緋山「B級哲学仙境録」 仏教編 観音・普賢と文殊・弥勒・地蔵信仰について



B級哲学仙境論


仏 教 編


 




観音・弥勒・地蔵




観音信仰



観音経とは、法華経の第25品の

観世音菩薩普門品を独立させたものです


観音経では、観音が33の化身を現じて法を説き

衆生を救済するとあります



33身とは

仏、縁覚、声聞、梵天、帝釈天

自在天(ヒンズー教の最高神シバが仏教に取り入れられたもの)


大自在天(シバと同じ)、天大将軍、毘沙門天、小王、長者

居士(資産家と在家者の2つの意味がある)、宰官(さいかん・役人?)


婆羅門(バラモン)、比丘(僧侶)、比丘尼(尼僧)

優婆塞(うばそく・男性の在家信徒)、優婆夷(うばい・女性の在家信徒)


長者婦女、居士婦女、宰官婦女、婆羅門婦女、童男、童女、天人

竜、夜叉、乾闥婆(けんだつば・天の伎楽神。香だけを食べる)、阿修羅


迦楼羅〔かるら・金翅鳥(こんじちょう)ともいう

頭や翅が金色の大怪鳥。変化自在で1日に1竜王と500の小竜を補食する〕


緊那羅(天の伎楽神。乾闥婆とともに帝釈天の前で奏する)

羅伽(まごらか・蛇頭人身で無足腹行の大蛇神。楽神という)


執金剛神(しつこんごうしん・金剛力士。仁王)

です




この33化身にちなむ三十三観音は

仏典に散見される観音や

中国と日本の伝統、俗信の観音をあわせて生まれたたもので

仏典のものはわずかで、ほとんどが成立不明とされています




いくつか代表的なものをあげると


楊柳(ようりゅう)観音〔楊柳の枝を持つ

楊柳は衆生の願いにしなやかに添う意〕


白衣(びゃくえ)観音〔白衣を着て清流の岩上に坐す

禅の境地を顕すとして禅宗で好まれ、山水画に描かれた〕


大船観音   転写



滝見観音〔断崖に坐して滝を見る〕



魚籃(ぎょらん)観音〔手に魚籃(びく)を持つ

観音経の信者に嫁いだ魚商の美女が

本当は観音の化身であったという中国の伝説にちなむ〕


 転 写



水月観音〔水辺の岩上に坐し水面の月をながめる

鎌倉・室町期には禅僧により多くの水墨画が描かれた〕



灑水(しゃすい)観音〔左手に持つ灑水器の水を、右手の散杖で地に注ぐ

灑水は煩悩を洗い流す意〕

なんてのがいます





「西国三十三ヶ所」や「坂東三十三ヶ所」の観音霊場も

観音経の観音が33の化身を現じて法を説き

衆生を救済するというのにちなみます


江戸時代には庶民に観音巡礼が広まったとされます





● 西国三十三ヶ所



718年に、奈良の長谷寺の開祖である 徳道上人が

病気で没しようとしているとき


閻魔から「地獄へ送られる者があまりにも多い

33ヶ所の観音霊場を巡れば

滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように」と言われ


現世に送り返され、西国三十三ヶ所を定めた



その後、忘れ去られていたが

約270年後、花山法皇(968~1008)が

那智で参籠していると、熊野権現が現れ

「徳道上人が定めた33の観音霊場を再興するように」

とのお告げを下した

法皇がこれを受けて再興させたといった伝承がある


歴史的には、天台座主・

園城寺長吏を務めた 行尊(1055~1135)が

西国33ヶ所の巡礼を行ったというのが初見



熊野詣から巡礼を始める者が多かったので

那智大社に隣接する 青岸渡寺(せいがんとじ)が

第1番札所に定められたという


和歌山・大阪・奈良・京都・滋賀・岐阜に及ぶ


ほとんどの寺院が、真言宗と天台宗

またそれらから独立した単立(たんりつ)寺院で占められている





●  坂東三十三ヶ所



鎌倉3代将軍の源実朝が

西国三十三ヶ所を模範として定めたという


神奈川・埼玉・東京・群馬・栃木・茨城・千葉に及ぶ

ほとんどが真言宗と天台宗の寺院で占められている





●  秩父三十四ヶ所


もともと33ヶ所であったが、西国と坂東とあわせて

百観音とするため1寺増やしたという

札所が開創されたのは、文暦元年(1234)と伝えられるが

江戸時代に盛んになったという

ほとんどが曹洞宗と臨済宗で占められている







観音菩薩のサンスクリット名は

アバロキテーシュラバで


妙法蓮華経の訳者 鳩摩羅什(くまらじゅう・344~413)は

これを観世音菩薩と訳し


般若心経の訳者 玄奘(げんじょう・602~664)は

観自在菩薩と漢訳しています



観世音とは世音を観ずる

世間の1人1人のあらゆる切なる声を観じる意です


救世(くぜ)観音ともいいます

鳩摩羅什以前は、光世音などと訳されていたそうです





観音経には、観音菩薩の名号を唱えることで

火の難、水の難、羅刹(らせつ・食人鬼)の難

刀杖(とうじょう)難、鬼の難、束縛難、怨賊(おんぞく)難

の七難が消滅し、貪(とん・むさぼり)・瞋(じん・怒り)・

痴(ち・おろか)の三毒が消え

女性の願いに応じて男児、女児が授かるとあります





それから密教の「七観音」は


聖観音〔しょうかんのん・一面二手

左手に蓮華を持つのが一般的だが、必ずしも一定していない〕


 転 写



それと聖観音が変化した

6つの 変化(へんげ)観音をさします


変化観音は、多面多臂を特徴とするヒンズー教の神像の影響をうけ

7世紀に成立したものとされます



変化観音は


千手観音〔千手千眼観音ともいい。千の慈手と千の慈眼を持ち

あまねく衆生を救う。千手といっても42手で、中央の2手を除く40手が

それぞれ25の世界の衆生を救うので千手になるという

奈良時代には実数で千手を持つ像も作られ

このうち合掌手を除き、40手が持物をもち

残りの958は光背状の小手。多くが11面〕


 転 写



 転 写




十一面観音〔あらゆる方面の衆生を救う。本面は1面で

頭上の宝冠が10の小面からなる。宝冠は正面三面が慈悲面

左三面が怒りの面、右三面が笑狗牙上出面(しょうくげしょうめん)

後ろが暴悪大笑面

正面三面のちうち中央は宝冠の頂上部にありこれを仏面

左右を菩薩面という。2手と4手がある〕


     
 転 写   笑狗牙上出面  転写 


 暴悪大笑面 転写




如意輪(にょいりん)観音〔あらゆる願いをかなえる如意宝珠(摩尼宝珠)と

衆生の迷いを破る法輪(チャクラ)を持つ。両足裏をあわせる輪王坐をとり

1面6手で、右膝を立てその上に置いた右手の第1手を頬にあて

左手の第1手は下げて地をなでる〕


 転 写




馬頭観音〔馬が雑草を食い濁水を飲み干すように

煩悩や諸悪を食い尽くす

また魔を降伏させる勢いを馬で表現したとされる

頭上に馬頭冠を頂く。3面8手が多い〕


 転 写




准胝(じゅんてい)観音

〔七倶胝仏母(しちぐていぶつも・七千万の仏の母の意)・

准胝仏母、尊那仏母ともいう

人を悟りに導いて数限りない仏を誕生させる

1面3目18手のものが多い〕


 転 写




不空羂索観音 〔ふくうけんじゃくかんのん・羂索(けんさく)とは

一端に金剛杵 (こんごうしょ)の半形をつけ

他端に環をつけた青・黄・赤・白・黒の五色線をよりあわせた投げ縄

鳥獣をとらえる道具また武器。苦海に沈む衆生を

いけどりにして悟りの彼岸に送る。1面3目8手が多い


     
 転 写   転 写 



なお、多羅菩薩(多羅観音)という密教の女菩薩は

観音菩薩の目から発せられる聖なる光から生まれた

16歳の少女の姿の菩薩だといいます




観音像を海から拾い上げて

本尊として祀った話も多いです



鎌倉の長谷寺〔単立(たんりつ)寺院〕の長谷観音

〔十一面観音。9m余の立像。木像としては最大という

但し14~17世紀にかけて再三修理されている〕は


鎌倉   転 写



大和の長谷寺〔奈良県。真言宗豊山派総本山

聖武天皇の勅願により727年に創建

現在の本尊は1538年のもの

8m余ある十一面観音で重文

最初のものは994年に焼失。牡丹の寺として有名〕

を開いた 徳道が、2体の観音像をつくり


1体を大和の長谷寺に安置し、もう1体を海に流したところ

三浦の長井に流れ着いたものだといいます


鎌倉の長谷寺は、これを縁に徳道が創建したといいます



奈良   転写




浅草の浅草寺〔せんそうじ・もと天台宗

戦後独立し、聖観音宗の総本山となっている〕の本尊の

聖観音(秘仏)は


628年に、宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていた

檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成の兄弟の網にかかったもので

1寸8分(約5.45センチ)の金無垢と伝えます



これを郷司の 土師真仲知(はじのまなかち)が

自宅を寺堂として祀ったのが浅草寺の起源といい

このとき真仲知は僧なったといいます



さらに真仲知の子が

3人を観音堂のそばに鎮守神として祀るように神託を受けて

社殿〔現在の浅草神社。浅草神社の祭神は

土師真仲知命(はじのまなかちのみこと)

檜前浜成命、檜前竹成命で、他に大国主命と東照宮の祭神を合祀する〕

を創建し、神仏習合の三社権現となったといいます



三神は、阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)が

本地(本来の姿)とされたそうです


明治の神仏分離により浅草寺と浅草神社に分かれています






それから観無量寿経(浄土三部経の1つ)では


勢至菩薩〔せいしぼさつ・智慧の光により一切を照らし衆生が地獄・

餓鬼界へ落ちないように救済する菩薩

観音が慈悲をあらわすのに対し、智恵をあらわす〕

とともに


阿弥陀仏の脇侍(きょうじ・わきじ)として

阿弥陀三尊の1尊格になっています



勢至が右脇侍(向かって左)で、観音が左脇侍です


また、勢至が宝冠に水瓶を付けているのに対し

観音はふつう宝冠の前面に阿弥陀の化仏を付ています

これは七観音全てに共通する特色といいます



 転 写



また来迎形式の阿弥陀三尊では

勢至菩薩が合掌するのに対して

観音菩薩は蓮華を象徴する蓮台を持つ姿で表現されるそうです



ちなみに日本では、勢至菩薩が単独で

信仰の対象となることほとんどみられないそうです





無量寿経(浄土三部経の1つ)の

阿弥陀の「四十八願」(しじゅうはちがん)の第19願は

「来迎引接願」(らいごういんじょうがん)で


念仏する者の臨終にあたり

阿弥陀が、観音・勢至をはじめとする25の菩薩


〔 観世音・大勢至・薬王・薬上・普賢・法自在・獅子吼・陀羅尼・虚空蔵・徳蔵

・宝蔵・金蔵・金剛蔵・山海慧・光明王・華厳王・衆宝王・月光王・

日照王・三昧王・定自在王・大自在王・白象王・大威徳王・無辺身 〕


とともに紫雲にのってやってきて、阿弥陀の光に収め

極楽浄土に連れて行ってくれるというものです






それから浄土教典においては

観音は阿弥陀とともに西方極楽浄土にいますが

諸経典には、観音菩薩の住処(浄土)として

「補陀落山」(ふだらくせん)が説かれています



華厳経の入法界品(にゅうほっかいぼん)には

補陀落山はインドの南方海上の山とされ


宝石で満たされ、清浄で、泉や沼や小川があり

華や香草や果実の樹木が生い茂っていて、賢聖が多くいるとあります




「西遊記」の三蔵法師のモデルとなった

玄奘〔げんじょう・602~664

16年間、西域、インドを巡って仏教を学び

仏跡をたずね、657部もの仏典と、仏像や仏舎利を持ち帰って

5部1335巻を訳出〕の

旅行記「大唐西域記」には


“南印度の秣刺山(まらやま)の東にある”

と実在するかのように書かれていて


これをインド南部の西海岸のマラーバル地方である

などと特定する考えもあるようです





また、中国には浙江(せっこう)省の

舟山(しゅうざん)群島の一小島に

観音菩薩の霊場 普陀山〔ふだせん・普済寺(ふさいじ)

をはじめとする三大寺院の他

200以上の小院がある〕があり


中国仏教の四大霊山

〔他は地蔵の九華山(きゅうかざん)

普賢(ふげん)の峨眉山(かびざん)、文殊の五台山〕

となっているそうです



チベットでは

観音菩薩の化身とされるダライ・ラマの宮殿が

ポタラ宮(ポタラは補陀落のこと)と名付けられています




日本では、日光の地名が補陀落山に由来するといいます

ふだらく→ 二荒(ふたら)→ 二荒(にこう)→ 日光

となったといいます





それから、日本では、鎌倉から室町時代を中心に

修行者が、熊野灘(和歌山県)や、足摺岬(高知県南西端)や

室戸岬(高知県南東端)などから


南海上にあるという

補陀落山を目指して小舟で海を渡ろうとする

補陀落渡海がなされたとされます




鎌倉時代に成立した史書「吾妻鏡」(あずまかがみ)には

頼朝の家臣 下河辺(しもかわべ)行秀という人が


那須野の狩りで鹿を射損じたのを恥じて

法華経の行者となり


熊野で修行した末、屋形船に30日分の食糧と油を積み

外から釘を打って密閉してもらい補陀落渡海したとあるといいます



また、熊野年代記には、平安時代の868年に慶竜上人という人が

919年に補陀落山寺住職の祐真上人と同行者13名が


1131年には補陀落山寺住職の高厳上人が渡海したとあり

さらに、室町期には10名、江戸時代には6名

およびその者たちに同行した人数があげられているといいます




熊野の補陀落山寺

〔天台宗。寺伝では、5代孝昭天皇の時代に

インドの僧 裸行上人が創建〕では

補陀落渡海のための修行者が住職となり

60歳になると補陀落渡海したそうです


〔江戸時代には、臨終が近づくと、補陀落渡海したと伝える〕




また、熊野の那智山が補陀落山に擬されたり

あるいはそこに至る東の門と見なされて信仰されてきたそうです





補陀落山への渡海は

観音の浄土への往生をめざした一種の捨身

〔しゃしん・仏や法に身を供養すること

王子(さったおうじ・釈迦の過去世の姿)が

餓死しそうな母虎と七匹の子虎を救う為自分の身をささげた

捨身飼虎(しゃしんしこ)は有名

捨身は自殺とは区別されている〕とも考えられているようです








普賢と文殊



普賢菩薩〔ふげんぼさつ・梵名 サマンタバドラ〕は

あまねく全ての場所に出現し

賢者の功徳を示す菩薩だといいます



釈迦の実母 マーヤー(摩耶)は

6牙の白象が胎内に入る夢を見て懐妊

〔これは釈迦が6牙の白象に乗って、兜率天(とそつてん)から

マーヤーの胎内に降臨したことを意味する〕したとされますが


普賢菩薩は6牙の白象に乗ります

6牙は六根清浄を示すとされます



華厳経の普賢行願品では

衆生救済のため身を粉にして精進し

これにより得た功徳を、全て悟りを得るためにふりむけるという

10願〔普賢行願〕を立て、これを成就しています



それゆえ

「上求(じょうぐ)菩提・下化(げけ)衆生」

〔上には悟りを求めて修行し、下には衆生救済をなす〕

という大乗の理想的実践を象徴する菩薩とされます




法華経の最終章(28品)の

普賢菩薩勧発品(かんぼつほん)では

普賢が、治病、罪滅、護法の功力がある呪文によって

法華経の行者を守護するとあります



また、天台大師が法華経の結経と位置づけた

観普賢菩薩行法経(観普賢経)では


六根清浄にして正法を受持、読誦すると

6牙の白象に乗った普賢菩薩を観ずることができ

これに懺悔(ざんげ)することで仏身を成就できるとされている

といいます


普賢菩薩   転写




普賢の賢は、かしこいという意味だから智慧の菩薩なのか?


ことわざに“3人寄らば文殊の智慧”とありますが

智慧の菩薩の代表格は

文殊師利菩薩〔もんじゅしりぼさつ・

梵名 マンジュシュリー。文殊菩薩と略す〕です



文殊は音写訳で、意訳は、妙吉祥菩薩あるいは、妙徳菩薩です



この菩薩は、般若系経典においては

仏(釈迦)以上に登場し活躍していることから


初期般若系経典の形成に関係した実在の人物が

理想化されたものと考えられています



 転 写



空の智慧が文殊の特徴で、普賢と組みで信仰されます


普賢が、大乗の行、実践を象徴し

文殊が大乗の智慧である空観を象徴するとして


釈迦如来の脇侍(きょうじ・わきじ)として

左に獅子に乗った文殊、右に白象に乗った普賢が配されます




 転 写







弥勒菩薩



弥勒(みろく)菩薩は

西方のメシア思想の影響のもとに誕生したとされます



弥勒下生(げしょう)経においての弥勒菩薩は

釈迦の次ぎに仏になる菩薩で


釈迦滅後の56億7千万年のとき

兜率天(とそつてん)より地上に降臨する


大臣を父として選び

その妻の胎内に宿り、その右の脇より生まれる


華林園の竜華樹の下で悟りを開いて仏となり

3回の法会(竜華会)で

釈迦の救済にもれた300億近くの人を迷いから救う

とされています




56億7千万年については


弥勒の兜率天での寿命は4000年とされていて

兜率天の1日は地球の400年にあたります


すなわち降臨までは、4000×400×360(1年を360日で計算)で

5億7600万年かかるということになり

これが後に56億7千万年に入れ替わったなどと考えられています




一方、弥勒上生(じょうしょう)経では

衆生の方が、弥勒の国土である兜率天におもむくとあり

阿弥陀の極楽浄土への往生と共通しているそうです




なお、現在、弥勒は兜率天で

天人(神々)の為に説法をしているとされます





また、阿弥陀の極楽浄土と弥勒の兜率天との

優劣が争われたことがあり


兜率天が六道(地獄・餓鬼・修羅・人・天)

の世界にあることが攻撃されたといいます





中国では、弥勒の出現と救済を語り

現世に浄土を建設しようと説き

多くの農民信徒をあつめた勢力が

しばしば王朝への反乱を起こしています




日本では、平安時代末に末法思想と結ばれ

末法濁世(まっぽうじょくせ)の衆生を救うため

弥勒がこの世に出現するとされ


それまで仏典を濁世から守るという理由から

仏典を土中に埋め


その功徳によって

弥勒の法会に加わることができるという

埋教(まいきょう)信仰が流行したといいます






弥勒菩薩のサンスクリット名は、マイトレーヤで

≪慈民≫や≪菩薩≫を意味するとされます


「弥勒」の語については

バラモン教のミイロが語源らしいです

ミイロは、ミトラ・ミスラから派生した神とされます




ミトラは、インド・イラン共通時代(古代アーリア人の時代)

にまで遡る古い神格と考えられていて


インド神話にはミトラのまま

イラン神話にはミスラとなって登場するといいます



ミトラやミスラは、本来は、契約の意味で

契約によって結ばれた盟友をも意味し

友情・友愛の守護神、正義や真実の神であったといいます


また、太陽神、光明神としての性格も持っていたといいます




リグ・ヴェーダでは、アーディティヤ神群

〔女神アディティの息子たち・アディティは無拘束,無限の意〕

の1柱とされています


このアーディティヤ神群は、太陽と関係が深く

バルナ、ミトラを首領とし


アリヤマン(歓待)、バガ(分配、幸運)、アンシャ(配当)

ダクシャ(意思)の6神をさすといいます


後世には、ヴィシュヌ(現在のヒンズー教の最高神)などが加わって

12神とされるようになったそうです



ミトラは、毎年6月の一カ月間、太陽の戦車に乗って

天空を駆ける神となったそうです




ちなみに、バルナは

リグ・ヴェーダ時代のバラモン教では重要な神です


司法神です


リタ(天則・天の運行から、祭祀、人倫まで貫く宇宙の法則

神も人間もこれを守る)を守護する神で


多くのスパイを使い人間を監視し

リタに背く者に罰を与え、脱水病にします


悔い改めた者には慈悲深い神です


後代には単に水神や海上の神となっています

密教に水天(水界の主)として取り入れらました





話を戻します

ミトラ・ミスラは、東西両世界に大きな影響を与えた神です


ペルシア(イラン)では、ミスラが古ゾロアスター教において

アフラ・マズダと表裏一体を成す天則の神となります


のちに「ヤザタ」〔アフラ・マズダが生み出した中級の神々〕

の筆頭に位置付けられています


ゾロアスター教は、世界最古の一神教とされる宗教で

アフラ・マズダは、光明の神です





ローマでは、ミトラス教の主神 ミトラスとなります



●  ミトラス教


1世紀後半から4世紀半ばにかけて流行した宗教

ローマ帝国全域、ライン・ドナウ川流域、スペイン

北アフリカに広まっていたという


太陽神ミトラスを信仰する


ミトラスは、豊穣の牡牛を殺し

人々に繁栄と救済をもたらしたされ

光を遮断したドーム型神殿の半地下の奥室にある

「牛を殺すミトラス」の壁画を礼拝したという


また聖なる牛を殺し、ミトラスとの合一を説いたとされる


ミトラスが忠誠の神でもあったことから、ローマ帝国の男子

とくに兵士の信仰をあつめた


悪を倒すことは、兵士にとっての仕事であるから

牛を悪に見立てて神の生贄としたと考えられている


5世紀にはキリスト教徒の弾圧によって

神殿が破壊され消滅していったとされる




ルーブル美術館  ウィキペディアより


2~3世紀 ルーブル美術館  ウィキペディア






ミスラの阿弥陀如来への展開も指摘されています


仏教の無量光仏(阿弥陀如来)、弥勒菩薩、日光菩薩、大日如来

毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)などは

イランの太陽神との関連性が言われています


ゾロアスター教の唯一神で、光明神でもある

アフラ・マズダと近縁だとも考えられています


大日如来は、マハーバイローチャナ(摩訶毘廬遮那)といい

マハーは大の意。バイローチャナは〈輝く太陽に由来するもの〉

という意味だとされます






ミスラは、クシャーナ朝

(1世紀半ば~3世紀前半に北西インドと中央アジアを支配)

においては太陽神 ミイロとなり(貨幣にも見られる)

ミイロは仏教に取り入れられ弥勒菩薩になったとされます


弥勒はミイロの音写からきているそうです


マイトレーヤは、マイトリー(慈愛・友愛)をなすものであり

マイトリーは、ミトラ(盟友・友情・友愛)の派生語だといいます



以下  転写






      












地蔵信仰



地蔵菩薩本願経や地蔵十輪経では

釈迦の死後、弥勒の出現までの無仏時代に

衆生を教化、救済するのが地蔵菩薩であるとあります


無仏の世で、六道の衆生を教え導くことを誓い

とした菩薩といいます



地蔵は、大地と、胎=子宮を意味し

バラモン教の大地母神 プリティビーが仏教に取り込まれ

菩薩になったと考えられています



地蔵菩薩は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天 の六道をめぐり

閻魔などさまざまな存在に姿を変えて人々を救済するとされています



その忍耐強さは大地のようで

内証は、仏の悟りを得た菩薩であるが

衆生を教化するためわざと声聞、縁覚の位にいるとも言われます



転  写



日本では平安時代に末法思想と結びつき

衆生に代わって地獄に落ちて苦しみを受け

西方浄土に導くなどとされ

阿弥陀の信仰と重なるところが多いといいます



南北朝以後

全国の道端にも地蔵の像がみられるようになったとされます



六地蔵(6体の地蔵を祀る)は

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天

の六道の衆生を救済することから生まれたといいます



転  写



また、地獄で、閻魔の裁きを受けるのを

地蔵が救ってくれるなどという俗説も生まれたとそうです


とくに、幼い子供が親より先に死ぬと

親孝行の功徳を積んでいないから


三途の川を渡れず、賽の河原で鬼のいじめられ

石の塔作ることを、永遠に続けなければならないが


地蔵は、鬼から子供達を守り、成仏へ導くという逸話は有名で

地蔵の姿も幼児化され、よだけかけをつけるようになっています





さらに、死後の救済から

現世利益的な信仰も加わって


子安地蔵(子宝、安産の地蔵)  延命地蔵


将軍地蔵(祈れば戦に勝つという地蔵。鎌倉時代以後

武家の間で信仰。身に甲冑かつちゆうを着けている)

などが生まれています



将軍地蔵  転写





【 愛宕神社・・・・

全国に約900社。根本社は、京都市北西部の愛宕山(924m)に鎮座

祭神は、迦具土神(かぐつちのかみ)、伊耶那美命(いざなみのみこと)

雷神(いかづちのかみ)など他数

火防(ひぶせ)の神として信仰される


神仏習合がすすむなか

祭神は、天狗の姿をした愛宕権現太郎坊と称されるようになった


鎌倉末期には、将軍地蔵

〔甲冑を身につけ、馬にまたがる軍神姿の地蔵菩薩

清水寺と愛宕神社を核に広く各地に浸透〕を


愛宕権現太郎坊の本地仏として祀るようになり

武家の信仰を集めた


また、火防の神と地蔵信仰が結びついた


愛宕聖(あたごひじり)という下級神職が火防の護符をくばり

講も結成され、全国に信仰が広まった 】






水子地蔵について調べてみると


ウィキペディアに

【 1970年代頃から水子供養の習慣が広まっていき

占い師などが水子の祟りを語って水子供養を売り物にしていった

その背景には、檀家制度が破綻し経営が苦しくなった多くの寺院が

経済的利益のために大手墓石業者とタイアップし

水子供養を大々的に宣伝し始めたことが大きく影響している 】

ありました



また

【 水子供養は新しい現象であり、それが宗教なのか商売なのか

仏教のものであるのか否か、日本の伝統宗教と関係あるのかないのか

中絶した女性に対する癒やしなのか恫喝なのか

あるいは中絶問題の解決になり得るのか否か

といった多彩な視点から国内外の研究者たちの注目を集めてきた 】

ともありました




≪中絶した女性に対する恫喝≫

という思考はおもしろいですが


地蔵は、平安時代からひろく信仰され

とくに子供の守る尊格とされていることから


水子供養が、仏教的な考えからズレている感じは受けません





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