緋山「B級哲学仙境録」 仏教編 釈迦の思想と仏教まるわかり 仏伝とは?



B級哲学仙境論


仏 教 編


 




仏 伝




仏伝とは?



釈迦はの実母 マーヤーは

6牙の白象が胎内に入る夢を見て懐妊し


〔これは釈迦が6牙の白象に乗って

兜率天(とそつてん)からマーヤーの胎内に降臨したことを意味する〕



出産のために生家(故郷の拘利国)へ帰る途中

ネパールのタラーイー地方のルンビニー

(藍毘尼園・らんびにおん)の花園で


アショーカ樹〔無憂樹・むゆうじゅ。マメ科の常緑樹

無憂樹の名はマーヤーの出産が安産であったからという〕

の花咲く小枝を手折ろうとし


右手をあげたとき、脇の下から釈迦が出産した



マーヤーは7日後に産褥熱で没し

死後、忉利天(とうりてん)に昇った

釈迦は母の恩に報いるため、忉利天に行き、摩耶経を説いた





また、釈迦は誕生のとき

右手をあげて天を指し、左手を下げて地を指して

「天上天下唯我独尊」〔天上天下でただ1人尊い

なお、この大乗仏教に反する釈迦の言葉を、全ての人が唯我独尊であり

全てが尊いなどと大乗的に解釈されることも多い〕と宣言した





また、平家物語には

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色

盛者必衰の理(ことわり)をあらはす」

とありますが



釈迦は80歳のとき

クシナガラの沙羅樹林(さらじゅりん)で入滅した

(サラソウジュは、フタバガキ科の常緑高木)



二本並んだ沙羅樹(これを沙羅双樹という)

に横たわり涅槃(入滅)に入った

このとき季節外れの花が咲き散華した




また

双樹についてはさまざまに説かれ


東西南北に各一対の沙羅樹があり

釈迦が涅槃に入ると

東西の2双(4本)、南北の2双(4本)が、それぞれ合して1樹となり

釈迦を覆い、樹は枯れて白変した

(白変した沙羅樹を白鶴にたとえ、釈迦の入滅した地を鶴林という)

とか


4双8本の沙羅樹が、花を咲かせ、たちまちに枯れ

白色に変じ、さながら鶴の群れのごとくであった

とか


四方に2本ずつ植えられていた8本のうち

各対のそれぞれ1本が枯れた(四枯四栄)

とか



また、最後の言葉は

「事象は滅び行くものである

怠ることなく修行を完成させなさい」であった

とか・・・・ 言われています





こういった話は、釈迦の教え=「経蔵」 ではなく

「仏伝」(釈迦の伝記を説いた経典)といいます



仏伝として名高いのが

インド文学史上最高の傑作詩文とされる

「ブッダチャリタ」です




●  ブッダチャリタ(仏所行讃)


2世紀頃の大乗論師 馬鳴(めみょう・

アシュヴァゴーシャ。80頃~150頃)著


釈迦の生誕から入滅

さらにその後の舎利(遺骨)の分配をめぐっての争い

500人の弟子たちによる仏典結集

仏塔の建立

までを記した叙事詩


梵本の現存は17品で、初めの13品は馬鳴作

あとは後代の加筆とされる。漢訳は288品




カニシカ王(2世紀頃。クシャーナ朝3代目王)が

中インドのパータリプトラを攻略したとき

和議において賠償金の代わりに

釈迦の仏鉢と、馬鳴を求めたといいます



王のもと馬鳴は大乗仏教を弘め

功徳日(くどくにち・太陽のように徳のある人)と尊敬されたそうです



なお、「大乗起信論」(だいじょうきしんろん・

大乗の根本を説き、小乗・外道を破折。大乗に信を起こすことを力説)は

馬鳴作と伝えられてきましたが


実際には5~6世紀に

インドまたは中国で成立したものだといいます





この他、仏伝には


「仏本行集経」(ぶつほんぎょうじっきょう)

法蔵部など小乗の5部派の仏伝を集大成したものという

仏伝中最も詳しく、修飾や本生譚(ほんじょうたん)の挿入も多い




「過去現在因果経」

〔求那跋陀羅(ぐなばっだら・394~468)訳、4巻〕


釈迦が過去に善慧仙人として修行するところから

生誕

四門出遊(王子であった釈迦が、東西南北4つの城門から外出し

それぞれ、老人、病人、死人、修行者に出会い、出家を決意したという話)

苦行

降魔(悪魔の誘惑をしりぞけたこと)

成道(悟りを得て仏となったこと)

初転法輪(しょてんぽうりん・初の説法)

諸弟子への教導

弟子の摩訶迦葉(まかかしょう)の出家 に至る




などがあり

「過去現在因果経」は仏伝中最も知られています



過去現在因果経では、釈迦は苦行を捨てて

ガンジスの支流 尼連禅河(にれんぜんが・

ナイランジャナー 現 パルグ河)で沐浴したのち


1人の少女(牧女)のささげる乳粥(にゅうしょく・乳とも)を食し

身心ともに爽やかとなり


仏陀伽耶(ブッダガヤ。現 ビハール州ガヤ市)の

菩提樹(印度菩提樹・クワ科の常緑高木)の下で禅定に入り

49日目の12/8の明け方に悟りを開いたとあります




この経に、絵を挿入した「絵(え)過去現在因果経」は

日本で最初につくられた絵巻物で

下段に過去現在因果経の経文を

上段には絵を描き入れて全8巻に仕立てたものといいます


6世紀末~7世紀初期に中国で始まり

奈良時代以降、日本でも中国の原本に基づき盛んに制作されたそうです






原始仏典には、釈迦の伝記は見られないの?


長部経典に、釈迦がラージギルから

クシカナガラで入滅するまでの最後の旅を記した

「大パリニルバーナ経」(遊行経・小乗涅槃経)がみられるだけのようです



つまり初期の仏教徒は

釈迦の伝記についての関心がほとんどなかったようです



だから、仏伝のほとんどが想像による創作で

釈迦の超人化にともない様々要素が加わり

種類も多くなっていったといいます





ちなみに、釈迦の実在が疑われていた時期があったようです


19世紀には、天文学の諸説や太陽神話から

釈迦の伝記を説明する学者もいたといいます



1898年に、前3世紀以前のロウ石の壺が

ネパールの南境で発掘され


表面に「これは釈迦族の仏、世尊の骨・・・・」と刻まれていて

これが原始仏典の記載に一致するということで

釈迦の実在が証明されたといいます


のちに他の骨壺の発掘もあり

釈迦の実在は動かぬものとなったそうです




この他、1896年に発見されたアショーカ王碑文

〔アショーカ王が領地内の各地で

石柱や磨崖(崖を磨いたもの)に自分の統治理念を刻ませたもの

武力による征服から法による統治へと転換した王は、碑文で人民に対し

長老者への敬意、不殺生、自制を説き、王や役人の義務も明示している〕

により


釈迦の生誕地がルンビニーであることも裏付けられたそうです







九横の大難



日蓮の御書にある仏伝の一種です


釈迦は、在世中に9つの大きな法難を受けたそうです

これを九横(くおう)の大難といいます


おそらく様々な仏典に書かれている釈迦の「難」を

日蓮が集めてまとめたものだと思います


全知全能の神とは全く違う釈迦の姿を

思い起こさせるのでここに記載しました




① 孫陀利(そんだり)の謗(そし)り


釈迦の活躍で教勢が衰えた

コーサラ国(中インドの大国)の外道(げどう)は

遊女の孫陀利を朝夕、釈迦の道場である

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)にかよわせ

釈迦に近づけて釈迦教団の持戒を人々に疑わせた


そのうえで孫陀利を殺して、精舎の樹の下に埋め

孫陀利がいなくなったと騒ぎ立て、王宮に訴えた


死体が精舎より出て、釈迦の人望は失墜したが

のちに外道の謀略が明らかとなり外道が国外に追放された


【 外道・・・・  げどう・仏教が、幸不幸の原因を

自己に内在する因果の法則にもとめる内道(ないどう)であるのに対し

外道は、幸不幸の因を神や先祖といった外にもとめる宗教 】





② バラモン城の金將(こんず)


釈迦と弟子の阿難(アーナンダ)が、バラモン城で托鉢したとき

供養する物がなかった

奴隷の老女が捨てようとしていた腐った金將(米のとぎ汁)を供養した

これを見て、バラモンたちは釈迦をそしった





③ 阿耆多(あぎた)王の馬麦(めやく)


随羅然(ずいらねん)国の阿耆多王(豪族)により

釈迦と弟子たちは招かれて布教に訪れたが

王は快楽にふけり供養を忘れた

このため90日間馬の食べる麦を食べた





④ 瑠璃の殺釈(せっしゃく)


これは、釈迦族がコーサラ国の

波瑠璃王(はるりおう・ヴィルーダカ)によって滅亡した事件



ちなみに波瑠璃王の父

波斯匿王(はしのくおう・プラセーナジェット)は

初め仏教を迫害したがのちに釈迦に帰依し、教団を外護している


波斯匿王は、波瑠璃に王位を奪われ

マカダ国に亡命し80歳で没したとされる



それから釈迦は出家する前

カピラバストゥという小国

(インドとネパールの国境沿い)を支配していた釈迦族の王子であった




瑠璃の殺釈の因は、波斯匿が王位についたときにまでさかのぼる


王位についた波斯匿は、釈迦族の血筋が貴種とされていたことから

第一妃に釈迦族の女をもとめた


コーサラ国の力を恐れた釈迦の父 浄飯王(じょうぼんおう)は

摩訶男(まかなん)の家中の女奴隷が産んだ美女を

王女といつわって送った


この女奴隷の娘との間に生まれたのが、波瑠璃という



【 摩訶男

釈迦が出家したとき王が釈迦に同行させた五人の一人

五人は釈迦とともに苦行するも、のちに釈迦が苦行を放棄

これを堕落とみなして釈迦から離れていった

悟りを開いた釈迦の初の説法で、五人は釈迦の最初の弟子となっている 】




釈迦族はカピラヴァストゥ城に大講堂をつくっていた


ある日のこと、この地に弓術を学びにきていた波瑠璃が

講堂にやってきて師子座にのぼって休息をとった


すると釈迦族は、奴隷の子が師子座をけがしたとして打ち据え

足跡を削らせた


このとき自分の出生の秘密を知り、復讐を誓ったという



のちに、カピラヴァストゥ城を攻め、9990万人を殺害


波瑠璃を奴隷の子としてののしった

500人の釈迦族の女の手足を切り坑(あな)に埋めたという



釈迦は、カピラヴァストゥに向かう波瑠璃の軍を3度止めたが

4度目は釈迦族の宿命と悟って出向かなかったという



象、馬、兵車、歩兵を率いてカピラヴストゥに向かう

波瑠璃王の意を知った釈迦は、枯樹のもとに座し波瑠璃の軍を待った


波瑠璃は「よく繁った樹があるのに

なぜ枯れ木の下に座しているのか」と問い

釈迦は「親族をあわれむためです」と答えた


これを聞き、王は攻撃を中止して帰ったが、3度これを繰り返し

4度目には、釈迦は宿命であると悟って出向かなかったという



また、釈迦族は弓術にすぐれていたが

釈迦の不殺生の教えをかたく守り

威嚇の矢を放つだけで敵を傷つけることはなかったという



なお、コーサラ国の舎衛城(シラーヴァストゥ)に帰還した波瑠璃王は

太子が遊女とたわむれていたので、怒って殺害した


釈迦は弟子たちに、波瑠璃とその兵たちは7日後に滅びると予言した


王は予言を恐れて、海に船を出してとどまったが

7日目に自然と火がおこって、波瑠璃は焼かれ船とともに海中に沈み

(暴風雨がおこって水没、宮殿も天火に焼かれたとも)

無間地獄に堕ちたという





⑤ 乞食空鉢(こつじきくうはつ)


釈迦と弟子の阿難が、バラモン城で乞食行(托鉢)をしたとき

王が人望をあつめる釈迦をねたみ、喜捨(きしゃ・布施)したり

法を聴いた者に罰金を課した

このため托鉢の鉢が空となった





⑥ 旃遮女(せんしゃにょ)の謗(そし)り


バラモンの旃遮女が、衣服に鉢を入れて

説法の場にきて、釈迦の子供を身ごもったとさわいだ





⑦ 提婆達多(だいばだった)が

霊鷲山(りょうじゅせん)から釈迦めがけて大石を落とした




●  提婆達多



釈迦の従弟。幼少から釈迦と敵対し

釈迦と耶輪陀羅姫〔やしゅだらひめ・釈迦の妻〕を争い敗れた


のちに釈迦の弟子となるが

釈迦に叱責されたのを怨み、新教団を設立


マカダ国の阿闍世(あじゃせ)太子をそそのかし

父王を殺させて王位につかせたり

阿闍世と結んで釈迦教団を迫害した


提波達多は新教団をつくるさい

釈迦教団より厳格な5つの戒律をもうけている


5つは経典によって違うが

おおむね、修行者は林に住し里に入ってはいけない

乞食(こつじき)を行い食のもてなしを受けてはいけない

粗衣をまとう。樹下に住み屋根のある下で暮らしてはいけない

鳥獣や魚の肉を食べてはいけない


500人の釈迦の弟子が提波達多に従ったが

のちに舎利弗(しゃりほつ・釈迦の1番弟子)や

目連(釈迦の2番弟子)に諭され

教団に戻ったという


あるとき爪に毒を塗って、釈迦の足を傷つけて殺そうと

マカダの首都 王舎城に行くが

蓮華比丘に責められたので、これを打ち殺すと

立っていた王舎城北門の大地が裂け

生きながら無間地獄に堕ちたという





⑧ 冬、竹も裂けるほどの寒風のさなか三衣(さんね)をもとめた


【 三衣

古代インドの僧は、三つの衣を着用しこれを袈裟と呼んだ

寒冷な中国や日本では、この下に衣服を着用したため

上にかける三衣が袈裟となった

本来、仏教の僧は、三衣と托鉢用の一つの鉢〔三衣一鉢(さんねいっぱつ)〕と

これに座具と水漉し器を加えた6つだけが、所有を許されていた 】





⑨ 提婆達多にそそのかされた阿闍世王が

悪象に酒を飲まし釈迦に放った




なお、孫陀利の謗りについては

釈迦が、過去世に浄眼(じょうげん)と名乗っていったとき

婬女の鹿相(ろくそう・孫陀利の過去)を殺害し

この罪を 楽無為(らくむい)という聖者になすりつけたのが

因縁だという話まであります







仏 滅



釈迦が入滅(仏滅)した年って歴史的に判っているの?


スリランカの史書 ディーパヴァンサ(島史。島王統史)

あるいはこれを改編した マハーヴァンサなどに記されている

前544年、また前543年が

東南アジアの諸仏教国で支持されてきたものです



南方諸仏教国では1956年に、仏滅2500祭を行い

現在では仏滅を前544年としているといいます




それから、ギリシア資料にみられるアショーカ王の即位年代や

仏教資料にみられるアショーカ王の即位年代から


ブッダ入滅の年代を割り出して

仏滅を前485~前477とする説もあるそうです



とくに仏滅後218年の前268年にアショーカ王が即位したという

南方伝承にもとづき、仏滅を前485年とする説も広いようです





一方、中国、チベットには

前400年~前368年とする説が伝わっています


とくに仏滅後116年の前268年に

アショーカ王が即位したという北方伝承にもとづき


仏滅を前383年とする説が広く行われています


学問的には、新たに発見された碑文なども踏まえて

前400年前後とする学者が多いようです




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