文化論 Ⅶ 文化の絶対性と多様性 文化に絶対性はない ブラジルをはじめとした西欧植民地の人々は 無理やりキリスト教に改宗させられましたが 現在、ブラジル人は、キリスト教徒としてちゃんと生きています こうした事実からしても 【文化、すなわち民族の固有性は、人間にとって最大の価値である】 【人間は、文化がないと生きていけない】 なんて話は、感情論にすぎないことは、明らかです 仮に、正しいとしても、別の文化でも 「事足りてしまう」というのが、人間であるということです 人間は根拠がなくては生きていけないと言えますが 根拠については、なんだっていい というところもあるわけで 民族の固有性が、不変の価値というのは、かなり怪しいということです 日本の女性アイドルグループ欅坂46の ヒット曲に「サイレントマジョリティー」があります マジョリティーとは多数派という意味で サイレントマジョリティーとは 「声高に自分の(政治的)意見を唱えることをしない一般大衆」 のことで 米国大統領ニクソンが演説のときに使った用語だといいます 欅坂46の「サイレントマジョリティー」は パラダイム〔ある時代における支配的な考え方や見方・ しがらみやしきたり、人気や常識など〕 が作り出す価値観の否定です 文化とは、大衆の価値観の総体(とりまとめたもの) として生み出されるものですから 欅坂46の「サイレントマジョリティー」は つまるところ文化の否定なのです 文化とは、このような一面 つまり、否定され、破壊されて 新たに造り変えられていく一面もあるということです また、ガングロなんて 文化じゃない 単なる流行だ という意見もありますが こうした女子高生の作り出した 一種の流行も マイノリティー(少数派)の パラダイムに対する否定の意思表示 であったことは間違えないはずです 文化の多様性の正体 文化についての多様性とはなんでしょう? 世界の多くの国の人々が、ジーンズをはき マックのハンバーガーを食べる これは、アメリカ文化のグローバル化(世界規模化)ですね 一般的には こうした1つの原理で統一されていく グローバル化に対し それぞれの民族の文化、民族の固有性を 尊重していくこと=多様性 であると考えられています 多様を認めるとは、違いを認めて受け入れることに 他なりませんが ≪多様性≫という言葉も じつは、とてもあいまいなのです 文化のグローバル化 1つの色で塗られた世界を否定し モザイクのような世界を志向していくこと つまり、そうした「閉鎖性」が、果たして多様性なのか? アメリカ文化のような 世界的な文化を受け入れる「自由性」を認めていく社会が 多様性のある社会ではないのか? という話になるわけです アメリカ文化のような世界的な文化を認めない、受け入れない となると多様でなくなっちゃいますよね(笑) それから、そもそも多様性というのは なによりも またいつどのようなときも正しく 優先されるべきものなのでしょうか? いざこざや紛争をおこさないこと 世界が平和であること が 人類にとって、もっとも価値的であり、善である と定義をすればそうなるかもしれません しかし、述べてきたように 文化の本質の一つは「区別」「差別」です 「民族」とは 文化や言語の≪違い≫ によって成り立つ概念です 「区別」「差別」という概念には 優越・劣等という概念が裏打ちされています そこで、 我々人類は 世界が平和であることが 人類にとって善 いう考えのもとに 「文化」という言葉の概念をつくりかえ 概念から≪優越性≫を排除したわけです 優越性を排除すると、同時に その代わりとして組み込まれたのが≪多様性≫です これが、「文化の多様性」の正体ではないでしょうか 多様性と 原理主義は対立しない 養老孟司氏、茂木健一郎氏らは 「原理主義は、生命主義に反する 生命のやわらかさに背を向けて 結晶のようなきっちりした世界を志向する」 と語っています そうなると モザイク的な世界は まさに、結晶のような世界であって 多様ではなく、原理主義ということになりますよ(笑) モザイク的な世界を、多様であると定義し それを譬えるとオーケストラがいいでしょうか 1つ1つの楽器は自分の法則、原理に従って音を奏でている それが全体として調和し1つの音楽という秩序を創造している このように、個々の原理・秩序の集合が 全体としての原理・秩序を成り立たせているのが 「多様」ということになります 養老孟司氏、茂木健一郎氏らのように ≪原理主義と多様性とは対立する≫ という思い込みのもとに ものを語る人が多いですが 原理主義と多様性は 対立していないということになります そしてこの原理は、人体のようなミクロコスモスから 宇宙というマクロコスモスまで一貫しています 人体は、1つ1つの臓器が個々の原理に従って機能することで 個体としての機能、秩序が維持されています つまり、多様とは大きな原理を維持するために 個々が自分の原理に従って様々なあり方を示すということであり 逆にいうと、個々の原理主義を成り立たせている仕組みが 多様ということになります 養老孟司氏、茂木健一郎氏らは 「自然は多様であり、田舎には自然という多様があるが 人間が都市空間に入ってしまうと 見るもの全てが人間の意識や思考が 作りだしたものになってしまうので原理主義がのさばってしまう」 などとも語っています 自然=多様、都市=原理主義 こういった話も ≪自然≫や≪都市≫という言葉にのっかっている バーチャル的なイメージの上に さらにバーチャルな話を積み上げているにすぎませんよ(笑) 彼らによると 都市空間は、原理主義の象徴 つまり法則性・秩序性の象徴であるわけで それに対して、自然があるのだから 自然は「無秩序」ということになります しかし、自然こそ「秩序」なんじゃないですか? 例えば、太陽や月の秩序的な動きから 人は暦というカレンダー的な時間を作りました 季節も秩序性の証だし、つぼみが膨らみ、花が咲き 枯れて落ちるまでの間にもちゃんと秩序は存在します 生あるものに老いがあり死があるのも秩序だし 宇宙の全ての物質が循環しているのだって秩序です また、古代のギリシアやローマでは 天体をその運動の規則性から秩序や倫理の象徴と考え 神格化しました 自然が「秩序」だからこそ、稀に異変(無秩序)が生じると それを吉や凶のしるしと見なしてきたのです 救世主の誕生を星(ベツレヘムの星)を見て知った東方の三博士が イエスを拝しにやってきた新約聖書の話は、その象徴です 原理主義=秩序性・規則性・法則性と定義すると 確かに人間は、社会、法律、倫理などといった 特定の原理、原理主義的要素を 自然に、持ち込んだと言えます 区画整理された街などは、その象徴と言えますが 自然もまたそうであるということです 創造とは「秩序を生み出す」ものと言えます 人間の創造も、自然の創造も同じです 学問だって、無秩序を体系化して秩序を生み出します その意味では原理主義と言えます 例えば、密教の曼荼羅は 宇宙を表現したものとされていますが 一定の形式すなわち一定の原理のもとに 無秩序に存在していた仏・菩薩を序列化したものです よく、密教の曼荼羅は "多様性の象徴である"と言われますが 違いを認めるというのが多様であるなら 無秩序のほうが、多様に近いです すなわち一つの原理で統一された密教の曼荼羅は 「多様」よりは むしろ原理主義的世界を描いたものと言えます 「自然は多様であり、田舎には自然という多様があるが 人間が都市空間に入ってしまうと 見るもの全てが人間の意識や思考が 作りだしたものになってしまうので原理主義がのさばってしまう」 おかしな話でしょ(笑) 文化とは、集団のパラダイム 〔ある時代の支配的な考え方やものの見方・ しがらみやしきたり・人気や常識など〕が 作り出す価値観の総体(とりまとめたもの)です しきたりやしがらみが色濃く存在し それによって、人間を支配してきたのは田舎のほうですよ つまり、原理主義がのさばってきたのは 田舎のほうです さからうと「村八分」にされたりして・・・ 都市における コンビニやマックの店員なんかに象徴される マニュアル化された接客 なんかも原理主義といえば、そうなんでしょうけど(笑) 原理主義というより商業主義です それによって効率化をはかった結果 と言えます 結局、情報の少ない世界では、原理主義に陥りやすいのです だから、総体的にいえば 昔は、今よりも原理主義的だったはずです あらゆる人が陥っている誤りは 多様性=寛容 原理主義=排他 という対立の構図 つまり、言葉に積み上げられた世界のもとに ものを語っていることです 多様とは ≪違った原理が集合している≫ 状態を現す言葉であって 原理主義の集合こそが多様 そうした性質が、多様性なのであり 多様性を認めると言った場合 原理主義を認めるということに、他ならないということです そして、多様な状態とは、たくさんの原理主義が はびこるというか、のさばっている状態をいうのです 文化論 Ⅷ 日本人の「根っこ」とは? 文化論 Ⅵ 文化の本質は「知性」 文化に優劣はある |
|