緋山酔恭の『天才論』 ジェームズ・ウェブ・ヤングの「アイデア論」にモノ申す



B級哲学仙境論


天 才 論






天才論




≪天才とはなに?≫ という問いに対して

いつもでてくるのが


「全ての人が天賦の才をもらっているから天才です」とか


「やさしいのも、勇気があるのも、気がきくのもみな才能

だからみんなが天才です」とか


「努力できる人こそ天才です」とかいった話です




≪天才≫と一言でいっても、記憶力に優れる人

数学的思考に優れる人

芸術的才能をもつ人、技術や技能に長じた人・・・ 

と広い範囲で使われる言葉ですから



頭の悪い人が、さらに頭の悪い人たちを

そういった話で誤魔化してきたのでしょう(笑)




それから、天才も時代によって変ってきます


例えば、人類が狩猟生活していたときには

狩りの上手な人が「天才」と認識されていたでしょうし


原始時代には、火をおこすことが上手な人が

「天才」として、尊敬を集めていたのかもしれません



しかし、今「私は、火をおこすのが得意です」

なんていったら

放火魔と間違えられてしまいます(笑)




また、計算機がなかった時代には

暗算の名人なんかも「天才」として認められていたことでしょう


ところが計算機が発明されると「天才」だったことも

単なる特技になってしまったりします





それから、宗教では

「誰もが偉大な使命をもちます」なんて教えますが


実際に、人間の世界を動かしてきたのは

わずか数人の「天才」だとも言われています



物理学の世界では

ニュートンとかアインシュタインとかでしょうし

発明の分野ではエジソンなんかそういった人なのでしょう




するとこの考えから

極論すれば


他のほとんど全ての人間は

人類の発展という意味においては


いてもいなくても関係ない存在だった

ということになるわけです



さらに言うと、これからも

人類の発展にとって必要なのは

数人の「天才」だけだという結論になります






いずれにしても「天才」と一口に言っても

適用範囲が広い言葉です


職業レベルでいうと、それぞれの職業に

違った天才についての定義があります


そこで、≪思考・論理の天才≫に絞って考えてみましょう





我々が「天才」と呼ぶときには

一般に知られていることから外れたことを考えたり

普遍の範疇(はんちゅう)を超えた思考できる

という意味があると思います



そう考えると

まず、常識を疑うことができることが

天才と呼ばれるための条件の一つになる

のではないかと思われます




但し、常識を疑うことができたとしても

そのあとの話に、きちんとした論理的な考察が

存在していないとしたなら


単に、言葉のセンスで

天才と思わせている人か


突拍子のないことを言って

世間を騒がせている批評家や情報屋どまりの人間です





無駄な英語ってすごく多いですよね


今では定着した感がありますが

「コンセンサス」なんて

「合意」か「意見の一致」ですみますし・・・


もちろん、日本語にない言葉もあるので、

カタカナ語が全て悪いとは思いませんが・・・



一般的な日本人は、日本語で物事を考えるので

日本語でない言葉は余程意識しないと

正しく認識できないようになっています



なので、それなりの地位にいて、カタカナ語が多いと

その人は、(本質をごまかしたい)詐欺師・ペテン師

と認定せざるを得ない


でなければ、本当に≪残念な人≫ということになります



だから、英語や専門用語を使って

自分自身への権威性を創りだしている人なんて

とても天才というに値しないですよ





また、論理的な考察がきちんとなされている

というのは、きちんと裏付けを取れる証拠の上に

しっかりとした論理が組み立てられているということなので


きちんとした証拠なり、情報なりを収集してくる能力も

天才としての不可欠だと思います




以上を、総合した能力が

≪本質を見抜く力≫と

言えるのではないでしょうか・・・・




しかし、これだけでは「天才」と呼ぶに不十分です



釈迦の先生

〔八万法蔵と表現される

膨大な数の仏典を理解する人の意味

学問についての知識が豊富で、説明が上手とかで

重宝がられている存在でしかない学者先生〕ではなく


自分のアイデアをもつ人こそが、天才たる資格をもつからです




天才とは、ある意味では

マジシャンなのではないかと思います


我々には、出てこない驚くべきアイデアを生み出し

それを根拠(マジックの種)として、論理を展開します





天才には、秀才タイプもいて

そういう人を「天才」と呼ぶと

彼の努力を軽んじてしまうような気もします


とはいえ、やはり、独自のアイデアを生み出したかどうかが

天才と秀才の大きな違い

と言えるのではないかと思います








さて、そこで

人が、≪理論≫を生み出すときの

「思考の仕方」を分類してみました



プリンアラモード型


カツカレー型


あんパン型


お菓子の家型


牛乳プリン・つけ麺型


となります





「プリンアラモード型」は、加上説型です


もともとプリンという根本的な理論があり

それに色々な要素を加えていく思考です


一番単純な形のアイデアの創出法です





「カツカレー型」は

豚カツという理論とカレーという理論があり

それを組み合わせたり、調和させることで

新たな論理を成立させようとする思考です



豚カツも美味しいし、カレーも美味しい

これを2つにしたらどうかなって発想からくるものですね


アイデア思考の基本です




芸人さんでしたら

「このラーメン、沼だね」と言って


ラーメンと沼という

全く別のモノを結びつけて笑いをとります


このとき結びつけるモノ同士の

ギャップが大きいほど、おもしろいわけです



これと同様に、結びつける理論と理論の間の

ギャップが大きいほど、高度な思考と言えます





「あんパン型」は

もともと饅頭というものがあり


そこから発想して

あんパンという新たな考えを打ち出そうという思考です


つまり作り変えです





「お菓子の家型」は

チョコレートだったり、飴玉だったり、クッキーだったりと

本来、全く別の存在のパーツ(要素)であったものを

色々と集めてきて

1つのものに組み立てる思考です



個別の理論を、相互に関連づけたり、統合して

つまり、体系化して

1つのまとまりのある理論として完成させていく思考です





天才性において、プリンアラモード型以外の

3つには、明確な上下の差はないと思われ



お菓子の家型は、天才というより

むしろ秀才型の思考なのかもしれません








そして最後の「牛乳プリン・つけ麺型」というのは

牛乳と卵を使ったプリンはずっと昔からありました


でも、牛乳だけのプリンが出回りはじめたのは

そんなに前ではありません (たぶん)



これは、牛乳だけでプリンを作るなんて発想は

誰でも考えつきそうなのに

これまで誰もできない発想だったということです




同じように、ラーメンというものはずっと昔からありました


ですが、ラーメンのスープと

うどんのつけダレを組み合わせ


そのつれダレに

うどんのように太いラーメンの麺を

浸して食べるなんて発想は


誰でもしそうで、誰もがしなかったということです





ニーチェは

≪独創的――何かの新しいものをはじめて観察することではなく

古いもの、古くから知られていたもの

あるいは誰の目にもふれていたが見逃されていたものを


新しいもののように観察することが真に独創的な頭脳の証拠である≫

という言葉を残していますが



別の視点へと飛び立つための思考の翼

発想を転換し本質へとたどり着くための翼は

身近にあるようで、遠いものなんです


コロンブスの卵なのです





●  コロンブスの卵


あるパーティで、コロンブスに対し

「新大陸発見といっても海を西へ進んだだけで誰でもできるだろ」

と評する人がいました


これに対し、コロンブスは

「じゃ、この茹卵を誰か立てることができますか?」と言います


1人もできなかったあとに

コロンブスは、卵の殻を少し割って

くぼみをつくって立たせてみせました



この逸話から

誰でも考えそうなこと、誰でもできそうなことでも

最初に閃くこと、最初に行うことは、難しい

ということを


「コロンブスの卵」といいます




なお、当時はまだ

地球が丸いことは、理論的には指摘されていましたが


実証的には確認されていなかったので


西廻り航路自体が「命がけ」と言える頃で

≪ただ行っただけ≫とは

ひどい言いがかりであったとされます








牛乳プリン・つけ麺型の哲学は

あまりに素直な考えゆえ、誰でも考えつきそうで

じつは凡人には絶対できない思考から誕生したものです



こじつけがましい従来の哲学者の哲学とは違い

素直な考えゆえに誰もが納得できます



また、素直すぎる考えゆえに

凡人にはそのすごさに気がつかないものなのです




他の4つが、前の立論者の思考を利用したもの

つまりそれを継承したり批判したり


またそこに少しのひらめきを加えて

新たなものとしているのに対し


牛乳プリン・つけ麺型は

もっと直接的に本質に迫るわけです



お菓子の家の思考は

パズルのようにつくりますが

つけ麺型は、もっと直接的なのです




誰も不思議に思わなかった

りんごが落下するという現象に対して

ニョートンは疑問を感じた



時間の長さは人によって違うことはない

時間は絶対的なものである

という常識に

アインシュタインは納得できなかった


ある意味素直な立場です




牛乳プリン・つけ麺型の思考が

なぜ直線的なのかというと

素直に本質をとらえているだけだからなのです


ただ、一般の者とは

ものごとを見る角度がちょっと違うだけなのです





なので、1+1=田んぼの田

みないなことを言って

笑いをとる人とは違います


あくまで

思考の型は、1+1=2です








ジェームズ・ウェブ・ヤングの
「アイデア論」にモノ申す




ジェームズ・ウェブ・ヤング(1886~1973)が、著した

「アイデアのつくり方」という本があります


この本は、1時間ほどで読める薄い本なのですが

1940年に刊行されて以来

知的発想論の名著として、今日まで読まれ続けています




ジェームズ・ウェブ・ヤングは

基本、広告のアイデアマンです



アメリカ最大の広告代理店で、副社長を務めた他

シカゴ大学で、経営史と広告の教授

フォード財団のコンサルタント

アメリカ広告代理業協会の会長

商務省や経済開発委員会に参画 などを歴任しています





「アイデアのつくり方」には

アイデアを生み出し

展開させるまでの五つの段階が述べられています



1、資料集めること

資料には二つあり

① 「製品」と「それを売りたいと想定する人々」に対する知識

② 一般的知識(教養)




2、資料を咀嚼し、関連性・組み合わせを見つけ出すこと

これは、アイデアは

「既存の要素の新たな組み合わせ以外なにものでもない」

というヤングの考えを根拠としている




3、関連性・組み合わせを見つけ出すことに

絶望状態に陥ったら、答えを見つけることを放棄し

無意識にまかせること


音楽を聴いたり、映画を観たり、詩や小説を読んで過ごすこと




4、ユーレカ! みつけた! は、突如やってくること


ユーレカは、ギリシャ語で「見いだせり」の意で

アルキメデスは、金の純度の測定法を発見したときに

この言葉を叫んだという




5、現実の有用性に適合させるために

アイデアを具体化し、展開させること








●  アルキメデス



アルキメデス(前287~前212年頃・数学者)が

「浮力」を発見した逸話は有名



水などの流体中にある物体には

重力とは逆の方向の力が作用する

この力が浮力です



小石を、水の入ったメスシリンダーの中に入れると

小石により水は押しのけられ

石の体積の分だけ水面は上昇します


このとき50㏄(=50g)の水が押しのけられたのなら

この小石は50gの浮力を受けることになります


つまり、押しのけた水の重さが浮力に等しく

液体中の物体は、押しのけた液体の重さだけ軽くなるのです





重さ1kgで、体積130立方㎝の鉄の玉は沈みます

これは、鉄の玉に働く重力1kg重の方が

浮力0.13㎏重の方より大きいからです



ところが、この鉄の玉を風船のように膨らまして

体積3000立方cmにすると、鉄は浮きます


これは鉄の玉に働く重力が1kg重のままなのに

浮力が3kg重になるからです



また、この鉄の風船に2kgの砂を入れると

重力と浮力は釣り合って、水面に半分沈んで半分浮きます


鉄の船はこうした原理で浮いていられるわけです






アルキメデスは王様から

職人に作らせた金の王冠に銀が混ぜられていないか

不正がないかどうかを調べるように頼まれます


純金の王冠と金と銀を混ぜた王冠は

秤で計ったところ重さが等しかった



でも、金は銀より重い=密度が大きい

だから金と銀では同じ重さだったら

銀の方がたくさんの量が必要です


たくさんの量とは体積が大きいということなので

浮力が大きくなります





彼は、この原理(アルキメデスの原理)を

公衆浴場の湯船で発見し

喜びのあまり「ユーレカ(見つけた) ユーレカ」と叫びながら


発見をまとめるために

服も着ないまま走って帰ったと伝えられます





アルキメデスは、理論と事実の結合こそが学問の向上である

と考えた古代の科学者では数少ない存在であったといいます



この他、てこの原理の発見

〔「私にどこか地球以外に足場を与えてくれるなら

(てこの原理を用いて)地球を動かしてみせる」と言い

その証拠として三本マストの軍艦を

一人で岸に引き揚げたという話で知られる〕




円周率の詳しい計算

(円周率の値が3.140と3.142の間にあることを示した)


平面図形およびその回転体の球積(面積や体積の算出)の研究


水力機械の考案などの業績を残しています








「アイデアのつくり方」で

興味深いのは


≪無意識にまかせる≫という段階がある

というところなのですが

それは、私も経験したことはあります



しかし、組み合わせというか

本質や整合性を考える段階(2の段階)において


試行錯誤を繰り返していくうちに

「あっ」と分る(4の段階にいく)こともあります



なので、どちらとも言えないということです






アイデアについてのヤングの考え方は


1、アイデアとは、天才のひらめきではなく

誰でも習得できるものである


2、アイデアは

「既存の要素の新たな組み合わせ」以外なにものでもない

には


私としては

「それは秀才や凡人のアイデアにすぎない」と言いたい





私は、生来、モノを収集することが好きなので

情報収集することも好きです



なので、基本、ヤングのいうようなアイデアのつくり方で

哲学的なアイデアを導き出してきました





しかし、天才のアイデアというのは、全然、違うのですよ


「ひらめき」とかそういうのでもなく

ふつうに素直に、事象の本質をとらえる


そのとらえ方が

凡人や秀才とは、隔絶しているのです





それと、天才は、そうしたアイデアを往々にして

ふくらませて、具体化しようとしない

ほったらかす



私は、そうしてほったらかしにされた

天才が生み出した「種」としてのアイデアに

着目することに、たけているというだけの人間です



それを拾って、温め、ふくらませ、他の知識と結合させたり

整合性を与えて

1つの哲学として、完成させているにすぎません







竜太の天才論



「記憶」ってこんな感じになっていると思うな







例えば、最初に、衣食住という生きていくのに

最も根本のカテゴリー(1枚)があり


次に、勉強とか、仕事とか、趣味とかというカテゴリーがきて


勉強というカテゴリーは

さらに細かく、科学、数学、哲学、歴史というように分かれ


さらに科学が、物理学、化学、天文学などといったふうに

分れていき・・・・といった感じに



1枚、1枚の内容は、書き変えられていく要素を持つけど

現時点では、その人にとって確定事項と言えるよね



頭のいい人って1枚、1枚の内容量が多かったり

質が高かったりするんじゃないのかな




もっと頭のいい人は

ある1枚と別の1枚を結びつけることによって

さらに新しい情報=新たな1枚を増やしていける


これが、発想じゃないかと思うよ



さらにもっと頭のいい人は

全く別のカテゴリー同士をつなげてゆけるのかもしれない





頭脳ってこういったシステムをいい

このシステムは、記憶力、理解力、発想力


さらに3つの回転率(スピード)から生まれる

対応力(問題を解決したり、策を練ったりする能力)・

応用力・

機転(その場の状況に応じて素早く適切な判断をする能力)

で成り立っているんじゃない?






例えば「バカ」と言われたとするよ


ホントにバカな人は、情報を1つしか持っていないから

言葉そのままに理解し、頭にきて反発したりする



でも、頭のいい人は、そのバカを定義しようとする


相手がどんな意味で言ったのか考えようとする

持っている情報を引き出してきて理解しようとする



自分を嫌って言ったバカなのか

それとも親近感を増すために言ったバカなのか

それとも単なる相手の口癖なのか

それともイヤミで言ったバカなのか


忙しい状況下で

イライラしてつい口に出してしまったバカなのか

また周囲に力を誇示したいがために言ったバカなのかと



そして定義した上で

じゃ、どのように反応すべきかを決定するんだよ




一般に頭がいい=頭の回転がいい

と思われているけど


情報が多くなればなるほど

コンピューターが重たくなるのと一緒で


頭のいい人はたくさんの枚数を持つ

そのためどこから定義していいのか迷ったりして

むしろ反応が遅くなるって場合もあるんじゃなんかな



逆に、冗談ばかり言って

おもしろいけど、内容は薄いっていう人は

枚数も少ないし、1枚の質も低いから、回転率がよかったりする




世に思考天才と呼ばれる人には

記憶力、理解力、発想力、回転率

どれもが優れているタイプと


どれかは劣っているけど

別のどれかがズバ抜けているタイプがいるような気がするなぁ



人に分かりやすく伝えることができる人なんていうのは

2番目のタイプの理解力に優れる例じゃないかな









●  トーマス・エジソン



エジソン(1847~1931)は

「天才とは99%の努力と

1%のインスピレーション(ひらめき・霊感)だ」

という有名な言葉を残したとされます


誰でも努力すれば、天才になれる

という意味にうけとれますが


エジソンは雑誌のインタビューで


「私は1%のインスピレーションがなければ

99%の努力は無駄になると言ったのに

世間は私の言葉を勝手に都合のよい美談に仕立て上げ


私を努力の人と美化し

努力の重要性だけを成功の秘訣と勘違いさせている」

と答えているそうです




エジソンって電気を発明したの?


エジソンは、電気を発明した

(電気のしくみを明らかにした)のでもないし

また、白熱電球を発明したのでもなく

白熱電球の改良者です



アメリカの発明家であり、起業家で

他に、蓄音機・電話・映写機などを改良し

トースターや電気アイロンなどの電気製品を発明しています



1878年、エジソン電気照明会社を設立し

発電から送電までを含む電力の事業化に成功したことが

最大の功績とされます



かし、交流送電の優位点を理解できず

電流戦争に敗北するなど失敗も少なくはないといいます


晩年は、会社経営からは身を引き

死者との交信の実験を続けています



なお、エジソン電気照明会社は

エジソン総合電気 さらに

92年、ゼネラル・エレクトリック・カンパニー

(現在の世界最大の複合企業)となっています






なお、電気は、エジソン(1847~1931)よりも

はるか以前に発見されています



電気の発見は

紀元前600年頃、ギリシアのタレスという哲学者が

琥珀を布ぬのでこすると

静電気が発生し

糸くずなどを吸いよせることを発見したのに始まるといいます



ベンジャミン・フランクリン

〔1706~90・アメリカの政治家、物理学者、気象学者

アメリカ独立宣言の起草委員(5人のうちの1人)

現在の米100ドル紙幣に肖像が描かれている〕は


1752年、凧を用いた実験で

雷が電気であることを明らかにしています



ベンジャミンは、雷のパワーを知らず

雷がおこっている空に、はり金をつけた凧をあげ

はり金と糸を伝わってきた電気を

ライデン瓶〔ガラス瓶の底と、側面の内外に金属箔をはり

箔に電極をつけた電気を蓄えられる容器〕

に溜めるという危険な実験をし


雷の電気には

プラスとマイナスの両方の極性があることも

確認したといいます








●  梅の木分限・楠分限



梅の木分限(うめのきぶんげん)と

楠分限(くすのきぶんげん)という言葉があります


分限とは「それ相応の能力」という意味で


梅の木は、生長が速いけど大木にはならない

これに対して、楠は生長が遅いけど大樹まで成長する

という意味です



同じように、梅の木学問と

楠学問という言葉もあります


梅の木は進み方は早いけど学問を大成されることはない


これに対して、楠は進み方はゆっくりだけど

学問を大成させるということです




楠より、梅の木は悪くとらえていますが

梅の木分限を、天才

楠分限を、秀才

と、とらえ直してみたらどうでしょう



楠分限は、研究を完成させたり

資料をまとめて集大成させることはできる


でも、梅の木分限のように

花=人類史に残るようなアイデア

を咲かせることはない


という見方もできるかもしれません





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