして


① 菩薩となる性質をもっていて、仏教に縁すると仏になれる人


② 声聞(しょうもん)の種をもっていて

利他の心を欠き、仏教に縁しても声聞にしかなれない人


③ 縁覚の種をもっていて、縁覚になる人


④ 菩薩・声聞・縁覚の3つの種をもっていて

仏になれる者とそうでない者に分かれる人


⑤ 全く宗教的素質がなく、よくて人や天界の境涯にとどまり

多くは永く苦海に沈む人


と分けているのです




利他を欠き、執着を離れることばかりにとらわれ

「肉体への執着がある限り真の悟りはない

真の悟りは死によってはじめて達成される」

という考えまでいってしまった

小乗教の修行のあり方を


大乗の立場から批判する言葉に

「灰身滅智」(けしんめっち・身を焼いて灰にし、智慧をも滅する)

があります




法相宗では、五性のうち

菩薩となる性質をもっている人の修行の結果が

成仏であるのに対し


声聞の種をもっている人と

縁覚の種をもっている人の修行の結果は

灰身滅智であり


3つの種をもつ人の結果は

成仏の場合と灰身滅智の場合があるとしているのです




五性各別は、他宗派から

当然、人間を差別する邪義だと批判を受けてきました(笑)


でも、全ての人が仏の生命をもつということは

全ての人がものごとを明かに見てゆく仏になれる可能性がある

ということですよ



それはありえないのではないですか?


だって、ある宗教に依存し

ひとたびその教えを信じ込んでしまった者こそは

全く人の話を聞かないですから


こうした事実からすると

五性各別の方が正しいとは言えなくても

現実に近いと言えますよね







一乗教と三乗教



三乗教とは、声聞が悟り(灰身滅智)を得るための教え

縁覚が悟り(灰身滅智)を得るための教え

菩薩が悟り(成仏)を得るための教え

の3つを説く教典を三乗教といいます



三乗教は、衆生に先天的な宗教的素質がある

ことを前提として説かれたものです



これに対して

全ての衆生が仏の悟りを得られることを前提に

全ての衆生がただ仏になることを説いた教えを一乗教といいます


古来、法華経、涅槃経、華厳経が、一乗教としてよく知られます




華厳宗では

さらに、三乗を認める一乗〔存三(ぞんさん)の一乗〕と

三乗を否定する一乗〔遮三(しゃさん)の一乗〕に分け


法華経を遮三の一乗とし


華厳経は、三乗を否定せず

直接あらわした一乗〔直顕(じきけん)の一乗〕で

最も優れるとしています




法華経を依りどころとする天台宗や

華厳経を依りどころとする華厳宗では

三乗教は方便で一乗こそ真実であると主張し



法相宗は、法華経などが一乗を説くのは

声聞・縁覚・菩薩の3つの種をもつ者

つまり宗教的素質の定まらない者を導くための方便で

三乗こそ真実であると主張しています





三乗と一乗についての論争は、中国から日本へと引き継がれ


日本では、日本天台宗の祖 最澄と

法相宗の僧 徳一(とくいち・760頃~840頃)が

互いに著をあらわして

互いの立場を否定した「三一権実論争」があります



【 徳一 ・・・・ 平安初期の人。若くして東国へ移り

筑波や会津に寺院を建て、粗衣粗食を旨とし

民衆を教化し、菩薩と讃えられた


空海が彼のもとに弟子を遣わし、真言経典の写経を依頼したとき

徳一は新宗教である空海の教義に対し

「真言宗未決文」(真言宗への11ヶ条の疑問)を著している 】




また、日本天台宗中興の祖

良源(りょうげん・912~85。平安中期の人)と


奈良仏教〔奈良時代に興り

奈良(南都)を中心に栄えた法相や華厳など

南都六宗〕との

「応和宗論」(おうわしゅうろん)は、とくに有名です




応和宗論は、応和3年(963)に

宮中の清涼殿で行われた法論対決です


62代 村上天皇が、法華経を書写したことを

きっかけになされたといいます


それぞれ10名の僧が出席し、5日間、朝夕2座

合計10座にわたって対決がなされています




3日朝座に、良源が

東大寺(現在は華厳宗総本山・当時は六宗兼学か?)の

法相僧 法蔵を破り



5日朝座には、法相宗の学僧 仲算

〔ちゅうざん・935~76

のちに西大寺(現在は真言律宗の総本山)別当となる〕が

天台僧の寿肇(じゅちょう)を論破し



天皇の命により

5日夕座には、良源と仲算が対決することになったとされます



法華経の第2品の方便品の

「若有聞法者・無一不成仏」

(もし法を聞くことがあれば1人として成仏せざるはなし)という文の

「無一不成仏」を


仲算は「無の一は成仏しない」

(仏性がない1種類の人たちは成仏できない)と読み下し


良源は「一草一木各因果・山河大地同一仏性」

(全ては仏性をそなえ、草木もまた成仏する)

と述べたといいます



結果はともに勝利を主張しているようです


仲算は優賞をうけ、法相宗が南都六宗の長官となり

良源は比叡山の堂舎を再建していることから

引き分けとみられているようです






● 良 源


比叡山を再建・拡張し、綱紀粛正や修学奨励などを行った

没後早くから伝説化され

良源の画像は、角大師(つのだいし)と呼ばれる

魔除けの護符になっている


角大師の護符は

良源が2本の角をはやした夜叉の姿を紙に押印したもので

魔除けとして戸口に貼ったり

害虫除けに竹などに挟んで、田の畦(あぜ)に立てたりする


この姿は、良源が宮中で祈祷していたときに障子に映った姿とか

良源が鏡をみると角を生やした姿が映るとか

修行中に厄病神の姿をとっていたからなどとされる


また33体の良源の座像を刷った豆大師(魔滅大師)は

良源が33の化身(観音菩薩の33身にちなむ)をあらわして

民に福をもたらすという


美男子の良源が

女官の近づくのを防ぐために豆つぶの姿をとったものという



なお豆大師には、良源ではなく

天海〔1536~1643・江戸初期の天台宗中興の祖

家康・秀忠・家光に仕え、信長に焼かれた比叡山を復興

上野に寛永寺を創建。107歳まで生きた〕のものもある



護符は、良源の命日である正月三日に

比叡山の大師堂をはじめ、各地の天台宗寺院で配られる


良源の諡号は、慈恵(じえ)大師だが

正月三日(元三)に没したことから

俗に、元三(がんざん)大師という


           







如来蔵思想



中観派の祖 竜樹は、無自性という立場から

仏性(如来蔵)の存在を否定しています


そして、仏とは、色(生命の物質的側面)と心(生命の精神的側面)

つまり生命全体にあらわれるものであると言っているので


竜樹のいう「仏」とは、自性でなく

「境涯」のことだと言ってよいでしょう




●  竜樹… 150~250年頃


インド大乗仏教2大教派の1つである

中観派(ちゅうがんは・空の哲学の形成に努めた教派)の祖


大乗仏教では釈迦に次ぐ重要な人物で

八宗(平安時代までの日本の全ての仏教宗派)の祖と呼ばれ

日本の諸宗は全て竜樹の影響を受けている





中観派の「空」「無自性」を継承するチベット仏教において

「他空常堅」という如来蔵思想を唱えたチョナン派は

1642年のダライ・ラマ政権成立以後、邪教として禁圧されました



他空常堅とは、全ての存在の本質に如来蔵の存在を認め

その他の煩悩や穢れのみが空というものです


なお、チベット仏教の国であるモンゴルの最大の活仏が

チョナン派のジェプツンダンパ(聖尊者)です




如来蔵=仏性の存在を認めた仏教が邪教となると

日本の仏教は、全部、邪教ということになりますよ(笑)


確かに、全ての人が仏性を具えているという教えは

人々に理解されやすく

教勢拡大していく上でかなり有利なはずです





竜樹の無自性という立場は

日本の仏教のほとんどが

固有の本質として

仏性〔如来蔵(にょらいぞう)を認めるのに対して

如来蔵を認めず

如来蔵は衆生を修行に導く方便であるとしている

ということです




如来蔵の「如来」とは「仏」の別称であり

如来蔵とは

如来=仏の胎児を宿しているということです


つまり如来蔵とは

仏性、仏の本質、仏の本性、仏になる可能性のことです



そして、この仏性が

全ての衆生〔本来は有情(うじょう・感情や意識をもつ一切の存在)のこと

狭義的には人間をいう〕に、蔵しているというのが、如来蔵思です



この如来蔵思想は、当然 中観派からは生じ得ません

唯識派から、如来蔵派が成立しています




この如来蔵の立場は

全ての衆生の成仏の理を明確にあかした法華経や

一切衆生悉有仏性〔いっさいしゅじょうしつうぶっしょう・

全ての衆生はことごとく仏性を有し、仏縁によって成仏できる〕

を説く大乗涅槃経に原点がうかがえますが



体系化したのは「宝性論」

〔ほうしょうろん・チベットの伝承では

唯識派の祖 弥勒の偈(げ・詩句)に、無著が注釈したものとされ

中国の伝承では、ナーランダ寺の堅慧(けんえ・5世紀~6世紀初め)

の著とされる〕です



「宝性論」では、華厳経や勝鬘(しょうまん)経など

多くの大乗経典から文を引き

二乗(声聞と縁覚)や、一闡提(いっせんだい)であっても

無量時(長い期間)には成仏できると書かれているといいます



●  一闡提

仏道を求める心がなく、成仏する縁をもたない不信心者

本来は、欲望からなる者の意味で、断善根・信不具足・極欲・

大貪(だいとん)・焼種(しょうしゅ・焼いた種のように仏性の芽が出ない)

などと意訳される




また、「宝性論」では、如来蔵は、迷いの衆生にあっては

煩悩をまとった有垢真如(うくしんにょ・真如は仏性のこと)であるが

悟りを得て成仏すると無垢真如となると書かれているといいます


この他、如来蔵を、宝石の眠る山にたとえ

全ての衆生を三宝(仏・法・僧)に属する種族にたとえる

などしているといいます



如来蔵の意味については

衆生が内に如来という胎児を宿している

というばかりでなく


衆生が如来の胎児として如来の内に蔵している

こともあげているといいます





それから、世親の「仏性論」も、宝性論とともに

如来蔵思想を体系化したものとして知られています


漢訳は、中国に無相唯識を伝え

摂論宗(しょうろんしゅう)の祖とされた

真諦(しんだい・499~569)です



「仏性論」では、勝鬘経や法華経などの大乗諸経典や

瑜伽師地論〔ゆがしちろん・弥勒の著に帰されているが

実際には無著、または数人による著作と考えられている〕

などの文を引き


一切衆生悉有仏性 (いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)

を主張しているといいます




また、如来蔵経という経典

(漢訳は1巻のみ。成立は3世紀中頃と推定)では


如来蔵を、朽ちた蓮華に存在する如来

ミツバチの群れの中のハチミツ

皮殻(ひかく)におおわれた穀物の種

不浄な場所にある金の宝

貧しい家の地下にある宝の蔵

アームラという果実の内の種

ぼろ布につつまれた金の仏像

賎しい身分の女が宿した貴子

鋳型の中の仏像

という9つでたとえているそうです






中国天台宗中興の祖

湛然(たんねん・711~784。妙楽大師)は

涅槃経に説かれている


一切衆生悉有仏性 〔いっさいしゅじょうしつうぶっしょう・

全ての衆生はことごとく仏性を有し、仏縁によって成仏できる〕

の説をおしひろげ


「草木成仏」を唱え

非情(意識や感情をもたない存在。木石や国土)

の仏性の存在を主張しています




仏教では衆生(森羅万象)を

「有情」(うじょう・感情をもつ存在)と

「非情」(感情のない国土、草木、石など)に立て分けます



「非情」にも、仏性、仏の生命があるのかないのか

の論争が繰り広げられてきました




有名なところでは

中国華厳宗の4祖 澄観(ちょうかん)が

「非情(国土や木石など)には仏性がない」

という説を立てると


妙楽大師 湛然が

「金剛」(こんごうべい)を著し


【 金剛とは良医が盲人の眼膜を手術するのに用いるメスのことで

湛然は真理に迷う者の心眼を開かせる意に用いている 】



「一切衆生皆成仏」を主張して

華厳宗の「非情に仏性はない」という立場と

法相宗の「五性各別」を論破していいます



天台宗は、天台大師の没後

華厳、法相、禅の隆盛でふるわなかったそうですが

湛然がこの書を著して再興したされています




妙楽のいう「草木成仏」とはなに?


例えば、スプーンがスプーンとしての

本領を活き活きと発揮している状態


コップがコップとしての

本領をいかんなく発揮している状態

というのが


コップまたスプーンの成仏されている状態

ということになります


そして、その成仏、不成仏は

使う人によって決定されるということです





でもそれだと


屋敷にインテリアとして飾られている「銃」は

鳥とか獣を撃つことで猟銃となるし

銀行強盗に使えば犯罪の銃となるし

革命に使われれば革命の銃になります


けど「いったいどれが銃本来のあり方なんだ」

という話になりますよね(笑)


完全に人間中心の思想に陥ってしまっています




また、震災や洪水被害などは

国土が成仏していないことになり


その原因は、そこに住む人たちの命が濁っていたから

という話になります





日蓮の ≪国主がこのまま「正法」(法華経)を用いず

念仏、真言、禅などの邪教を用いていると

他国侵逼難(たこくしんぴつなん)と

自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)が起こるであろう≫という予言も

草木成仏からきていると言えます


ちなみに、他国侵逼難は2度(1274年・81年)にわたる蒙古襲来

自界叛逆難は1272年8代執権 時宗の異母兄

北条時輔による乱(二月騒動)が起きて、的中したとされています





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