緋山酔恭「B級哲学仙境録」 天皇論 Ⅵ 南北朝時代



B級哲学仙境論


天 皇 論


 




天皇論 Ⅵ




南北朝時代



南北朝時代は、

後醍醐天皇(96代)が大和の吉野に入った1336年から

南北合体で、後亀山天皇(99代)が

京都に帰る1392年までの57年間をいいます


その間、日本に2つの王朝があり、2人の天皇がいたわけです



分裂のきっかけは?


亀山天皇(90代・1249~1305)は幼少より

父の嵯峨天皇の愛情を一身に受けていたことから

同母兄の後深草天皇(89代・1243~1304)と不仲となります



後深草天皇は、嵯峨天皇の意により

天皇位を弟の亀山天皇に譲りました


こうした後深草天皇と亀山天皇との争いが

子孫にひきつがれることになります




1317年、鎌倉幕府は


持明院統〔後深草天皇の皇統。持明院(京都市上京区にあった寺院)

を御所としたことから。後の北朝〕と


大覚寺統〔亀山天皇とその子 後宇多天皇の皇統。両天皇が出家後

京都の外れの嵯峨にある大覚寺(真言宗)に住んで

院政を行ったことから。後の南朝〕とが


交替で、皇位に就くことを定めます (文保の和談)



文保の和談は、幕府の干渉により、持明院統の伏見上皇(92代天皇)と

大覚寺統の後宇多法皇(91代)との間で行われています



内容は


① 次の96代には

大覚寺統の尊治(たかはる)皇太子(後醍醐天皇)が即位する


② 在位は10年間で、両統が交替で皇位を継ぐ


③ 次の皇太子は大覚寺統


④ その次の皇太子は持明院統


③について持明院統より不満が出て

明確な協定にはならなかったようですが


95代 花園天皇(持明院統)は

翌年幕府に従い、後醍醐天皇に譲位します




これに対して、後醍醐天皇は幕府の干渉に不満を抱き倒幕を志したのです



1324年、天皇は、側近の日野資朝(すけとも)や日野俊基を諸国に派遣

各地の武士や有力者に討幕を呼びかけます


しかし、計画は事前に発覚し、土岐(とき)頼兼、多治見国長

足助重範など密議に参加した武将は討伐され

資朝は佐渡島へ流刑となります (正中の変)


正中の変では、天皇は処罰をまぬがれました





天皇は、処分を免れた側近の日野俊基や

真言密教の僧 文観らと再び倒幕計画を進めます



1331年、またも討幕計画がもれ、天皇は御所を脱出し

笠置山(かさぎやま・京都府相楽郡笠置町)で挙兵します



このとき後醍醐天皇の第1皇子

護良(もりなが・もりよし)親王や

楠木正成〔大阪府南河内郡の豪族

建武の新政では河内・摂津の守護とともに、新政府の諸役職に就く〕も

これに呼応して、それぞれ挙兵しています


天皇は敗北し、隠岐に流されます (元弘の乱)



その後、潜伏していた護良親王と楠木正成が再び挙兵し


楠木軍は一種のゲリラ戦を展開し90日間にわたり

幕府軍を千早城(南河内郡千早赤坂村)に釘付けにします


これに触発され、各地に倒幕の機運が広がっていき

播磨国では赤松則村が挙兵します



1333年、天皇は、伯耆(鳥取県)の豪族 名和長年

〔なわながとし・建武の新政のもとでは伯耆の守護となる

足利尊氏を京都などで破り西走されるが

のち東上し入京した尊氏軍に破れて戦死〕の働きで、隠岐を脱出します



長年は、天皇を船上山(鳥取県西部)に迎え

鎌倉幕府軍を破り天皇を護って上洛します



幕府は船上山に

足利尊氏や名越高家(北条氏の一門)らの援兵を送りますが

名越は赤松則村に討たれ、尊氏は幕府へ反旗を翻します



尊氏は、播磨国の地頭 赤松則村

近江国の佐々木道誉(どうよ)らの

反幕府勢力を糾合して

六波羅探題(鎌倉幕府が朝廷の動きを監視するため京都に設置された機関)

を攻め落とし、京都を制圧します



一方、上野(こうずけ・群馬県)で挙兵した 新田義貞が、鎌倉を攻め落とします

こうして鎌倉幕府は滅亡します






南北朝の争乱と言うと、足利と新田の争いでもあります


新田・足利両氏とも

源義家〔八幡太郎義家、平安時代後期の武将。源氏の棟梁

陸奥守兼鎮守府将軍になり奥州を征覇

源頼朝や木曽義仲は、義家の二男 義親を家祖とする〕

の四男(三男とも) 源義国の子孫です


義国の長男の 新田義重が新田氏の家祖となり

義国の次男(三男とも)の 足利義康が足利氏の家祖です



このように新田氏は、源氏の棟梁ともなれる家柄ではありますが

足利氏が幕府に優遇されていたのに比べ

新田氏は、役職にも就けず鎌倉幕府からは冷遇されていました


一方、足利氏は、将軍家一門の地位にあったそうです




義貞は、建武政権のもとで重用され、上野、越後などの国司

武左近衛中将(さこのえのちゅうじょう)などに任ぜられてます



尊氏は、鎮守府将軍・左兵衛督(さひょうえのかみ)に任じられ

また30ヵ所に及ぶ所領を与えられます


しかし、征夷大将軍に任命されなかったことに満足せず

新政府のいかなる機関にも参加しなかったといいます



35年、鎌倉幕府が消滅し、後醍醐天皇による「建武の新政」が実現しますが

足利尊氏が背いたことによりわずか2年で崩壊してしまいます





尊氏は鎌倉で建武政権に反旗を翻し

箱根・竹の下の戦いで、新田軍を破り京都に進撃します


このため、建武の新政後、東北地方経営を行っていた

鎮守府将軍の 北畠顕家(あきいえ)は

奥州の兵を引き連れ、尊氏軍を追って上京


新田義貞・楠木正成とともに、尊氏破り、京より追い落としています


翌年も、新田・北畠・楠木は、再び入京を目指す尊氏を摂津国で破り

尊氏を九州へと追い落とします



しかし尊氏は再起し、36年、湊川の戦い(兵庫県神戸市)で

新田・楠木軍に勝利します (楠木正成は戦死)


そして、持明院統の光明天皇(北朝1代)を即位させ

光明天皇より征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開きます


こうして、天皇親政から

再び武士が政治の実権を握ることになったのです




一方、尊氏と和睦、し幽閉されいた後醍醐天皇は

神器を奉じて吉野に逃れ、ここに南朝が誕生します



吉野に逃れた天皇は

陸奥国多賀城にいる北畠顕家に対して


幼少の義良親王〔のりなが・のりよし

後の後村上天皇・後醍醐天皇の第7皇子〕

を奉じて上洛し


尊氏を討つ様に命じ、顕家は再び西上し鎌倉を攻略します



さらに進撃は続き、美濃でも北朝方に勝利するも

兵力の減少や疲弊により京攻略を諦め

伊勢に逃れて立て直しを図り


以後も畿内で北朝軍と交戦を続けましたが

尊氏軍の高師直(こうのもろなお)との闘いに敗れ戦死します


享年21です




その後も南朝軍と尊氏との戦いは続きますが

38年に新田義貞

48年には、正成の子 楠木正行(まさつら)・正時兄弟が戦死するなど

南朝側は次第に勢力を失っていきます


そして69年には、正成の三男 正儀(まさのり)が

北朝へ投降します (82年に再び南朝に帰参)




また後醍醐天皇の第8皇子で

征西将軍となった 懐良(かねなが・かねよし)親王は


菊池氏、阿蘇氏、宇都宮氏らの武力を背景に

大宰府を制圧し九州に南朝勢力を築いていましたが

(61年に大宰府を制圧。以後10年余九州を経営)


72年に足利勢力の今川貞世(さだよ)によって駆逐されています





ちなみに、阿蘇氏は、阿蘇神社の大宮司を世襲し

この地方の一大勢力となっていました



【 阿蘇神社


熊本県阿蘇市一の宮町。肥後国一の宮

全国に約450社ある阿蘇神社の総本社


神武天皇の孫の 健磐龍命〔たけいわたつのみこと・阿蘇大明神

本来は、阿蘇地方の神で、阿蘇火口に立つ巨石が神として

崇められていたことに始まるとされる

のちに農耕神や水神の性格が加えられた〕を一宮に


その妃神で土地神の

阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)を二宮に祀るのをはじめ

一族神12柱を祀る




健磐龍命の父 神八井耳命(かむやいみみのみこと・神武の子)

については以下の神話がある


神武天皇が崩じると、庶兄の 手研耳命(たぎしみみのみこと)が

異母弟たちを殺そうとした


神沼河耳命〔かむぬなかわみみのみこと・

のちの綏靖(すいぜい)天皇〕は


母の 媛蹈鞴五十鈴媛命

〔ひめたたらいすずひめのみこと・

比売多多良伊須気余理比売命(ひめたたらいすけよりひめのみこと)

大物主の神の娘。神武の大和征服後の妻で正妃〕

の歌からこのことを察知し


同母兄の神八井耳命とともに手研耳を襲い討ちとった

このとき、神八井耳命は恐怖で手足が震え矢を放てず


神沼河耳命が矢を射て殺したとされ

これを恥じた神八井耳命は弟に天皇位を譲ったという



阿蘇神社は、7代 孝霊天皇のときに

健磐龍命(神武の孫)の子で


初代阿蘇国造(くにのみやつこ)に任じられた

速瓶玉命〔はやみかたまのみこと・

阿蘇都比古命(あそつひこのみこと)。十一宮の祭神〕が

両親を祀ったのに始まると伝える


阿蘇氏は、速瓶玉命の子孫を称し、現在も大宮司を世襲している






話を戻します


その間、幕府内では、尊氏と弟の直義(ただよし)の対立が深まり

1350年に光厳上皇による直義追討令が出されると

直義は南朝に降ります



直義軍は京都に進撃


尊氏軍は、播磨や摂津の戦いで直義軍に敗れ

尊氏は 高師直(こうもろなお)・師泰兄弟の出家を条件に直義と和睦します



なお、高師直は、尊氏の執事で

高師直が、軍事指揮権を持つ将軍尊氏を補佐する一方

直義が、政務を担当する体制をとっていました


高兄弟は護送中に直義派の武将に暗殺されています



その後、尊氏は、直義を京都から追い落とします

直義は、自派の武将を伴って京都を脱出し鎌倉に降ります



直義派が、関東・北陸・山陰を抑え


西国では

直冬〔ただふゆ・尊氏の庶子で直義の養子となる。尊氏と対立〕

が勢力を伸張している状況を見て


尊氏は南朝と和睦し

直義・直冬追討の綸旨(りんじ・天皇の命令書)を要請します



これにより南朝は

北朝の三種の神器〔南朝は贋物であると主張〕の引き渡し

政権の返上などを条件に和睦に応じ


後村上天皇(南朝2代・後醍醐天皇の第7皇子)は

尊氏に対して直義・直冬追討の綸旨を与え


北朝の崇光天皇を廃位するとともに

三種の神器を接収しました (正平統一)




尊氏は、翌52年、直義を駿河や相模などの戦いで破り

鎌倉に追い込み降伏させ、鎌倉に幽閉します


その後、直義は急死、尊氏による毒殺であるとされます



南朝は、尊氏が直義追討のために

関東に向かった隙をついて京を奪回する作戦に出ます


楠木正儀(まさのり・正成の三男)が

足利義詮(よしあきら・尊氏の嫡男。2代将軍)を破って

京の奪回に成功し、これにより正平一統は破綻します



このとき南朝軍は

光厳・光明・崇光の3上皇と、廃太子 直仁親王を

岩清水八幡宮に幽閉し


やがて南朝軍が京都からの撤退を余儀なくされると

彼らを賀名生〔あのう・旧吉野郡西吉野村〕へ拉致しています


56年に解放され、翌年京都に帰還しますが

京都では、既に崇光天皇の実弟である

後光厳天皇が尊氏によって擁立された後で

崇光上皇や、直仁親王の復位要求は拒絶されています



なお55年にも、南朝方は

足利直冬を立てて京の奪回を目指しましたが

結局、尊氏・義詮の軍に敗れて失敗に終わっています






以上のような経緯の後、92年に

99代 後亀山天皇(南朝4代)が

3代将軍 足利義満が提示した講和条件を受諾し

吉野から京都へ帰り


神器を北朝の後小松天皇(100代・南朝6代)に伝えて譲位し

南北朝合一が実現しました


ただ、官職はすでに北朝の公家が独占していて

南朝の公家の多くは公家社会への復帰がかなわなかったようです





また、1412年、北朝の後小松天皇は

合体のさいの「両朝が交替で皇位に就く」という約束を反故(ほご)にし

皇子の称光天皇に譲位します



これに対し、伊勢の国司 北畠満雅が

南朝最後の天皇である後亀山天皇の孫

小倉宮聖承(せいしょう)を擁して挙兵するも討伐軍に敗れて降伏しています



28年には、101代 称光天皇が崩御して北朝の嫡流が絶えると

北朝の傍流 伏見宮家

〔家祖は、北朝3代 崇光天皇の第1皇子 伏見宮栄仁(よしひと)親王〕

の 後花園天皇が即位します


これに不満を持った北畠満雅は、小倉宮を推戴して再び反乱を起こし

緒戦で幕府軍を敗走させますが、結局、敗れて満雅は討ち死にしています



その後も小倉宮聖承は伊勢で抵抗を続けますが

30年に満雅の弟 顕雅が幕府と和睦したため、京へ戻っています


このときの和睦条件が、小倉宮は「息子を出家させること」

幕府は「諸大名から小倉宮へ毎月3千疋(ひき)の生活費を献上させること」

であったといいます


そこで12歳であった小倉宮の息子は出家しますが

幕府からの生活費は守られることがなかったといいます



この反乱をはじめとして、南朝の後胤(こういん・子孫)や遺臣らは

室町8代将軍 義政の頃まで、しばしば反乱を起こしたといいます


なお、称光天皇が即位した後の、南朝を「後南朝」(ごなんちょう)といいます




43年には、南朝の後亀山天皇あるいはその弟の子孫とされる

金蔵主(こんぞうしゅ)と通蔵主(つうぞうしゅ)兄弟


および南朝復興を唱える源尊秀

〔鎌倉時代の後鳥羽上皇の後胤を称した〕


日野家(貴族)の嫡流の日野有光と資親(有光の子)らの

「後南朝」の勢力が


後花園天皇の暗殺を企てて御所を襲撃します



御所に火をかけ

三種の神器のうち

剣と神爾(しんじ・八坂瓊勾玉)を奪い

比叡山に逃れましたが


幕府軍や協力を拒んだ比叡山の徒により鎮圧され

金蔵主や日野有光・資親らが討たれ


他は処刑・流罪、また行方不明となった者もいたといいます

〔禁闕(きんけつ)の変〕



なお、禁闕の変で奪われた神器のうち

剣は清水寺で発見され北朝に戻るも

神爾はそのまま後南朝のもとにあり


15年後の57年に、嘉吉(かきつ)の乱 で

没落した赤松氏の遺臣たちが奪い返し

翌年には北朝の手に戻っています


〔嘉吉の乱は、1441年、赤松満祐が

祝勝の宴を献上したいと言って

6代将軍 足利義教を京の邸宅に招いて暗殺した事件〕






明治維新により、北朝を正統とする公家たちから

南朝正統論の影響を受けてきた維新の志士たちに

つまり朝廷から明治政府に、皇室祭祀の主導権が移ると


これまでの皇室祭祀の在り方に批判が生まれます



そして

1869年(明治2)には

護良(もりなが・もりよし)親王を祭神とする 鎌倉宮


明治3年には、菊池武光らを祭神とする菊池神社(熊本県菊池市)


明治5年には、楠木正成を祭神とする 湊川神社

〔兵庫県神戸市。湊川の戦いがなされた地〕


明治25年には、後醍醐天皇を祭神とする

吉野神宮(奈良県吉野町)が創建されたのをはじめ


南朝関係者を祀る神社が

次々と創祀されたり、再興されたりしたそうです



1911年(明治44)には、明治天皇の裁断によって

南朝が正統であるとされます






●  護良親王(1308~35)


後醍醐天皇の第五皇子

大塔宮(だいとうのみや・おおとうのみや)と呼ばれた

比叡山延暦寺の座主を2度にわたって務めている


31年、後醍醐天皇の檄に応じて

比叡山で日月の錦旗を掲げて戦うが敗れる


32年には吉野に挙兵

33年には高野山に潜行して諸国に檄を飛ばすなど

倒幕の大半は護良親王の功績によるとさえ言われている



討幕後も上洛せず信貴山(奈良県生駒郡)に拠り尊氏を牽制する


建武の新政により征夷大将軍となるも

尊氏が鎮守府将軍(陸奥国に置かれた軍政府の長官)になったので


尊氏を警戒し、北畠顕家を陸奥守に任じ

鎮守府を補佐する陸奥将軍府の設置を進言、これを実現させている



しかし、武家政治の後継者を目指す尊氏と対立を深めるだけでなく

天皇親政を徹底させようとする天皇とも隔たりを深める


親王の声望を恐れた

阿野廉子(あのれんし・後醍醐天皇の寵妃)とも反目する



天皇との対立は

討幕の綸旨(りんじ・天皇の命令書)を出した天皇を差し置き

令旨(りょうじ・皇太子や皇后などの命令書)を発したことに始まるとされる



尊氏は、阿野廉子を通じ

護良親王が帝位を奪う陰謀を企てていると天皇に讒言


34年、後醍醐天皇の意を受けた

名和長年、結城親光らに捕らえられ


足利方に引き渡され

鎌倉の東光寺(現在の鎌倉宮のある地)の土牢に幽閉


尊氏の弟 直義(ただよし)の監視下に置かれた


35年、北条時行〔鎌倉幕府15代執権 高時の次男〕の乱が起き

鎌倉が北条軍に奪還されるが


直義は鎌倉を敗走するさい

護良親王が時行に奉じられる事を警戒し

淵辺義博(ふちのべよしひろ)に殺害させている






ヨーロッパでは絶対王政が実現したのに

「建武の新政」は失敗に終わったのはなぜ?


目的が、朝廷政治を復活させることよりも

自分の息子に皇位を継がせるためにあったからと


武士たちを軽く見ていたことだと考えられています



しかし、親政(天皇が自ら行う政治)が成功し

長く続いていたら、今、天皇制はなかったかもしれないですよね





尊皇思想の高まった幕末期、国家神道の明治から

昭和の敗戦にいたるまでは


唯一臣下の身分で天皇を殺害した 蘇我馬子


朝廷に戈を向け自ら天皇(新皇)を名乗った 平将門


天皇による親政を崩壊させた 足利尊氏


は、逆賊の代表的な人物とされていようです





それから第二次大戦後

南朝の子孫を主張する自称天皇が10人以上出現しています


なかでも、名古屋市で洋品雑貨商を営む 熊沢寛道は

昭和20年に、GHQに「自分こそ南朝正統の皇孫である」と名乗り出て


これがGHQの新聞に取り上げられ

一躍脚光をあび「熊沢天皇」と呼ばれたそうです


26年には「現天皇不適格確認」を

東京地裁に出して提訴したそうですが、却下されたといいます




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