緋山「B級哲学仙境録」 仏教編 仏典結集と仏教伝来・原始仏典(パーリ語経典)



B級哲学仙境論


仏 教 編


 




仏典結集と仏教伝来




仏典結集



仏典の結集は釈迦滅後から400年の間に4度行われたとされています


第1回は、釈迦入滅の年に阿闍世王(あじゃせおう)の外護のもと

摩訶迦葉(まかかしょう)を座長とし

500人の釈迦の弟子たちが集まってなされたとされます


場所は、マカダ国王舎城(おうしゃじょう)付近の

畢波羅窟(ひっぱらくつ・七葉窟)



阿難が「教蔵」(釈迦の説いた教え)



十大弟子の一人で持律第一といわれた優波離

〔うばり・ウーパリ。シュードラ(奴隷身分)出身で

代々の家業は釈迦族に仕える理髪師であったという〕

が「律蔵」(釈迦の定めた戒律)



釈迦亡き後の教団指導者の

摩訶迦葉(まかかしょう・マハーカッサパ)が「論蔵」

(経蔵すなわち釈迦の教えを注釈し体系づけ集大成したもの)

を誦したとされます




なお、阿難(アーナンダ)は

釈迦十大弟子の一人で、釈迦の従弟といいます


多聞(たもん)第一と称され

釈迦の教説を記憶することにすぐれたそうです


皆の推薦で老年の釈迦の給仕につき

釈迦入滅までの20数年間これをつとめています


教えを一語も間違えずに記憶したとされ

初期仏典は、仏陀(釈迦)と阿難との対話形式ものが多く


また多くの経典が、如是我聞(にょぜがもん・私はこのように聞いた)

で始まっているのも阿難の影響とされます





なお、釈迦第一の弟子とされたのが

「智慧第一」の 舎利弗(しゃりほつ・シャーリプトラ)

第二が「神通第一」と言われた 目連(モッガリーナ)

第三が「頭陀(ずた・衣食に対する貪欲を捨てる行)第一」と言われた

迦葉(摩訶迦葉・マハーカーシャパ〕です


舎利弗と目連は、釈迦より前に没し、迦葉が教団を継いでいます



迦葉は、バラモン家出身で、釈迦に帰依して

8日目で阿羅漢(仏弟子の最高位)の悟りを得たといいます




十二頭陀は

山林など人里はなれた場所に住む。つねに乞食(こつじき)行をなす

貧富を選ばず乞食する。1日1食しかとらない


食べ過ぎない。正午を過ぎたら果汁などの飲み物をとらない

捨てられたボロでつくった衣を着る。三衣〔さんね・三つの衣〕だけを着る


墓場や死体の捨て場所に住む。樹下に止(とど)まる

空き地に坐る。つねに坐して横にならない です



ちなみに、頭陀袋は

修行僧が経卷や仏具や食器などを入れて首からかける袋で

転じてなんでも入るだぶだふの袋もさすようになっています




日本の仏教では、袈裟が権威の象徴のようになっていますが

袈裟は、梵語のカーサの音写で、赤褐色を意味するといいます


カーサの意訳は、壊色(えじき・青、黄、赤などの原色を破壊した色)

染衣(ぜんえ・濁った色に染まった衣)だといいます


つまり、本来の仏教では、衣服への執着をなくすため

華美なものは禁じられていたのです



釈迦をはじめとする初期の僧は、糞掃衣(ふんぞうえ)といって

ごみの集積所や墓地などに捨てられていたボロ切れを拾い集めてきて

丈夫な部分を取り、縫い合わせて一枚の四角い衣にし

これを身にまとっていたといいます







第2回は、以下の経緯でなされています


釈迦滅後の110年に、耶舎(やしゃ)という長老の比丘が

ベンガル州のバイシャリーに来ると

比丘(僧侶)たちが金銀の布施を受けていた


これは、跋闍子(ばっじゃし・バッジプッタカ)という比丘が

十事という説を立て、比丘たちがこれを実践していたためであった



十事とは

① 塩を容器に入れて蓄え、他の日に用いてもよい

② 中食後も一定時間内は食事をしてもよい

③ 1つの村で食事をした後、他の村へ入って食べてもよい

④ 食事のとき以外に、油や蜜などを混ぜた乳製品を飲んでもよい

⑤ 病気の治療のため、完全に発酵が終わっていない椰子酒を飲んでもよい

⑥ 自分で坐具の大きさを定めてよい

⑦ 各自それぞれの師から授けられた戒を優先させ

教団の規定(律)に従わなくてもよい

⑧ 一部の者で合議し、教団に事後承諾を求めてもよい

⑨ 1つの地区で別々に布薩(ふさつ)を行ってもよい

⑩ 金銀や銭などの施しを受け、蓄えてもよい

というものだとされます



【 布薩・・・・  半月に1度、地域内の比丘たちが集まり、自己を反省し

罪のある者はこれを告白し懺悔(ざんげ)すること

なお、安居(あんご・雨期の3ヶ月間、道場にとどまって修行に専念したこと)

の最後の日(7/15)に行われた反省会は「自恣」(じし)という 】




そこで耶舎比丘などの長老は

会議を開いて十事を非法であると決定を下し

700人の賢聖を選出し、律蔵を編集したそうです


これが第2回の仏典結集だとされます


このとき原始仏教教団が、進歩派の大衆部と

十事は非法であるとする上座部に分裂しました




釈迦が悟りを開いて教えを説き始めてから

入滅後約100年ないし200年〔前3世紀後半のアショーカ王の時代〕


伝統派の上座部と、改革派の大衆部に分かれるまでを

「原始仏教」と呼びます



上座部と大衆部の両者はさらに分裂を繰り返し

上座部11、大衆部9の計20となったといいますが

この時代の仏教を部派仏教といい

ふつうこの部派仏教を「小乗教」と呼んでいます



また、各部派は、釈迦が残した教法(経蔵と律蔵)を研究・整理して

独自の教義を「論」(アビダルマ)として作り、互いに論争しました


そのため阿毘達磨(あびだるま・あびだつま)仏教ともいいます


阿毘達磨とは、釈迦の教説の究明を意味し

小乗部派の思想体系、解説書、注釈書などをさします




「大乗」「小乗」は

悟りへと向かう船(乗り物)に譬えられていて


小乗は、自分だけしか乗ることのできない船

大乗は、多くの衆生を乗せ、ともに悟りへと向かう船


という大乗の立場からの言葉です



なので、小乗という言葉は、大乗の立場からのものなので

国際的な場では使用しない取り決めになっています


年代的には、大乗仏教が起こる前1世紀頃までの仏教とされますが

部派のいくつかは8世紀頃まで存続したそうです





大衆部の開祖 大天は、五事という新説を唱えたそうです


五事とは、阿羅漢(小乗仏教の最高位)になっても


① 無智の部分が残る

② 夢精することがある

③ 疑いが残っている

④ 他者から知る知識がある

(阿羅漢は無学とも意訳され、学ぶことのない人とされる)

⑤ 苦しいと真実を言葉にするところから聖なる道が生じている

だといいます


なお、大天(マハーデーバ)は、母と通じ、父を殺害して逃げ

逃亡先では、故国の事情に通じた比丘をも殺し

のちに懺悔して仏教に帰依したとされます


アショーカ王の帰依を受けたとされます







第3回は、前3世紀のアショーカ王(在位、前268~前232)の外護のもと

王の帝師の 目連帝須(もっけんれんていしゅ)を中心に

千人の比丘が

パータリプトラ(マカダ国の首都)に集まってなされたといいます


但し、この結集は

セイロン上座部だけで行われたものと考えられています



ちなみに目連帝須は

アショーカ王の王子であるマヒンダと、王女であるサンガミッターに受戒

また各地に伝道師を派遣しています


これにより

スリランカには、最初にマヒンダにより

次いでサンガミッターにより、仏教が伝道されました







第4回は、カニシカ王(2世紀頃)のときで


説一切有部〔せついっさいうぶ・インド仏教最大の教派

部派仏教(小乗仏教)の一派

前1世紀半ばに上座部より派生したと考えられている〕


に帰依したカニシカ王の援助で、500人の阿羅漢が集まり


世友(しゆう)と

脇尊者〔わきそんじゃ・80歳で出家し

脇を席につけない(横にならない)と誓ったという

仏伝のブッダチャリタ(仏所行讃)の著者である馬鳴(めみょう)の師と伝える〕

を中心に

経・律・論の三蔵が編集されています




このときの論蔵が「大毘婆沙論」〔だいびばしゃろん・

説一切有部の祖 迦多衍尼子(かたえんにし)の著の

発智論(ほっちろん)の注釈書

発智論に対する諸論師の説を集大成した書

梵本は現存せず、漢訳は玄奘(げんじょう)による200巻などがある〕です



この結集は、説一切有部という小乗部派内の結集とされます



なお、説一切有部の名は、この派によって立てられました

「我空法有」からきています



●  我空法有


衆生は五陰(ごおん)が仮に和合した存在で空であり「我」は存在しない

ゆえに自己の本性・固有の本質である「自性」と

おのおのの特徴である「自相」(相とは姿の意)は空である


但し、自性と自相を保持するもの

衆生を構成する

「法体」(ほったい・諸法の本体。諸法の構成要素や五陰のこと)は

三世(さんぜ・過去・現在・未来)にわたって実在する=

「法体実有(じつう)・三世恒有(ごうう)」という考え







パーリ語経典



明治になると実証的な仏教・仏典研究により

インド仏教の歴史が明らかにされ


パーリ語経典、またその漢訳である

阿含経(あごんきょう・阿含はアーガマの音写で、伝承の意)が

釈迦の直説(じきせつ)に近いことが明らかになります




釈迦は、カピラヴァストゥという小国の王子に生まれていますが

カピラヴァストゥは

マカダ国という中インドの大国の属国だったといいます


また釈迦は、マカダ国を中心に布教活動を行っています


しかし、マカダ語による経典は現存していません



また、釈迦は弟子たちに

その地方の言葉で教えを説くように指導していたようですが


釈迦時代の経典で現存するのは、パーリ語経典だけのようです

パーリ語は、マカダ語の方言(別の説もある)だといいます



このパーリ語経典を、原始経典とか、原始仏典とか言います

小乗教の経蔵は、このパーリ語経典です





これに対して、大乗教の経典の原典は

基本的にはすべてサンスクリット語で書かれています


パーリ語が俗語(日常の話し言葉)の1つとされるのに対し

サンスクリット語は、洗練された言葉という意味で

標準語とか雅語とか文章語と訳されます



また、中国や日本では、古代インドの伝承で

梵天がつくった言葉とされていることから「梵語」と訳されています




スッタニパータやダンマパダといった

パーリ語経典(小乗教)にみられる釈迦の言葉は

ものごとの道理を平易な言葉で説いていて

人間釈迦を彷彿させるもので


「ご利益」や「信」をやたらと

強調する大乗よりもむしろ優れていると考える人も多いです




パーリ語経典の「経蔵」は、大きく5つに分かれています



① ディガ・ニカーヤ〔長部経典〕

比較的長い経を30経集めたもの


漢訳の長阿含経は22巻4分30経からなるという




② マッジマ・ニカーヤ〔中部経典〕

中程度の長さの経を150あまり集めたもの


漢訳の中阿含経は60巻18品222経からなるという




③ サンユッタ・ニカーヤ〔相応部経典〕

短い経を2800種集めたもので

主題や対話者(女性の仏弟子や悪魔など)

などテーマ別に分類整頓(相応)したもの


漢訳の雑(ぞう)阿含経は50巻1362経からなるという 




④ アングッタ・ニカーヤ〔増支(ぞうし)部経典〕

短い経を2200種集めたもの


漢訳の増一阿含経は51巻52品471経からなるという


三宝を三の法、四諦(したい)を四の法

八正道(はっしょうどう)を八の法に

分類するといったように、数(法数)で教えをまとめている


一法から十二法まで順々に配列しているので

増一(ぞういつ・増支)という





さらに4つのニカーヤ(部)に入らない教えを収めたのが

クッダカ・ニカーヤ(小部経典)で


今日ではこのうちの韻文(詩の形式)で書かれた

スッタニパータやダンマパダなどが


最も古い文献で

釈迦の直説に最も近いというのが定説化しています




クッダカ・ニカーヤには、他に


ウダーナ・ヴァルガ〔音写訳は優陀那(うだな)。意訳は感興偈(かんきょうげ)

釈迦が他からの問いを受けず

自らが興味を感じることについての自説を詩の形式で説いたもの

ダンマパダと重複する内容が多い〕



イティブッタカ〔「かくの如き言われた」の意で、仏は「かくの如き言われた」

という書き出しで釈迦の説を集めたもの

漢訳に、玄奘(げんじょう)訳の本事経がある〕



テーラガーター(長老偈)・テーリーガーター(長老尼偈)

〔釈迦の弟子である男女の長老(修行年数が長い者)たちの詩を集めたもの〕



ジャータカ〔本生譚(ほんじょうたん)

釈迦が過去世に菩薩(仏を目指し修行をする者)であった時の

利他や求道の修行物語547話を集めたもの〕


などがあって、全部で16の経典があるようです





スッタニパータは、スッタは経。パータは集まりの意味で

「経集」と訳されますが、多くの翻訳は「ブッダのことば」としています


釈迦の直説に最も近いとされます

全5章からなり、1149の詩と、所々に説明の散文が記されているといいます


第4章だけが漢訳され、仏説義足経となっているそうです




ダンマパダは、法句(ほっく・法の言葉)の意味で

諸経の中から修行者のための実践を説いた詩句を集めたものといいます

全26章423の詩からなるそうです


漢訳の法句経は500の詩となっているらしいです


また漢訳には、パーリ語経典にはない13章258詩を加え

39章758詩のもあるというし


原典には、パーリ語の他にサンスクリット語のものもあるそうです




小乗教の修行者って

こんなにもたくさんの経典を学ぶわけか

となりますが


さらに、律蔵(戒律の書)や論蔵(経蔵の注釈書)も学ぶのでから

それだけで一生を費やしてしまいそうですね(笑)







仏教伝来 ①



釈迦の生誕は前5~6世紀

〔前463~383頃。一説に前566~486頃

南方伝承では前624~544頃〕と推定されています



釈迦が悟りを開いて〔19歳で出家・30歳で成道

一説では、29歳出家・35歳成道〕教えを説き始めてから


入滅後約100年ないし200年〔前3世紀後半のアショーカ王の時代〕

伝統派の上座部と、改革派の大衆部に分かれるまでを原始仏教と呼びます



上座部と大衆部の両者はさらに分裂を繰り返し

上座部11、大衆部9の計20となったといいますが

この時代の仏教を部派仏教といい

ふつうこの部派仏教を小乗教と呼んでいます




上座部系部派の「説一切有部」

(せついっさいうぶ・インド仏教最大の宗派)が大きな勢力を誇り

新興の大乗仏教が主な論敵としたのはこの説一切有部

もしくはその一派であったといいます




中国や日本には大乗(北伝仏教)が伝わり

東南アジア諸国には主として小乗(南伝仏教)が伝わりました



スリランカから、ビルマ(ミャンマー)、インドシナ半島

さらにはインドネシアへと伝えられた南伝仏教は

上座部の一部派(分別説部・ぶんべつせつぶ)の教えだといいます




ただし、部派仏教の分岐に諸説あって

分別説部は、上座部の異端であったという考えも強いです


部派仏教とされる北伝20部派や

南伝18部派にも含まれていないのです


そもそも上座部系ではないという考えから

大衆部、上座部、分別説部という分け方もあります



いずれにしても

スリランカ、ミャンマやタイなど南アジアに残っている仏教が

みずから≪上座部≫と称しているわけです





分別説部の名称は

現象を分析し、人間を徹底的に分析して

仏道を説いたことからのようです



分別説部が、スリランカに伝わり

分別説部の支派の1つ

「赤銅鍱部」(しゃくどうようぶ・赤銅鍱はスリランカの古称)

になったとされ


この「赤銅鍱部」が3つの分れたといいます



大寺派

ブッダゴーサの清浄道論で知られる

タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオス等の諸国にも伝わって今も存続



無畏山寺派(むいせんじは)

前1世紀に大寺派から分裂。大乗および密教を取り入れた



ジェータ林派

3世紀に無畏山派から分裂。ジェータ林とは祇園精舎の別称



このうちアバヤギリ・ビハーラ派〔無畏山寺派〕は

大寺派と長く勢力を争ったそですが

12世紀に大寺派に吸収されたそうです






南伝仏教では、釈迦一仏主義をとります


出家者は比丘だけで、比丘尼はいません


比丘は227戒など厳しい戒律を守り

在家信徒の男女は5戒〔不殺生・不偸盗(ふちゅうとう)・

不邪淫・不妄語・不飲酒〕を守ります


民衆は、出家者を供養することで功徳を得ます



また、仏舎利などを祀る仏塔崇拝が盛んで

スリランカでは、釈迦の犬歯を祀る

仏歯(ぶっし)信仰なんかも盛んだそうです






スリランカ(セイロン)にはかなり古くに伝えられたの?


アショーカ王(在位、前268~前232)の王子であるマヒンダ

次いで王女であるサンガミッターにより

上座部の一分派である分別説部の仏教が伝えられたそうです


ちなみに日本に仏教が伝えられたのは6世紀中頃です




第3回仏典結集で、中心的な役割をなした

アショーカ王の帝師 目連帝須(もっけんれんていしゅ)が

各地に伝道師を派遣しましたが

2人は、目連より受戒をうけ、スリランカに伝道したといいます




最初に伝道したマヒンダは

4人の僧を含む主従7人でスリランカに渡り

スリランカの王 テーバーナンピヤ・ティッサ王を教化し


都 アヌラーダプラに道場

のちの大寺(だいじ・マハービハーラ)を与えられています



大寺は、5世紀に中国僧 法顕(ほっけん)が訪れたときは

3千人の僧がいたといいます


南インドのタミル人(ヒンズー教徒)による破壊や、遷都により荒廃

現在は遺跡のみになっているそうです





5世紀前半には

インドから ブッダゴーザ(仏音・ぶっとん)がスリランカに渡り

大寺に秘蔵されている

古代シンハラ語(古代スリランカ語)などによる古い

三蔵(経、律、論)を、パーリ語に翻訳し

上座部大寺派の正統を確立したそうです



また、彼の著書「清浄道論」は、仏教の教義の百科全集的な書で

東南アジアの仏教では、この著に書かれていることが正統な説

とみなされているそうです


彼は、ビルマにも渡り、仏教の復興に尽くし

晩年はインドに帰り没したといいます



ブッダゴーザは

小乗仏教では、釈迦の次に重要な人であり

大乗仏教における竜樹(りゅうじゅ)に等しい人とされます




ビルマには6世紀に仏教が伝わったとされますが

11世紀に全ビルマを統一した上ビルマのパガン王朝が

下ビルマより500人の僧を迎えたことで、仏教が興隆したそうです


そして、南インドのタミル人の進出により

ヒンズー教や密教に圧倒され、衰微していたスリランカに

大寺派の仏教を西還させたといいます



以後、スリランカとビルマでは盛衰を繰り返し

現在の両国の仏教は

18世紀にタイから西還されたものだといいます





スリランカでは仏教が憲法で保障されていて

他の宗教より優遇されています


国民の75%が小乗仏教徒で

ヒンズー教徒が18%程度といいます



ビルマ(ミャンマー)は85%が小乗仏教徒とされます






タイは、東南アジア最大の仏教国で

ほとんど全て(95%)の国民が仏教徒です


タイの憲法には、国王を仏教徒とすることが規定され

仏教は事実上、国教の地位を得ているといいます



タイ族の国ができたのは13世紀以降で

1782年に、他の部族を併合し

現在のチャクリ王朝が建設されていますが


チャクリ朝では当初から仏教が信奉され

盛衰はあるものの

国王を仏教の守護者として今日に至るといいます



また、タイという国は

列強の侵略をうけずに独立を維持してきました


1750年には、オランダの植民地支配のもと

キリスト教に圧迫され衰微していた

スリランカの仏教教団を再興しようと


長老を派遣、今日のスリランカ最大の宗派

アム・ニカーヤは、このとき創設されています




この他、ラオスも95%

カンボジアは90%以上が小乗仏教で

カンボジアでは国教となっています



カンボジアは住民の大部分がクメール族で

クメール王国は6世紀中頃に起こり

8世紀に2つに分裂。9世紀に再統一

9~13世紀に最盛期を迎えています


クメール王国では

ヒンズー教と仏教が混交した宗教が栄えました


アンコール・ワットはその象徴です






仏教伝来 ②



また、インド仏教が滅亡

〔歴史においては1203年のイスラム教徒による

ビクラマシー寺院の破壊をインド仏教の滅亡とする〕すると


イスラムの侵入をまぬがれた

カトマンズ〔ネパールの首都。ヒンズー教、仏教の古寺院が多い〕

に多くのインドの仏教徒が避難します


ネパールは、インドの北に接する国で

ネパールの宗教は

ヒンズー教が90弱%、仏教7.5%、イスラム教が3%とされます




ネパール仏教というと

ふつうは、カトマンズ盆地を拠点とするネワール族の信奉する

インド大乗仏教をいいます


ネパールは現在では、世界で唯一のサンスクリット語(梵語)の

大乗仏典を用いる国であるといいます


また、世界各国で研究されるサンスクリット語仏典の

ほとんどがネパールより伝えられたものです







中国への仏教伝来は1世紀頃と推定されています


朝鮮半島には、最も北にあった高句麗へ372年

百済には384年

新羅には、高句麗から5世紀始めごろに伝えられたといいます





日本への仏教伝来は

「上宮聖徳法王帝説」

(聖徳太子の伝記)などを根拠に538年とされます


また「日本書紀」によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代

552年に百済の聖明王により

釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとあります



聖徳太子(574~622)は

『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の解説書

(『三経義疏』)を書いています





中国の仏教は「三武一宗(さんぶいっそう)の排仏」という

4人の皇帝による弾圧をうけたり

共産主義国家になったことで衰退していきました



4つの廃仏は


1、北魏の太武帝の排仏(446~452)

道教の 寂謙之(こうけんし・道教教団「新天師道」の祖)

に帰依したことによる

仏教の僧団の堕落も原因だったようで

仏教の僧尼を不生産者と断じている



2、北周の武帝の排仏(574と577の2度)

仏教・道教・儒教のうち、仏教と道教が排斥され

200余万人の僧侶と道士が還俗させられ

伽藍や経典が破却されたという



3、唐の武宗の排仏(845年)

排仏の中でも最も有名

道教の士 趙帰真(ちょうきしん)の言を用い、仏教を弾圧

4600の寺院を破壊(小寺院は4万余という)

僧尼26万人が還俗させられ

仏像や仏具は銭や農具に改鋳されたという



4、周の世宗(せいそう)の廃仏(955)

他の廃仏が、道教や儒教との争いから起こっているのに対し

国家の経済的窮地と僧団の堕落により起こったものという




中国仏教は、武宗の排仏により衰退していったといいます


らに、武宗の排仏以後、80年におよぶ戦乱があり、伽藍は荒廃し

典籍は散逸していったとされます



また、唐(618~907)代以降は、禅宗のみが栄え

禅宗が、近世に至るまでの中国仏教の代表だったそうです





朝鮮半島では

13世紀中頃より儒教に圧迫され

最後の王朝である李氏朝鮮(1910年に日本に併合)では

歴代の王がもっぱら儒教を用い、排仏政策をとったそうです





インド仏教は滅亡していますし

大乗仏教がもっとも栄えている国は日本なのです


日本人は、それだけ釈迦が好きな国ということです



なお、人口1億2700万に対し

ウキィペディアによると、約8470万人が仏教徒とあります(2013年統計)

67%が仏教徒ということになります


別の統計をみると、神道48%、仏教46%、キリスト教1%、その他宗教5%

(宗教年鑑平成27年=2014年度版のデータ)

とあります



世界では、キリスト教が33.4%、イスラム21.2%、ヒンズー教13.5%

中国の伝統宗教(儒教や道教など)5.7%、仏教5.7%

ユダヤ教0.2%、その他宗教6%、無宗教・無神論などが14.3%

とありました




仏 伝




Top page


大乗仏教の本質





 自己紹介
運営者情報




 時間論




 幸福論




 価値論




 心と
存在




言葉と
世界




食べて
食べられ
ガラガラ
ポン





Suiseki
山水石美術館