緋山酔恭「B級哲学仙境録」 文化論 Ⅱ 経済大国日本の誇り



B級哲学仙境論


文 化 論


 




文化論 Ⅱ




経済大国日本の誇り



以前、ベストセラーとなった「国家の品格」の著者の

藤原正彦氏〔昭和18年(1943年)~ 

数学者、お茶の水大学名誉教授〕が

NHKラジオで


「経済が500年発展しようと、国民は誇りをもてない」

「伝統文化によって誇りをもてるのである」

なんてことを語っていましたが


そんなわけないでしょ という話になりますよ(笑)




お金がたくさんあるとむしろ不幸になる

なんて薄っぺらい話をまことしやかにする

学者先生もいますが、そのレベルです



彼女にいいカッコしたい 愛する家族に贅沢させたい

自分の店を出したい 老後の安心を手にしたい・・・

そのような未来への欲求に応える手段がお金であって

お金とは「未来」そのものなのです



自分は女の子をくどき落とすのが得意であるとか

自分は博学であるとか、自分はサッカーが上手であるとか

人は様々なことに自信を持ちます


自分はお金を人よりも多く稼げる

というのもそういった自信の1つにすぎません



しかし、サッカーを趣味とする人の数、サッカー人口と

お金をもうけたいと考えている人間の数を考えてみてください


はるかに「お金をもうけたい」と考えている人間の数の方が多いです

みなお金をもうけたいと思っています


なぜならお金とは、未来そのものなのですから・・・


それに生活の基盤にお金というものがあるからです



つまり≪お金を稼げる≫という自信、自慢は

他の自慢よりもずっと普遍性があるのです



それゆえ人として自分がどれくらい優秀であるかが確認でき

≪お金を稼げる≫という事実が

自分の強い存在の根拠になりうるのです




コンビニで働く東南アジアの人をみてどう思いますか?

日本に生まれてよかったと思うでしょ(笑)


これは≪誇りがもてる≫ということです



そもそも「力」というものは

根拠の基盤になります



なのでアメリカやロシアなど

大きな≪軍事力≫をもつ国の国民は

≪強い国家≫を根拠=誇り とできるのです




それに、経済力という「力」を

日本という国がもてたのは


日本人が勤労であったり、仕事が丁寧であったり

約束をちゃんと守るなどといった精神性をもつからです



約束をちゃんと守る国民と

約束にいいかげんな国民とでは

当然、世界の国々は、約束を守る国民の製品を買うに決まっています



また、海外、例えばイタリア、フランスといった国ですら

壊される、盗まれるといった理由で自動販売機がありません


暴力を好まず、規律をまもるという民俗性をもち

夜、安全に出歩けるといったことだけでも

経済効果はかなり大きいと言われています



以上のような精神性、民俗性は

国民誰もが誇りとしていることであり

それによる経済発展を

誇りとしていないわけがありませんよ(笑)



もちろん、勤労精神については

サービス残業の名のもとに、人間を奴隷化する

日本企業の悪しき体質にも利用されてはきましたが・・・・





いずれにせよ


「経済が500年発展しようと、国民は誇りをもてない」

「伝統文化によって誇りをもてるのである」


こういう話は

人間を言葉の世界にひきずり込んでいるだけです



一種の感情論で

もっと言うと宗教と同じということです




経済大国と、文化の継承は

どちらも日本人の精神に根差したものであるという意味において

同じ次元のものなのです



そして、どちらも日本人に根拠を与え

誇りをもたせるものなのです






だいたい「伝統文化」といっても


左手は不浄なので食事のときには使わないとか

聖典に書いてあるから、タコやイカは食べないとか

女性は手や顔以外の部分を布で覆って隠さなければならないとか


「そんなの

過去のパラダイム(しきたりやしがらみ)による遺物だろ」

と、考えざるを得ないものも多いですよね(笑)




つまり「伝統文化」と一口にいっても


こうした単なる過去のパラダイムによる遺物か?


あるいは 詫びや寂

ヒグラシや鈴虫の声などに情緒的なものを感じる 


などといった

日本人の本質、心情に根ざすものなのか?


といった違いがあるということです





そして、労働に対する意識なども

我々の本質に根ざすものであって

それによる経済の発展に、誇りをもてない人なんて

どこにいるんですか?


という話になるわけです




労働に対する意識

そういったものも大きくみれば文化の一つですよ


しかも、伝統的な意識が大きく関わっています







神道と日本文化



「神道」と「日本の文化」にふれておきます


一般に、“神道には哲学がない”と言われます


確かに神社神道が、お(はら)祓いをして

お札を売るだけの形骸化された文化

儀式的側面のみ強い宗教となっているのは否めなません



最近では、パワースポットとか

御朱印集めなんかがブームで

それなりに庶民に、精神性を提供してはいますが(笑)




但し、こんな神道でも哲学 あるのです

教義はなくとも、哲学はあるのです


私は、神道とは「禊」(みそぎ)、「鎮魂」(ちんこん)

「振魂」(ふりたま)に集約されると思っています



禊(みそぎ)とは、海や滝の、水や塩の浄化力で

罪やけがれを流し去ることでありますが、そればかりではありません


禊は「身削ぎ」とも言われていて

つねに自分の行為が、正しかったかと問い

反省する作業でもあると言えます


さらに「耳注ぎ」、これは海や滝の音で、耳さらには魂を清める

すなわち情操を育むという性格も兼ね備えているようです




鎮魂もまた、神事により

怨霊や悪霊を鎮めるばかりではないのです


自らのあらぶる魂、浮遊する精神をも鎮めること

冥伏(みょうぶく)させることでもあります


日本女性の「慎み深さ」も鎮魂された姿と言えます





日本の文化は

神道、茶道、書道、華道、剣道、柔道などに

象徴されるように「道の文化」だと言われています


道とはプロセスであり、道の文化とは簡便さを求めるのではなく

過程を大事にする文化です


その過程の中で精神を高め、鎮魂されてくるのです




そして道の文化には、必ず「型」があります


この型が、かつては日本人の生活の中に息づいていました


妻が三つ指ついて挨拶するのにも

後ろ手に障子を閉めるのにも型がある


美しさがあり、それにより家庭が「鎮魂」されていたと言えます



主婦とは“家庭の波動調整者”とも言えるのです


(波動などという怪しげな言葉は嫌いなのですが

他に適切な言葉がないのであえてつかうと)


部屋をきれいに掃除したり、花を生けて飾ったりすることで

家庭の波動を調整し、家族のあらぶる魂を鎮めているからです




結局、日本人のかつての生活は

「禊文化」であり「鎮魂文化」であったわけです


外から帰ると、「靴をぬいでそろえる」、「手を洗う」

「風呂桶につかる」、「ふとんを毎日あげおろしをする」・・・・


禊や鎮魂は、日本人の日常の生活にも

組み込まれていたことが判ります



このように日本人は、型が大変好きで

秩序を求める節が強いですが


ただ、秩序も何の為であるか、何を目的としてあるか

をよくよく考える必要はありますよね




神道の根本理念には、禊(みそぎ)、鎮魂とともにもう一つ

振魂(ふりたま)というものがあります


この振魂は、神と人間の生命力を豊かにするもので

「わっしょい、わっしょい」と神輿(みこし)をかつぐ祭は

まさに振魂文化の象徴です




現代は、振魂文化全盛の時代であり

青年たちは、振魂こそが生命力の高いものと

勘違いして青春を過ごしてしまう


かつて山は青年たちであふれかえっていましたが

今では、中高年のものとなってしまったことでもわかりましょう



しかし、人は年をとるにつれ、だんだんと落ち着いたもの

鎮魂されたものに心惹かれていくはずです



なぜなら、我々が

禊文化、鎮魂文化で生きている日本人だからです








芸術とは?



では「芸術」とはなにか?


「人間」あるいは「天」(神? 自然?)

によって創造された

我々の魂の欲求にこたえうるものですね


魂の欲求にこたえうるとは

精神の深い部分に感動を与えたり

精神を高みに押し上げたりするという意味です



そのため芸術家は

自然のエネルギー、あるいは情景

あるいは人間の「愛」などといった感情を

作品に吹き込もうと、心を傾けます


そのためその作品に命が吹き込まれます



人が、天より与えられた材

すなわち資源に関わり、これを活かす


価値を創造して、共感を得る

これが芸術活動の基本であるとすると


経済活動(アイデアを創出してお金を稼ぐこと)

も広い意味では

芸術活動なのかもしれません





文化論 Ⅲ 文化の本質は「暇つぶし」




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