文化論 Ⅵ 文化の本質は「知性」 文化に優劣はある これまで「暇つぶし」が 文化というものの第一の本質であることを明かし 「差異」「区別」もっというと「差別」が 第二の本質であることを明かしました さらに、今回は もう1つの≪文化の本質≫を明らかにします 「構造主義」の創始者であり代表者とされる人物に フランスの文化人類学者 レヴィ=ストロース (1908~2009・100歳まで生きた)がいます 「構造主義」とは、本来は、哲学の用語です 個人が所属する構造 (国家・民族・歴史・言語・文化・伝統・生活様式・社会階層など)が 人間の主体性や意識(思考活動)に先行するという立場で 主体は、国家・民族・歴史・言語・文化・伝統・ 生活様式・社会階層などといった ≪構造≫によって決定づけられている 主体は、別のグループの人間との構造の ≪差異≫によって、意味づけされていると考える立場です レヴィ=ストロースの最大の功績が ≪どのような民族においてもその民族独自の構造を持つもので 西洋側の構造で優劣をつけるのは無意味≫と 西洋中心主義を批判し 未開社会にも独自に発展した秩序や構造が見いだせると 主張したこととされています レヴィ=ストロースの立場からすると「国粋主義」は 間違えということになります 国粋主義とは 自国の文化や歴史などが他国よりも優れているとして 自国の文化や伝統の独自性を強調し それを守り 発揚(国民の意識を奮い立たせようとすること) させようとする立場をいいます ちなみに、国家主義、国粋主義、民族主義 英語では、すべてナショナリズムと呼ばれますが 国家主義とは、国家を最高の価値あるものと見なし 個人よりも国家に価値を認める考え方 民族主義とは、民族の優越性を主張したり 民族の存在や独立を確保しようとする思想や運動 をいうとされます では、民族とはなにかというと 「言語」や「宗教」などの≪文化的伝統≫と ≪歴史≫を共有する人間の集団 とされています つまり、区別や差別がないと 文化自体が存在しなくなりますが そもそも区別や差別という概念が 優劣という概念に裏打ちされていますよね(笑) そこで、文化という言葉の概念(共通認識)を紐解くと 「暇つぶし」「区別」(差別)とともに もう1つ≪文化の本質≫というものがみえてきます 結論をいうと、それは「知性」なのです 「知性」とはなにか? というと 【 野性を隠す 】ことです 旧約聖書によると アダムとイブは、神の言葉に背き 知恵(禁断)の木の実を食べた罪によって 天上の楽園エデンを追放されます なので、アダムとイブの子孫であるすべての人間は 生まれながらに「原罪」をもつとされています 知恵(禁断)の木の実は、一般にはりんごとされますが 紀元前のパレスチナには、“食べるによく、目に美しい” と創世記に書かれているようなりんごはないことから 黄金に熟すあんずであるという説が、有力視されています また、二人は知恵の実を食べた為、裸体であることに気づき 恥じて、アダムはイチジク、イブはブドウの葉で腰を隠したとされます 〔 この為、知恵の木の実はイチジクであるとする説もある 美術において知恵の実は、古くはイチジクで表現され 後に、りんごが多くなったという 〕 また、聖書においては 人間が神の似姿(にすがた)として創造され 神に最も近い存在であり、他の生き物や自然を支配し 奉仕させる権利を持ちます そこから、キリスト教社会では 野蛮な自然は、文明へと移行すべきであるという世界観を生み さらには、内なる野蛮、内なる自然である 食欲、性欲、物質欲などの欲望も 理性によって屈服させるべきだという道徳観を生んだ とされています 「理性」は、本能的な欲求を抑制する機能です 生命全体のことや、一生のことを考えて 「不利」「損」と悟ると、理性という機能が働きます 知性も、理性とほぼ同じ意味として使われますが ここでは、あえて区別して考えると 「知性」とは、自然のままの性質、本能的な性質を 抑制するのよりも、むしろ隠すことと言えます 恥じて、隠すことです レヴィ=ストロースが登場する前は 未開の地域の人間は、野蛮な文化しかもたないとされていました そんな未開の地域の人間と 文明人と呼ばれている我々とでは、なにがそもそも違うのでしょう サルをとらえて、ギャーギャーと泣き叫ぶサルの頭を ナタで割って殺して、食べてしまう そんな映像をみたとしたら、あなたはどう思いますか? 「残酷、野蛮」 「我々とは別世界のおぞましい人間だ」 「こんな知能の低い人種とは、絶対、理解し合えない」 なんて思いますよね しかし、我々だって同じことをしているのです 残酷や野蛮を、理性によって抑えているわけでありません 残酷や野蛮を 隠してみせない文化の中、生きているだけなのです つまり、理性においては 未開の地域の人間とたいした差はないのです 価値論では、このように↓書きました 結論を言うと 創価学会の新聞を毎日新聞が印刷している世の中 言論の自由なんて「嘘」の世の中… 肉を食べれば、家畜の飼料として穀物が多く必要となり 飢餓が増えることを知りつつも毎日、肉を食べ 多くの人を殺している私たち… これは、家畜を食べているというのではなく 我々先進諸国の人間が肉食獣として 草食獣の発展途上国の人間を食べているのと同じです それにコンビニのお弁当を食べるたびに 分解しにくいプラスチックを廃棄し 地球すら破壊しようとしている私たち・・・ 全てのことが「お金」の世の中… そんな上に私たちは 「人権」だとか「尊厳」だとか「正義」だとかいった バーチャルな世界、言葉の世界をつくり上げ その上にのっかって生活しているのです つまりゲームの世界だけでなく 現実と信じている私たちの世界そのものがバーチャル 仮想現実の上にのっかった現実なのです 未開の地域の女性は 胸をあらわにしていますが 文明社会においては、ブラジャーで隠します こうした野性を隠すことこそが 「文化」や「美」という概念本質の1つであり 野性を隠すことこそが「知性」そのものです なので、文化=知性 という側面からいうと ≪我々の文化と、未開の地域の文化に、差などない≫ とするレヴィ=ストロースの立場は とんちんかんなものとしか言えないのが判ります バーランド・ラッセルをはじめとする 世にある全ての「幸福論」が ≪幸福≫というものの正体(概念)を明かさずに まことしやかに、幸福になる方法を書いたものである というのと同じです レヴィ=ストロースという人は ≪文化≫というものの正体(概念)を明かさずに まことしやかに「文化に差はない」とのたまわっていた ということです 相手に失礼のないようびしっときめたスーツ姿と Tシャツにジーンズ姿とでは 野性を隠すという側面から あきらかにスーツ姿の方が文化的と言えるのです 但し、遊び心・暇つぶし=文化 という側面では 立場が逆になるので ここは間違えないでくださいね 侘び・寂、雅の根源 日本人固有の美意識に 簡素なものに価値を認める≪侘びや寂≫があります 文化=知性 という側面からいうと この侘びや寂といった心情にのっかっている文化などは 最上レベルの文化と言えるはずです 西洋では 自然や野性を、知性で覆い隠す ところに美を求めました これに対し、侘び・寂とは 知性の産物である虚飾をはぎとったときの 簡素であることの趣きに、美を求めたものです 西洋の美が ≪足し算の美≫と言われるのに対し 日本の美は、≪引き算の美≫ また、空間を活かす≪空間の美≫であると言われています また、侘び・寂は 「野趣」や「時代感」(古びた感じ)のあるものを めでる心情でもあります これは、西洋のように 自然のままや野性のままを嫌い ただ知性で覆い隠すものではありません 野趣や時代感を 美の要素として見出し これを洗練された美に、調和していく これによって生まれる独特の趣きこそが 侘び・寂の最も本質的な部分 根源的な部分ではないかと思うのです また、侘び・寂のような心情から 華やかなものに美を求めると 華やかではあっても どこかに清楚な部分を残し 上品で落ち着きがある 『雅』という美に行きつくのだと思います 『雅』を象徴する振袖の絵柄をみると 桜、菊、藤、牡丹など花柄が多く 日本人が四季の草花や景色を 文様や色として、生活の中に取り入れてきたことが判ります 西洋では 華かな美しさのみによって、野性を覆い隠してきました 野性を卑しみ、嫌ったわけです これに対し日本人は 華かさに 野趣が加わることによって生まれくる美を 自然(四季の草花や景色)から感じ取り これを『雅』という美に、洗練させていった と言えるのではないでしょうか・・・ 行き過ぎた国粋主義は 単に、自分の存在の根拠、自己の救済原理を 非理性的に求める行為に過ぎない といえる上に 対立を生むので、ムダだと言えます しかし、国粋主義を完全に否定することも本末転倒ですよ なぜなら、文化の本質の1つは「区別」(差別)であり 国粋主義を全くダメというなら 文化そのものの否定になり、共産主義に行きつきます 中国や北朝鮮の人たちみたいに 人民服しか着なくても生きていけないことはないですけど それじゃつまらないですよね 文化論 Ⅶ 文化の絶対性と多様性 文化論 Ⅴ 捕鯨問題から文化の本質を考察 |
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