緋山酔恭「B級哲学仙境録」 仏教編 釈迦の思想と仏教まるわかり 菩薩と声聞の段階



B級哲学仙境論


仏 教 編


 




菩薩と声聞の段階




菩薩の戒律と段階



小乗教では比丘の250戒、比丘尼の350戒などという

厳しい戒律を守ることが求められました


ちなみに、戒と律は本来、別のもので、律は教団の規則

戒は個人の修行規則をいうそうです



これに対して、大乗の戒は、大乗菩薩戒といい

「梵網経」(ぼんもうきょう・中国で成立した経典)の

「十重禁戒・四十八軽戒」

(じゅうじゅうきんかい・よんじゅうはちけいかい)の

「五十八戒」が基本となったといいます



「梵網経」は、放生(ほうじょう)を説く経典としても知られます



十重禁戒とは、不殺、不盗、不婬。それと以下のことの禁止です

人に嘘をつき邪見をおこさせること

酒を売り顛倒(てんどう・逆さま)の心をおこさせること

出家・在家者の罪や過ちを説くこと

自分をほめ他人をそしること

むさぼり、物おしみすること

怒りの心をもち人が謝っても受け入れないこと

仏・法・僧〔僧は僧伽(そうぎゃ)=教団のこと〕の三宝をそしること





四十八軽戒には

飲酒戒


食肉戒〔本来、仏教では肉食は必ずしも禁じられていたわけでなく

托鉢によりもらい受けたものは拒否してはならないとされ

肉も同じであったという

但し、不殺生の立場から自分のために犠牲とされた場合はこれを拒んだという〕


両舌戒〔二枚舌で人をあざむくこと〕


食五辛戒〔ニラ、ラッキョ、ネギ、ニンニク、ショウガの五辛は

臭気を発し、怒りや婬をおこす

禅寺などの門に「葷酒(くんしゅ)山門に入るべからず」とあるが

葷とは五辛など臭気の強い野菜をいう〕


などがあります






また、大乗仏教の修行者は、全て菩薩となりましたが

修行の段階(位)が問題となり

諸経典には様々な修行段階が説かれるようになりました



とりわけ有名なのが

華厳経の十地品(じっちぼん・十地経)の{「十地」と


菩薩瓔珞(ようらく)経

〔菩薩の善行を、瓔珞(貴族の男女が珠や貴金属に糸を通して作った

頭や首にかける装飾品。仏像にもみられる)に譬えて讃歎〕

の「五十二位」です




十地は、菩薩の修行段階を10段階に整理したもので

のちに菩薩瓔珞経の五十二位が登場すると

その上位である41位から50位にあてられました


五十二位は、十信

十住〔心を空にとどめる段階。この第7位が、不退転〕

十行〔利他行をなす段階〕

十廻向〔じゅうえこう・自らの修行の功徳を衆生にふりむける段階〕


十地〔はじめの第41位は

中道の真理の一分を悟り心に歓喜を感じている歓喜地

最後の50位は、雲が無量の法雨を降らすように

説法によって一切を潤す法雲地〕


等覚(とうかく)、妙覚(みょうかく)

に分類されています


第51位の「等覚」は、長い修行を終えて妙覚に至ろうという段階

52位の「妙覚」は、仏にあたります





天台大師 智顗(ちぎ・538~598。中国天台宗の祖)は

「六即」という6つの修行段階を説いています


理論上では仏性を具えているが無知の迷いの境涯である「理即」


我が身に仏性が具わっていることを文章や言葉を通して知った

段階を「名字即」(みょうじそく)


修行に励む「観行即」


仏の悟りに似た六根清浄の徳を得た「相似即」


仏性の一部を顕現し

ほぼ仏に近い「分真即」(五十二位の等覚にあたる)


仏性を顕現しきった「究竟即」(くきょうそく・妙覚にあたる)





こうした戒律や、修行段階は さらに簡略化されていき

日蓮などにいたっては

戒律は曼荼羅を受け持ち、南無妙法蓮華経と唱えることだけとなり

曼荼羅に向かい南無妙法蓮華経と唱えれば「名字妙覚」といって

名字即の位から直ちに妙覚に至れるとなりました



また、「観心」とは、本来、釈迦の説いた法華経の奥底に秘されている

一念三千を心に観じる天台宗における実践修行ですが


日蓮は、曼荼羅本尊を受持し、題目を唱えることがそのまま観心で

これにより一念三千という難解な真理を自然に悟ることができると主張します

これを「受持即観心」(じゅじそくかんじん)といいます






なお

仏道に入るとき、出家者、在家者に限らず、一定の戒律を受け入れる

これを受ける方からは受戒、授ける方からは授戒といいます

そして受戒とともに法号を受けます


この法号が戒名です

これは中国、日本の制度でインドにはなかったそです



これが、僧侶が死者につける死後の名前になったのは

生前、仏教を入信していない者でも

死後、形式的に受戒させ、信心していたものとして

葬式を行ったことに由来するそうです



このような戒名に、大居士をつけるといくら

居士ならいくらと値段をつけ

死者まで差別するから“葬式仏教”とか

“坊主まる儲け”なんて言われるわけです





もともと釈迦の教えの根本である

「空」からすると

経典の言葉(教主の声)、真言や念仏や題目、戒名などに

絶対な真理を主張することがおかしいのです(笑)







声聞の段階



仏教は、大きく「大乗仏教」と「小乗仏教」に分かれます

小乗仏教は、世俗から離れた場所で、厳しい戒律のもとに修行に励み

自分だけの悟りを目指す教え



大乗仏教は小乗仏教への批判から生まれたもので

利他行(菩薩行)によって

他者を教化し、悟り(仏道)へと導きつつ

自らも悟りを目指す教えです


世俗の中に身を置き一切衆生とともに悟りを目指す教えです




東南アジア諸国には主として小乗(南伝仏教)が伝わり

中国や日本には大乗(北伝仏教)が伝わました

日本の既成仏教は全て大乗教です




声聞(しょうもん・仏弟子)の最高位 「阿羅漢」(あらかん)は

本来、仏(ブッダ)の異名でした


ところが小乗教において、仏は釈迦1人とされてしまい

仏弟子は阿羅漢までしかなれないとなったとされます



これに対して大乗教では

大乗教を行ずる者を全て「菩薩」とし

声聞や縁覚の上において、仏を目指すことになったのです


つまり菩薩とは大乗仏教(利他)を行じて

仏を目指している全ての人をいいます


だから創価学会のおばちゃんなんかも

「菩薩」になるわけです




また、スリランカや東南アジアなどの小乗仏教の国が

今でも釈迦一仏主義をとるのに対し


大乗仏教では菩薩がたくさん存在する以上

過去に仏になった者も多いはずだという「多仏思想」が起こり


阿弥陀如来(如来は仏の異名)、薬師如来

毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)

大日如来など多くの仏が誕生したのです





「大乗仏教」では「十界論」(じっかいろん)が誕生しています

「十界論」とは、自己のなかに10種の命があるというものです


低い方から6つは

地獄(苦しみ、怒りの最低な命) 餓鬼(むさぼり) 畜生(おろか)

修羅(嫉妬・傲慢) 人(平らかな気持ちを持てる命) 天(喜びの命) です



一般の衆生(人間)はふだんは

この6つの命が

環境にふれて(縁にふれて)現れ消え、現れ消えしているといいます


これが≪六道輪廻≫です



このように、縁にふれて色々な命が現れ消えしていますが

もどる場所に違いがあります


ふだんあるところの命が、その人の「境涯」ということです




そして仏教とはつまるところ

六道輪廻、つまり「縁(環境)にふりまわされている自己」から

「主体的な自己」を目指す教えと言えるでしょう



主体的な自己とは

声聞(しょうもん・仏教を学び無常すなわち空を悟った境涯)

縁覚(えんがく・仏教以外、たとえば自然界などから空を悟った境涯)

菩薩(利他の境涯)

仏(智慧と慈悲の最高の境涯) です


「空」(くう)とは、全てが一瞬一瞬変化している 変化してやまない

全ては、無常であるということですね





ここで面白いのは

小乗教の聖者である「声聞」と

声聞と同列の仏教以外の聖者の「縁覚」とが

「菩薩」の下に置かれたということです






さて、声聞(しょうもん・仏弟子)にも段階があり

最高位は、阿羅漢(あらかん)といいます


サンスクリット語のアルハトの音写訳で

尊敬を受ける位の者を意味するそうです


漢訳仏典では、尊敬、供養を受けるに値する人という意味で

応供(おうぐ)などと訳されています

応供は、仏の十号の1つです





仏の十号というのは、仏の10種の尊称です


① 仏陀〔ブッダ・覚者。目覚めた人〕

② 如来〔タターガタ・真如=真理から来た者〕

③ 応供

④ 正遍知〔しょうへんち・及ばぬところがなく広く正しく知る者〕

⑤ 明行足〔みょうぎょうそく・明(智慧)と行為が完全なる者〕

⑥ 善逝〔ぜんぜい・よくゆきし人の意で、涅槃に入る者〕

⑦ 世間解〔(せけんげ・世間をよく知る者〕

⑧ 無上士〔この上ない者〕

⑨ 天人師〔天人(神)と人間の師匠〕

⑩ 調御丈夫〔じょうごじょうぶ・指導することに巧みな者〕

⑪ 世尊〔バガヴァント・世の人々から尊敬される者〕



以上のうち、世尊を加えない説

世間解と無上士、あるいは無上士と調御丈夫をまとめる説

さ仏陀と世尊を、仏世尊とまとめる説 があるようです




それから羅漢は、阿羅漢の略で

十六羅漢〔釈迦が死ぬときに無上の法を託されたという16人の弟子〕

五百羅漢〔第1回仏典結集に集まった500人の弟子

また、常時 釈迦に付き随った弟子たちなどとも〕

などの考えが生まれています





声聞には4つの段階があるとされていて


預流〔よる・聖者の流れに入った段階〕


一来〔いちらい・一度、天界(喜び)に至り

それを嫌い、再び人界に戻って悟りをめざす段階にある者の意

貪(とん・むさぼり)、瞋(じん・怒り)、痴(ち・おろか)の三毒が薄くなっている者〕


不還〔ふげん・もう人界に戻ることはなく

天界以上の境涯をめざしている段階にある者の意

欲へ感情を断ち、もはや欲望の世界には戻らない者〕


そして阿羅漢です



阿羅漢は、もはやそれ以上学ぶ必要がないことから

「無学」〔阿羅漢の前の3段階は「有学」(うがく)という〕とも訳されます



また、以上の4段階それぞれに「向」(果に向かう段階)と

「果」(到達した段階)とがあり8段階になっていて

これを「四向四果」といいます


なので、声聞の最高位は

正式には、阿羅漢果ということになるわけです








賓頭盧



賓頭盧跋羅堕闍 (びんずるばらだじゃ

サンスクリット名 ピンドーラ・バラドヴァージャ)は


十六羅漢〔釈迦が没したとき

無上の法を託したとされる十六人の弟子〕の第一とされる人物です



大乗の経典ではありますが

賓頭盧跋羅堕闍為優陀延王説法経

(びんずるばらだじゃういだえんおうせっぽうきょう)

などの仏典に次のような話があります



賓頭盧は、あるとき人にすすめられて

象の牙にかけられていた栴檀(せんだん・和名は白檀)の鉢を

梯子(はしご)や杖を使わずに

座りながら取るという奇跡(神通)を示した


これを知った釈迦は「外道(げどう)の術を用いた」と

賓頭盧を呵責(かしゃく)


賓頭盧は、南閻浮提(なんえんぶだい)を去り

西倶耶尼(さいくやに)に移って法を弘めた




●  南閻浮提


古代インドの世界観で

世界の中心に位置する須弥山(しゅみせん)の南に位置する州で

われわれ人間の住む島

もとはインドの地を想定したものであったが後に

全世界を意味するようになっている



●  西倶耶尼

牛を多く産し、牛を通貨として用いていたことから

西牛貨州(さいごけしゅう)ともいう

想像上の国であるが、アジア西部の民族が古く交易に牛を用い

また牛を刻印した通貨を使っていた事実から

インド西方の諸国をさすとも考えられている




また釈迦に呵責され、末法の世に

弥勒菩薩〔弥勒下生経では釈迦の次に仏になるとされる未来仏で

釈迦滅後の56億7千万年に兜率天(とそつてん)より降臨

悟りを開いて仏となり衆生を救済するとされる〕が出現するまで


涅槃(ねはん・悟りの境地。仏の境地)に入ることが許されず

この娑婆世界で民衆教化につとめることを命じられた


とあります




なお仏典には、釈迦が教化のときに

神通力(超能力)を使った話も散見できますが

これらの多くは「智慧」として結びつけて説明されるのが

仏教の特徴です





●  賓頭盧信仰


中国では賓頭盧の図像や彫像を食堂に祀る信仰が生じ

日本でも法隆寺などの食堂に図像や彫像が安置された


後世、賓頭盧の像を本堂の外脇に安置し

病人がわずらっているところをなでる撫仏(なでぼとけ)

の信仰が生じた


またこれにより像はつや光りし

びんずるという言葉は、はげ頭の人を指すものにもなっている




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