緋山酔恭「B級哲学仙境録」 天皇論 Ⅴ 応神天皇と八幡神



B級哲学仙境論


天 皇 論


 




天皇論 Ⅴ




応神天皇と八幡神



八幡宮の八幡神は

いつの頃からか15代 応神天皇であるとされるようになり


八幡神(応神天皇)、神功皇后、比売神(八幡神の配偶神)が

八幡信仰の基本となっています



応神天皇については4世紀末から5世紀はじめの人だというのが有力です


朝鮮半島まで勢力を拡大し、南部の伽耶(かや)を支配下に入れ

日本府という軍政府

〔統治機関。伽耶諸国と同盟を結んだ大和朝廷の使節機関とも〕

を置いています



なお、伽耶は諸小国全体の呼び名で

日本では「任那」(みまな)と呼んだそうです

562年に新羅に併合されています




また応神天皇の時代、日本書紀などに

百済(朝鮮半島南西部)が日本の援助を受けて

高句麗(中国東北地方の南東部から朝鮮半島北部)

と戦ったことが記されていたり



弓月君〔ゆづきのきみ・秦氏の祖〕や

阿直岐〔あらき・漢(あや)氏の祖〕といった

百済からの渡来人、帰化人の名が見られることから

天皇が百済と縁の深い人物であったとの指摘もあります


大陸の先進文化を導入した人だったとされます





八幡神の起源、またその名称の由来については諸説あってはっきりしません


海の神、鍛冶の神


八幡はヤハタとも読むことから焼畑の神


秦氏の神

〔 秦氏は、古代の渡来系氏族。秦の始皇帝の子孫で

秦人、漢人からなる127県の民を率いて

応神天皇のときに、百済から移住してきた

という伝説上の人物 弓月君(ゆづきのきみ)の子孫を称した〕


豊前国(ぶぜん・福岡県東部と大分県北部)の

綾幡(あやはた)郷の神


幡を立てて祀る神

ハルマン(朝鮮語の老婆の俗語)の神=姥神


また応神誕生のとき

産屋(うぶや)を八流の赤幡が覆い、たなびいていたことから


などといった説があるようです





また、宇佐八幡宮〔大分県宇佐市。全国4万4千社という八幡神社の総本宮

創建年代不詳〕の 祭祀集団のリーダーは


5世紀の雄略(ゆうりゃく・21代)天皇のときは、豊国奇巫(きふ)

6世紀の用明天皇(31代)のときは、豊国法師 として

天皇の治病に参内しているそうで


用明天皇のとき、こうした功績に対し、蘇我馬子が

大神比義というシャーマンを宇佐に遣わし


八幡神に応神天皇の神格を与えたのではないか

とも考えられているようです




いずれにしても、八幡信仰の起源は

豊前国綾幡郷あたりの農耕神や穀霊神への信仰が

宇佐に入り、その土地神である比売神を祀る信仰と融合し


さらにその付近に銅が産することから

銅産の神、鍛冶の神ともなったと考えていいようです






奈良時代には、銅産の神としての性格から

東大寺の大仏造営(745に製作を開始、52年に開眼供養)を助けます



聖武天皇が国家の大事業として

東大寺と大仏を建立することに対し不安を感じていると


宇佐八幡宮の女禰宜(めねぎ) 大神杜女(おおがのもりめ)

主神司(しゅしんし) 大神田麻呂らが


八幡神の「我は天の神、地の神を率いて

我が身をなげうって協力し、東大寺の建立を必ず成功させる」

という神託をもって


神輿(みこし)奉じて上京したそうです 

(これが神輿の始まりだとされる)




また、宇佐八幡の祭司である大神氏は

大仏に塗る金が不足すると

「金は必ず出る」という神託を降すなど


鋳造に関する数々の問題を神託により解決したといいます

(実際に陸奥から金が献上された)



これによって、八幡神は、神階(神の位階)の最高位の

一品(いっぽん)に昇り詰め


また東大寺の守護神として祀られ、中央進出を果たします






このように仏教との関係を深め

さらに託宣(神託)神としても知られるようになります


そして朝廷から、八幡神に大菩薩の称号が与えられ

「八幡大菩薩」となり、神仏習合

〔しんぶつしゅうごう・神道と仏教の融合現象

習合とは互いに違った教義を調和させること〕のさきがけとなりました



またこれにより鎮護国家の神、仏教(寺院)の守護神として

全国に勧請(かんじょう・分霊)されていくことになります




7世紀半ば、山城(京都)の岩清水に

勧請(かんじょう・分霊して祀ること)された頃から


応神天皇の本地(本来の姿)は

八幡大菩薩であるとされるようになり


朝廷の祖先神、京都(王城)鎮護の神

としても崇められるようになったそうです



その後、源氏の氏神ともなり、武神的性格を帯びるとともに

その信仰は関東や東北にまで伝わりました


とくに鎌倉幕府開いた 源頼朝によって

鶴岡(つるがおか)八幡宮が建立されたことにより

全国の武士たちに崇敬されるようになったといいますです







●  宇佐八幡宮神託事件



日本の史上、実際に天皇位を奪おうとした人はいたの?


奈良時代の769年に「宇佐八幡宮神託事件」というのが起きています


これは生涯独身であった

48代 称徳天皇(45代 聖武天皇と光明皇后との娘)に寵愛された


法相(ほっそう)宗の僧

道鏡〔どうきょう・700頃~772。物部氏の一族 弓削(ゆげ)氏の出身〕が


次の天皇位をねらうも

反対派の藤原永手(ながて・左大臣)

藤原百川(ももかわ)、和気清麻呂(わけのきよまろ)ら

によって阻止されたという出来事です



称徳天皇は、46代 孝謙天皇の重祚(ちょうそ・再び天皇になること)です

孝謙上皇は、自らの病の看病にあたった道鏡を寵愛しはじめます


当時、最高実力者であった太政大臣の藤原仲麻呂は

淳仁天皇を通じて孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせます

これが孝謙上皇を激怒させ

藤原仲麻呂と、孝謙上皇・道鏡とは対立することになります



仲麻呂は、武力をもって政権を奪取しようとしますが、密告もあり

孝謙上皇は、先手を打ち、仲麻呂の専制に不満を持つ貴族たちを結集し

仲麻呂を滅ばしています (藤原仲麻呂の乱)



上皇は、淳仁天皇を淡路国に流刑・幽閉(64年10月)すると

自らが再び天皇に復位することを宣言します


道鏡は、復位した称徳天皇のもと太政大臣となり

その翌年には「法王」となります



なお、淳仁天皇は、65年10月、逃亡を図るが捕らえられ

翌日没しているので、殺された可能性が高いとされます



765年には、称徳天皇に跡継ぎがなく、皇太子が決まっていなかったことから

皇位を望んだ 和気王(わけおう・天武天皇の曾孫)が、謀反を計画するも露見し

逃走しましたが捕えられ


伊豆国へ流罪となる途中

山背国相楽郡で絞殺されるという事件も起きています



69年には、不破内親王〔称徳天皇の異母妹〕が、称徳天皇の命を縮め

息子の 氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)を天皇位に就けようと

呪詛〔じゅそ・天皇の髪の毛を盗み、髑髏(どくろ)に入れて呪ったという〕

したとして


不破内親王の皇族の身分を剥奪、平城京内に居住することを禁止し

志計志麻呂は土佐国に配流され

内親王とともに呪詛を行った3人の女性たちも

それぞれ流罪に処せられるという事件も起きています




天皇位を望んだ 道鏡は

弟で大宰帥〔だざいふのそち・大宰府長官

九州における外交・防衛の責任者〕の

弓削浄人(ゆげのきよひと)と


大宰主神(だざいのかんづかさ・九州の神道界の首位)の

中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)に


「道鏡が皇位に付けば天下は太平になる」という

宇佐八幡宮(大分県宇佐市。八幡神社の総本宮)の

八幡神の神託を奏上させます


しかもこれは、称徳天皇と道鏡の共謀であったことといいます


この神託に、称徳天皇と道鏡

居並ぶ公卿たちは仰天し (称徳天皇と道鏡は演技)


事は重大なため、今一度

嘘をつかない清廉潔白な人物を宇佐に使者として遣わし

八幡神に神託の真偽のほどを確かめることとなったそうです



そこで、称徳天皇の女官 和気広虫(わけのひろむし)が選ばれました

この女性は称徳天皇の意のままになる人物であり

称徳天皇と道鏡の思いどおりに事が運んだといいます



ところが広虫は、重圧から発病し、寝込んでしまいます


そこで広虫の弟でやはり清廉潔白な人物とされていた

近衛将監(このえしょうげん・天皇親衛隊高官)の

和気清麻呂(わけのきよまろ)が神託を聞きに

宇佐八幡宮へ行くことになりました




このとき道鏡は清麻呂に


≪ 仏の前には身分などない。天皇ですら仏の前では奴隷である

亡き聖武天皇は、東大寺の大仏の前で「朕はあなたの奴です」とおっしゃっている


誰が王になってもかまわないとは思わないか


遊び暮らしている女帝が裕福なのに、懸命に働いている庶民が苦しむ

こんなことがまかり通るの世の中がおかしいと思わないか


神仏は私を見捨てなかったのだ


お前は宇佐で

「道鏡を天皇にすれば、天下は太平になる」という神の言葉を聞くだろう ≫


なんてことを語り



清麻呂は「法王が何をおっしゃろうと

私は神の言葉を報告するまでです」と答え

その言葉に道鏡は満足したといいます



ところが2ヶ月後、和気清麻呂は都に戻り

「天津日嗣(あまつひつぎ)には必ず皇孫を立てよ

無道の者(道鏡)を排除せよ」

という神託を伝え、天皇と道鏡の野望を阻止したとされます





但し、この事件の首謀者については、称徳天皇と道鏡(共謀)の他

道鏡(単独)、宇佐八幡宮の神官、弓削浄人とする説などもあるようです




それから、道鏡は、称徳天皇が没し、光仁天皇が即位すると

下野(栃木県)の薬師寺の別当(寺務を統括する長官)に左遷され没しています


道鏡が、本当に皇位を狙ったとすれば極刑になるはずで

称徳天皇崩御後の下野への左遷は罰としてはあまりにも軽すぎるし


弓削浄人〔道鏡とともに失脚。三人の子とともに土佐国に流罪

のちに赦免され、本国(河内国)に戻るが京に入ることは許されなかった〕ら


一族関係者にも死罪が出ていないということから

宇佐八幡宮の神託の話は創作であるとする説もあるといいます




一方、清麻呂は、女帝と道鏡の怒りを買い

「別部穢麻呂」(わけべのけがれまろ)と改名させられ

大隅国(鹿児島県東部と奄美群島)へ配流


姉の広虫も「別部広虫売」(わけべのひろむしめ)

と改名させられて処罰されています



しかし、道鏡の失脚後、和気清麻呂は

光仁天皇、桓武天皇に仕え

桓武天皇の長岡京・平安京への遷都に尽力しています


清麻呂は楠木正成とならぶ「忠臣の鑑」(かがみ・手本)として

戦前には拾円紙幣の肖像にもなりました







なお、臣下(皇族以外の者)が、天皇を殺害した事例は

592年に、蘇我馬子が、東漢駒を用いて32代 崇峻天皇を殺害してしています



実際に、天皇を称したのは、平将門です

939年、常陸国府を制圧した平将門は、上野の国司を追放して国庁に入り

弟や従者を伊豆と関東諸国の受領(ずりょう)に任じます


このとき八幡大菩薩の使いと口ばしる昌伎(かむなぎ)から位を授けられ

≪新皇≫(しんのう)と名乗ります


京都の朱雀天皇を「本皇」「本天皇」としているので

新皇とは、もともとの天皇に対して

≪新しい天皇≫の意味だったとされます


将門は新皇を名乗り、わずか3ヶ月後に討ち死にしています





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