本質論 モノの本質には2つあると思ういます 1つは客観的本質=宇宙・自然的な本質 水が持つ「液体」といったようなもの もう1つは、人間より与えられる本質 例えば、コップの「液体を入れて口に運ぶ」といったもの また、こうも言えます コーヒーのもつコーヒーという本質=モノ自体の中にある本質と コーヒーのもつ苦いとか香りがいいとかいった本質 =人間がモノに与えた本質 人間がモノに与えた本質とは 人間の中にあるコーヒーに対する価値そのものです つまり、最初の思考が、自然と人間の2つを考えたのに対し つぎの思考は、モノの中と人間の中という2つの本質を考えたわけです これを踏まえて、さらに深く考えると 水には「液体」という宇宙的な本質 すなわち「真理」があります この本質は、もともとそのモノに内在している本質です これに対して コップの「液体をとどめ、口に運ぶもの」という本質は 人間がコップというモノに与えた本質 すなわち「価値」です コップは人間にとって「価値」として創造されたのです とは言っても、コップ自体に「液体をとどめ、口に運ぶべる」 という「真理」=本質が、内在しているからこそ コップがコップとして成り立つのも事実です 前者(水のもつ液体という本質=真理)は 唯物論的(人間の心とは関係なし)に存在する本質 後者(コップの「液体をとどめ、口に運ぶもの」という本質)は 唯心論的に(人間の心が本質を与えることによって) 存在している本質=価値ではあるが 唯物論的側面、客観的側面、真理的側面も含む 本質には以上の2つがあるといえます さらに言うと、もう1つあります 1つは、真理としての本質 もう1つは、価値と真理の2つの側面をもつ本質 そして、3つ目は、2番目と同じく 人間が価値としてモノやコトに与えた本質ではありますが 「真理」としての側面は存在せず 「価値」としての側面しか存在しない いわば実体のない本質です ラーメンのもつ「美味しい」という本質は ラーメンの嫌いな人にとっては、「不味い」が本質となります 多くの人を巻き添えに自爆する行為には イスラム教徒にとっては、聖戦(善)という本質があります これに対し、キリスト教徒にとっては、テロ(悪)という本質があります こういったコトも一緒です 以上3つの本質からあきらかなのは 本質という言葉が「真理」の場合にも 「価値」の場合にも使われているということなのです つまり、本質には ≪宇宙的な真理として事物にもともと内在するもの≫ ≪人間に価値として与えられたものだけど、真理の側面ももつもの≫ ≪人間に価値として与えられたもので 価値の側面しかもたず唯心論的なもの≫ があるということです しかし、さらに言うと、もう1つあります 人間が創造した本質であって モノやコトには真理としての本質が存在しない いわば実体のない本質ではあるけれど 価値的側面はなく、それが偽りの真理である場合の本質です 太陽の「地球の周りを回っている」(天動説) という本質は、まさにこれです すると、本質には、宇宙的な真理の場合、真理と価値による場合 価値のみの場合、偽りの真理の場合 の4つがあるということなのです まぁ、大きくまとめると、要するに、本質には 人間の認識能力によって本質と認められる本質と 人間がモノやコトに対し、価値として与えた本質が あるということになります では「人間の本質」というとなんでしょう? ≪人間の≫と規定するからには ≪人間固有の≫という意味が込められているのは明らかです そうなると≪人間が人間としてある≫最も重要なもの ≪思考する能力≫と考えるのが自然ですよね その人、その人の 救済原理〔自分を成り立たせている根源的な論理〕 存在の根拠を考えると 「自分にはこれが必要だ」といった ≪思い込み≫の欲求こそが その個人を支えているわけで その欲求に対する≪言い訳≫や ≪自己弁護≫がその人の本質と言えます 人は、そのような自分の本質に根ざし ものごとを理解し、行動するわけです 本能・本質・仕事・ 幸福・文化の統一理論 天才論 ジェームズ・ウェブ・ヤングの 「アイデア論」にモノ申す |
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