緋山酔恭「B級哲学仙境録」 文化論 Ⅴ 捕鯨問題から文化の本質を考察する



B級哲学仙境論


文 化 論


 




文化論 Ⅴ




捕鯨問題から
文化の本質を考察する




文化とはなにか? を明らかにするためには

「捕鯨問題が一番だ」と感じ、例としてとりあげました




ちなみに「捕鯨」について

ややこしくしている1つは「利権」です


捕鯨反対派の自然保護団体の利権は、国民と企業からの寄付金です


企業はイメージ戦略のために多額の寄付をすることもあります


さらに、お金の流れが

自然保護団体からは、政治献金として

政治家へといくようにできているのです



一方、調査捕鯨は、国民の税金によってまかなわれていて

一般財団法人の日本鯨類研究所が行っています


ここは水産庁の役人が天下りする受け皿であり

補助金をもらっていて、それでいい思いをしている人たちの団体です



つまり、自然保護団体や一般財団法人の鯨類研究所の人たち

また、特定の政治家にとって


「捕鯨問題」というのは

いい思いをするための≪たてまえ≫となっているということです






ここでは、こうした利権にからむ問題

また、国際問題にからむ政治的な判断 は抜きにして


「捕鯨問題」を通じて、文化とはなにか?

を明らかにしていきたいと思います




ちなみに、私自身は、捕鯨というか、クジラを食べる文化に

賛成でも、反対でもありません


その理由として

文化とは、集団の価値観の総体(とりまとめたもの)なのだから

みんなで決めればいいという立場です



みんなで決めればいいというのは

文化=集団の価値の総体 は

集団の感情によって、自然に決まっていくものである

ということです





反対派の意見は


他に食べるものがいっぱいあるのに

なぜわざわざクジラをたべるの?


クジラやイルカは

人間のつぎに知能が高いことが判っているのに

なぜわざわざクジラをたべるの?


という2つに尽きると言っていいでしょう




これに対し、賛成派は


昭和の終わりころに捕鯨が禁止された理由は

「種」の保存である

しかし現状は頭数が回復している

そのデータが出ているのに反対するのはおかしい


とか


昭和50年代までは普通にあった食文化で

60年代(1980年代)に捕鯨の禁止が始まって

文化を止められざるを得なかった

それを復活させるだけの話で、それがなぜ悪いのか?


とか


そもそも捕鯨が禁止されたのは

油を取るために西洋でクジラの乱獲が始まって数が減ったことにある

生態系が崩れかけたので戻そうということで

西洋文化に原因があった


とか


知能も高いということから保護されて

頭が悪いから保護されないという理由で

牛や豚、鶏を食べているのだとしたらそっちの方が残酷である


などと言った意見がありますが



一番の理由は


日本での捕鯨は

文字通り全てを利用して「いただいて」いる


それだけクジラに敬意を払っていた昔の日本人の文化を

油を取るためにだけ殺していた西洋人や

それに毒された人間に否定されたくはない


といったようなことです





捕鯨賛成派の立場から言うと


反対意見は、クジラの肉を食べる文化への否定

になっているということがあります


捕鯨賛成派は、ただ自分たちの文化を守るというだけ立場です



これに対し、反対派は

相手の文化の否定になっているということです


あなたたち(他民族)が、クジラを食べないのは勝手だが

なぜ日本人も食べるなと言うのですか?


なぜあなたたちの文化(とくに西洋文化)を

日本人に押し付けるのですか?


ということです




これについては、賛成派のいうとおりでしょう


我々、イスラム教徒が何を食べようが、食べなかろうが

それにケチつけたりしませんよね


それはなぜでしょうか?

文化の否定=人格の否定 となるからです





では、賛成派の問題点はなんですか?


文化というのは「パラダイム」=

その時代の支配的な価値観・感情判断のかたまりにすぎません


これを「感情的」になって絶対視するところあります






公平論で、このように↓書きました


竜太  「あなたがアメリカ人なら、アメリカ人の味方をするし

あなたが日本人なら日本人の味方をしますよね


では、自分の家族の日本人と

そこらへんにいる日本人だったら、どうします?


当然、自分の家族の日本人の味方をする


人間なんてそんなものだってことです」ってこと



そこで、周りのよけいなものを取り払って

どっちの人の言っていること、またしていることが正しいのかを

客観的にみてゆくこと


これこそが「平等にする」とか「公平にみる」とかいうことだよ






日本民族というのは、他民族の文化を受け入れることに

とても寛容です


そこで「クジラやイルカが、人間のつぎに知能が高い」

という新たな問題が提議されたときこれをどう考えるか?

ということにります



捕鯨賛成派の

≪動物を食べるのに知的であるかどうかは関係のない話である

同じように考えている民族も他いるわけで(イヌイットなど)

それも文化である≫という立場


これは間違えではありません



ただ、なぜ多くの人が

クジラやイルカを特別な存在として考えるのか?


そこを、「感情」を抜きにして

≪公平≫考えるのが「知性」です





かつては油を取るために

西洋でクジラの乱獲がなされていたという事実からすると


クジラやイルカが、知能が高いことが判明してから

世界の人たちは、クジラやイルカを特別な存在とみなしはじめた

ということになります



知能が高い動物を殺すのに

多くの人が、嫌悪あるいは罪悪を感じるのはなぜなのでしょうか?


そこを、感情を抜きにして考えるのが、知性です



知能が高い動物を殺すのに

多くの人が嫌悪を感じるのは

自分(人間)とひきくらべて考えてしまうからだと思います



牛や豚を食べることに罪悪を感じない人であっても

リンチ殺人なんておきると「絶対に許せない」という

感情がおきます


これも人間の本質なはずです




しかし、だからといって

クジラを食べていけないというのもおかしな話になります



なぜなら実際に、我々は


肉を食べれば、家畜の飼料として穀物が多く必要となり

飢餓が増えることを知りつつも毎日、肉を食べています


これは、家畜を食べているというのではなく

私たち先進諸国の人間が肉食獣として

草食獣の発展途上国の人間を食べているのと同じです


これも人間の本質なのです


その意味では、何を食べようが反対はできないのです






文化は、自然と淘汰されていきます

価値のない文化は、自然と価値を失っていきます


例えば、ギリシア神話の文学的、歴史的価値はいまもありますが

その神々への信仰というもともとの価値=文化は

キリスト教によって消滅しています



なかにはかつて文化とされたものが、因習とされたりもします





ただここで、もう1つ理解しておかなければならないことがあります


外からの圧力=感情によって

滅んでいく文化もあるということも忘れてはなりません


ギリシア神話の神々への信仰がそうです


また、ブラジルなど欧米の植民地であった国々では

キリスト教によって、土着民のもともとの信仰が消滅してしまいました




民族の内なる感情による淘汰の結果のはずの文化が

外からの感情によって否定され

消滅していくということも、多いということであり

これも「文化」のもつ1つの側面ということなのです



その意味で、捕鯨反対派は

≪捕鯨反対≫の意味していることを過小評価しすぎていると言えます



サラブレッドを肉にして食べている民族が

「クジラは知能が高い 殺すのは可愛そうだ」という理屈=感情で

日本の文化に、ケチをつけてきたという側面もあるのです


しかも日本人を≪野蛮人≫呼ばわりしてです




そうなると捕鯨反対派に対して


自然に消えていった文化を追う必要はない

だけと止められた文化を、もとに戻すこと

それを守ることは悪ですか?  という話にもなります




とはいえ、禅の文化だって、根源は中国にあるし

仏教そのものが、釈迦というインド人に起因しているし・・・

外からの圧力=価値観を、全部ダメというのもへんな話になります




また、日本人固有の美意識に根差した

形式だったり、振る舞いだったりする文化に

他民族がケチをつけることに対しては

私は反対派です



ただ、捕鯨問題の場合は

他民族は

≪クジラを食べる文化≫にみられる

和食の美意識や精神性を否定しているわけではありません


しかし、賛成派はそのへんを

ごっちゃに考えてしまって、感情的になっている

ということもあります






いずれにせよ


賛成派は、クジラに対する食文化は

ソウルフード(伝統料理)であるとみなしています


これは文化の本質を、他民族との「区別」「差別」である

とみているということです



これに対し反対派は

「他に食べるものがいっぱいあるのに

なぜわざわざクジラをたべるの?」

というように

「生きるために食べる」という本道からはずれた

≪グルメ≫のようなものとみなしています


これは文化の本質を「暇つぶし」である

とみているわけです




このように「文化」という言葉には

本質というか概念が2つあるので


≪クジラを食べる文化≫と一言にいっても

2つの認識が存在してしまうのです


そこで、その人の生きてきた時代や地域で

どちらかに傾くか

これが、捕鯨問題の根本ということではないでしょうか?





文化論 Ⅵ 文化の本質は「知性」
文化に優劣はある





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