緋山酔恭「B級哲学仙境録」 仏教編 浄土教の歴史、親鸞の「悪人正機」、一向一揆



B級哲学仙境論


仏 教 編


 




浄土教の歴史




日本の浄土教=念仏宗 といえば

鎌倉仏教の

法然(ほうねん・1133~1212)の開いた浄土宗

親鸞(1173~1263)の浄土真宗

が思い浮かびます



しかし、法然、親鸞以前にも

日本に浄土思想を広めた人がいます



そこでは、浄土教の歴史について簡単にふれておきます





浄土教の成立時期は

インドにおいて大乗仏教が盛んになった時代だとされます


紀元100年頃に

「無量寿経」と「阿弥陀経」が編纂されたのをきっかけとし

時代の経過とともにインドで広く展開していったとされます




なお、阿弥陀如来には、アミタース(無量寿仏)と

アミターバ(無量光仏)の2つの梵名が知られます


チベット仏教では、阿弥陀を無量寿仏と無量光仏に分けます



仏教の無量光仏(阿弥陀如来)、弥勒菩薩、日光菩薩、大日如来

毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)などは

イランの太陽神との関連性が言われています






中国に浄土経典が伝えられる2世紀後半とされ

中国の慧遠(えおん・334~416)が、念仏結社「白蓮社」を結びます


般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)にもとづいた信仰を広め

中国浄土教の祖ともみなされています



般舟三昧とは、心を集中することによって

諸仏を眼前に見ることが出来る境地のことだとされます



般舟三昧経は、現存する仏典の中では

阿弥陀仏およびその極楽浄土について

言及のある最古の文献といいます


三昧によって極楽浄土の阿弥陀仏を現前に見る

ことが述べられているそうですが


極楽浄土への往生を願うのではなく

現世での般舟三昧の行によって

見仏を目指す点に

後世の浄土教信仰との相違があるといいます




ちなみに、慧遠は

時の権力者の桓玄が

仏教徒の政治権力への服従を求めて

沙門(出家者)に、帝王への拝礼を強要したのに対して

「沙門不敬王者論」を表わしたことでも知られます


出家者は、身を俗世の外におき

涅槃を求めて修行している

なので、世俗の礼法に束縛されない

それゆえ、帝王に拝礼しなくてもよい

という内容です





曇鸞(476~542・どんらん)は

世親の「無量寿経」(浄土三部経の1つ)

の注釈書である「浄土論」の注釈(再注釈)をしたことから

曇鸞を中国浄土教の開祖とみなす立場もあるようです


【 世親(せしん)・・・

インドの大乗仏教二大教派の1つ唯識派の実質的な開祖の1人 】




なお、慧遠以後、諸宗において

浄土教を併せて信仰、兼修する学僧が多かったそうです


但し、浄土教を専ら弘めたのは

曇鸞よりあとの道綽・善導だといいます





道綽(どうたく・562~645)は

曇鸞の教えを継承し

「観無量寿経」(浄土三部経の1つ)の解説書である

「安楽集」を著し

仏教を「聖道門」と「浄土門」に分け

浄土念仏を勧めました




善導(ぜんどう・613~681)は

観無量寿経の注釈書である

「観無量寿経疏」(観経疏・かんぎょうしょ)を著し

「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立します



しかし、称名念仏重視の流れは

中国では発展せず

日本の法然により評価され

日本の浄土教に多大な影響を与えたとされます



善導については

日蓮を考察する ① 捏造 を参照






日本でも、法然(1133~1212)より

ずっと以前から、浄土教は兼学されています


日本でも当初は

心に、阿弥陀如来を観じる「観想念仏」が主流で

奈良仏教(法相宗)・平安仏教(天台宗)で、行われていたといいます




平安中期の天台増

源信〔恵心僧都(えしんぞうす)・942~1017

比叡山中興の祖 良源の弟子〕は


「往生要集」

(西方極楽浄土の阿弥陀如来の国に

往生すべきことを説いたもの。3巻)を著し


藤原道長の帰依をうけるなど

浄土教を、平安貴族に流行させます



その影響で、平安時代は

極楽浄土や阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)

を表現する建築様式や美術様式が発展しました



三千院   転写


来迎形式の阿弥陀三尊では

勢至菩薩が合掌するのに対して

観音菩薩は蓮華を象徴する蓮台を持つ姿で表現されるそうです



そうした代表が、宇治の平等院や

平泉の中尊寺や毛越(もうつう)寺です




平等院  鳳凰堂と浄土式庭園  転写




平等院  鳳凰堂と浄土式庭園  転写




 毛越寺(もうつう)の浄土式庭園  転写




中尊寺金色堂   転写




また、「往生要集」で説かれた

地獄・極楽の観念や


厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)

〔この娑婆世界は穢れた国土であり、いとい離れるべきある・

阿弥陀仏の浄土をよろこんで願い求めるべきである〕の思想は


貴族から庶民まで広く普及し

後の文学思想にも多大な影響を与えたされます



なお、源信も「観想念仏」を重視したものの

一般民衆のために「称名念仏」を認め、知らせたといいます





平安時代後期には

天台宗の僧 良忍(1072~113)が

融通(ゆうずう)念仏宗という称名念仏の宗派を開いています


良忍は、京都大原の来迎院で修行中

阿弥陀如来から

速疾往生(誰もが速やかに仏に至る道)の「偈」(げ・詩句)


「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念

融通念仏 億百万編 功徳円満」


を授かり

開宗したとされます



融通念仏宗は

現在もの生き残っていて

総本山は、良忍開創の大念仏寺(大阪府大阪市平野区)です



教義は、1人の念仏が万人の念仏に通じるという立場から

称名念仏によって、浄土に生まれることを説くそうで


華厳経と法華経を正依とし

「浄土三部経」〔無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経〕は

傍依としているそうです





また、太鼓・鉦(かね)などを打ち鳴らし

踊りながら念仏を唱える

「踊り念仏」の起源とされるのが

平安時代中期の僧 空也(くうや・903~972)です



空也像  六波羅蜜寺  転写



空也は、浄土教の民間布教の先駆者とされていますが

伝説的なところが多いようです



およその話として

在俗の修行者として諸国を廻り

「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら

道路・橋・寺院などを造るなど社会事業を行い

貴賤を問わず多くの帰依者を得た


晩年には、仏像を背負って奥羽に向かい

法螺貝を吹き民衆を集めて教化したとされます


また、西光寺〔のちの六波羅蜜寺

(京都市。真言宗智山派)〕を建立し

そこで没しています



空也の念仏は

念仏に、和讃〔仏・菩薩・宗祖の徳、経典

教義などを賛嘆した和文。讃歌〕

をまじえたものを唱えながら踊り

陶酔感を体験させるものだったとされます





鎌倉時代には、時宗(じしゅう)の祖

一遍(いっぺん・1239~89)が、空也に倣って踊念仏を行っています



一遍は、法然の孫弟子にあたる

聖達(しょうたつ・浄土宗西山派)に学んでいます


35歳のとき、熊野本宮大社で100日参籠し

熊野権現〔本地(ほんち・本来の姿)は、阿弥陀如来〕より

霊夢のおつげを得ます



おつげは、【 極楽往生は

衆生の信・不信、また浄・不浄にかかわらない

阿弥陀仏の名号に定められているゆえに

「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と書いた御札を

ただひたすら配りなさい 】

というものであったといいます



そこで一遍は、少数の弟子たちを引き連れて全国を遊行し

念仏をすすめ

唱えた者に、紙の御札を配る賦算(ふさん)と

空也にならって、エクスタシーをともなう念仏踊りを体験させ


捨聖(すてひじり)とか

遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と呼ばれたそうです








一遍の弟子の真教(他阿弥陀仏)は各地に寺院を建立し

教団を組織化したとされます



なお、一遍は、自分の教団および信徒を時衆と呼んだそうです

これは、中国浄土教の祖の1人 善導が

法会に集まった人たちを時衆と呼んだのにちなみ

昼と夜の6時に念仏する集団を意味するといいます


時宗という教団名は江戸時代に公認されています




総本山は

清浄光寺〔しょうじょうこうじ・神奈川県藤沢市

通称 遊行寺(ゆうぎょうじ)。藤沢道場ともいう〕で

4代目 遊行(ゆぎょう)上人の呑海(どんかい)が

1325年に開いています



住職は一遍にならい

遊行〔定住せず、諸国をめぐって修行・布教を行う〕をなし

遊行上人と呼ばれます



晩年は、清浄光寺に退き、藤沢上人となり

各地の寺院(道場)を指揮するそうです


藤沢上人が没すると

遊行している遊行上人が藤沢上人となるといいます




なお、もともと時宗の総本山は

無量光寺〔神奈川県相模原市

一遍により草庵が設けられたのがはじまり、真教が道場とした

明治26年の大火により、現在の諸堂宇は明治以後のもの〕

でしたが


その4代目を巡って、遊行上人3代目の智得と

遊行上人4代目の呑海との間に対立が生じます


4代目の呑海は、3代 智得の死後、その跡を継いで

無量光寺に入寺しようとしたが


呑海が遊行を続けている間に

北条高時の命により

真光が止住していてこれを許さなかったといいます



このため、呑海は、廃寺を清浄光院として再興

これがのちに清浄光寺となったそうです



また、これにより時宗は、藤沢道場の遊行派と

当麻道場(無量光寺)の当麻派に分裂


やがて藤沢道場が優勢となったとされます




時宗の道場は、室町期(1336~1573)には2千に至ったといいます


また、信徒の中に、同朋衆、仏師、作庭師として活躍したものも多く

当時の文化を牽引しました



一方、幕府や大名から遊行に関する様々な特権を得ましたが

それらの特権は庶民の負担となったといいます



しかし、室町後期における浄土真宗の急激な教勢拡大にともない

衰退していったとされています




● 同朋衆


室町時代以降、将軍の近くで雑務や芸能(立花、茶湯、香、連歌など)

にあたった人々


時宗教団の遊行は、室町幕府より関所の自由通過を許されていたため

芸能を生活の手段とする人々が教団に加わるようになったという


このため時宗には芸能に優れた者が多く、同朋衆として活躍

同朋衆は阿弥号を名乗るのが通例となった


但し、南北朝時代の能役者・能作者の観阿弥

その子 世阿弥のように、阿弥号を名乗っていても

時宗の僧や信徒であったとは限らない







阿弥陀の恩寵



仏教は、大きく「大乗仏教」と「小乗仏教」に分かれます


小乗仏教は、世俗から離れた場所で

厳しい戒律のもとに修行に励み、自分だけの悟りを目指す教えです


大乗仏教は小乗仏教への批判から生まれたもので

利他行(菩薩行)によって

他者を教化し、悟り(仏道)へと導きつつ

自らも悟りを目指す教えです


世俗の中に身を置き一切衆生とともに悟りを目指す教えです



東南アジア諸国には主として小乗(南伝仏教)が伝わり

中国や日本には大乗(北伝仏教)が伝わました

日本の伝統仏教は全て大乗教です




小乗より大乗の方が勝れているのか?


日本では一般にそう思わされていますが

大乗の特徴として「信」と「功徳」の強調があげられます


釈迦の「信」とは、ものごとを明らかに見るために

心を清浄にととのえることであったとされます


つまり、対象を真摯に見つめていく心を言ったのです



ところが大乗に至ると「以信得入」

(いしんとくにゅう・信によって悟りの世界に入る)や

「以信代慧」(いしんだいえ・信じることがそのまま智慧を得ること)

などといった話にすり替わってしまっているのです



そもそも、大乗仏教自体が

釈迦の没後500年も経て成立したわけですから

釈迦の仏法とは大きく違います



こうした大乗仏教の中でも

「浄土経典」が一番 一神教の思想に近く

日本の念仏宗〔浄土宗や浄土真宗〕の教えが

こうした浄土経典をよりどころにしています


「南無阿弥陀仏」と唱える宗派です




他の宗派が、現世において自己の完成を目指し

最終的には「成仏」(仏になること)すること目指すのに対し


念仏宗は、阿弥陀如来(如来とは仏のこと)の

恩寵(おんちょう)によって

死後、極楽に往生(おうじょう)すること

極楽浄土に生まれることを願います




本来の大乗仏教は

菩薩(大乗仏教の修行者・仏を目指し利他を修行する者)が

衆生を救済する誓い(誓願)を立て

利他を修行して、仏を目指すというものです



ところが、浄土教典

〔無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経を浄土三部経という〕

をよりどころとする念仏宗では

≪衆生救済≫が、阿弥陀如来の本願

にすり替わってしまっているのです



つまり≪衆生救済≫が、菩薩の誓い(誓願)から

阿弥陀仏の願い(本願)=恩寵にすり替わってしまっているのです




これは「神の救済を求める」という一神教の性格が

仏教に入り込んだとものされています


本来、自力を主体とする仏教が

他力を主体としたものにすり替わってしまったということです







阿弥陀の四十八願



無量寿経において

法蔵比丘が菩薩として

阿弥陀仏となる際にあげた「四十八願」の誓い

そのうち18番目のものが、信仰上、最も重要とされます


18願とは、私(法蔵比丘)が、仏となるあかつきには

浄土へ生まれたいとして念仏する者は、必ずそれを実現させる

もし、救えないならば、仏とはならないという誓願で

「念仏往生願」などといいます



また、19願も重視されます

19願は、そのような人の臨終のときには

私は多くの諸仏・諸菩薩と共に迎えに行きます

そうでなければ、私は仏にはなりませんというもの

「来迎引接願」(らいごういんじょうがん)などという



念仏行者の臨終のときに

阿弥陀仏が諸の諸仏・諸菩薩を率いて

その人を迎えに来ることを「来迎」といい

極楽浄土に導くことを「引接」(いんじょう・いんせつ)といいます







法然の思想



法然は、≪それまでの仏教が

万人が「仏」になる方法を示していなかった≫

ことに気づいたといいます


そこで、≪末法の世に生まれた凡夫でもが

「仏」となる教えも仏教にあるはずだ≫

と考え


「阿弥陀の本願によって救済される称名念仏」

に行きついたとされます




彼は『選択本願念仏集』を著し

極楽浄土に往生するため称名念仏を「正」

それ以外の行を「雑」に分け、正行を行うように説いています



また「時」と「機」について述べ

釈迦の教えのなかから、自らの機根(能力)に

あうものを選び行じていくのが本義であること


称名念仏は、末法の世(時)でも有効な行である

と説きます



それから、仏教を専修念仏を行う「浄土門」と

それ以外の行を行う「聖道門」に分け


浄土門を娑婆世界を厭い極楽往生を願って専修念仏を行う教え

聖道門を現世で修行を行い悟りを目指す教え

と定義しています



但し、法然は、聖道門とその行によって悟りを得ること自体は

困難ではあるが甚だ深いものであるとし

聖道門を排除・否定することはなかったといいます




法然の称名念仏の考えにおいて

よく語られるのが「三心」(さんしん)です


「至誠心」(しじょうしん・極楽往生を願う真心) 


「深心」(じんしん・念仏すれば往生できると深く信じること)


「廻向発願心」(えこうほつがんしん・願往生心

自分が修めた善根功徳を他にも振り向けて

自他ともに極楽浄土に往生しようと願う心)



法然は、三心をそなえることで往生できるとしました


なお親鸞は、三心は深心 (信) の一心に収まるとし

信の一念で往生できるとしています




なお、来世に極楽に往生することを願う

浄土宗や浄土真宗でも

誰もが本来、仏性をもっているという立場は同じです


なので、極楽往生=成仏 ということです






念仏宗(浄土宗や浄土真宗)においては

一度の念仏(南無阿弥陀仏と称えること)で

極楽往生(死後、阿弥陀如来の国土である西方極楽浄土に生まれること)

できるという「一念義」と


往生のため日頃からたくさんの念仏を唱えるべきだという

「多念義」との対立がありました




また、念仏以外の諸行の修行者に対して

諸行は阿弥陀の本願ではないが往生は可能とする立場と

諸行では往生できないとする立場があります


さらに、念仏信者は報土(実報土・真実報土)に往生するが

阿弥陀の本願でない諸行の修行者は

極楽浄土でも化土(方便化土)、つまり辺地(へんじ・片田舎)

に往生するという立場があります


報土は、阿弥陀が報身の仏だとされていることからの名称です

つまり、報土 = 阿弥陀の浄土、西方極楽浄土です


まさに宗教の限界を象徴しているバカバカしい話です(笑)







親鸞の思想



浄土真宗の開祖である 親鸞(しんらん・1173~1263)は

法然の弟子です


彼は29歳の時に、20年に渡り修行した比叡山を下りて

聖徳太子が建立したとされる

六角堂(京都市中京区)で、百日参籠(さんろう)を行いました



95日目、聖徳太子(救世菩薩の化身)が現れる霊夢をみます


聖徳太子は「修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるなら

私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし

命が尽きるときには、導いて極楽に往生させましょう」


「これは私の誓願です

あなたはこの誓いを一切の人々に説き聞かせなさい」

というお告げを語ります



これにより、法然のもとを訪れ

教えを聴き、弟子になったとされます




親鸞は、法然が、阿弥陀の名を称える

≪行の一念≫を強調したのに対して

≪信の一念≫を強調しました




親鸞の根本は

1つには、自力の念仏(自分の力でする念仏)によって

極楽に往生しようとする従来の念仏では、凡夫は真実の浄土に至れない


絶対他力の念仏(阿弥陀の恩寵が、人にさせる念仏)によって

真実の浄土に至れるとし


「信楽」(しんぎょう・阿弥陀の恩寵に全てをまかせきる心)

を主張したところにあります




また、親鸞によると

≪ 正信の念仏者は

阿弥陀の信心を分かち与えられた存在であるため

内在的には仏と等しく (如来等同)


自らの力で念仏するのではなく

如来の力が人に念仏をさせる ≫


≪ 信者同士はともに、阿弥陀如来のはからいにより

念仏を信じ唱える身であるから、同朋(とも)であり

同行(同じ念仏の行者)である ≫ そうです




もう1つが、有名な「悪人正機」(あくにんしょうき)です


≪ 末法〔人間の心が邪悪となり、釈迦の教えに功力がなくなった時代

日本では平安時代中期より末法に入るとされた〕に生まれた者は

本質において皆、悪人である


ゆえに、なまじっか自分を善人だと思い込み

自力信仰に励む者より、自己の本性が悪であると自覚して

阿弥陀の本願に身をゆだねる者の方が、極楽に近い存在である ≫


≪末法においては、念仏のみが唯一救済の道で

戒律に執着する伝統仏教者は偽善者であって

罪悪に苦しむ凡夫こそが、阿弥陀の救いを受ける

正機(教法を正しく受け入れられる機根・能力)をもつ者である≫

というのが、悪人正機です




さらにもう1つ加えると「報恩感謝の念仏」です


≪ 阿弥陀の本願を信じた瞬間に

極楽行きが決定(けつじょう)する


ゆえに、念仏は救いを求めて行ずるものではなく

救済の決定に対し、阿弥陀への報恩感謝として行うものである ≫

という考えです





自力の禅宗(臨済宗・曹洞宗)に対して

他力の念仏宗(浄土宗・浄土真宗)と言われますよね


座禅という自力で、現世で悟りを得ようとする禅

阿弥陀の恩寵という他力に、死後の救済をゆだねる念仏


さらに、親鸞は、念仏にも、自力と他力があるとしたのです





ちなみに、浄土真宗(略して真宗)は

本願寺8世の蓮如(1415~99)以前は、弱小教団でした


日蓮は、親鸞の存在すら知らなかったとされます


なぜなら、あれだけ他宗の悪口が書かれている

日蓮の御書に、親鸞に関する記述がまったく見られないからです




●  蓮如 1415~99


真宗中興の祖。手紙の形式で教義を平易に説いた

「御文」(おふみ)により各地の門徒を指導

また、北陸の門徒を動かして一向一揆を起こさせ

加賀守護を倒し一国を支配、教団を守護大名に匹敵する勢力に拡大





浄土真宗の名称は

江戸時代には公認されていませんでした


なので当時の戸籍簿にあたる

宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)には


一向宗や門徒宗などと藩によって

違った名称で記載されていたそうです



一向宗とは、一仏(阿弥陀如来)に帰命(きみょう)する

ことからの名称です



1774年に、宗名を一向宗から浄土真宗に改めるように

幕府に求めましたが

浄土宗の大本山である増上寺の反対で実現されず


1875年(明治5)になって

ようやく浄土真宗の公称が許可されたといいます





それから、"僧侶の肉食、蓄髪、妻帯は勝手たるべし"

という勝手令(明治5)が出される以前は

僧侶の妻帯は許されていませんでした


但し、浄土真宗のみは、親鸞に妻がいたことから

僧侶の妻帯を、親鸞以来の宗風として

いつの時代も幕府より許されてきましたし

本願寺法主の座を、親鸞の子孫が独占してきたのです


親鸞には複数の妻がいましたが

蓮如は生涯、5度結婚し27人の子をもうけています







一向一揆



一向一揆は、室町から戦国期にかけて

近畿、北陸、東海におこった

本願寺門徒(一向宗=浄土真宗の信者)による一揆です


僧侶や門徒の農民を中心に、名主や地侍が連合し

大名の領国支配と戦ったものです



本願寺8世の蓮如は、越前吉崎(福井県金津町)に

御坊(ごぼう)を建てて北陸の布教につとめます


1474年、加賀守護の富樫氏の家督争いに介入し

門徒農民に加賀一揆をおこさせ

名目上の守護に富樫一族を置きますが

事実上、門徒の国人(こくじん)による支配体制を確立します



1530年代からは、本願寺法主(ほっす)が君主として君臨し

約100年にわたって加賀一国を支配します




9世の実如は、管領の細川政元に与し

1506年、政元の反対勢力である越前の朝倉、越中の畠山

越後の上杉らに対して

畿内・北陸の大一揆(永正一揆)を起こし


このうちの越中一揆では

越後守護代の長尾能景(よしかげ)を戦死させ

越中西部の支配権を確立します




本願寺10世の証如は、細川晴元政権と結び

畿内門徒に一揆を起こさせ

堺に日蓮宗信奉者の武将 三好元長を攻めて自害に追い込でいます



しかし、晴元は一向一揆の力におそれをいだき

反本願寺に転じて、日蓮宗の法華一揆と結びます


一向宗門徒は、大和、河内、摂津、和泉(いずみ)

近江などで晴元勢力や法華一揆と戦い


1532年には、細川氏・六角氏(ろっかくし)・法華一揆の勢力により

京都の山科(やましな)本願寺が焼かれ

これより拠点を、摂津(大坂)の石山本願寺に移します




石山は、証如によって堅固な要塞となります


本願寺を中心とした10におよぶ町の周囲に

堀をめぐらした巨大な宗教都市となったそうです


このような都市を寺内町(じないまち)といい

京都の山科本願寺が最初で、近畿や東海の本願寺系寺院によって

形成されたといいます


日蓮宗寺院にもみられたそうです

織田、豊臣によって解体されています





話をもどすと

一向一揆は1562年には、家康に対して三河一揆をおこし

家康の家臣団を分裂させます


主君家康に従った家臣と

主君との結びつきは今世限りのことと考え

本願寺に従った家臣が激しく戦ったといいます


この一揆は64年に鎮圧されます



その後は、信長を法敵と定めます


11世の顕如は、将軍の足利義昭、武田、朝倉、浅井

六角、毛利、上杉、荒木など反信長派の大名と結び

信長包囲網を形成するとともに


加賀、越前、近江、伊勢、紀伊などの門徒に総決起をうながし

畿内、東海、北陸で一揆をおこさせました



信長は一時的な講和を繰り返す一方で

各地の一揆の撃破につとめます


伊勢長島の本願寺を中心とした

尾張、美濃、伊勢の一揆は強大で

信長の弟の信興を自殺に追い込むほどだったといいますが


1574年、信長は、水陸から大軍で総攻撃を行い門徒多数を虐殺


さらに長島本願寺に講和を申し入れて開城させ

2万人をだまし討ちにします



この間、信長は姉川の戦(70年)で浅井、朝倉を攻略

延暦寺の焼き討ち(71年)を行っています




一向宗は、越前では72年に信長の家臣を倒し

支配権を確立するも75年の総攻撃により壊滅

加賀の南半分を奪われます


そして76年からは、石山本願寺籠城へと追い込まれます



雑賀衆〔さいがしゅう・雑賀とは和歌山市西部の一地区

雑賀衆は5つの郷から構成

反信長派の2派と信長派の3派に分裂〕は


多量の鉄砲を駆使し、籠城軍の中核を担うとともに

水軍としても毛利軍とともに、播磨(はりま)や淡路で信長軍と戦い

しばしばこれを破り、本願寺への補給路を維持したとされます



しかし、78年に、信長がつくった

鉄でおおった巨大戦艦の前に敗北します



この船には、毛利水軍の得意とした

火矢・鉄砲・焙烙(ほうろく・手投げ弾)の戦法が通じませんでした


それに戦艦には大砲も装備されていたといいます




なお、雑賀衆はかつては本願寺の門徒組織の1つと

考えられていましたが

神官や浄土宗門徒もいることから

今では地域的な組織であると考えられています


彼らは、本願寺落城後

鷺森(さぎのもり・和歌山市)に顕如をむかえ、守護しています




話を戻すと

海戦敗北以降、本願寺は毛利からの海上補給路を断たれて孤立します

3度の一時的な和睦をはさんで

11年にもおよんだ石山戦争もついに終わりをむかえます



80年に、勅命講和という形で終結

顕如は紀伊の鷺森に退去し、本願寺もここに移っています


83年には一時、和泉の貝塚に移り


85年には秀吉との和睦が成立、鷺森から退去し

大坂の天満(てんま)に移転


91年、秀吉から京都の地を与えられました


これが西本願寺(浄土真宗本願寺派の本山)の起源です




なお、信長との講和のさい、これに反対し

将軍義昭と結んで徹底抗戦すべきだと主張した

顕如の長子 教如を支持する勢力との対立があり

顕如は、教如を義絶(親子の縁を切る)しています



92年に、顕如が49歳で没すると

教如が本願寺を継ぎますが


准如(顕如の第4子)との間に後継争いが生じ

母の如春尼が准如に法主の地位を譲るように

秀吉に申し出て、教如は隠居させられます



しかし、教如はその後も本願寺の法主を名のって活動し

家康に接近し、1602年に京都の土地を与えられています


これが東本願寺(浄土真宗大谷派本山)の起源です




ちなみに、1582年、信長は本能寺の変により死に

翌年には、秀吉は、難攻不落の石山本願寺の旧地での

築城に着手しています これが大坂城です


信長が大変な犠牲のもとに獲得した遺産を

そのまま秀吉が受け継いだわけです







熊野詣と浄土思想



熊野本宮大社(本宮)

熊野速玉(はやたま)大社(新宮)

熊野那智大社〔那智の滝を御神体とする〕

の3社を熊野三山また熊野権現といいますが


熊野三山には

鎌倉時代以降、室町期まで盛んに参詣が行われました


これを熊野詣といいます



熊野三山のそれぞれの祭神は

家都御子神〔けつみこのかみ・木つ御子の意で

熊野が材木を産出したことに由来するという〕


熊野速玉神(くまのはやたまのかみ)


熊野夫須美神〔くまのふすみのかみ

夫須美は産巣日(むすひ・産霊)、つまり霊力であると考えられている〕


三山の分社数は全国で3千社あるそうです




三社は、和歌山県の南東部にそれぞれ20~40キロの距離を隔てて

鎮座していて、熊野古道(熊野参詣道)の中辺路(なかへち)によって

結ばれています



紀伊山地には、吉野・大峰、熊野三山、高野山という

3つの霊場が生まれましたが


熊野古道とは、伊勢や大阪・京都と、熊野の地とを結ぶ道のことです





熊野は古代には

隠国〔こもりく・霊の籠(こ)もる地の意〕

と呼ばれていたされます



古事記によると


ワニ(サメのこと)をだまして

隠岐島から因幡に渡ろうとした白兎が

ワニにとらえられ皮を剥がされて赤裸になる


苦しんでいた兎に、大国主命の異母兄である

八十神(やそがみ・多くの神の意)たちは

「海水で身体を洗い風に吹かせると治るよ」と嘘を教えたので

兎は前よりひどくなる


そこへ大国主がきて

「真水で身体を洗い蒲(がま)の穂の上にころがっていなさい」

と教えてやる



八十神たちは、八上比売(やがみひめ)という

女神に求婚するための旅の途中で

大国主命はその従者だったが


白兎は「あなたが姫を得るでしょう」と言う

兎はじつは八上比売の使いだった


八十神たちに求婚された八上比売は

「私は大国主命に嫁ぎます」と応える



これに怒った八十神の大国主への迫害が始まる


兄たちにだまされた大国主命は焼き石を

猪だと信じて受けとめて焼死する


神産巣日神(かむむすひのかみ)により

地上に派遣された 蚶貝姫(きさがいひめ・赤貝の精)と

蛤貝姫(うむぎひめ・はまぐりの精)に火傷を治されて生き返る



さらに紀(木)の国に逃げ、そこで

大屋毘古神〔おおやびこのかみ・紀伊地方の土着神〕

から教えられた大樹の根元にある大きな穴から

須佐之男命(すさのおのみこと)の支配する

根の国(地底の国)に行く




つまり紀の国は、地底の国の入り口とされていたわけです


この根の国は、黄泉津大神(よもつおおかみ)となった

伊耶那美命(いざなぎのみこと)が統治する

黄泉国(よみのくに・よもつのくに。死者の国)

と混同されるようになります



一方、黄泉国も、常世国(とこよのくに・海のかなたにある理想郷)

との混同がすすみます


このようなことから、隠国(こもりく)である熊野へ行けば

死者の霊に合えるという信仰が生じたのではないか

と考えられています





●   常世国


海のかなたにある不老不死の理想郷

一方で死者の赴く世界となりました



大国主命のなす国土の開発と整備を助けるため

波の彼方よりガガイモの実の莢(さや)でできた舟に乗って

光輝きながらやってきたのが


少彦名神(すくなひこなのかみ)という神です



少彦名神は

古事記では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子

日本書紀では 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子です



小人の神で、蛾あるいはミソサザイ

(すずめ程度の大きさの茶色の鳥。日本産の最小の鳥)

の羽を衣服としていたとされます



大国主に協力し、農業技術を指導したり、宅地を造ったり

温泉を掘ったり、薬を調合して国の発展に協力しましたが


まだ国づくりが完成しないうちに

「私は本来、薬学が専門だ

もっと勉強するために国に帰るのであとは頼む」と語り


粟(あわ)の穂先に登ると、弾かれるようにして飛び

常世国に帰っていったとあります






平安期中期に、浄土思想が盛んになると

熊野を訪れることで極楽浄土へ往生できるという信仰となり


やがて熊野は、神仏習合の修験道の地となったようです



ちなみに、鎌倉時代から室町時代を中心に

行者が、南海上にあるという観音菩薩の浄土

補陀落山(ふだらくせん)を目指して小舟で海を渡ろうという

補陀落渡海がなされています


この基点となったのが、熊野灘

あるいは足摺岬(高知県の南西端)や室戸岬(高知県の南東端)です


観音信仰





熊野詣は、907年の宇多天皇や

991年の花山(かざん)法皇などにはじまるとされます


平安後期から鎌倉時代前期の院政時代には

上皇や法皇の参詣が盛んとなり


白河上皇から亀山上皇までの約120間に

上皇・法皇が100度を超える参詣を行っています


〔白河上皇は10度、鳥羽上皇は21度

後鳥羽上皇は28度も行っている

なお100度といっても

1度に複数の上皇が同行したものもある〕



これら上皇に、女院〔皇室の女性〕

女官などが随従したといいます


また頼朝の妻の北条政子も参詣しているそうです




熊野詣の頃には浄土信仰が広く

本宮は、阿弥陀如来の西方極楽浄土

新宮は、薬師如来の東方浄瑠璃浄土

那智は、千手観音の補陀落(ふだらの)浄土の地であるとみなされ

熊野全体が浄土の地であるとして参詣を集めたようです



鎌倉時代以降は

武家や庶民層にまで参詣が広まり

列をなして参詣するさまを

「蟻(あり)の熊野詣」と称したほどに流行したとされます



熊野は辺境の山岳地帯にあり、参詣には道案内人が必要で

道案内をつとめたのが、先達(せんだつ)で

先達には、熊野で修業をした山伏(修験者)があったといいます


先達はお金になるので

先達する権利が一種の株となっていったといいます


また、御師(おし)と呼ばれる神社に所属する神官が、先達を介して

旦那と師檀関係を結び、山内を案内したり、祈祷をしたり

宿泊の世話(宿泊施設を兼業とする御師もいたようである)

をしたりしたとされます



また、山伏や熊野比丘尼が

社殿や堂宇の修復のため勧進

〔かんじん・寄付をつのること。これにより善を積ませること〕をして

全国を遊行したことも、熊野詣が繁栄した理由といいます



そのさい山伏や熊野比丘尼は

那智の滝と参詣の様子を描いた那智参詣曼荼羅や

熊野勧心十界曼荼羅を見せて絵解きをしたり

「熊野の本地」という話を語り聞かせたといいます



那智参詣曼荼羅  転写




●  熊野勧心十界曼荼羅


仏教の十界の世界を描いた図

上部に半円の道(そこを歩く人で人の一生を示す)

その下に仏菩薩、その下にあたる中央上部に心の字

その下には僧侶らによる施餓鬼会(せがきえ)の様子

〔「施餓鬼」は、お盆に行われる

餓鬼や無縁仏に飲食を施す法会(ほうえ)〕

下部に修羅、餓鬼、地獄を描いている


熊野比丘尼が主に女性信徒に対して

血の池地獄や不産女(うばずめ)地獄を絵解きをしたという



熊野勧心十界曼荼羅  転写



熊野勧心十界曼荼羅  転写



「熊野の本地」とは、熊野権現の祭神の由来物語で

15世紀に成立したといいます



内容は、インド中部のマカダ国の

善財(ぜんざい・善哉)という王に千人の后がいた

このうちの五衰殿(ごすいでん)は

王からの寵愛をうけ、他の后たちから妬まれる



五衰殿は懐妊するが、后らは人相を観る者を味方に引き入れ

「生まれてくる王子は7日目に鬼となり

王を殺害し国が乱れます」と奏上させる



王は武士たちに命じて五衰殿の首をはねさせるが

王子はその直前に誕生し、首のない母から乳を飲み

山の獣に育てられ、のちに麓の聖人に保護・養育される



7歳のとき、聖人はその子をともない王を訪れる

王子はそれまでの過去を打ち明け

秘法によって父の病気を治し、さらに母を蘇らせる



そして、女人の心悪しき国を嫌い

王子、父母、聖人の一行は、飛車で日本に渡った



日本でも住む地を求めてさすらい

ようやく紀伊の音無(おとなし)川の地にとどまり

熊野の神々になった


というものです




熊野詣は室町時代より衰退し

戦国時代には、熊野講の風習も消滅したといいます


但し、那智大社に隣接する 青岸渡寺(せいがんとじ)が

西国三十三ヶ所 観音霊場〔和歌山・大阪・奈良・京都・滋賀・岐阜に及ぶ〕

の第1番札所(ふだしょ)とされたため

その参詣者が熊野に詣でたといいます



しかし、江戸中期には、西国巡礼も衰退し

江戸後期には、伊勢への参拝が年間約40万人いたのに対し

熊野には1万5千人程度しか訪れなくなったといいます




釈迦の「縁起説」 VS 禅の「真如隨縁」 ①




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