緋山酔恭「B級哲学仙境録」 天皇論 Ⅷ 旧宮家断絶と日本民族の危機



B級哲学仙境論


天 皇 論


 




天皇論 Ⅷ




旧宮家断絶と日本民族の危機



宮家を理解するには

まず「皇族」というものを理解しなければならなさそうです


大宝律令(701)では「皇親」として規定されていて

天皇の4世孫までが皇親とされていたそうです


706年に5世孫とその嫡流も皇親とされるようになったそうです



これが鎌倉時代からは世襲親王家の登場などで一部形骸化します


世襲親王家とは、現在の天皇宗家と血統が離れていても

代々「親王宣下」を受けて親王を世襲してきた宮家だそうです



大規模な荘園領が誕生し

これが天皇や皇親の私有財産として継承されていくこととなり

鎌倉時代後半から室町時代前期にかけて、世襲宮家が成立します


その一部は、代々、天皇または上皇の養子となって

親王宣下をうけ「世襲親王家」となったとされます



その後、荘園の有名無実化によって

経済的基盤を失い、室町時代の末期までに

伏見宮家を除く世襲宮家は、悉く消滅するに至ったといいます



その後、秀吉の奏請により八條宮(のちの京極宮、桂宮)が創設され

江戸時代には、高松宮(のちの有栖川宮)と閑院宮が創設されました



しかし、宮家の家祖の男系子孫が

幕末・維新期まで続いたのは伏見宮家のみといいます


なお、伏見宮家でも

17代伏見宮家当主が、116代桃園天皇の子になっています


18代から再び家祖の男系にもどっているのです


このようなことからも「四親王家」の継承は

男系子孫による世襲を基本としつつも

名跡の相続という側面が強かったといいます





明治時代以前には、天皇の子であっても親王宣下を受けない限り

親王および内親王(女性)を名乗る事は出来なかったらしく

逆に天皇の孫以下の世代に相当する皇族であっても

親王宣下を受けて親王および内親王となることもあったそうです



明治の皇室典範で、親王宣下の制度は廃されましたが

永世(えいせい)皇族制となったために宮家自体は存続してきたといいます



永世皇族制とは、現行の皇室典範にも採用されているものです

天皇の子孫はその世代数に関わらず皇族とする制度です


但し、嫡出〔ちゃんとした婚姻関係の夫婦に生まれた

つまり側室の子でない〕の男子の子孫に限るとされています


天皇の孫(2世)までは親王または内親王

ひ孫(3世)以降は、王または女王が与えられます


天皇が1代、子供が1世、孫が2世と数えます

王にも、皇位継承権があります




永世皇族制は、天皇が代わっても傍系皇族が整理されないので

時代を経るごとに皇族が増加していきます


2005年には、皇位継承者不足の対応策として

女性皇族および女系皇族にも

継承権を拡大する案が検討されていましたが


女系皇族も皇位継承者とした場合

皇族の人数が増えるので

永世皇族制を廃止する議論もなされていたそうです





皇族離脱については

現行の皇室典範では以下の取り決めがあります


女性皇族が天皇・皇族以外と結婚した場合には

皇族の身分を離れなければならない


皇族以外の女性が結婚して皇族となった場合

夫と離縁すると皇族の身分を離れなければならない


15歳以上の皇族は、意思を示して皇族の身分を離れることができる


もともと皇族以外の女性が、夫と死別した場合には

意思を示して皇族の身分を離れることができる


以上の他、やむを得ない事情があるときにも皇族離脱が認められる


なお三番目以下は、皇室会議の決議を必要とする




旧宮家の皇籍離脱は

形式上は現行の皇室典範に則っていて


それぞれのケースに応じて

「その意思」

「皇室会議の決議により」

「やむを得ない特別の事情があるとき」などによって行なわれたそうです





そもそも「男系」とは

男性天皇の子供のうちの男子、その男子の子供のうちの男子

そのまた男子の子供のうちの男子…

ということです



天皇の根拠は、神武天皇のY遺伝子にあるのです


男性はXY、女性はXXの性染色体を持ちます

男子は父からYを、母からXをもらう

女子は父からも母からもXをもらう


単純に考えてみても

この時点で女子の遺伝子から父親のYが無くなります

父からもらうのはXだけです


その女子とある男性が結婚し、男子が生まれると

女子のXX(一方は父方、もう一方は母方)のうち

どちらかが男子に受け継がれるますが

母方のXが伝わったとしたら

そこで父方の性遺伝子は途絶えたことになるわけです




女性の皇族にも皇位継承権が拡大されれば

天皇の直系である愛子様は天皇になれますが

女系天皇がダメだとなると

愛子様の子供は、たとえ男子(女系男子)でも

天皇にはなれないということになります





過去に女性天皇っていたでしょ?


8人10代の女性天皇がいます

37代斉明は、35代皇極の重祚(ちょうそ・退位した君主が再び君主となること)

48代称徳は、48代孝謙の重祚



このうち生涯独身だったのは、46代 孝謙、109代 明正(めいしょう)

117代 後桜町天皇の3人だけです


ただ女性天皇の子供が天皇になった例はないのです

つまり女性天皇は、男系男子が生まれるまで

また男系男子が幼い場合は

その子がある程度の年齢に達するまでの代理でしかなかったわけです






さて、旧宮家(旧皇族)とはなにか?


日本国憲法施行後の昭和22年に皇籍離脱(臣籍降下)した

11宮家51名の元皇族と、その男系子孫だといいます


このとき大正天皇の皇子(昭和天皇の実弟)である

秩父宮・高松宮・三笠宮を除く

全ての宮家が皇籍離脱しました



原因は、GHQ(連合国総司令部)の指令により

皇室財産が国庫に帰属させられたため

従来の規模の皇室を維持できなくなったこととされます



香淳皇后(昭和天皇の妻)の実家である久邇宮家(くにのみやけ)や

昭和天皇の第一皇女 成子内親王の嫁ぎ先である東久邇宮家などの

一部の宮家に関しては皇室に残す案も出ましたが

最終的に、秩父・高松・三笠の3宮家のみを残し

11宮家は全て皇籍離脱することになったのです




51名の元皇族には、事業を興して成功した者や

皇室・旧華族・神道などに関係する職に就き

社会の名士として活動を続けた者もいるそうですが

ほとんどの者が資産の多くを失い、経済的に困窮したといいます





皇位継承者の不足から

旧宮家を皇籍へ復帰させ

(内親王、女王との結婚による復籍などの案もある)


男系皇統(神武天皇の遺伝子の継承)を守るべきだ

との主張があるのに対し


「旧宮家は伏見宮家の系統で

現在の天皇とは20世代40親等以上離れていて

その復活は一般大衆を皇族にしようとすることである」

という意見もあります




11家は、すべて世襲親王家の筆頭であった

伏見宮家の男系子孫にあたるということです



そもそも「世襲親王家」とは、江戸時代において

当代の天皇との血統の遠い近いにかかわらず

代々「親王宣下」を受けることで親王の身分を保持し続けた

4つの宮家です



このうち伏見宮以外の3つは

子孫に男子が途絶えたりして断絶しています


桂宮: 始祖は第106代正親町天皇の皇孫。明治14年に断絶


有栖川宮: 始祖は第107代後陽成天皇の皇子。大正2年に断絶


閑院宮: 始祖は第113代東山天皇の皇子

幕末に当主を欠いたが、明治維新後に伏見宮から当主を迎える

昭和22年に皇籍離脱し、昭和63年に断絶




これら4家の歴代の当主や跡継ぎは

天皇または上皇の形だけの養子となることにより

親王宣下により親王の地位と称号を与えられてきたわけです



また、皇族が、門跡(もんぜき)寺院に出家して入ると

天皇または上皇の養子として親王宣下を受けることになっていて


それが

法親王(門跡寺院に入信し親王宣下をうけた男子皇族)

入道親王(すでに親王宣下を受けている親王が出家)

なんだそうです




ところが、明治に入り、「国家神道」が誕生し

「廃仏毀釈」〔はいぶつきしゃく・仏を廃し釈迦を捨てる〕

の運動が全国にまき起こり


多くの寺院が破壊、焼却され、仏像や仏具、経典などの文化財が消失

廃寺や寺院の統合(全国の約半数の寺院が消滅したとされる)

僧侶の還俗などが相次いでいきます


明治4年には、門跡制度が廃止となります



こうした情勢の中、伏見宮家の第19代、20代、23代の王子が

還俗(仏門を出ること)して

宮家を創設もしくは継嗣のいない宮家を相続していきました



前述の「世襲親王家」以外の宮家

つまり伏見宮家と閑院宮以外の9家は

このようにして誕生しています


9家は、山階宮、北白川宮、梨本宮、久邇(くに)宮

賀陽(かや)宮、東伏見宮、竹田宮、朝香(あさか)宮、東久邇宮




つまり、旧宮家のとは、伏見宮家と

そこから枝分かれをしていった10家

ということになります




明治維新前後に新設された宮家は

還俗した元門跡の皇族に

その身分にふさわしい礼遇を与えるためのものであり

当初は1代限りを想定していたようです


2代目からは臣籍降下(臣下の籍に降りること)させて

華族(公爵)に列することとし

世襲は想定されていなかったそうです





では、現在の天皇家と

旧宮家の11家は、どこで分れたのでしょうか?



北朝第3代 崇光天皇の孫

伏見宮貞成(さだふさ)親王までは同じです


その子 102代天皇 後花園天皇が、今の天皇家へ

花園天皇の同母弟の 貞常親王が、今の旧宮家へと至るわけです




また、明治天皇の皇女である4人の内親王が

竹田宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮の各旧宮家に


昭和天皇の皇女が東久邇宮家にそれぞれ嫁いでいます



それから、昭和天皇の皇后である香淳皇后は久邇宮家の女王でした

このように血筋的にも、現皇室とも姻戚関係が深いと言えます






ちょっと前までは


≪ 一般の我々は、自分の先祖がどんなんだったかなんて

全くわからないですよね(笑)


神武天皇の遺伝子を継承することを

証明できる人なんて

他にはどこにもいないのですから

旧宮家の復活なんかは、面白いと思うけど・・・・


歴史のロマンを感じます ≫



なんてぐらい思っていましたが

今は、そんな呑気なこと言っていられないレベルなのです




以前(15年くらい前でしょうか)


旧宮家について調べたときは

前述した


閑院宮: 始祖は第113代東山天皇の皇子

幕末に当主を欠いたが、明治維新後に伏見宮から当主を迎える

昭和22年に皇籍離脱し、昭和63年に断絶


(11家のうち伏見宮と閑院宮は世襲親王家)


の他、2つの宮家が断絶していましたが

残り8家は、残っていました



ところが現在(2021年)

男系断絶や正嫡(嫡流)断絶により

残るのは、久邇宮、竹田宮、朝香宮、東久邇宮だけになってしまっています

(伏見宮の「嫡流断絶見込」も含める)




伏見宮の初代は

北朝3代崇光天皇の第一皇子 伏見宮栄仁(よしひと)親王です


初代の子(2代)の同母弟、3代の伏見宮貞成(さだふさ)親王の

それぞれの子が


現皇室へとつながる 102代天皇 後花園天皇と

旧宮家の伏見宮へとつながる 伏見宮貞常(さだつね)親王です


伏見宮貞成親王の第一男子は、嗣子のない称光天皇の猶子となって

後花園天皇となっています





このように、歴史的にも意義が深い

伏見宮家が断絶の憂き目にあうって

日本人としてどう思います?



これは一宮家の問題でなく

神武天皇のY遺伝子の問題であり


日本の文化の問題

もっというと日本民族の問題であって


宮家を取りやめにして

今日の天皇の跡継ぎ問題を作り出し

日本の国力を削ごうとした

GHQの思惑どおりにコトが運んでいる

ということなのです





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