天皇論 Ⅶ 日の丸 日章旗ともいう。古くから軍扇などに描かれている 日の丸の歴史はかなり古く645年大化の改新以後 天皇による親政が確立された頃からだという 文献としては、文武天皇の701年の正月元旦、儀式会場に 「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものとされる また、琉球王国(1609年以来、薩摩藩に服属)の進貢船 〔しんこうせん・中国との交易や使節派遣に用いられた琉球王国の官船〕 では、日章旗を船印として用いている 進貢船は14世紀に始まり19世紀中期まで行われていたが 日章旗の使用がいつからだかは不明 江戸時代の1673年には 幕府が、天領からの年貢米を輸送する廻船に対し 一般の廻船と区別するために 日の丸の幟(のぼり)を船印として掲げることを指示し これは幕末まで続いている 幕末期の1854年、日米和親条約により 日本は下田と箱館を開港し、鎖国体制は終焉を迎える これにより外国船と区別するため 日本国共通の船舶旗(日本惣船印)を制定する必要が生じ 「白地に日の丸の幟」と定められた 59年には、幕府は幟から旗に代え 日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出し これにより日章旗が事実上「国旗」としての地位を確立した 1870年(明治3)の太政官(だじょうかん)布告 〔太政官は明治政府の最高官庁。85年に内閣制度に移行したことで廃止〕 の郵船商船規則で「御国旗」として規定され 国旗の寸法が示された 横と縦は10:7 日の丸の直径は縦の3/5 日の丸の中心は旗の中央から1/100竿側にすること また1870年 日章と旭光をデザインした「旭日旗」が 陸軍御国旗に制定される 89年には海軍でも軍艦旗を日章旗から 「旭日旗」に変更している 海軍の軍艦旗は、陸軍の軍旗とは異なり 日章の位置が竿側に寄る 大戦後一時、国旗の掲揚が禁止されたが 1949年(昭和24)に連合国最高司令部(GHQ)は 日本国旗の無制限の掲揚と使用を許可した 1958年(昭和33)に告示された 「小学校学習指導要領」において 国民の祝日などに式典を行う場合、国旗を掲揚し 君が代を斉唱(せいしょう)することが望ましいとされている しかし、日の丸には国旗である という明確な法律ないことから 日本教職員組合、日本共産党、朝日新聞などの勢力は 日章旗の国旗としての正当性に疑義を唱えてきた なお、外国を侮辱する目的で その国の国旗を損壊したり 汚したりした者は その政府から請求がなされれば 刑法の外国国旗損壊罪によって処罰される しかし、日本の国旗を損壊したり 汚したりしても処罰されることはない 多くの国では自国の国旗への侮辱を 刑法で罰しているのに対し 日本では罰せられないという 日本という国と太陽の結びつきを述べおくと 太陽の女神 天照大神は、皇祖神である 伊勢神宮は、天照の御神体 八咫鏡(やたのかがみ)を祀るために創祀された社である また、607年には、聖徳太子が 大礼(だいらい)に 小野妹子(おののいもこ) 通事(おさ・通訳)に 鞍作福利(くらつくりのふくり) を隋(ずい)に遣わし 国交を開いているが このとき隋の煬帝(ようだい)に渡した国書の冒頭には “日出(ひい)ずる処(ところ)の天子 日没する処の天子に書を到(いた)す”とある これは太子が隋の臣下としてではなく 対等の外交を望んでいたことを示した言葉とされ 現代における外交手段の手本とみなされている なお、世界的にみて 日本のように太陽が赤で描かれることは少ないという 太陽は黄色また金色、月は白色また銀色で描かれるという 君が代 歌詞の原型は、古今和歌集 〔平安時代初期に成立した わが国初の勅撰(勅命により編集)和歌集。20巻 1111首〕の 「賀」の部にあるといいます 但しその初句は「我が君は」で 我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで となっているそうです 初句が「君が代は」になったのは 和漢朗詠集〔平安中期の1018年に成立した歌謡集。2巻 藤原公任(きんとう・権少納言。のち出家)編 朗詠(節をつけて謡う)に適する和歌216首と 日本と中国の漢詩文の佳句588句を収録〕の 一写本(鎌倉時代初期)に始まるとされます 古今和歌集の「君が代」は、詠み人知らずで 年賀のための歌であり この時代の君は、主人や友人や愛人などを意味することから 女性が男性に対して呼んだ歌であったとも考えられています 鎌倉・室町時代には、年賀ばかりでなく、おめでたい歌として 色々な歌集に祝いごとの歌として収録され 宴会のお開きの歌などに謡われたらしいです 江戸時代には、三味線音楽 筝曲(琴の曲)、琵琶歌、祭礼歌、盆踊り 門付(かどつけ・芸人が家々を訪問し、門口に立って演じた芸能) 読み物などに取り入れられたといいます 1869年(明治2)頃、横浜に滞在した イギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長 ジョン・ウィリアム・フェントンが 薩摩藩軍楽隊への講義において、国家の必要性を語りました 軍楽隊隊員の依頼を受けた 大山巌(当時 藩砲兵隊長。のち陸軍大将)は 数人と相談し、自身の愛唱歌であった 薩摩琵琶歌の「蓬莱山」(ほうらいざん)の中から 国歌に相応しい歌として「 君が代は……」の部分をとりだしたとされます これに、フェントンが曲をつけたとされます またフェントンとは別に 文部省も曲をつけ小学唱歌に採録したそうです しかし、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて 76年には「どちらの曲も日本人には適さない」と主張する 海軍軍楽隊長 中村祐庸(すけつね)より 天皇陛下を祝う楽譜の改作の申し出がなされます 海軍省は、宮内省雅楽課に作曲をゆだね 80年(明治13)に、雅楽課楽人による複数の「君が代」の中から 奥好義(おくよしいさ)の旋律(メロディー)を、伶人長の林廣守が選び 〔 ウキペディアには、廣守の長男林広季と 奥好義がつけた旋律をもとに 廣守が曲を起こしたものとみとめられる とある 〕 これにドイツ人音楽家で海軍軍楽教師 フランツ・エッケルトが 和声を付し(メロディーに伴奏をつけること) 同年11/3の天長節(天皇誕生日)に宮中で披露されました これが現在の「君が代」だとされます 主として軍隊で演奏され 88年には海軍省が「君が代」の楽譜を大日本礼式として 各官庁や条約国に送っています 93年には、祝日大祭日唱歌の1つとして告示され さらに、軍国主義の国威発揚の中で普及していったようです 1958年(昭和33)に告示された「小学校学習指導要領」においては 国民の祝日などに式典を行う場合 国旗を掲揚し、君が代を斉唱(せいしょう)することが望ましい とされました
皇紀と紀元節 西暦に対して、日本には「皇紀」と呼ぶ紀元があります 1872年(明治5)に、明治政府が定めたもので 日本書紀に記されている神武天皇の即位した年を 西暦の前660年とし、この年を皇紀元年としたものです 日本書紀には、神武が即位した日が 「辛酉年春正月庚辰朔」 〔かのと とりどし はるしょうがつ かのえ たつ ついたち・ 辛酉年(かのととりどし)の正月元旦〕 とあり これを太陽暦に換算すると紀元前660年になるらしいのです 干支って60年に1度くるから紀元前660年が辛酉になるなら 前600年だって、前720年だって辛酉になる なぜ、紀元前660年と分るのですか? 日本書紀には、各記事の日付がそのときの天皇の在位年数 (推古天皇10年など)で示され 各天皇の即位と崩御の年月日、即位の年の干支などを記述しているので そこから逆算していけば「辛酉年春正月庚辰朔」が 前66年と割り出せるそうです では、日本書紀において、神武の即位日が なぜ、辛酉年(紀元前660年)とされたのですか? これについては、那珂通世(なかみちよ・福沢諭吉門下) という明治時代の歴史学者が 中国の前漢(前202~後8)から後漢(22~202)に流行した 讖緯説(しんいせつ・予言思想)を採用したからではないか という説を唱え これがほぼ定説化しているようです 彼によると、≪ 干支が一周する60年が1元(げん)で、21元を1蔀(ぼう)といい 1蔀の辛酉年に、国家的革命(王朝交代)が行われるとされる 「辛酉革命」(しんゆうかくめい)という思想から 日本書紀では、推古天皇が、斑鳩(いかるが)に 都を置いた西暦601年(辛酉年)から逆算し 1蔀(60×21=1260年)遡った前660年(辛酉年)を、神武天皇即位の年とした ≫ ということらしいです また当初(明治5年)、皇紀元年の年初は1/29日と決められましたが 翌年に2/11日に変更されています 1/29日は、明治6年の旧暦1/1日を 新暦に置き換えた日付であったそうです 2/11という日にちは、即位した年代は前660年で 即位月は「春正月」(立春の前後) 即位日の干支は「庚辰」(かのえたつ)ということから 割り出した日付だそうです この2/11日が、現在の「建国の記念日」で かつては「紀元節」と言いました 日本国の建国とは≪大和朝廷の成立≫を意味するわけです でも前660年って、日本ではまだ縄文時代にあたりますよね 実際に大和大権が、西日本を統一したのは、4世紀中頃また後半とされていて 4世紀末までに朝鮮に進出し 〔日本書紀によると朝鮮南部の任那(みまな)を支配下に置いたとされる〕 4~5世紀までに東北以北を除く日本の大半を統一したとされています 1889年(明治22)年の2/11日には、大日本帝国憲法が発布され 太平洋戦争のときには、2/11日が、シンガポール陥落の目標日とされたそうです 1948年(昭和23)、国民の祝日を制定するさい 紀元節は、日本国憲法の理念にふさわしくない として廃止されましたが 66年(昭和41)の祝日法改正に基づき 翌年「建国記念の日」として事実上復活しました なぜ「建国記念日」でなくて「建国記念の日」なの? 史実に基づく建国の日とは関係なく 建国されたという事象そのものを記念する日だからだそうです 昭和32年に、自由民主党の衆議院議員らによる議員立法として 「建国記念日」制定に関する法案が提出されます しかし当時 野党第一党であった日本社会党が反対 その後「建国記念日」の設置を定める法案は 9回提出されましたが廃案となり、成立には至らなかったといいます 結局、名称に「の」を入れた「建国記念の日」として "建国されたという事象そのものを記念する日"である とも解釈できるようにし 具体的な日付の決定に当たっては 各界の有識者から組織される審議会に諮問するなど の修正を行い、社会党も妥協 昭和41年6/25日に 「建国記念の日」を定める祝日法改正案が成立しました 約半年の審議を経て、委員9人うち7人の賛成により 「建国記念の日」の日付を2/11日とする答申が12/9日に提出 同日、内閣が、建国記念の日を2/11日と決定したそうです 日本の美称 古代の日本の異称というか美称に 「豊葦原瑞穂国」〔とよあしはらのみずほのくに・ 葦が生い茂り、稲が豊かに実り栄える国〕 というものがあます 類似のものに 豊葦原千五百秋瑞穂国〔とよあしはらのちいほあきのみずほのくに・ 千年も万年も稲が実る国の意〕 などがあります 葦原は豊かな土壌を表すとも、かつての一地名とも言います 他に「葦原中国」 〔あしはらのなかつくに・天上界である高天原(たかまがはら)と 地下(死者)の黄泉国(よみのくに)との中間の意味で地上世界〕 がよく知られています 「秋津島」(あきづしま・あきつしま)というのもあります 秋津は、古くは奈良県御所(ごせ)市付近の地名で 6代 孝安天皇の都のあった場所で 島は、国や地方の意味で 次第に周囲を加えた広い地域をさすようになり やがて大和国、さらには日本全体をさすようになった という説があります また、秋津とはトンボのことで 神武天皇が国見のとき 「「妍哉(あなにや)、国を獲(え)つること 内木綿(うつゆふ)の真乍(まさ)き、国といえども なお蜻蛉(あきつ)臀占(となめ)せる如ごとくあるかな」 と言ったことに由来するという説もあります 意味は、≪あぁなんとすばらしいことであるか 国を得るということは (内木綿は枕詞=ある種の情緒を添える言葉) 狭い国ではあるけれども 蜻蛉(トンボ)がトナメして飛んで行くよう 山々が続いて囲んでいる国だな≫ トナメは、交尾したトンボの雌雄が 互いに尾をくわえあって輪の形になって飛ぶこと トンボの交尾は、雌の尾の先と、雄の胸のあたりでなされる 多くの島からなる島国の美称としては 「大八洲国」 〔おおやしまのくに・大八洲は、淡路島、四国、隠岐、九州 壱岐、対馬、佐渡、本州。またはたくさんの島の意〕 があります さらに「大倭日高見国」 〔おおやまとひたかみのくに・太陽が高く輝く国の意〕などがあります 伊邪那美命とともに「国生み」をした 伊邪那岐命は、この国をほめて 「浦安国(うらやすのくに・人心が平安な国) 細戈千足国(くはしほこちたるくに・精巧な武器が十分備わっている国) 磯輪上秀真国(しわかみのほつまのくに・磯輪上は枕詞か? 秀真(ほつま)は、優れ、具わっているという意)」 と述べ 「国造り」を行った大国主命は 「玉牆〔たまがき。玉垣 神社の周囲にめぐらされる垣。瑞垣(みずがき)ともいう〕 の内つ国(美しい国)」と語り 日本武尊〔やまとたけるのみこと・ 12代 景行天皇の皇子・14代 仲哀天皇の父 九州や東国を平定した英雄〕は 「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」 〔まほろばは、日本の古語で 素晴らしい場所、住みやすい場所の意味〕 と述べています ヤマトとは、もともとは 大和王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が ヤマトと呼称されていたそうで 大和王朝の支配が周辺に拡大するとともに その地域(畿内)もヤマトと呼ばれるようになり さらに日本列島の大半(東北地方南部から九州南部)に及びに至り 日本を総称してヤマトと呼ぶようになったといいます 5世紀~6世紀ごろに漢字が入ると「ヤマト」の語に対して 「倭」の字が当てられ、さらに「大倭」と書かれるようになり 元明天皇(在位707~15)の治世に 国名は、好字(よい意味の字)を二字で用いることが定められ 倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し 「やまと」と訓ずるように取り決められたといいます 語源については諸説あります 山のふもとを意味するという説 山に囲まれた地域からときたという説 ヤマトはもともと山門であったという説 ヤマトはもともと山跡であったという説 邪馬台国のヤマタイがヤマトに変化したという説 ヤマトはもともと温和・平和な所を意味する 「やはと」「やわと」であるという説 など また、7世紀後半から8世紀初頭に 国号が「日本」(当初はヤマトと発音)と定められた という説もあります 701年施行の大宝律令に「明神御宇日本天皇」 (あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)とあります これが「日本」という国号の初見とされます 日本とは、東の果て=日の本(ひのもと)に位置することに 由来していると考えられています その後、国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音) あるいは「ジッポン」(漢音)と読まれるようになったと推測されています 英語のジャパンはここからきています マルコ・ポーロ〔1254~1324・ベネチアの商人 ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した冒険家〕 が「東方見聞録」で 日本を、黄金の島 ジパング(発音はジャポンに由来)を紹介しています ジパングは、中国大陸の東方1500海里にある黄金の島あり 宮殿や民家は黄金でできていると書かれているそうです また、ジパングの人々は偶像崇拝者で、外見がよく 礼儀正しいが、人食いの習慣があるとも書かれているそうです マルコ・ポーロを海外に日本を紹介した人だと礼賛していますが いいかげんなコトも書いています (日本は仏教国で食肉すら禁忌とされていた) 商人であるマルコ・ポーロが、黄金の国 ジパングに来なかったのか? それは、人食いの習慣という間違った情報を 信じていたためという話もあります 日本が黄金の島と言われたのは 平泉を中心に東北地方一帯に勢力を誇った奥州藤原氏の時代 〔奥州藤原氏が1189年に、源頼朝によって滅ぼされる以前の約100年間〕 奥州で豊富に砂金が産出され それが藤原氏の政権を支えていたことからだと言われます 藤原清衡(きよひら)は 金色堂で有名な 中尊寺(岩手県平泉町・天台宗大本山)を建てています 奥州藤原氏は、十三湊〔とさみなと・青森県五所川原市の 十三湖(じゅうさんこ)の辺りにあった湊〕 を拠点に 宋(中国)と貿易をしていたことも分っているので それによって金色堂のことが伝わったと考えられています なお、中世アラブ世界で 東方の彼方にあると考えられていた土地に「ワクワク」 〔ワクワク島、ワクワクの国、ワークワーク〕があります 中国の東方にあって、黄金に富み、人々の衣服から 犬の鎖や猿の首輪まで黄金でできている と文献にあるそうで この「ワクワク」は 日本の古名 倭国(わこく)に由来するとする説が有力です 天皇論 Ⅷ 旧宮家断絶と日本民族の危機 天皇論 Ⅵ 南北朝時代 |
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