緋山酔恭「B級哲学仙境録」 天皇論 Ⅳ 神武東征



B級哲学仙境論


天 皇 論


 




天皇論 Ⅳ




神武東征 ①



初代 神武天皇が即位して大和朝廷を開くまでを

「神代」(かみよ)と言いいます


天照大神(太陽の女神・皇祖神)の

長男 忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)は


母の天照から、高天原〔たかまがはら・天上界〕から

葦原中国〔あしはらのなかつくに・下界〕に降臨し

下界を統治するように命じられますが

下界に行くのが嫌だった


ちょうど妻の万幡豊秋津師比売

〔よろずはたとよあきつしひめ・

高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の娘〕に


天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほのあかりのみこと)と

邇邇芸命(ににぎのみこと)が生まれたので


天照に自分の子を降臨させることを願う


天照はやむなく

赤子の邇邇芸命に、神々を従わせて天降りさせることにした



これが記紀(古事記と日本書紀)神話の「天孫降臨」です




ちなみに、邇邇芸命の父の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)は

誓約(うけい)によって生まれています





● 誓約(うけい)


古代日本で行われた1種の「神明裁判」で

神に誓いをたて、神意により正邪や真偽を判断したり、決着をつけるもの


「盟神探湯」(くがたち)もその1つ



中世ヨーロッパの魔女裁判で行われた

裸にして両手を後ろ手に縛り水に沈めて

浮き上がってきたら魔女と判定する

といったたぐいが「神明裁判」である



「盟神探湯」とは、主張が正しいことを神に誓わせ

熱湯の中に手を入れさせる(小石や瓦を拾わせる場合もある)

手が無事だったら「真」

焼けただれたら「偽」とされたという




神話では、とくに、天照大神(あまてらすおおみかみ)と

須佐之男命(すさのおのみこと)の「誓約」が有名


須佐之男は、父の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)に

「海原」の統治を命じられたが

自分の国を治めようとはせず


母の伊邪那美命(いざなみのみこと)のいる

根の国〔死者の国・地底の国。黄泉(よみ)の国〕

に行きたいと泣き続けた


このため、川、海、山は枯れ、疫病が流行るなどの災いがおきた


怒った伊邪那岐は、須佐之男に

「それならばこの国に住んではいけない」と言って、根の国に追放する



須佐之男は、根の国に行く前に、姉の天照に挨拶しておこうと

天照が治めている高天原(たかまがはら・天上界)に登っていく


すると山川が響動し、国土が震動したので

天照は、須佐之男が、高天原を奪いにきたと思い込み

男装し、戦支度(いくさじたく)をして待ち受けた



天照から、高天原をのっとりにきたのではないという

証拠を求められた須佐之男は「誓約」を申し入れる


二神は、それぞれが子を生むことで決着をつけようと決めた

しかし、肝心な、どうなれば

神意に沿う正しい者で、勝者なのかを決めていなかった



まず、天照が、須佐之男の十拳剣(とつかのつるぎ)をもらい

これを3つに折り、真名井(まない・高天原にある井戸)の水ですすぎ

口に含んで噛み砕いて霧のように吹き出すと


田霧姫〔たぎりひめ・多紀理毘売命。田心(たごり)姫〕

湍津姫〔たぎつひめ・多岐都比売命〕

市杵嶋姫〔いちきしまひめ・市寸島比売命〕がの三女神生まれた



【 この3女神は、福岡県宗像(むなかた)市の宗像大社の祭神

玄界灘の孤島である沖島の沖津宮に田霧姫

海岸近くの大島の中津宮に湍津姫

陸地の辺津宮(へきつのみや)に市杵嶋姫を祀り

3つあわせて宗像大社と呼ぶ

宗像3女神の名は、霧、激浪、巫女に由来するとされる


また、宮島(広島県。日本三景)の厳島神社の主神は、市杵嶋姫である


宗像3女神は、須佐之男の剣から生まれたので、須佐之男の子である 】




次に須佐之男が、天照の珠飾りをもらい、真名井の水ですすぎ

噛み砕いて霧のように吹き出すと、5柱(神は1柱、2柱と数える)

の男神が生まれる


左の髪を巻いている珠飾りから生まれたのが

長男の 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)


右の髪を巻いている珠飾りからは、天穂日命(あめのほひのみこと)

髪にまとっていた珠からは、天津日子根命(あまつひこねのみこと)


左手に巻いている珠からは、活津日子根命(いくつひこねのみこと)

右手に巻いている珠からは、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)

が生まれる



【 このとき、天照は、角髪〔みずら・髪を頭頂で左右に分け

それぞれ耳のわきで輪をつくって束ねた結い方

飛鳥・奈良時代の男子貴族の髪の結い方

古墳時代の男性埴輪などに見られる〕だったとみられている


5神は、天照の珠飾りから生まれたので、天照の子である 】




天照は、須佐之男の剣からは3柱

自分の珠飾りからは5柱の神が生まれたので

5:3で自分の勝ちだと主張したが


須佐之男は、自分に邪心がないから

清純な女神がうまれたのだと反論し、勝利を宣言した



調子にのった須佐之男は、このあと「天津罪」(あまつつみ)

と呼ばれる様々な乱暴狼藉を働く


天照の田んぼをこわしたり、御殿を汚したり

ついには、天照のいる機織り小屋の屋根に穴を開けて

皮を剥いだ馬を落とし入れた(皮を落としたとも)


これに驚いた1人の機織りの娘が尻もちをつき

梭(ひ・機織りで使う小さい舟形の道具)が陰部に刺さって死んでしまう


悲しみのあまり怒る気力もなくした天照は、天の岩屋に隠れてしまう


これにより高天原と葦原中国(あしはらのなかつくに・地上の国)は

暗黒の世界となり、たくさんの災いがおこる


このあと有名な「天の岩戸開き」の話となります




さて、降臨した邇邇芸命の曾孫(ひまご)が

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)

のちの神武天皇(初代天皇)になります


但し、邇邇芸命

山幸彦〔火火出見命(ほほでみのみこと)〕

鵜葺屋葺不合命〔うがやふきあえずのみこと・鵜葺草葺不合命〕

までは九州王朝です


神倭伊波礼毘古命が東征を行い(神武東征という)

大和朝廷を開き、初代天皇に即位します




神倭伊波礼毘古(以下、神武と記しておく)は

兄の 五瀬命〔いつせのみこと

五瀬は厳稲(いつせ)の意味で、聖なる稲の意〕

と都をどこにすれば天下を安らかにできるかを協議し

日向の高千穂宮を出発



船軍を率いて、宇佐(大分県)に着く

宇佐では、宇沙都比古命(うさつひこのみこと)と

宇沙都比売命(うさつひめのみこと)が作った仮宮に逗留し

食事の接待をうけたとされます



その後、筑紫(福岡県)へと進み

北九州の岡田宮(現在、岡田神社が立つ)で1年を過ごします



豊後水道では、亀にのり釣りをしながらやってきた国津神の

椎根津彦〔しいねつひこ・別名 槁根津彦(さおねつひこ)。珍彦(うずひこ)

老人姿の神。倭直(やまとのあたい)の祖先とされる〕

が航路の案内をしています



さらに、阿岐(安芸。広島県)の多祁理宮(たけりのみや)で7年

吉備(きび・岡山県)の高島宮では8年過ごしています



その後、瀬戸内海を進みは畿内に上陸

河内(大阪府東部)の孔舎衛坂(くさかえのさか)で


長髄彦(ながすねひこ・登美毘古)が率いる

畿内王朝軍との戦闘が開始されました





神武軍は撃退され、兄の五瀬命は敵の矢を受け重傷を負います

〔のちに傷がもとで紀伊国の男之水門で没する〕


このとき五瀬命は、「太陽(天照)の子孫である我々が

太陽に向かって戦っているから苦戦するのだ

一度退却し、太陽を背にして戦えば必ず勝つ」と述べます


そこで神武は、進軍をやめて上陸地点まで戻り、そこから船で南下し

紀伊半島をまわり熊野に上陸、そこから山道を北上します







神武東征 ②



だが今度は、熊野の先住民と戦わなければならなくなります

熊野では、化熊に、蠱惑(こわく・美しさやなまめかしさで人を惑わす)

されるなど苦戦しますが


天照と、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)より

布都御魂(ふつのみたま)という太刀を賜ります


【 高御産巣日神は、古事記で

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の次に登場

天之御中主、神御産巣日神(かみむすひのかみ)とともに

造化三神とされる世界の創造神 】




神武が熊野で難渋していたので

二神は、神武を助けに行くよう

建御雷神(たけみかづちのかみ)に命じると


建御雷は「自分の代わりに

国土を平定したときに使った太刀があるので

その刀を降ろしましょう」と答え


布都御魂という剣を、神武の部下の

高倉下命〔たかくらじのみこと・別名 天香山命(あめのかぐやまのみこと)

神武東征で大功をたて、越後に降臨したとされる

越後国の一宮 弥彦神社の祭神〕に下します



高倉下命の夢の中で、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落すから

朝になったら天津神の御子のところに持って行きなさい」

と伝えて神武に届けさせています





● 建御雷神


「国譲り神話」で活躍した軍神

常陸の国一宮 鹿島神宮

また春日大社、石上(いそかみ)神宮の祭神



【 国譲り神話は、国津神の大国主命(国造りをした神)から

天津神の邇邇芸命へ

葦原中国(あしはらのなかつくに・地上世界=日本)が譲られる神話


邇邇芸命が降臨する前に

建御雷神が天の鳥船(とりふね)に乗ってやってきて

大国主に対し、国土を邇々芸に献上するよう要求


このとき、建御雷神(たけみかづちのかみ)は

国譲りに従わない大国主の子の

建御名方神〔たけみなかたのかみ・諏訪大社の祭神〕と力比べをする


建御名方神は、諏訪湖に逃げて降伏

大国主は出雲大社に祀られることとなり、国譲りが決定 】






また、熊野の山中で道がわからずに苦戦していた東征軍に

高御産巣日神の命により

天から先導役の 八咫烏(やたがらす)が遣わされました


これにより連戦連勝


熊野、吉野の山を越えて、紀伊半島を北上し

大和(奈良県)の宇陀(うだ)に至ります




●  八咫烏


八咫は大きい意

咫(アタ)は古代の長さの単位で

手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さで

これは「尺」の元々の定義と同じだという


3本足の烏で、大和まで東征軍の道案内をつとめた


勝利への導き役として

日本サッカー協会(Jリーグ)のシンボルマークになっている


また八咫烏は、古代の豪族 鴨(かも)氏の祖先とされる


京都の 下鴨神社〔正式名 賀茂御祖(かもみおや)神社〕

の祭神である

賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身とされている




宇陀の、兄猾(えうかし)は

軍勢を集めて神武を迎え撃とうとしますが

軍勢を集めることができなかったので


神武に従うと偽り

入ると天井が落ちる罠を仕掛けて神武を謀殺しようとします


しかし、弟猾(おとかし)がこれを神武に報告



そこで神武は、大伴連(むらじ)らの祖の道臣命(みちのおみのみこと)と

久米直(あたい)らの祖の大久米命(おおくめのみこと)を

兄猾のもとにやります



道臣命と大久米命は、弓に矢をつがえ

「従うというなら、まずお前が御殿に入って、その姿勢を示せ」と兄猾に迫り

兄猾は自分が仕掛けた罠にかかって死にます



さらに、忍坂の国見岳の

土雲(つちぐも)の八十建(やそたける・多くの勇者)を

饗宴に招き暗殺します


刀をしのばせた調理人80人が

合図とともに一斉に、八十建に襲いかかり殺害しています






そして再び、長髄彦の畿内王朝軍と対峙しました


戦いは熾烈(しれつ)をきわめ一進一退でしたが

突如、暗雲が立ち込め、雹(ひょう)が降り

金色の鵄(とび)があらわれ、神武の弓の先にとまります


するとこの金の鵄は、光輝き、雷光を放ちました


これを見た敵軍はたじろぎ、眩惑され

戦うことができなくなり、神武軍は勝利します



なおこの神話にちなみ

武功抜群の軍人に与えられる金鵄(きんじ)勲章がありましたが

日本国憲法施行により廃止されています





さらに、神武は、兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)、猪祝(いのはふり)

居勢祝(こせのはふり)、新城戸畔(にしきのとべ)などの酋長(たける)を破り

大和を平定します



兄磯城・弟磯城は磐余邑(いわれむら)に拠って抵抗しますが

やがて弟磯城は降伏


兄磯城は説得を受け入れず、抵抗を続けますが

椎根津彦(しいねつひこ)の計略で


忍坂、墨坂の両道から攻められ敗死し

弟磯城は、磯城県主(あがたぬし)に任じられています





戦いが終結すると

畿内王朝軍の将軍 長髄彦(ながすねひこ)は

神武に使者を送り


「かつて天神の御子である 邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が

天磐船(あまのいわふね)に乗って、天上界から降臨し


私の妹の 三炊屋媛(かしきやひめ)をめとり

2人の間には、可美真手命(うましまでのみこと・宇摩志麻遅命)

という子が生まれている


私は、その邇芸速日命に仕えている


どうして、あなたは天神の子を語り、他人の土地を奪うのでしょうか?

あなたはニセ者でしょう」と伝えます



これに対して神武は、「天神の子は多い

お前の君が天神の子であるならば、その証拠を示しなさい」と言います


長髄彦の使者は

邇芸速日命の天の羽羽矢(ははや)と

歩靫〔ゆきかち・徒歩で弓を射る人が背負う矢を入れる容器〕

を神武に差し出します



神武は畿内に自分と同じ天神の子孫である

邇芸速日がいることを知ると同時に


自分の持つ天の羽羽矢と歩靫を長髄彦に送ます

長髄彦は神武が天神の子孫であることを悟ります


しかし、義兄である邇芸速日が

神武に降伏することに納得できなかった


そこで邇芸速日は、長髄彦を斬って忠誠を示し帰順をゆるされたとされます



こうして邇芸速日を帰順させた神武は、橿原(かしはら)の地を都と定め

橿原宮(かしはらのみや)を建設し


そこで初代天皇に即位し、大和朝廷を成立させました






以上の神話の

邇芸速日命(饒速日尊)は


天照大神の長男 忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)と

その妻の万幡豊秋津師比売

〔よろずはたとよあきつしひめ・

高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の娘〕の子で


邇邇芸命の兄にあたる

天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほのあかりのみこと・火明命)

と同一ではないかと考えられています



そして、邇芸速日命は物部氏の祖先とされ

神話は史実をもとに書かれているという立場から

畿内王朝とは、物部氏による王朝であったと考えられています



畿内王朝の王であった邇芸速日命も天照の子孫であり

神武の同族であることから


当初、九州にいて、神武に先立ち畿内に侵攻

先住民の王族と同化し

畿内王朝を建設していたとみられています





但し、邇芸速日命は、十種(とくさ)の神宝(かむだから)をたずさえ

九州の山ではなく


大和の哮ヶ峰(たける・いかるがたけ)

〔大阪府と奈良県の境にある

生駒山(いこまやま)ではないかと考えられている〕

に降臨したとされます


この10種の神宝の霊 布留御魂(ふるのみたま)を祀るのが

石上神宮〔いそかみじんぐう・奈良県天理市布留町〕です


石上神宮は、前述の神剣 布都御魂(ふつのみたま)と

この布留御魂(布留御魂大神)を重要な祭神としています



布留御魂は、神武即位の年に宮中に祀られたようですが


10代 崇神(すじん)天皇のとき

物部氏の祖である 伊香色雄命(いかしこおのみこと)に命じ

現在の地に祀らせたとされます


これが石上神宮の起源で

以来、物部氏の氏神であったといいます


また、物部氏の武器庫でもあったようで

所蔵の秘刀 七支刀(しちしとう)は

刀身が、左右に3つずつ枝分かれし

合計7つの刃先がついている祭祀用の刀です


七支刀  国宝







●  先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)


全10巻からなり天地開闢(かいびゃく)から推古天皇までの歴史が記述


序文には推古天皇の命によって

聖徳太子と蘇我馬子が著したものとあるが


実際には、9世紀の初めから10世紀の初めの間に書かれたと推定

著者は不明


記紀(古事記・日本書紀)と

「古語拾遺」(こごいしゅう)の文章を引用し補足を加えたものが大部分


また、物部氏の祖神である

饒速日尊に関する独自の記述が特に多いことから


物部氏系の人物が著者と考えられている

神道では、記紀、古語拾遺に次ぐ資料とされる



【 古語拾遺は、天地開闢から天平年間(奈良時代)までを記述

斎部広成(いんべのひろなり・平安初期)著


斎部氏(=忌部氏)は、代々中臣氏と並び朝廷の祭祀を司ってきた


広成は平城天皇の命に従い本書を著ている


また斎部氏が天太玉命(あまのふとたまのみこと)の子孫であることから

天太玉命ら斎部氏の祖神の活躍が記紀よりも多く記されていて


天の岩屋隠れの場面では天太玉命が中心的役割を果たしている 】






●  丁未(ていび)の乱


仏教の受容をめぐり

廃仏派で、大連(おおむらじ)の 物部守屋と

崇仏派で、大臣(おおおみ)の 蘇我馬子が戦い

物部氏が滅亡した事件


丁未(ひのとひつじ、ていび)は、干支の一つ

物部守屋の変 などともいう



欽明天皇の552年、百済の聖明王の使者が

仏像と経論数巻を献じ、仏教が日本に公伝された



天皇は仏像礼拝の可否を群臣に求めると


大臣(おおおみ)の蘇我稲目(いなめ・馬子の父)は

「西の国々はみな仏を礼拝しており

日本だけがこれに背くことができましょうか」と答え



大連(おおむらじ)の物部尾輿(おこし・守屋の父)と

連(むらじ)の中臣鎌子〔かまこ・中臣氏は祭祀を司る氏族〕は

「わが国の王は八百万の神を祀っています

蕃神を礼拝すれば国神の怒りをまねくでしょう」と答える



天皇は、稲目に仏像を授け、試しに礼拝することを許す


その後、疫病が起こると尾輿と鎌子は蕃神礼拝のためだとし

仏像の廃棄を奏上、天皇はこれを許し

仏像は難波の堀江に流され、伽藍には火をかけられた


仏教受容問題に権力闘争が重なったこの争いは

子の蘇我馬子、物部守屋の代に引き継がれる




敏達天皇の584年、百済から石像一体、仏像一体が伝わると

馬子は、これをもらい受ける


また、司馬達等〔しばたつと・渡来系の人

仏教公伝以前から仏教を信仰していたとされる

仏師 鞍作止利(くらづくりのとり)は孫〕に


播磨国で、高句麗人の恵便(えびん)という還俗者を見つけ出させ

そして、恵便を師とし、達等の娘で11歳の嶋を得度させている


嶋は、善信尼となったが、これが日本で最初の出家者である

更に、善信尼を導師として、禅蔵尼、恵善尼を得度させている


馬子は、仏法に帰依し、三人の尼を敬い

邸宅に仏殿を造り、百済から請来した

弥勒仏の石像を祀って、仏教を広めた



疫病がはやり多くの死者を出ると

廃仏派の 物部守屋と中臣勝海(かつみ・父親は不明)は

「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し


敏達天皇はこれをうけ入れ、仏法を止めるよう詔(みことのり)を出す



守屋は、馬子の仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませた


さらに馬子に三人の尼僧を差し出すよう命じ

善信尼ら三人は、法衣を剥ぎ取られて全裸にされ

海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)の駅舎で鞭打ちの刑に処されている



以上のような、蘇我氏と物部氏の反目が続き

つぎの用明天皇の時代、西暦578年、ついに丁未(ていび)の乱がおきる




馬子は、厩戸皇子(うまやどのおおじ・聖徳太子。31代用明天皇の皇子)

泊瀬部皇子(はっせべのみこ・29代欽明天皇の皇子

崇峻天皇となるも馬子により暗殺)

竹田皇子(30代敏達天皇の皇子)などの皇族や

諸豪族の軍兵を率いて進軍


軍事を司る物部氏は、劣勢とはいえ頑強で

守屋自身、木の上から雨のように矢を注いで応戦し

馬子は一時、撤退を余儀なくされる



厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠木(ぬるで)を切り

四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利のあかつきには

仏塔をつくり仏教の弘めることを誓う



馬子は再び進軍

両軍一進一退の攻防が続くが

守屋が弓矢で射貫かれて死ぬ

総大将を失った物部軍は総崩れとなり敗走



厩戸皇子は摂津国に四天王寺を建立

物部氏の領地と奴隷は

半分は馬子のものに(馬子の妻が守屋の妹であるので相続権を主張)

半分は四天王寺へ寄進されたという



【 四天王寺・・・ 大阪市天王寺区四天王寺。もと天台宗

既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から

1946年に「和宗」(聖徳太子の「和をもって貴しとなす」から)の総本山として独立


創建以来、たびたび焼失し、現在の伽藍は、第二次大戦後復興されたもの


なお四天王寺は593年、法隆寺は607年の創建とされ

法隆寺は1950年(昭和25)に法相宗を離脱し、聖徳宗の総本山になっている 】




なお、丁未の乱により、守屋宗家の物部氏は滅亡したが

すべての物部氏が滅亡したわけでなく

のちに石上氏(いそかみうじ)となり、朝廷内で復権を果たしている


また全国の物部氏系の国造(くにづくり)は何事もなく続いたという






●  飛鳥寺


飛鳥寺(安居院。現在は真言宗豊山派)は

蘇我馬子により日本最古の本格的寺院

法興寺として創建された


588年から造営が始められ

止利仏師(くらづくりのとり・仏師)の

釈迦如来像(飛鳥大仏)ができた609年頃

すべてが完成したとする説が有力


718年、奈良の平城京に移り、元興寺と改称


飛鳥には、本元興寺が残った

本元興寺は、その後荒廃

江戸時代に再建され、以後、安居院と称している



転 写


飛鳥大仏〔銅製釈迦如来坐像。重文

本来、国宝のなかでも最高峰のものであるが

1196年の火災により頭部と右手一部以外は後世に補修されたもの〕



一方、平城京に移った元興寺は、南都七大寺の1つとなり

三論と法相の拠点として栄え


とくに法相教学では、興福寺と拮抗したが、平安時代に衰退

室町期には一揆などにより多くを焼失。江戸期の幕末にも火災にあう


現在は、奈良市に、観音堂系譜の元興寺(華厳宗)と

鎌倉時代に独立した極楽坊系譜の元興寺(真言律宗)がある




この飛鳥大仏や法隆寺の釈迦三尊像(銅造・国宝)は、止利の作とされます


 
 脇侍は薬上菩薩(向かって左)
薬王菩薩(向かって右)
   



なお、飛鳥時代に造られた仏像の特徴に

アルカイックスマイル(古い微笑の意味)は

顔の感情表現を極力抑えながら、口元だけは微笑みをたたえるのが特徴で

もともと初期ギリシャ美術にみられる様式をいいます








      



広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像(ともに国宝)も

アルカイックの代表とされます



( 中宮寺の像は、寺伝では、如意輪観音とされる

広隆寺の像はアカマツの一木造り、中宮寺の像はクスノキの寄木造り )




なお、広隆寺には、宝冠弥勒の他に

宝髻(ほうけい)弥勒、また泣き弥勒(国宝)と呼ばれる像もあります








天皇論 Ⅴ 応神天皇と八幡神




Top page


天皇論 Ⅲ 天皇と神話





 自己紹介
運営者情報




 時間論




 幸福論




 価値論




 心と
存在




言葉と
世界




食べて
食べられ
ガラガラ
ポン





Suiseki
山水石美術館